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「中学生の健児君」

 

               佐 藤 悟 郎

 

 

 私の家は、桐野市の街から遠く離れている牧原という集落にありました。私が物心の付いた頃には母と祖母と一緒に遊んでいたように思います。楽しい日々を過ごしていました。そのような生活に慣れ、母と祖母は優しく私に躾を教えてくれました。言葉の使い方や行儀などを教えてくれたのです。ただ滅多に外へ出してくれませんでした。
 家の隣には杉林があり、その林の中にはこの集落の一つだけの寺がありました。その寺から少し離れたところに牧原小学校があります。近くの二つの集落と牧原集落の子供達が通っていました。

 私の家族は父石原宗一、それに祖母マツ、母ユミ、兄幸夫の五人家族です。私の父は桐野市の助役をしておりました。
 私の家は、集落でもそれ相当の格式を持っておりましたので、それとなく知っていたのでしょう、子供は女の子でさえ近寄ってくれませんでした。母は、躾の他に自分の知っていることを、できるだけ多く私に教えてくれました。茶道、生花、書道など、その他にも細々と教えてくれました。

 小学校に入って二年も経って、私は時々外に出歩くようになりました。私の遊び相手になってくれるのは、いつも私のお婆さんでした。母から素直になるように教えられていましたので、自然と物事に反感を持なくなっておりました。
 学校から帰ると、母の前で勉強のおさらいをしました。それが終わると、母は私に書道などを教えてくれました。また、父や家柄について話してくれました。その中には、必ず道徳的要素が強く入っておりました。自分の時間を持てるのは、もう黄昏の美しい時間になりました。
 私が小学校の高学年になった頃、六帖の部屋が与えられました。部屋の窓の障子を開けると、夏の黄昏時には、茜色よりも、もっと赤く陽が輝き、雲が朱に染まっているのが見えました。西の山は黒々と陰を落とし、東の山や森、林は色とりどりに見え、その中に煙が流れていました。ぼんやりしている私の耳に、暗くなるのに未だ家に帰らず、お寺の方から遊んでいる子供達の声が聞こえてきました。

 父が町から帰ってくる時は、いつも玄関まで出迎えをしました。夕食を済ませると、暫くの間一家で一か所に集まることになっておりました。夜の八時前に、私はお婆様と仏前で合掌しました。これが終わると、私はお婆様と父と母の前で寝る前の挨拶をして部屋に行きました。毎日のこのような生活は、さほど苦しいものでありませんでした。何故か、黄昏時の子供の遊ぶ声を聞くのが、楽しくて仕方がありませんでした。

 私が小学校五年生になったとき、健児君のお姉さんの神林俊子さんが先生として赴任してきました。俊子先生はとても優しい先生で、生徒のみんなから好かれていました。
 俊子先生のお父さんは神林修治さんという方で、お母さんはタミさん、妹は章子さん、弟は健児君の五人家族と教えてくれました。
 俊子先生のお父さんについて、私の母から桐野市の保健衛生課長をしており、私の父とも親しい間柄の人だと聞きました。桐野市長は、四期と長く市長を勤めており、私の父と健児君の父の役職は変わることがなかったとも言っておりました。

 神林先生が来てから、母は、時々近くの山に遊びに行くことを許してくれました。先生と一緒の時だけでした。先生は、その近くの山が好きらしく、毎日のように山の中腹の広い野原へ行くのを知っておりました。私がお婆様と一緒に野原にいた時、先生も野原にやってきました。お婆様も、若い俊子先生が好きでした。その時、私がお婆様に、先生がよくこの野原に来ることを話してやりますと、お婆様は先生に時々私の相手をしてくれるように頼みました。私も先生が好きでしたので、時々一緒にこの野原に来ました。山の中腹と言っても、野原の端に行けば急な崖がありました。谷間には、大きな川が曲がりながら流れております。その大きな川を挟むように桐野の街並みが広がっているのが見えました。

 先生は、私がいつも堅苦しい生活をしているのではないかと思っていたらしく、私が集落の子供と一緒に遊ぶように仕組もうとしていたようです。しかし集落の子供は、私に近寄ってきませんでした。先生は、秋になると野原よりも山の奥に入って、栗や通草を取りに連れて行ってくれました。山の奥にいく時は、いつも中学生の私の幸夫兄さんが一緒でした。無論、栗を取るのに私や先生は木に登れませんから、専ら兄さんの仕事でした。 通草を取るのも、いつも兄さんが取ってくるのを待つだけでした。それでも茸があれば、一生懸命に取ります。花が咲いていれば、よく見つめます。蛇が出てくれば、私は逃げ場を失い、悲鳴を上げて先生に飛びつきます。
 谷間の石切場に下りて、谷川の音を聞きながら昼食を取ります。私にとって、とても楽しいことでした。石を重ねてみたり、冷たい水に足を入れてみたりしました。やることが無くなると、その水で何回も顔を洗いました。顔を拭いて、私は綺麗になったと喜びました。


 私は中学生、私の兄は高校生となりました。中学校に入って早々、四月十日には皇太子である明仁親王様が正田美智子さんと結婚され祝日となりました。私の家の前は街道が通っており、小学校前にはバス停留所があります。私が中学校に通うには、そのバス停留所から幸夫兄さんと一緒にバスに乗って桐野の街まで行くのです。桐野高校は大きな川の橋を渡った桐野駅近くにあり、橋の手前で私が先にバスを降りることになっておりました。さすがに学校にいる時だけは自由になりました。家からの目が届かないからです。家で躾けられた習慣もあってか、気を許すようなことはありませんでした。中学校には、色々な人がおりました。仲良くなった女生徒もおりました。

 健児君を初めて見たのは、図書室でした。放課後、図書の貸し出しをするという校内放送を聞き図書室に行ったのです。図書室に入ると、汗まみれで荒い呼吸をしている男子生徒がおりました。図書の貸出カードに、急いで本の名前を書いていたのです。次に待っていた私は、ふとそのカードを見ました。カードには、「太閤記」や「織田信長」、「保元・平治の乱」など、歴史上の人物や事件についての本五冊程書いてありました。借主の欄には、健児君の名前が書いてありました。

 健児君が貸出カードを書いている時、図書室の外からしきりに誰かが呼んでいました。健児君は、貸出カードを書き終わると、本を抱えて図書室を飛び出していきました。その光景がいかにも奇妙でしたので、図書係の人達は笑っておりました。私は、それまで見たこともない人間性を見たような気がしました。混じり気のない中に急いだ様子には、何もコセコセしたところがなかったのです。私も、思い出したように微笑みを浮かべました。私は、男の子と言えば、健児君のことを思い浮かべるようになりました。

 私は、健児君の擦れ違った時など、いつも俯いて含み笑いをしながら歩きました。健児君は、仲間と遊ぶのが忙しいようで、友達と話し込んでいるか廊下を走っていました。秋も暮れの頃でした。放課後になって清掃の時間なのに、二階に上がる廊下の前に人が集まっておりました。私がそこに行ってみますと、健児君が先生に怒鳴りつけられているのが見えました。何故、健児君が先生に怒られているのか分かりませんでした。

 私は受け持ちの理科室の清掃が終わり、クラスの教室へ帰る途中、健児君の教室の中を覗きました。健児君の左の頬は赤く腫れておりました。目には、涙が溢れているようで光っておりました。私は私のクラスの教室に入り、机の上に両手を着いて目を閉じて思いました。健児君の姿には、寂しさと悔しさが溢れていたように思いました。
 その日は土曜日で、父と一緒に帰るため、時間があったので図書室に行きました。晩秋の夕暮れは早く訪れ、図書室から見るグラウンドには人影がまばらでした。クラブ活動の生徒も、午後の四時になると皆帰ったようでした。私も席を外して、図書室を出ました。私は、健児君が図書室に飛び込んできて、忙しそうに出て行くのではないかと思っていました。そんな期待も外れてしまい、健児君も帰ったのだと思いました。私は、早く父の事務所に行って、父を待っていようと思いました。

 静かな廊下が、ずっと続いておりました。私は、走ってみようと思いました。幾らか面白いのではないかと思ったのです。走り出して、スカートが宙に舞い、ふわふわしているのに気付きました。広いネクタイも肩を掠め、翻っているのも分かりました。自分の意思で走ったことのない私は、その時快い思いがしました。その廊下を突っ走り、直角に向きを変え、渡り廊下を渡りきって突き当たると、間もなく反転して階段を上りました。勢いがついていたので、三段を一飛びにしました。また二段を飛び越えたのです。

 私は知らなかったのです。「ドンドン」という音を聞いて、びっくりして顔を上げました。階段の踊り場に、健児君がいたのです。私が勢いよく階段を駆け上ってくるのを、健児君は微笑んで見下ろしていました。普段なら私は、立ち止まって髪を整え静かに昇っていくか、反転して階段を下りてどこかへ行くのです。その時、健児君だと思うと、却って上ってやれという気が起きました。私は、見上げた顔を下ろすと、髪も直さず勢いよく上がっていきました。二段、一段と中々歩調が合うものではありませんでした。

 私は、伏し目で通り過ぎようとしたのですが、階段も狭かったので健児君が何をしているのか直ぐ分かりました。階段の踊り場の腰板の破れたところを張り替えていたのです。周りには鋸やノミ、釘、板片が目に入ったのです。私は階段を上がりきっても、なおも教室まで走っていきました。教室に入って自分の席に座り、右手で乱れた髪を撫で上げ、ふと快く思ったのです。
 私は、健児君の釘を打つ音が終わったので健児君のところに行きました。健児君は、壊れた板と大工道具を抱えて階段を上ってきたのです。そして立ち止まって私を見つめていました。私も黙って健児君を見つめていました。
「何か俺に用か。」
と健児君は少しぶっきら棒に言ったのです。私は
「貴方は、神林俊子先生の弟、健児君ですよね。何してたの。」
と言ったのです。
「俺の名前を知っているのか。そうか、牧原の和子だな。姉が言っていた。美しい女の子だって。やっぱり美しいな。誰が腰板を破ったのか知らないが、俺がやったと先生に告げ口したやつがいる。先生に反抗しても仕方ないから、俺が修理したんだ。」
と答えました。それを聞いて私は、健児君が先生に怒鳴られた理由が分かりました。また、「美しい」と言われ、恥じらいで俯きました。私は顔を上げ、咄嗟に
「美しい人を呼び捨てにするの。」
と言うと
「俺は仲間を呼び捨てにするんだ。仲間だって俺を呼び捨てにする。」
平然とした顔で健児君は言うのです。私はしかめっ面を見せ
「じゃ、私もあなたを健児と呼び捨てにするから。」
言ったところ、健児君は笑顔を見せ
「ああ、構わないよ。」
と言うのです。思わず私も笑顔になったのです。そして一緒に学校を出て、健児君は私を父の事務所まで送ってくれたのです。

