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 「揺れる想い」

 

                          佐 藤 悟 郎

 

 

 彼の父は、国家公務員だった。全国を何回となく転勤し、彼もその後に従っていた。そして最初の頃は、友達や憧れを持っていたものが、転勤の度に失われていくのを、泣いて悲しく思っていた。年月を経るに従って彼には、そう言う気持ちがなくなってきた。彼は、友情も恋も、憧れもなくても生きていけると思った。そして、自分が強い人間になったとさえ思った。

 高校、大学へと進み、小説などを読むと、ふと彼は、自分の失われたものに対する寂しさを感ずることがある。それは、幼い友情や恋愛などの話が、彼を悩ませたのだった。
「私には、そんな経験はなかった。いや、経験するような環境になかったのだ。」
そして小説などは、別世界の物語と諦めなければならなかった。
 大学に入ってからも彼の父は、二度も転勤した。その度に、彼の帰る家や風景、周囲の人も変わっていた。だから彼は休みになっても、下宿から中々家に帰ろうとはしなかった。
 彼は大学で友達を持たなかった。持たなかったというよりも、持てなかったと言った方が適当である。幼い頃から友達となっても、直ぐ別れるということを知っていたからだ。真の友達とは、どんな姿をし、どのような心や言葉を持っているのか知らなかった。軽薄な友達は、煩わしい感じがする。つまり友達とは、どのような人かも分からなかったし、友を持つのが少し恐ろしい心情を抱いていた。

 女性に声を掛けられても、言葉少なに避けるように応対していた。自ずと彼は心の殻の中に入り込んだ。人間関係への未熟な彼には、小説や詩歌の世界が逃げ場所として口を開けて待っていた。彼の逃げ込んだ文学の世界は、恋愛、友情、あらゆる人間の幸福が華々しく咲いていた。彼は、描いたものを外に出そうとはしなかった。花と咲いた彼の小説や詩歌の作品は、自分の中で花咲いてくれるだけで良かった。

 彼は大学を卒業し、国家公務員となった。公務員であるが、内向的な文学青年として社会に出た。そして最初の地方の赴任地で、彼は彼女と出会った。それは、市の音楽会で隣り合って座ったことから始まった。彼は、音楽が好きな方であり音楽会などがあると、一人で出かけていった。同僚と出かけることはなかった。同僚も彼が音楽好きな青年と見ていなかった。

 彼女は、母と一緒に音楽会に来て、彼の隣の席に腰かけた。彼女の母は、善良そうな、温かい眼差しをしていた。彼女も、母に似た女性だった。清潔な身繕いをして、耳も首筋も綺麗にしていた。
 幕の合間に、彼女の母が席を立ち、通路に出るために彼の前を通るとき、不用意に彼の足を踏み、彼女の母自身も、彼の前でよろけてしまった。その際、彼が示した、彼女の母への不注意に対する寛大な心と、先になって助け起こした善意に対し、彼女の母が深く心を動かされたことに始まった。
 彼女越しに、彼女の母は、彼に話しかけた。彼女の母が、彼女もピアノを弾くと彼に話し出すと、無関心を装っていた彼女も、彼と話をせずにいられない立場になった。彼も、彼女らに対して、音楽に対しては、楽器こそ駄目であるけれど、深い興味を持っていることを話した。
 音楽会が終わって別れ際、ホールで彼女の母は再三にわたり深い謝辞を述べた。彼女の母は、にこやかな娘の顔を見て考えたのだろう、彼の名前を強引に聞き出した。メモ用紙に書かれた流れるような文字を見て、彼女の母は何か安堵めいた顔を見せ、彼の下宿まで車で送ると言った。
 彼は、丁重に断り、彼女の母の言う「再会」を約束して別れた。彼は、小気味の良い気持ちで、公園を通り抜け、夜空の星を数えた。そして彼女の面影を、はっきりと思い浮かべることができた。

 彼が、次に彼女に会ったのは、そう遠くない日だった。彼の住む公務員宿舎に彼女の母から電話があり、用件は彼を彼女の誕生会への招待だった。彼は、彼女の母からの招待を快く承諾した。
 誕生会の当日、彼は、街に出て贈り物を捜した。彼は、幼い時から和人形が好きだった。彼は、高価な和人形を買い、身形を揃えて、教えられた彼女の家へと出かけた。
 彼女の家は、一見して豊かな家だった。白い塀と和風の庭、建物の広い屋敷だった。彼は、気後れをした。自分が恥をかくのではないかと思った。ただ、自分が単に公務員だけではなく、大望を抱く文学者であると思ってみると、落ち着きが戻った。
 玄関に入ると、彼女とその母が迎えに出た。彼は、深く謝辞を述べながら頭を下げた。そして贈り物を手渡して、お祝いを言った。彼は、彼女とその母に従って、離れの洋間に通された。その洋間は、白い壁のシャンデリアの明るい部屋だった。来客用の大きなテーブルが三個用意され、肉や料理、菓子などが既に用意されていた。そして、奥の窓辺には、ピアノが据えられていた。
 各席には、大方の来客が座っており、お互い話し合っていた。美しく着飾った若い女性、それに落ち着いて、軽快に話をしている若い紳士達だった。
 それらの若者は、全て彼の知らない人達だった。彼は、これ程の宴が催されるものとは、およそ予想もしていなかった。過去に誕生パーティに呼ばれたことは、ごく少なかったし、実際行っても、殆どが内輪のものだった。彼は、身形が卑しく見えはしないか、贈り物が下品ではなかったか、この中の人達と対等に話し合えるのだろうか、不始末をやりはしないか、そんな考えが一度に彼を襲って、不安となってしまった。