 健児君は、クラスの餓鬼大将のような存在でした。授業時間以外は、教室におりませんでした。私は、二階の私の教室から見ていると、大抵はグラウンドの真ん中で健児君は野球をやっているのです。初めは、大勢遊んでいる中で、健児君のグループを見付けることができませんでした。二年の春頃になると、健児君のグループが直ぐ分かるようになりました。二年の夏近くになると、誰が成績優秀なのかも分かってきました。健児君の成績といえば、校内テストでは名前も出ることもありませんでした。私は、時たま名前が出ることがありました。その頃になると、名前が出れば健児君も私を知ってくれるだろうと思い、真剣に勉強をしました。休憩時間も、本に向かうようになりました。

 初夏のある日、教務室から教室に帰る途中に、健児君の教室の前が人だかりになっているので覗きました。その日は雨でしたので、たいていの人は体育館で遊んでおりました。健児君のクラスの教室を見てみると、級長が誰かを叱っておりました。級長の前に二人の男子生徒がおり、小さくなっておりました。教室では、温和しそうな十人程の生徒が勉強をしておりました。どうやら二人は、教室で相撲をしていたらしかったのです。級長は、静かに勉強をしている人の邪魔だと言って叱っていたのです。

 そんな中に健児君が教室に入ってきたのです。人を掻き分けて、二人の名前を呼んで
「遅いじゃないか。何をしているんだ。早く来いよ。」
と言い、二人の側に寄っていきました。級長は、大分興奮したらしく、健児さんに矛先を向け
「邪魔するな。」
と言いました。健児君は、その時初めて級長が二人を叱っていることに気付いたようでした。
「ああ、そうか、済まん。」
そう健児君が級長に謝って、今度は二人に向かって
「早く謝るんだ。」
と言いました。私は、健児君の成り行きが心配でした。二人は、素直に級長に頭を下げました。二人は、健児君が来る前まで、級長の言葉を上の空で聞いていたのです。興奮している級長は、更に言いました。
「皆に謝るんだ。」
二人は、皆に
「済みませんでした。」
と言ってお辞儀をしました。

 級長は、未だ不満らしかったのです。健児君が笑いながら口を出したのは、その時でした。
「何も俺にお辞儀なんかしなくてもいいよ。」
健児君のその言葉に、私はドキとしました。ここで級長を怒らせてしまえば、健児君の負けだと思ったのです。思った通り級長は、再び健児君に矛先を向けて言いました。
「君なんかにお辞儀をさせたんではない。」
級長は品もあり、威厳もありました。健児君は、二言三言二人の生徒に尋ねました。二人が級長に叱られたのは、些細なことでした。二人が汗にまみれてタオルを取りに来た時、申し合わせのように押し合いをしたとのことでした。そこで直ぐ級長に捕まって、長く説教されたらしかったのです。健児君は、級長の前で二人に言いました。
「今後、教室では押し合いをやらないな。」
健児君は、真面目に言ったのです。二人は頷きました。健児君は、級長に向かって
「もういいだろう。」
と言いました。級長は、不満そうな顔をしておりました。
「君に聞いているのではない。君達が直に言いたまえ。」
級長が二人に言うと、健児君は仲を持つように
「君達は、確かなんだろうな。」
と二人に言うと、二人は頷きました。級長は、まだ不満そうにしておりましたが、健児君は直ぐ二人に言いました。
「おい、お前等、体育館へ行けよ。皆が待っているから。俺も直ぐ行くから。」
健児君に言われた二人の内の一人が
「健児、一緒に行こうよ。」
と言いました。健児君は、一緒に行った方がよいと思ったらしく、三人で教室を出て行きました。
 私は、その時の健児君の態度にがっかりしたのです。餓鬼大将面をしていたのが嫌だったのです。良く言われる餓鬼大将にありがちな姿を見たのです。勉強をしている人に邪魔をする人、それでいて頭の悪い人を思い浮かべました。

 その後も、私はそんな姿の健児君を多く見ました。素行の悪い人や成績の悪い人などと一緒に遊んでいることがよく分かりました。私は、小学校で教わった俊子先生、健児君のお姉さんのことも信じなくなっていきました。私が中学校に入ってからも、俊子先生は何回も遊びに寄ってくれましたが、私は俊子先生を避けるようになりました。勉強をしているからと言って俊子先生に会わなかったり、裏口からこっそりと家を抜け出し、お寺の縁に腰掛けたりしました。俊子先生も、私の気持ちを察したらしく、次第に私の家に来なくなりました。私は、勝ち誇った気持ちを抱きました。

 夏休みも過ぎた日、私は学校の帰る途中、私の家の近くの寺へ通ずる曲がり角で健児君のお姉さんの俊子先生に、バッタリと会ってしまったのです。私は、咄嗟に俯き、知らぬ振りをして通り過ぎようとしたのです。でも俊子先生は
「お帰りなさい。遅かったわね。」
と私に言いました。私は、ふと昔の声を聞いたように思いました。私は思わず
「ええ、先生。」
と答えて、顔を上げると、俊子先生は嬉しそうな顔をしておりました。私は、その時何故返事をしたのか分かりませんでした。けれども偽りの返事でないと思いました。どうしてか俊子先生は
「しっかりやってくださいね。」
と言うなり、直ぐに別れて行ってしまいました。私は、突き放されたような寂しさを感じました。私は、健児君がいくら悪い人でも、健児君のお姉さんまで悪い人だと思ってはいけないと思いました。

 私は、二年生になって秋まで真剣に勉強を続けました。そして成績優秀者の中に入ることができました。色々と学級の役員をするようになりました。そのために学校からの帰りが遅くなっていきました。学校から遅く帰ることに少し誇りを感じていました。ただ、私には親しい友達はおりませんでした。

 私は、成績の優秀な生徒に惹かれていくのを感じました。それは当然のことだと思いました。中学二年生ともなると、男女の仲が評判になることがありました。私が最初に親しくなった女友達の中林さんが、驚いたことに健児君の仲間の良一君と仲が良かったのです。私は、不思議に思いました。中林さんは、私より成績の良い人でしたし、何よりも美しい人でした。私は、中林さんに何故好きなのかと聞くと
「あの人はとても良い人よ。ただ仲間が悪いのよ。」
と言うのです。私は、健児君の仲間は悪い人ばかりだと思っておりました。健児君の仲間は、端的に悪いことをしてはいませんでしたが、内に何か恐ろしいものが潜んでいると思っていたのです。

 中林さんは、いつも私に言っておりました。
「きっと、私の手で、あの人を助けてみせるわ。」
夏休みの課題テストの結果、驚いたことに良一君の名前が成績優秀者の中にあったのです。放課後になって中林さんに会うと、嬉しそうな顔をして
「どう、良一君の名前が出たわ。嬉しいわ。明日にでも、おめでとうと言ってやりたい。今度は、私が中に入って、健児君達と縁を切るようにしてやる。」
と言いました。中林さんの目は輝いておりました。

 その日も父が学校に迎えに来るということで、遅くまで生徒会の活動をしておりました。そろそろ日も暮れる頃、私は教室に鞄を取りに行ったのです。窓から金色の西日が廊下に差していました。その光は、腰板に反射してほんのりと輝いておりました。その廊下に健児君が立っておりました。窓越しに、目を細め遠くを見ているようでした。健児君は、夕陽に溶けたような孤独な姿でした。その寂しそうな姿に、私は身震いをしました。
「どうしたのだろう。」
私は、頭が垂れる思いでした。父と一緒に帰る途中、とても済まない思いがしてきたのです。健児君にではなく、健児君のお姉さんに対してでした。恩を受けた先生に、申し訳ないと思っておりました。

 翌日の放課後、中林さんは良一君を生徒会室に呼びました。中林さんと良一君は、仲良く喜び合っていました。健児君の組の級長も生徒会の役員であることから、生徒会室に来ました。
「あら、珍しいこと。何かご用ですか。」
と、私が声をかけました。級長は
「いや、話をしに来たんだ。」
と軽く答えました。私は、いつの間にか級長と馴れ馴れしい程仲良くなっておりました。級長は、話し上手で生徒会活動にも積極的でした。何よりも、この間のテストで最高点を取った人でした。私の心は、級長に傾いていることが分かりました。

 そんなところに、健児君が生徒会室に入ってきました。
「おい、良一、早く来いよ。」
健児君は、良一君を呼びに来たのです。良一君は、直ぐ返事をして立とうとしました。中林さんは、良一君を引き留め
「駄目よ、健児君に誘惑されちゃ。」
と言いました。良一君は、戸惑っていました。
「良一、何してるんだ。早く来いよ。」
健児君が再び言うと、良一君は、また立とうとしました。中林さんは、良一君を引き留め
「良一君、貴方は少しここに座っていて。」
と言って、中林さんが健児君に、話があるからと言って健児君と一緒に生徒会室から出て行きました。私も一緒に行ったのです。

他の教室に入ると、中林さんは健児君に言ったのです。
「ねえ、健児君、こんなことを言って悪いかも知れないけれど、良一君と縁を切ってくれない。ね、お願い。」
健児君は、中林さんの話を聞き、ゆっくり椅子に腰掛けました。
「俺は、知らないよ。」
健児君は、中林さんの顔を見ながら言いました。
「そんなことないわ。良一君の邪魔をしないで。」
中林さんは、立ったまま手を強く手を握り締めながら言いました。私は、少し離れて傍観するように椅子に座っておりました。
「承知するも、しないもないさ。良一が決めることだろう。」
「それはそうよ。でも、貴方達の仲間が誘いに来るのでしょう。」
「そんなことはないよ。良一は、俺たちと一緒に遊びたいと言ったらどうするんだよ。」
「そんなことなんかないわ。ね、ね、そうでしょう。」
と中林さんは、私に同意を求めるように尋ねたのです。
「そうねえ。」
私は、そう答えて考えました。そして
「そう、良一君に聞いてみたらどう。あなた達二人の前で。」
と答えました。健児君は、放心したように窓から外を見ておりました。

 私達は、生徒会室に戻り椅子に腰掛けました。私が、代表して良一君に尋ねました。
「ねえ、良一君、貴方はもう健児君達と手を切って、一生懸命勉強しない。その方が中林さんも嬉しいのよ。」
言っている自分に恥ずかしいものを感じていました。良一君は答えました。
「うん、今、相談していたんだ。健児、悪く思うな。俺も勉強したいんだよ。良い点数も取りたいし、健児達と遊んでばかりいては。」
それを聞いた中林さんは
「そうよ、良く言ったわ。健児君も、今度良い点数を取ると良いわ。」
と言いました。健児君は、少し笑顔を見せたのです。健児君は
「そうか、中林さんの言うことは尤もだ。良一、頑張れよ。」
と言いうと、生徒会室から出ようとしました。級長が追いかけるように
「おい、健児、待てよ。突然こんなことを言うのも悪いが、君らの仲間から、良一君のような人も出たと言うことを嬉しく思ってくれよ。私は、君達を信じているよ。」
と言ったのです。級長は、それは男らしく勇気のある者の言う台詞でした。
「級長、お前の言うとおりだ。お前に言われる程、俺はもうろくしていないさ。」
そう言って健児君は、すっと外へ出て行きました。夕方になって、生徒会室から教室に戻る途中、渡り廊下に張り出されたテストの成績優秀者の前に、寂しそうに立って見ている健児君が目に入りました。まるで二人の健児君がいるように思いました。

 そんなことがあってから、私は何か変ではないかと思うようになりました。健児君が、余りにも悪い友達と遊んでいるからでした。私達とは、付き合えない人だと思いました。良一君も、一か月程勉強に一生懸命だったのですが、また健児君と遊び始めたのです。放課後になって生徒会室で、中林さんは渋い顔を見せ
「やはり駄目ね。良一君も。」
と、どうにでもなれという口調で言いました。
「良一君と、縁を切っちゃ駄目よ。」
私は、中林さんに言いました。中林さんは、軽く頷きました。

 それから半月程経ってから、中林さんが良一君と口喧嘩をしたと言うことを聞きました。中林さんは、その時の様子を話してくれました。
「貴方が健児君と手を切らなければ、私は嫌よ。」
と中林さんが言ったそうです。それから、次のような激しい言葉の遣り取りがあったとのことでした。
「どうして、健児を嫌うんだ。」
「だって、遊んでばかりで、悪い人でしょう。」
「じゃ、俺は勉強ばかりしていれば、良い人になれるというのか。」
「そう、そうあって欲しい。」
「でもな、言っておくけど、健児だって勉強ぐらいはしているさ。俺よりも多くやっているさ。」
「嘘、嘘よ」
「たとえ嘘でも、人というものは、勉強ばかりで決められるものではないよ。勉強できなくても、良い人だっているもんだよ。」
「でも、健児君は悪い人じゃないの。友達も、悪い人ばかりだわ。」
「そうかな。私は、そう思わない。人間は、或る程度までの教養があればよいのであって、真実は、人間自身と思うよ。」
「だって、健児君は、両方悪いんじゃないの。」
「中林さん、言っておくけど、今後一切健児の悪口だけは言わないでくれ。健児の悪口は、俺への悪口にもなるんだ。分かったろうな。」
「いやよ、分からないわ。」
「馬鹿、お前はまだ分からないのか。健児の苦労を。」
こんな遣り取りがあったのち、良一君は中林さんを残して立ち去ってしまったそうです。最後には、良一君は恐ろしい顔をしていたそうです。

 中林さんは、話し終えると、今にも泣き出しそうな顔をしました。窓明かりの方を見つめ、自ずと涙が出てくるのを感じたのか、顔を伏せてしまいました。そんなところに健児君が入ってきました。紅い電灯の下の中林さんに、健児君は静かに見つめていました。私は、泣いている中林さんに指で突っついて起こしました。中林さんは、いかにも悔しそうに唇を噛み、横を向いていました。私は、健児君に向かって
「何か、用ですか。」
と言いました。健児君は、私を見つめました。私は、何か気が引けて俯きました。
「中林さん、良一君が呼んでいます。」
健児君の呼びかけに、中林さんは一層悔しそうに顔を強張らせました。
「行かないわ」
中林さんが答えると、健児君は言いにくそうに
「昨日のこと、謝りたいんだって。」
と言いました。中林さんは、首を振りながら
「いゃ、絶対に行かないわ。」
と言ったのです。健児君は、次の言葉がなかったのか、伏し目になって何かを考えていました。健児君は、一回頷くと言いました。
「中林さんと良一君の昨日のこと、私は全部聞きました。」
それを聞くと、中林さんは、また泣き出しました。健児君は、更に
「中林さんは、弱虫だ。こんなことを言って悪いけど、良一君は、中林さんが好きなんだよ。だから、私に相談したんだ。」
と言いました。中林さんは、大きな声で
「いやよ、私は、あんな人なんか嫌よ。大嫌いよ。」
と言ったのです。健児君は、頭を掻きながら
「私のことが原因なんだから、どうしても仲直りをして貰いたいんだ。でも、中林さんが嫌いと言うなんて、それは困るよ。」
と言いました。私は、いつの間にか良一君が来ているのに気付き、驚きました。
「健児、もういい。行こう。」
良一君は、健児君に声をかけました。健児君も少し驚いたように
「おい、お前、いつ来たんだ。」
そう健児君は、振り返って言ったのです。良一君は、落ち着いて
「聞いたよ。分かったから。俺も少しばかり成績が良くなって、思い過ごしていたんだ。」
と言っておりましたが、顔には曇った色が見えました。

 中林さんは、勿論、本心ではありませんでした。自分の言ったことを健児君に聞かれたことに、もうがっかりしたようでした。白い顔を一層白くし、何も考えずに、自分の髪を弄ぶように撫で上げていました。
「おい、良一、お前が聞いていたなら、尚のこと、入れよ。逃げ出しちゃいかん。」
健児君は、そう言うなり良一君を引っ張って中に入れ、中林さんの前の椅子に座らせたのです。部屋の中はシーンとしておりました。何も無げに髪を撫でていた中林さんが、耐えきれなくなったのでしょう
「ご免なさい。さっき私の言ったこと、皆んな嘘よ。」
と言いました。また、静かになりました。
「良一、話が終わったら、一度で良いから俺のところに来いよ。グラウンドで野球をやっているからな。」
健児君は、そう言って部屋から出て行きました。私は、頭の中の整理がつきませんでした。ただ、私も部屋を出なければならないと感じました。私は、部屋を出て健児君の後を付いていきました。歩きながら、健児君が思った程悪い人でないことを感じました。

 健児君は、直ぐ野球の仲間に入っていきました。私は、校庭の秋の木立の並ぶ木下の芝生に腰を下ろしました。野球をしている健児君や仲間達を見つめていました。時々起きる笑い声の中に本当の喜びがあり、怒鳴り合う声の響きに軽快さがありました。何の拘りもない表情でした。柔らかいボールが私の手前まで転がってきました。私は、拾って良いものか悪いものか迷っておりました。キャッチャーをしている仲間が、走ってきてボールを拾い上げ、私に言いました。
「今度、ボールが来たら、拾ってください。」
開けっぴろに、少し恥じらいだ様子でした。快いその言葉に、私は明るく頷いて見せました。

 暫くすると中林さんと良一君が来ました。中林さんは、良一君に案内されるように後ろに付いてきました。私は、中林さんに健児君達が悪い人達でないことを知らせようと思いました。良一君は、野球の仲間に入りました。中林さんは、ひどく沈んだ表情で、私の側に腰を下ろしました。
「どうだった。」
と私が尋ねると、何も話は進展していないとのことでした。二人は、黙り続けて気詰まりとなり、外に出ないかと言われ、言われるがままここに来てしまったと言うことでした。

 健児君の仲間は、嘲り合っていました。私は、卑下する一方、必ずさっぱりした快さを感じました。打つ、走る、一つの玉を追いかけて動く、皆んなが熱中していました。その内に、ファウルになったボールが私達の前に転がってきました。
「お〜い、ボールを取って、投げてくれないか。」
良一君が中林さんに言っているのが分かりました。中林さんは、拾おうともしませんでした。
「拾わないの。」
と、私が中林さんに言うと
「拾いたくないの。」
と、中林さんは力なく言ったのです。緑の芝生の中に、薄汚れたボールがありました。私が拾おうとすると
「拾っちゃ駄目よ。」
私は、中林さんを見つめ
「どうして。」
と言いました。中林さんは、深いため息をして
「私、諦めるわ。もう駄目ね。」
と言いました。中林さんの目に涙が浮かんでいるのが分かりました。

 その時、グラウンドから良一君が猛烈な勢いで走ってくるのが見えました。その後ろから、健児君が追いかけるように走ってきたのです。
「どうして、拾ってくれないのだ。」
鋭い目付きで良一君は、中林さんに言ったのです。中林さんが、一言でも喋れば殴りそうな剣幕でした。
「拾いたくないの。」
中林さんは答えました。私は、咄嗟に良一君に言ったのです。
「待ちなさいよ。貴方に殴る権利があるの。」
私が言った後に、健児君が良一君の前に出て
「おい、良一、我慢しろよ。ボールは、俺が拾うよ。」
と言うと、健児君がボールを拾い、良一君の肩を軽く叩くと、一緒に背を向けて皆んなの方に行こうとしました。
「待って。良一さん、行かないで。」
その声で、二人は立ち止まりました。そして良一君だけが振り向いたのです。中林さんと良一君は、見つめ合っていました。

 健児君は、突然振り返って中林さんに近付くと、中林さんの頬を軽く叩いたのです。中林さんは、私の膝に顔を寄せ、泣いてしまいました。
「何をするんだ。健児よ、何をするんだ。」
そう言って良一君は、健児君に詰め寄りました。
「殴ったまでよ。」
健児君は、良一君に向かって平然と言いました。
「女を殴るなんて、健児らしくもねえや。どうしてだよ。な、理由が聞きたいよ。」
良一君は、健児君に言ったのです。健児君は、
「理由など、あるもんか。」
と答えました。良一君は、健児君の目を見て
「健児、殴るぞ。」
と言ったのです。健児君は、悪びれた様子もなく
「ああ、いいよ。」
と答えたのです。良一君は、拳で健児さんの頬や頭、腹を殴ったのです。健児君は、苦笑いを浮かべて良一君が殴り終わるのを待っていたようでした。
「健児、お前となんか、もうこれ切りだ。」
殴り終えたのか、良一君は健児君に捨て台詞を投げたのです。
「ああ、そうしよう。あばよ。」
健児君は、良一君にそう答えると、グラウンドの真ん中に向かって駆けて行きました。

 そのことがあってから、健児君を理解しようと思った心も、軽蔑に変わっていきました。健児君は、仲間以外の誰からも相手にされないようになりました。中学校の異端者として、上級生や下級生、そして先生からも冷たく見られたのです。私は、健児君のクラスの級長と親しくなりました。級長は、井沼君と言う町医者の子供でした。落ち着いた、正しい目を持った、確実な人でした。

 ある秋の日曜日に、私の集落の近くで、生徒会役員のリクレーションをすることになりました。健児君のお姉さんと遊んだ、あの野原で遊びました。私は、兄を連れて行きました。兄は、高校生二年生でしたが、少し勉強から離れて休むのも良いだろうということで、一緒に来たのです。
 全員が集合して、秋空に向かって、力一杯校歌を歌いました。兄と井沼君は、直ぐに親しくなったようで、私は、それを喜んでおりました。

 私達がトランプゲームをしている時でした。兄が、私の背中を突っつきました。
「おい、あそこにいるのは、神林先生ではないか。」
兄の指差す方向を見ると、敷物の上に、足を崩して本を読んでいる神林俊子先生の姿が見えました。明るい日差しの中に、遠くの山々と松並が見える中で、落ち着いた姿でした。
「行ってみないか。」
兄の問いかけに、私は直ぐに答えました。
「嫌よ。ここにいる。兄さん一人で行ってらっしゃい。」
私は、俊子先生の弟の健児君が嫌で、俊子先生に取り付きにくくなったのです。兄は、挨拶だけでもしなくては悪いと言って、私を連れて行きました。
「今日は。久し振りね。」
明るい声で、俊子先生は迎えてくれました。兄は草の上に腰を下ろしたのですが、私は屈んで下を見ていました。
「先生が、ここによく来ていることは知っていたんですが、中々会えなくて。妹さんの章子先輩にも、同じクラブで色々教えてもらっております。」
兄は、屈託のない姿勢で、俊子先生に言葉をかけました。
「ええ、そうですね。来年は三年生でしょう。大学の受験勉強忙しくなるわね。」
俊子先生は、兄の顔を覗き、優しく言いました。私も、俊子先生に、何かを言わなければと思いました。
「先生は、お一人で来たのですか。」
私は、俊子先生に尋ねました。俊子先生は、私に顔を向けて言いました。
「いいえ、弟の健児と一緒に来たの。健児だって、急に、思い付いてきたのでしょう。」
私は、嫌な予感がしました。意地悪で乱暴者の健児君を思ったのです。俊子先生は、微笑みながら私に言いました。
「健児に聞いたけれど、和子さんは、とても成績が良いんだって。それに、物静かな人だって言ってましたよ。」
私は、微笑みを返して、首を横に振りました。
「健児君は、どこにいるの。」
私は、何となしに聞きました。柔らかな風が、頬を撫でて通り過ぎていきました。
「水を汲みに行ったのよ。健児ったら、この頃、急に散歩ばかりするようになったのよ。」
「それは、きっと友達のところへ行くのよ。」
「そうね。健児は、遊び好きだから。」
私が、俊子先生と話している時に、兄が
「弟さんの健児君は、和子と同じクラスか。」
と、私に尋ねたのです。
「いいえ、隣のクラスよ。」
と私は答えました。そのとき俊子先生は
「あ、健児が来たわ。」
と言ったのです。私が松林の方を見ると、棒を肩にかけ、その棒に水筒をぶら下げて歩いてきました。片方の手は、後ろに回しておりました。
「今日は、今日は、皆さん、お集まりだね。」
そう健児君が言うのを、私は嫌味に聞こえ、不愉快に思いました。
「これ、私の兄の幸夫です。」
私は、兄を健児君に紹介しました。
「神林健児と言います。よろしくお願いします。」
健児君は、そう言って、私の兄と親しげに語りかけました。健児君は、後ろ手に持っていたサイダー瓶を敷物の上に置きました。瓶には、野に咲いている花が挿してありました。純白の花、黄色の花、ピンクの花、そして葉の並びを見て、私は驚きました。健児さんが、花の飾り方を知っていたからです。私は、偶然にそうなったのだと思いもしました。
「兄さん、行きましょう。」
生徒会の皆んなが手を振っているのを見て、私は兄を促したのです。
「先生も、健児君も、一緒に行きましょう。」
私の兄は、二人を誘ったのです。俊子先生は
「私は、ここで本を読んでいるわ。健児、行ってらっしゃい。」
と言いました。私は思わず言ったのです。
「駄目よ。駄目、駄目。健児君が来ては駄目。」
私の兄は、私を見つめ
「和子、何を言うんだ。友達じゃないか。」
と言いました。
 俊子先生は、健児君が私に嫌われていると思ったのか、健児君に尋ねたのです。
「健児、貴方は和子さんをどう思っているの。」
そう言われると健児君は俯いてしばらく黙っておりました。顔を上げると私を見つめて言ったのです。
「和子さんはおしとやかで賢く、なによりも美しい人だと思っています。こんなことを言って悪いのですが、一緒にいたい人だと思っています。こんな思いは、和子さんの姿を見るたびに強くなりました。でも俺、学校では暴れん坊で通っている。和子さんには嫌われていると思っている。」
健児君は、私から目を反らすこともなく、時折私の反応を窺うように頷きを見せながら言ったのです。私は健児君が私に好意を抱いていると思うと、少し顔が熱くなるのを感じました。
「そう、健児君がそう言ってくれて嬉しいわ。でも健児君、学校では、もっとおとなしくしてね。」
私は、そう言いました。俊子先生に一礼して、健児君に向かって
「健児君は、来ちゃだめよ。」
と言いました。それを聞いていた健児君は、笑いながら俊子先生と、私の兄に向かって
「いいんですよ。あの中に、喧嘩をしている人がいてね、行くと喧嘩になるんです。」
と答えました。
「今日くらい、いいじゃないか。さあ、行こう。」
「いいんですよ。それより、もし良かったら、この山の散歩に連れて行ってくれませんか。」
健児君は、私の兄に丁寧に頼んだのです。
「健児、駄目よ。無理を言っちゃ。」
俊子先生は、健児君に言ったのです。私は、この時ばかりと思い
「兄さん、そうなさいよ。私、先に行っているわ。」
と兄に言いました。私は、健児君を兄に任せ、皆なのところへ走っていきました。私も一緒に散歩に行くより、無難だと思ったからです。

私が生徒会のグループに戻ると、
「誰、あの人は。」
と尋ねられました。
「私が習った、小学校の先生よ。」
私は、軽く答えました。誰も、健児君がいたことに気付きませんでした。いつも激しい動きを見せる健児君の姿と思われなかったのです。
 昼近くまで遊ぶと、皆な勉強があるからと言って帰ってしまいました。中林さんと良一君だけは残りました。私は、二人を連れて本を読んでいる俊子先生のところへ連れて行きました。俊子先生は、本を閉じて迎えてくれました。
「こちらの方、中林静子さんと中町良一君です。」
私は、二人を紹介しました。
「そう、貴女が中林さん。貴方が良一君ね。健児が殴ったんですってね。ご免なさい。」
俊子先生が、二人に親しそうに言ったのです。
「言わなかったけど、先生は、健児君のお姉さんなの。」
私が、二人に言うと、二人は顔を見合わせました。私は、二人に悪かったかなとも思いました。二人は、口を合わせたように
「いいえ、気にしなくたって。」
と言ったのです。
「本当、嬉しいわ。ありがとう。」
俊子先生は、そう言って嬉しそうに頷きを見せました。暫くして、兄と健児君が帰って来ました。私は、健児君が良一君を見て、何を言うのか心配でした。
「中林さん、この間は本当に悪かった。殴ってしまい、謝ります。」
健児さんは、先ず詫びました。私は、ホッと胸をなで下ろしました。健児君は、良一君に言いました。
「良一、たまには遊びなよ。誰とでもいいからよ。」
「うん、そうするよ。」
良一君は、そう答えました。私は、兄の手を取って帰ろうと言いました。中林さんと良一君を見送り、私と兄も健児君に別れを告げました。

 私は、兄と私の友達について話し合いました。私は、先ず級長の名前を挙げました。
「中々、賢そうな人だな。纏まっている人だよ。」
そう兄は言いました。それから健児君を引き合いにしました。
「健児君か、中々の勇者だよ。物怖じをしない男だな。知識が深く、中学生としては特別だな。異端者とも見えるが、そうではないね。」
「そうね、学校では、誰にも評判が悪いのよ。」
「でも、健児君は、それくらいのことは知っているだろう。覚悟をしているんだろうな。」
「何故。」
「健児君の力は知らないけれど、和子が思っているより優れた人だよ。私に「論語」についての考え方を説明してくれた。勉学に年齢は関係ないとも言っていた。勇敢に切り開いていける人だと思うね。考えと実践が大切だとも言っていた。それを持ったとすれば、恐ろしい人になると思うよ。」
「何故、そんなことが言えるの。」
「健児君は、心の清い人物だよ。散歩していて分かったんだ。しかし、時々遠くを見つめ、虚ろになる。いつも問題にぶつかり闘っているのだろう。」
「兄さんって、健児君のことを褒めるのね。」
「そう、長い目で見れば、それだけの価値があるね。ただ、一生浪々と暮らさなければいいのだが。」
「どういうこと。」
「自分を捨てる嫌いがあるよ。目的に近付くために、本当の自分を拾わないと駄目になる。」
「そんな風に考えていいのかしら。健児君って、そんな人じゃないと思うわ。」
時折、健児君が、虚ろに辺りを見渡すのを見たことがありました。
「とにかく、静かに見つめるつもりでいる方が良いよ。健児君の方が、井沼君と言ったかな、あの男より人間らしいと思うよ。尤も、年がたてば変わるかも知れんがな。」
兄は、そう言いながら自分の部屋に行ってしまいました。兄が、いかにも大袈裟な考えを振り撒いたことに、私は可笑しさを覚えました。

 健児君は、表に出て喧嘩をしない人でした。悪童の中の悪童と言われていて、喧嘩をしないのが不気味でした。煽動的に、人を巻き込む人だと思いました。悪童の中でも性格の悪い、知恵のある人なのです。
 そんな健児君でさえも、全ての悪童を手中にしている訳でもありませんでした。他のクラスの中には、全く手に負えない乱暴な人が一人いたのです。青井君という人で、嫌いな先生だからと言って授業中抜け出したり、果ては先生と殴り合いをする人でした。懐にナイフを忍ばせており、時々、見せつけるのです。先生も生徒も、その凶暴なことから関わり合いになるのを避けていました。

 ある日の昼休み、私は購買でパンと牛乳を買って携え、健児君の教室の前を通ったのです。教室の中を覗いてみると、青井君が中におり、女子生徒に嫌がらせをしているのが見えました。女子生徒のリボンを取って外に投げ出したり、弁当の中にチョークの粉を入れたり、いつもと変わらない悪戯でした。その女子生徒は泣いておりました。青井君は、更にチョークの粉をその女子生徒の頭に振りかけていました。私は、廊下から成り行きを見ておりました。私ばかりではありませんでした。通りかかりの他の組の生徒も見ていたのです。健児君やその仲間の人は、早く遊びたいためか、ガツガツと弁当を食べていました。健児君は、掻き入れるように弁当を食べ終わると、両手で頬杖をして、青井君の仕草を見ていました。
「ねえ、止めてよ。止めて。」
それまで、玩具のようにされていたその女子生徒が、悲鳴を上げました。女子生徒は逃げようとしたのです。青井君は、上着を引っ張って
「どこへ行くんだよ。」
と言うと、その女子生徒は
「先生のところへ行くわよ。言いつけてやる。」
と言いました。薄ら笑いを浮かべ青井君は
「スカートでも脱ぎな。」
と意地悪く言いました。
「嫌よ。」
泣きながら、その女子生徒は叫びました。
「じゃ、脱がしてやろうか。」
そう言って、青井君は、その女子生徒を突き倒しました。その時、青井君は、チラッと私を見たのです。
「おい、何だよ。見せ物じゃねえよ。とっとと行きな。」
私は、見過ごして行く気にはなれませんでした。私は、青井君を見つめ、立ったままじっとしていました。
「おい、何だよ。いちゃもん付ける気かよ。」
と言って、青井君は、私の方に歩いてきました。
「おい、青井、止めれよ。」
そう言う井沼級長の声が聞こえ、私はホッとしました。井沼級長は、前に出て青井君と向かい合いました。
「もういいだろう。教室に帰ってくれよ。」
「嫌だね。今度は、お前が相手か。学者面すんなよ。大体貴様は、女みたいに、コセコセして気に喰わねえ野郎だと思っていたんだ。」
青井君は、体をクニャクニャさせて、級長を横から見たり、下から覗くように見ていました。

 そんな時、健児君は二人に近付いていきました。青井君が
「オッス。」
と言うと、健児さんも同じ返事を返しました。健児君は、突き飛ばされて泣いている女子生徒に手を貸し、椅子に座らせました。女子生徒は、ハンカチを出して、頻りに涙を拭いていました。健児君は、私に向かって手を振り、私の教室に行けと合図をしました。私は、首を横に振って見せました。
「井沼、お前、俺とやるのか。」
青井君は、そう言って井沼級長の襟元をつかみました。級長は、直ぐその手を払いました。すると、青井君は一層荒々しく井沼級長の襟元をつかみました。
「よせよ、喧嘩はしたくないよ。」
そう言って、級長は手を払い除けて、席に帰ろうとしました。
「おい、待てよ、井沼。」
と青井君が言ったのです。その時、健児君は青井君に言ったのです。
「青井、もう止めろよ。逃げる奴を追いかけるなんて、男らしくもないや。それに、先生も来てらあ。」
青井君は、教室の入口の方を見て、先生が来ているのを確かめたのです。
「先公が怖くて、喧嘩ができるか。」
そのとおり、先生は教室の中に入ろうともしませんでした。私は、先生の傍に行き
「先生、止めてください。」
と言いました。先生は、
「いいんだよ、神林も青井も、少年院に行けばいいんだよ。仕方ない奴らだ。」
と言い、教室の中に入ろうとしませんでした。

 青井君が、級長の方へなおも近付こうとすると、それを止めるように健児君は
「青井、好い加減にしないか。悪いのは、お前じゃないか。出過ぎたことを言うようだが、お前の顔を立ててやるから出て行けよ。」
と言いました。青井君は、健児君を見て
「俺の顔を立てるって、どうするんだ。」
と健児君に言ったのです。すると健児君は、思いもよらない行動に出たのです。
「君、謝りな。」
健児君は、泣いている女子生徒に言いました。
「嫌よ。」
「謝るんだ。」
女子生徒は、健児君にきつく言われると
「青井さん、済みませんでした。」
と言いました。次は、井沼級長に向かって言いました。
「級長、青井に謝れよ。」
そう健児君が言うと
「俺が謝る必要はないね。悪いのは、青井じゃないか。」
と井沼級長は答えたのです。すると健児君は語気を強くして
「謝れよ。俺の顔が立たないじゃないか。」
と言ったのです。井沼級長は、平然として
「健児君、君の顔が立とうが、立つまいが、知ったことじゃないよ。」
と答えたのです。健児君は、どすの利いた声で
「井沼、謝るんだ。」
と言いました。健児君のきつい声が流れたのです。真剣な顔だったのです。井沼級長は、立ち上がりました。
「青井君、済まん。」
級長は、そう言いました。健児君の悪賢い顔を見るのがいやな思いがしました。
「和子、君も謝るんだ。」
何の理由もなく、お辞儀をして謝ることはできませんでした。でも、そうしなければ収まりが付かないのが明らかでした。健児君と青井君が騒いだら、学校中が混乱してしまうと思ったのです。
「青井さん、気に障るようなことをして、済みませんでした。」
私も、そう言って謝ったのです。健児君は、有り難そうに頷いていました。健児君は、青井君に向かって
「青井、聞いたとおりだ。君を悪く思っている者はいない。俺が出過ぎたことをしたのも謝る。済まん。」
と、少し荒々しく謝ったのです。それを笑い潰すように、青井君は、
「おい、健児、一人忘れているんじゃないか。」
と言って、先生の方へ目を流したのです。
「そうか、分かった。」
先生の方を見て言ったのです。
「そうよ、あの先公は、気に喰わねえんだよ。」
青井君に、そう言われて健児君は先生の方に歩いてきました。
「先生、青井が興奮して収まりが付きません。頭を下げてやってください。」
健児君は、先生に頭を下げて言ったのです。先生は、少し戸惑いを見せましたが、次第に顔を紅潮させると、声を荒立てて言ったのです。
「先生を何だと思ってるんだ。神林、今のやり方は何だ。」
と、先生は健児君を責めるように叱ったのです。
「先生、お願いですから、謝ってください。」
健児君が、さらに先生に言うと、先生は
「ふざけるな。」
と言って健児君の頬を殴り、その場から立ち去ってしまいました。頬を抑えながら、健児君は私の瞳を覗き込みました。
「和子も、物好きだな。教室に行った方が良いよ。」
と頬をなでながら、少し笑顔を浮かべながら言ったのです。
「いいえ、見ていますわ。」
私は、落ち着き払って健児君に言いました。健児君は、落ち着いていました。
「少年院行きかな。」
少し苦笑いを浮かべながら言いました。何が起きるか、予測もできませんでした。健児君は振り返ると青井君に向かって言ったのです。
「青井、先生は逃げちゃったよ。」
青井君は、不満そうな顔をして
「健児、俺の顔をどうするんだ。」
そう言いながら、青井君は健児君に責め寄りました。
「分かった。どうすればよいか、後はお前が勝手にするが良い。先公を捕まえるのも良いだろう。ただ、俺の組の者に手を出すなよ。」
健児君は、そう言って仲間の者を集め、グランドに出ようとしました。教室を出ようとする健児君に、私は瞳を投げて指差しました。健児君が振り向くと、怒った顔で青井を見つめました。青井君は、先程の女性を教壇に連れ出して、上衣を捲ろうとしておりました。
「青井、何をするんだ。」
と健児君が言うと、青井君は
「ストリップさせるまでよ。」
健児君も教壇に上がると、女生徒を青井君から引き離し、青井君と向き合いました。
「青井、好い加減にしろ。」
健児君が言うと
「おい、健児やるのかよ。」
青井君は、そう言いながら身構えたのです。
「青井、黙って出て行ってくれよ。」
健児君がそう言うと、青井君は
「人の顔を何だと思っていやがる。収まりがつかねえよ。」
青井君は、そう言って平手打ちで健児君を殴り始めたのです。
「止めろ、青井、止めるんだ。」
健児君は、殴られながらも精一杯そう言いました。遂に、健児君は青井君を蹴飛ばして、床の上に倒しました。

 壮絶な喧嘩が始まりました。先生でも適わない腕力の青井君に向かって、健児君も引けを取りませんでした。二人とも顔が腫れ上がり、紅潮していました。その内に、健児君のこぶしは青井君の顔に強く当たりだし、組ついてくる青井君を投げ飛ばしたのです。床に転げた青井君は、ポケットからナイフを取り出しました。健児君は退き、拳で窓ガラスを破り、細長いガラス片を握り締めました。

 健児君の血走った目と手から滴り落ちる血を見て、青井君も退きました。その時になると、廊下に人が集まって黒だかりになっていました。命を賭けた喧嘩のように、健児君の目は残酷な光を浮かべていました。退きつつある青井君を目掛けて、健児君は鋭く手を振りました。青井君の顔を掠めて、教壇の机の花瓶の花を横切りました。青井君は、健児君の手の血が顔にかかり、血眼な健児さんの目を見て大きく退きました。花瓶の花が、鋭い刃物で切られたように茎から落ちるのを見て、青井君は首、頭、体、そしてナイフを持った手を震わせました。壁際まで追い詰められた青井君は、ナイフを投げ出しました。
「健児よ、止めろよ。悪かったよ。」
健児君の足摺は止みそうもなく、血走った目は、青井君を恐怖に陥れていたようでした。無言のまま、ガラス片を青井君の喉を目掛け、健児君は進んでいきました。
「健児、勘弁してくれよ。勘弁しろよ。止めろ。止めろ。」
青井君の恐怖に震え、切羽詰まった声は、私達にも伝わってきました。一人の少年が殺されると思うと、身震いを感じました。青井君は、泣いていました。
「勘弁してくれよ。」
泣きながら、声高く言ったのです。健児君は、青井君の襟元を押さえ言ったのです。
「野郎、今になって、じたばたするな。」
「悪かったよ。助けてくれよ。頼む。」
「何だ、お前は、ガラスが怖いのかよ。」
「そうだ。勘弁してくれ。」
「ガラスは捨ててやるぜ。さあ、かかってきやがれ。」
健児君の言葉は、不良そのものでした。健児君がガラス片を投げ出すのを見て、私はホッとしました。殺し合いにならないと思ったからです。

 青井君は、子供が泣きじゃくるような声を出しました。
「ようし。」
そう言って健児君に飛びかかりました。健児君は、避けると、いやという程青井君の顔と腹に拳を加えました。青井君は、初めて自分より強い男がいることに気付いたようでした。もう泣くだけでした。始末の付きそうもない喧嘩に終止符を打ったのは、良一君でした。
「健児、もう止めろよ。」
後ろに回って肩を叩いた者を、健児君は振り返ってみました。
「良一か。無様なところを見せて、悪かったな。」
「仕方ないさ。とにかく、その手をどうにかしなくちゃ。」
「分かったよ。」
そう言うと、健児君は、青井君の前で屈み腰になりました。私と良一君は、二人の側へ行きました。
「青井、俺とお前の喧嘩は、勝ち負けはないよ。だけど、さっき、君がしたことは本当に悪いことだ。この教室から出る前に、君がかまった人に謝っていくんだ。」
物柔らかに健児君は、青井君に言いました。私は、健児君が偉いとも何も思わなかったのです。喧嘩なんて、初めからしなければ良かったのだと思っていました。泣きじゃくっている青井君を見て、健児君は
「いいか、青井、謝っていくんだぞ。」
叱るように、強く青井君に言ったのです。
「分かった。」
青井君は、そう言って暫くの間、そのまま首を垂れていました。この学校は、もう自分の世界ではない。喧嘩の世界もそうである。何か、がっかりした様子でした。

 健児君は、良一君や仲間に囲まれて、保健室へ向かいました。私は、健児君の血生臭い、真剣味を帯び、落ち着いた冷淡さを胸に感じていました。ただ、愚かな行為だと思っておりました。昼食もそこそこに授業が始まり、喧嘩のことについて色々と考えてみました。青井君の喧嘩好きな性格を根こそぎに消してしまったのが、大きな結論だと思いました。一人の人間を助けたことになりはしないかと思いました。私だって、健児君がいなかったら、皆の前で恥ずかしい目をしたのだと思いました。
「あの二人なんか、少年院に行ってしまった方が良いんだ。」
と言った先生は、教師としての真剣味がないということに気付きました。健児君は、何を得たのだろうか。悪童仲間の喧嘩で、また評判が悪くなるのだ。兄が言ったように、健児君には目的もないし、拾ったものは何もないと思いました。しかし、この喧嘩について、健児君を批判する資格は誰にもないと思いました。

 その喧嘩があってから、健児君の悪名は高くなったものの、すっかり学校全体が落ち着きました。上級生は、青井君にさえ頭が上がらなかったのですから、健児君に楯突く者はいなかったのです。悪童達は、皆遊ぶことだけに熱心となりました。事件を起こすより、まだ増しなことだと私は思っておりました。気力ある遊びには節度があり、気持ちの良いものでした。明るい学舎が出来上がった感じがしました。そうなって初めて、何か健児君の意図や性質が分かってきました。
 サボり勝ちの清掃も、スクールサービスの仕事も率先して行う健児君の姿は、異常に見えました。それでも廊下を走ることは止めませんでした。風を切って走り抜け、グランドに出る姿に快い思いがしました。そんなことは、微々たるものでした。床を磨く運動に生徒会が乗り出したとき、一番最初に光った床ができたのは健児君の組でした。名札のことも制服運動も、下地ができていて気持ちの良い程成功しました。

 運動会も上級生と下級生の間のトラブルもなく、会場作りも乱雑になることなく、後始末も整然とされました。私は、全て健児君の力だと思いました。それらの見返りが、どれ程健児君に返ったのでしようか。あの時、先生に殴られて夜遅くまで説教されたり、父母を呼ばれて叱られたり、私達生徒会から悪口を言われたり、異端児扱いされていました。二学期も終わりに近付き、学芸会のとき、劇の主役を健児君にしたらという声が出ました。
「駄目です。この頃、父の病気がひどく悪くなって、早く帰らなければならないのです。」
そう言うのです。主役にはなりませんでしたが、舞台作りなどで、立派に作ることに手伝いました。健児君の仲間の手を借りることもできました。
 学芸会当日、私の習字は展示会場の優秀作品の教室に張り出されました。私は、習字には自信があり、賞も幾度か貰いました。市の専門家からも褒められています。蛍光灯で明るい部屋に入ったとき、私の習字の前で、じっと見つめている健児君の姿を見たのです。
…没遠哀愁雁山…
と言う字だったと思います。放心したように見つめ、時には鋭い目付きにもなりました。私は、まさに健児君の正面に立たされている気がしてならなかったのです。間もなくして、健児君の仲間がやって来て、何もかもぶち壊してしまいました。健児さんを連れて行こうとしていたのです。
「健児、習字が分かるのかよ。」
「分かりやしないさ。」
「じゃ、どうしてこんなのを見るのさ。」
「でも、お前達も見ろよ。字の姿、墨の流れ、それに余韻だよ。他のを見てみな、てんで切羽詰まっているじゃないか。」
「それはそうだよ。筆を使うのが上手いんだよ。」
「筆使いは上手いが、その上に何かがあるね。」
私は、実際嬉しかったのです。自分の書体全体に余韻があると言われたのは、これが初めてでした。少なくとも理解されていると思いました。
「それより、お前の図画の方が、よっぽど上手だよ。」
「まさか、適いっこないよ。」
そう言いながら健児君達は出て行きました。途中、顔を合わせ、嬉しさを隠しきれずに微笑んでお辞儀をしました。

 その部屋にある健児君の図画を、今度、私が見とれる番だと思いました。一見して、もの寂しい感じのする絵でした。夕焼け空に筋雲が一本二本と流れ、山は黒々としてその光を遮り、その山の麓には長閑な寒村と森が描かれておりました。淡く溶けそうな雲は、大空の中に寂しく、寒村に流れる夕煙は静かすぎる程でした。この時初めて健児君が、絵が上手であることを知りました。空気を描ける人は、他におりませんでした。健児君は、私が思っている以上に、考え深い人だと思いました。私は、家に帰って、皆に健児君の言葉を言いました。
「誰が言ったんだ。中々いいことを言うじやないか。」
「兄さん、ほら、健児君よ。」
「へえ、そうか。あの健児君なら、それ位のことが分かるかも知れない。」
「中学生かい。健児君という方は。」
母は、疑うように尋ねたのです。
「そうよ、中学生よ。神林先生の弟さんよ。」
私は、その日ばかりは口が軽くなって、ぺらぺら喋りました。父と母は、顔を見合わせていました。
「そうかい。あの作品は、町の先生にも批評して貰ったんだ。同じことを言ってたな。」
「そうでしょう。健児君たら、絵がとても上手なの。」
私は、得意そうに言いました。母も一緒に喜んでくれました。

 私はその日、床に入っても興奮が止みませんでした。健児君という人が、私と別な性質を持った、素晴らしい男性ということに気付きました。明るそうな振る舞いの中に、ちょっぴり寂しさを見せる人、瞼を閉じると健児君の走る姿が、そして真剣味を帯びた顔が浮かんでくるのです。

 冬休みも近いころのある日、健児君が見当たらないのに気付きました。私は、その日程つまらない日はありませんでした。わざわざ隣の井沼級長に用事を思い出し、健児君がいるか確かめに行ったのです。いつも授業が終わると、机の上が鞄や帽子で賑やかなのですが、何一つありませんでした。碌に井沼級長と口も利かずに、出てきました。放課後になって、指に棘が刺さったので、取り出すため保健室に行きました。保健室には、保険係の女生徒が一人いました。中林さんと良一君も一緒に来てくれました。中林さんに棘を抜いて貰いながら聞いてみました。
「良一君、健児君どうしたのかしら。」
「朝来たんだけど、早引きしたようだ。どうしたのかな。」
良一君も知らない様子でした。すると机に向かっていた保険係の女生徒が
「きっと、お父様の容体が悪くなったのでしよう。」
と言ったのに驚きました。暴れん坊の健児君を知っているのだと思いました。
「本当。」
「そうよ。この頃健児さんの家に、お医者さんが難しい顔をして出て行くから。」
「貴女、近くなの。」
「ええ、健児さんの家の前のアパートよ。」
一年下の女生徒だった。それも名が知れている器量好しだった。柔和な顔をして、ゆったりと話すのを聞くと、今迄思ったこともない感情が湧いてきました。
「健児君って、家に帰ると温和しいの。」
と保険係の女子生徒に尋ねたのです。
「違います。町の子供を率いて遊んでばかりいるわ。この頃は、少し遊ぶのが少なくなったけれど、お父様の具合が悪いからよ。きっとよね。」
と保険係の女子生徒は答えました。
「帰ると、悪さばかりするんでしょう。」
中林さんが、次に保険係の女子生徒に聞いたのです。その女生徒は、長い髪をしなやかに揺らしながら、微笑んで
「いいえ、悪戯する人なんか、一人もいませんわ。健児さんって、取っても気持ちのいい方よ。」
と保険係の女子生徒は、物柔らかそうに答えました。
「遊んだことがあるの。」
良一君が聞くと、嬉しそうにピョコンと頷きました。
「時々ね。日が暮れるまで遊ぶのよ。私の弟と、とても仲がいいのよ。健児さんとなら、暗くなるまで遊んでも家の人に叱られないし、よく私の家にテレビを見に来るのよ。そしていつも健児さんの下のお姉さんが迎えに来るの。」
可愛い顔をして、半分のろけるように話すのです。私は、随分反発を感じました。
「乱暴者よ。あの人は。」
私は、何か耐えきれずに言ったのです。そうすると保険係の女生徒は、落ち着き払って首を横に振りながら
「健児さんは、乱暴なんかしないわ。」
と言いました。健児君に、ひどく好意的な態度に腹が立ちました。悉く、健児君を柔らかく庇うのです。
「健児君は、成績が悪いじゃない。」
思わず私は、そう口に出したのです。
「和子さん、よしなさい。」
良一君の注意で私は、ハッとしました。その女生徒に異様な敵対心を持っていて、はしたなく思いました。それを追い打つように、言葉を浴びせられました。
「健児さんはね、毎朝早く散歩するのよ。本を持ってね。それが終わると勉強するのよ。二階の窓から見えるわ。それだけで良いじゃない。成績が悪いといったって、私一度通知表を見たことがあるの。そんなに悪いと思わないわ。」
「そう、確か貴女は杵渕高子さんと言いましたね。」
私が尋ねると、落ち着いた柔らかい声で
「そうです。」
と保険係の女子生徒の返事がありました。私は、椅子から立ち上がりながら
「きっと、高子さんは、健児君のことが好きなのね。」
と言いました。後で、そう言ったのがはしたないと思いました。高子さんは、机に俯いて、耳元まで真っ赤になっておりました。

 腹立ち紛れに言ったことなのですが、自分が如何に健児君のことを変な風に言ったのかを思い出し、後悔しました。そして、如何に健児君を軽視しようとしていたかも知りました。関係の薄い健児君と私には、到底高子さんのような結びつきが取りにくいことも知りました。自分が、成績の良い人に惹かれていくのが当たり前、そんな考えが崩れました。人を理解していない。人の性質を知らない。盲目的に崇拝している、この私が醜く思いました。況してや高子さんは、一年生でも最高位の成績に足を伸ばしている女生徒でした。一つの盲目から生ずる関係が、おうおうとして自分を偏見に陥れることに気付きました。

 冬休みも終わり近くになった夜、夕食の後に母が
「神林先生のお父様が、昨日の夕方お亡くなりになられたそうよ。正月早々、不幸が起こったものですよ。」
私は、その夜、悲しみに沈みました。机の蛍光灯が、淡く見える障子の桟の陰が、本当に寂しく見えました。この寒い冬に、ただじっと通夜を迎え、座っている健児君を思うと、炬燵に入っておられませんでした。机の前で正座をし、合掌して目を閉じました。時々見せた、あの放心したような寂しい健児君の姿が、目に浮かんできました。悲しみで泣いているのかと思うと、私の目にも知らずのうちに涙が落ちてきました。
 そして、健児君の姉さんの姿も思い浮かべました。あの澄んだ瞳には、今は悲しみで一杯になっていると思うと、耐えられませんでした。その日、寒さを堪えて合掌を続け、明かしました。それから机に凭れて眠りに入りました。

 三年生になって組み替えがあり、私は健児君と一緒の組となりました。健児君の行動は少しも変わりませんでした。時々、廊下で健児さんと高子さんが顔を合わせると、お辞儀をしていました。私には、何か意味があるように見え、悔しく思いました。

 三年生になって出版会社が行う模擬テストがありましたが健児君は、模擬試験を受けなかったのです。そして夏休み近くになったころ文部省が実施する全国一斉に行われた能力テストがありました。テストは全員が受けることになっており、教科は国語、数学、英語の三教科でした。まだ習っていない問題が散見していました。私は、そんな問題には適当に答を書きました。何故教えられていない問題が出るのだろうと不満を抱いておりました。
 一つの科目が終わると、井沼級長も中林さんも、良一君も寄ってくるのです。健児君は、椅子に後ろ様に腰掛け、私と正面に向かい合いました。
「どうでした。」
私は、健児君の瞳を覗き込むように言いますと、頭を掻きながら
「全然分からないな。」
と言いました。それを嘲るように、中林さんが言いました。
「でも、思ったより簡単だったね。そうでしょう、井沼君。」
「そうだな、俺でも大部分書けたのだから。」
私は、自分でもすらすら書けたものですから、少しいい気になっていたのかも知れません。
「そうね、私も良い点数は取れると思っているわ。健児君、本当に悪かったの。」
そうすると、健児君は寂しげに周りを見渡して、元気なく頷いておりました。
「勉強しないで、遊んでばかりいるからね。」
健児君は、そう言うとそっぽを向いてしまいました。そして立ち上がって教室から出て行ってしまったのです。
「意気地のない人ね。」
中林さんが小さな声で言いました。私は、自分が馬鹿なことを尋ねたことを悔いました。軽率だったのです。傷付けてしまったと思いました。健児君は、次の時間の寸前に席に戻ってきました。チラッと私を見て、腰掛けたのです。私は席を立って、健児君の側に立ちました。
「どこへ行ってたの。」
「便所」 
「ご免なさい、あんなこと言って。」
「別に謝ることもないでしょう。気になんかしてないから。」
「本当なの。」
「本当だよ。テストは自分なりにできたと思っているから。」
「私だって、そう思っている。」
「そうだろう。そんなこと、気になんかしてられないさ。実力以上のことをしようたって、できるもんじゃないし、お互い次のテストを頑張りましょう。」
「そうするわ。」
私は、本当に快い気持ちで、健児君の後ろの席に座りました。次の試験の始まる前に、微笑んで振り返り頷きを見せてくれました。

 能力テストの結果が発表され、驚いたことに健児君は三教科全てが満点で校内の一番となっておりました。次には井沼君となっており、九十点前後で、私は他の人と大差もなかった成績でした。
 私は、嬉しさもなく、悔しさもありませんでした。悲しくもなく、ただ茫然と健児君の名前を見ていたのです。考えることができなかったのです。唖然とするばかりでした。
「おい、健児の名前があるぞ。」
悪童達が狂喜する声にハッとしました。
 そして周りを見渡しました。その中に、嬉しそうに見上げている高子さんの顔が目に入りました。そして、私の方に向いて、綻び落ちる程の深い笑顔をして、ピョコンと一礼をして飛び去って行きました。私は、ひどく寂しい気持ちになりました。健児君とは、心がかけ離れていると思ったのです。そして性質の違う私と健児君は、住む世界が違うことを知ったのです。それと自分が抱いていた優越感というものが消え、健児君が勇ましく、尊い人と感じたのです。

 生徒会室では健児君の成績が話題となりました。井沼君は、
「まぐれで、当たったんだろう。習ってもいない問題の正解が書ける訳がないだろう。」
と健児君の成績を評価していたのです。日頃の健児君の学校での態度を考えると、井沼君の言うとおりだと思いました。
 私も、健児君の試験結果の驚きが消えませんでした。井沼君は軽く流すように言ったのですが、改めて私は思ったのです。私たちが習っていないことを既に健児君は学習済みだったと言うのが正しいと思いました。そして健児君は、井沼君より優れていると思いました。

 それからというものは、悪童達と思っていた人達が真面目に授業を受けるようになり、また真剣に遊び、学校生活を楽しんでいるようでした。
 夏休みも終わり、二学期が始まって間もなく、健児君は、仲間たちとの放課後の勉強を始めたのです。短い時間でしたが、健児君は勉強の方法や、分からないところを教えていたのです。驚いたことに、他のクラスの生徒も、その仲間に入って勉強をするようになったのです。また、健児君をはじめ、その仲間たちは、出版会社が行う模擬試験を受ける人は一人もいませんでした。

 私は、健児君に負けまいと一生懸命でした。成績で負けたら、何の取り柄もなくなってしまうと思ったからです。しかし、私の母は、成績の良いのを余り喜びはしませんでした。私は、負けたくない一心で頑張りました。
 健児君の名声は高くなりました。彼の指導力の抜群さ、力強さ、優秀さに驚きました。健児君の激しい生活に、私も引っ張られていくのを感じました。平穏な学校生活が続き、はち切れそうな健児君の行動、華やいだものでした。

 二学期の終業式も終わり、私はバス時間を待つため教室に残っていたのです。健児君は教務室に呼ばれて仲間の勉強会もなかったのです。教務室に呼ばれた健児君が教室に戻ってきました。
「教務室に呼ばれて、どうだったの。」
私は健児君に尋ねたのです。健児君は、
「あまり関係のないことだった。模擬試験を受けないことを聞かれただけさ。」
と、こともなげに答えました。
「どう答えたの。」
そう尋ねると、じろっと健児君は私の目を覗き
「聞きたいか。」
と言うので、私が頷くと、
「模擬試験はお金がいるのでしょう。家庭の都合で、受けられないのです。そう言ったら、先生はそれ以上聞かなかったよ。」
と言いました。健児君は、帽子を被り、鞄を持ちましたが、私は尋ねたいことがあると言って健児君の机に向かい合って座ったのです。私は、健児君の仲間が勉強を始めたことについて知りたかったのです。
「健児君、どうして健児君の仲間は勉強を始めたの。多くの人は就職するんでしょう。学校の勉強も碌にしなかったのに。」
健児君は、私の目を見つめて真面目な顔をして言いました。
「和子、そんなことを言っちゃ良くないよ。人はそれぞれ持っている能力がある。それに家の事情というものもある。少しくらい学校の勉強ができたからと言って、自分が優れたものと思って偉ぶったり、高慢になると、今の和子のような人を蔑んだ言い方になるんだ。」
健児君は、私にとって難しいことを言いました。私は、率直に言いました。
「でも事実でしょう。」
私の問いかけに、少し考えてから健児君は言いました。
「和子の言っている、勉強と言っても、中学生の勉強でしかないのだろう。」
私は健児君が何を思って言ったのか分かりませんでしたが、思ったことを言いました。
「そうよ、中学生は中学校の勉強、高校に入ったら高校の勉強をするものよ。もっと勉強がしたければ大学へ行って勉強すればよいのよ。」
健児君は、私の言ったのを聞いて難しそうな顔をして言いました。
「そうか、和子は学校だけが勉強するところと思っているんだね。中学校を卒業して就職した者は、どうしたらいいのだ。勉強をしなくても良いのかな。」
その時の健児君の言葉を聞いて、私はハッとしました。健児君の考えていることは、私が気が付かなかったことを考えている。仲間たちのことを考えているのだと。健児君は更に言いました。
「和子、中学生が高校生の勉強をするのは悪いことか。中学二年生が三年生の勉強をして悪いのか。」
私は返答するのに少し戸惑いました。
「そんなことないと思うわ。」
私は、何となくそう答えたのです。
「じゃ、学校に行かない人が勉強をするのは悪いことなのか。」
私は、健児君が言っている意味が分かってきました。
「勉強することは悪いことじゃないと思うわ。でも、そんな考えは極端すぎると思うわ。」
私は、そう答えました。健児君は私に背を向け、窓から外を見つめました。
「私らの仲間の多くは就職する、社会に出ればいずれは勉強、いや知識が必要なことが分かるだろう。私は、その時のための勉強会をしているんだ。読むこと、書くこと、数えること、考えることについて勉強しているんだ。」
健児君の話を聞いていると、私の勉強とは何だったのだろうと思いました。見栄のためだったのだろうかと思いました。健児君は、続けて
「人間は、人より優れていると思えば、人を見下すことを覚える。一度高慢さを覚えた者は、一生高慢さを忘れない人間になってしまうのだ。私は、そんな人間になりたくないと思っている。」
健児君は、そう言って振り返って私の顔を見たのです。
「和子、偉そうなことを言って悪かった。でも、お前だから言ったことなんだ。」
最後に、そう言って右手を上げて挨拶をすると、私の前から立ち去って行きました。私は窓の外を見つめ、頭が混乱しているのを感じました。健児君の言ったことは、戯言でなく正しいことだと思ったのです。

 冬も終わろうとする日曜の夕暮れ時に、私の部屋の窓を開けました。西日が集落のお宮様に差し込んでおりました。西日を受け、大きな木の幹も赤黒く光り、数本の光線が境内に差し込んでいるのです。珍しく子供等の姿は見えませんでした。ただ一人、中学生らしい人が、じっと日が落ちるのを見つめていました。淡い光の中に身を没しているのは、少し悲しい姿に思われました。
 煙の流れるのも手伝っていたのでしよう、その姿に惹き付けられ、私は、そっと背戸から竹藪を通り、木陰に隠れてその人を見つめ驚きました。紛れもなく健児君だったのです。お宮様の後ろから、日直だったのでしょう、神林先生が出てきました。
「待たせたわね、健児。お母さんから電話があって、健児を迎えに行かせたからと言っていたわ。お母さん、心配性だわ。」
健児君は、頭を掻きながら、
「暗くなると、物騒だよ。俺がいれば大丈夫だから、母さんが言ったんだ。」
と答えておりました。

 俊子先生は、立ち止まって健児君に尋ねました。
「健児、もうずぐ卒業だね。思ったように学校生活を過ごしたの。」
健児君は、少し俯いて顔を上げると
「思っていたことはやったよ。でも、仲間たちは社会に出ていなくなる。俺一人になると思うと何か寂しくなる。」
と答えたのです。何故そんなことを言うのか分かりませんでした。俊子先生は
「でも、健児が生徒のみんなが、楽しく過ごせるようにと言って始めたことでしょう。社会に出る人は、きっと感謝すると思うわ。」
健児君は、二回頷くと
「そう思うことにするよ。これから高校生活のことを考えるよ。」
と答えました。俊子先生は
「高校生活、また同じようなことを考えないでちょうだい。」
と言ったのです。健児君は
「そんなこともいかないと思うよ。問題があれば、見過ごす訳にはいかない性質なんだ。」
と言うと、俊子先生は
「そう、あまり無理をしないでよ。心配なんだから。」
と言うと、並んで立ち去って行きました。

 二人の姿は、お宮様から消えていきました。私は二人の話を理解できませんでした。夜になって兄にその話をしました。兄は、私の部屋の出窓に腰掛けて、静かに言いました。
「そう言うことはあるさ。健児君は、きっと皆が明るく楽しい学校生活になることを夢見ていたんだ。特に弱い立場の生徒のことを考えていたんだ。それを理解する友人がいなかったともいえると思うよ。」
兄は、そう言いましたが分かりかねました。
「だって、仲間がたくさんいるわ。」
私がそう言うと、兄は
「その人達が、健児君の心を捕まえることができるだろうかね。」
そう言われて、私は初めて気付いたのです。健児君が今までやって来たことに目的があったのだと。
 健児君は、自分を犠牲にしてまで、周りの人々の心を平穏なものにし、正しいものにしようとしていたことです。このことは、表面的に、全く自分の意思を殺していたということなのです。だから、自分の目的は、人に知られても拙いことなのです。今振り返ってみて、健児君と本当に語り合える人というのはいないのです。人々は、健児君から離れたからです。
「悪童の先頭に立つ勇者の寂しさだね。」
「どうしてかしら。」
「それは、健児君の性質だよ。本当は、健児君は勇敢で勇ましい人であるに違いないが、和子の習字を理解したように、感情に高いものを持っているんだよ。考え込む性質なんだ。健児君は、全く反対の方向に走ってしまったのだよ。」
「どうしたらいいのかしら。」
「そうだね、健児君は自分の手で、自分を拾い直さなくちゃ。どうだ、和子、健児君の友達にならないか。」
「駄目よ。駄目。」
「だって、好きなんだろう。」
「駄目よ。」
「そうかな。」
私は、恥ずかしくて、兄の言うことを否定してしまいました。健児君には、高子さんという理解者がいるはずなのです。私は、そんなことで荒波を立てるのも、中林さんと良一君のように、公然とするのも嫌いでした。私は、見つめているだけで満足でした。それが私にとって正しいことと思いました。

 三月に入ると中学校の卒業式を迎えました。体育館での卒業式が終わると、健児君の仲間たちは輪を描くように体育館に残りました。私もその様子を見ていました。お互いに握手を交わして、励ましあっている様子でした。
 間もなく健児君たちは、それぞれの教室に引き上げました。私は走っていく健児君を追いかけるように走って教室に戻りました。
「卒業、おめでとう。皆さんは就職、あるいは進学とそれぞれの道を歩くと思いますが、頑張ってください。先生は、大いに期待しております。」
そんな担任の先生の言葉で送られ、中学校を後にしました。

 三日後、県立高校の入学試験がありました。私は県立桐野高校に向かい受付を済まして、試験会場の教室に入りました。受験生は二五〇名ほどおりました。あちらこちらに他の中学校からきている見知らぬ受験生の姿があり、私は受験番号が振ってある机に鞄を置き椅子に腰掛けて静かにしておりました。入学倍率は低く、不合格になることはないと思っていました。それでも不合格になったらどうしょうかと思うと緊張感が漲ってきました。
 健児君が同じ試験会場に姿を見せました。健児君は私の方に歩いてきて、私に向かって手を上げて挨拶をすると、私の後ろの机に鞄を投げ出し椅子に腰かけたのです。私は健児君の方に向きを変えて
「健児君、良一君の姿が見えないわ。遅刻したら大変なことになるよね。」
と問いかけたのです。
「何だ、和子は知らなかったのか。良一は、柴岡商業に行っているよ。」
そう言っている健児君の返答に、私は驚きました。中林さんが県立柴岡商業に行くということは知っていましたが、良一君まで一緒とは思ってもいなかったのです。
「あらそう、知らなかった。中林さんも柴岡商業へ行くよね。仲が良かったから、お似合いよね。」
私が、健児君の顔を覗くように言うと、健児君は
「まったくだ。言うことなしだ。」
と言ったのです。その直ぐ後に、健児君は私の後ろの方に目を向け、掌を上げました。私が振り返って見ると青井君の姿があったのです。青井君は、健児君の脇に止まって健児君に言ったのです。
「健児、もし俺が試験に受かったら、俺の面倒を見てくれ。」
そう言って、青井君は健児君に頭を下げました。
「青井、大丈夫、入学できるよ。お互い仲良くやろうぜ。」
「でも、中学校で悪さをしていたから、入学できるか心配なんだ。」
「悪さなら、俺だっていっぱいしたよ。余計なことは考えないようにしようぜ。」
健児君は、青井君を励ますように言うと、青井君は健児君に頭を下げて少し離れた机に腰かけました。

 高校の入学試験には、桐野中学校の大方の生徒が合格しました。健児君、青井君も合格しました。寒さも和らぎ、私の家の庭の桜ももう少しで花が咲きそうです。高校生活に期待と希望を膨らませ、私は散歩がてらに牧原小学校に立ち寄りました。校庭を歩いていると、神林俊子先生が校舎から声をかけてくれ、校舎から出てきて私の側に来てくれました。
「いよいよ高校生ね。楽しく過ごすこと忘れないでね。健康には気を付けるのよ。」
そして兄のことも尋ねてくれました。兄は地元の国立大学に合格し、すでに県都のアパート暮らしを始めていました。
 私は将来、高校の教師になる希望を抱いておりました。そのためには勉強に相当励まなければならないと覚悟はできておりました。俊子先生と校庭の外れまで歩きました。青空と雲を見上げ、そして遠くの桐野の市街を見つめました。生暖かい風が頬を撫でていくのを感じながら、ふと中学校での思い出が脳裏を掠めていきました。