 彼は、着てきたコートを彼女に手渡して、皆に丁寧にお辞儀をして、案内された席に着いた。幸いなことに、彼女の母が彼の隣に席に腰かけた。
 祝杯に続いて、宴が始まった。彼女の母は、彼に言葉をかけて安心させていた。
 集まっている人が、彼女の高校や大学時代の友達が多いこと、それにピアノの教室の友達が多いこと、近所の子供もいることを話した。それに、父が呼んだ初めての紳士が二人いることも話した。大方、それは彼女の結婚目当てに呼んだものであると言った。彼を招待したのは、彼女の母が、先日の音楽会の返礼として呼んだものだとも話した。
 そして、家のことについて、彼女の家には、父と母、それに兄が二人、嫁いだ姉が一人いることを話した。長男が家を継ぐことになり、長男夫婦が前のテーブルにいることを指差した。

 彼女の音楽の友達であろう、ピアノを奏でたり、快い歌を歌ったりしていた。多芸に無芸があるように、愛唱歌、流行歌も出てきたので、彼は、自分と人種が幾らも変わらないと思った。しかし、残された不安の一つは、彼は、全くの無芸だったのである。見たり、聞いたりするのは、かなり辛抱するのだったが、彼は、これと言って何も芸がなかった。

 恐れたことが事実となって出てきた。彼に、何でもいいから、やってくれと言われたのだった。彼は、とにかく立ち上がった。言うことに事欠いて、彼自身つまらないことを言ったと思った。
「私は、音楽は好きですが、音痴です。詩とか文学については、少しは自信がありますが、満足に歌えるのは、大学の寮歌ですので、それしか歌えません。」
そこで拍手が起きたので、彼は、歌わなくてはならなかった。

 酒の酔いもあって、少し赤ら顔になりながら、寮歌を歌い出した。一小節を歌って二小節目に入ってみると、もう一人歌う人がいた。そして、彼女まで歌い出した。歌い終わると、拍手の中に、一つ大きな拍手が聞こえ、止んだかと思うと、彼女の兄が彼の近くまでやってきた。
「やあ、君は、俺の後輩か。中々、上手に歌えたな。」
彼は、身近に彼女の兄が、大学の先輩と言うことを聞いて、とてつもない勇気が湧いてきた。隣にいた彼女の母も、この関係には大いに満足らしく、彼の席の近くにその長男の席をあつらえたのだった。

 宴の終わりに、彼女は、ベートベンを弾いた。彼の耳には、快い音として耳に入った。その宴で、別に彼と彼女の間に、特別、心の触れ合うものがあったのではない。彼は、少し酒に酔っていた。その宴が終わり、彼は洋間から玄関の廊下へと歩いていた。彼女と、その母は、来客を手際よく送り出していた。
「後輩、このまま直ぐ別れるのも、惜しいな。俺に付き合ってくれ。」
そう言って彼女の兄は、少し部屋に行ってくるからと言って、彼を待たせた。その間、少し彼女は、彼に話しかけた。
「さっき、貴方の歌った寮歌、兄がとても好きなんです。兄から教わって、私も覚えたの。それに詩とか小説なんか、お書きになるなんて大仕事ですわ。うちの母も短歌をやるの。」
「私のは、短歌なんて言うものではないのですのよ。でも、興味は、人一倍ありますのよ。貴方も、短歌の方は。」
彼は、素直に答えた。短歌を詠んで感ずるところはあるが、創作するに言葉が少なすぎてできないと答えた。彼女の母は、微笑んで頷いて見せた。善良な母だった。

 彼は、彼女の家に出入りするようになった。彼女の兄と同窓と言うことだけでなく、彼女の父の経営する会社と、彼の勤務する国の出先の公務所が満更関係もなくはないことが理由の一つだった。だから彼と、彼女の父と兄との間には、付き合いするのに何の抵抗もなかった。

 彼が彼女と付き合うようになったのは、彼があるとき、彼女の家を訪ねたとき、彼の詩と小説を一篇ずつ手渡し、彼女がそれを読んでからだった。
 彼女が見たものは、彼の作品そのものにも感動したこともあった。そして、その連鎖的に起きた作品を書ける文学者としての、彼への憧れだった。内向性の強い彼の詩や小説は、彼女が見たこともない世界だった。彼女自身では、決して考えることも、書くこともできない世界だった。

 彼女は、自分の考えも及ばないところにいる彼が、何か尊敬すべき者に思えた。尊敬すべき人が自分の近くにいること、手を延べれば、いつでも届くところにいることに憧れを強く抱いた。
 彼女は、彼のことを無関心にして物を言ったり、考えたり、行動することができなくなってしまった。特に注意したのは、自分の行動に少しの誤解を招くようなことがないようにすることだった。
 彼女は、彼が遊びに来ると思われるときには必ず家におり、必ず挨拶をして自分が遊び呆け者でないことを示した。何かの行事で夜に外出するときは、必ず前もって兄や母に、自分の行動が彼に分かるように話をしていた。

 冬のある日、彼は不意に彼女に電話をして音楽会に誘った。彼女は、軽い風邪に罹って熱が少し出ていたが彼の誘いを受け入れた。身支度をして車で音楽堂まで送らせた。
 彼は、音楽堂の前の雪化粧した広場の中央に立って、彼女に手を振って迎えた。彼女は、音楽など頭になかった。もう彼の姿しかなかった。微笑んでいる彼の側に、近付くだけしかなかった。

 彼女は、彼の後に従い音楽堂の中に入って、ざわめきのある観客席に座った。
「どうしたの、急に。でも嬉しかった。」
彼女は、顔をおもむろに彼に近付けて尋ねた。
「会いたくなったんです。急に誘っても、来てくれるかなと心配して待っていたんです。」
それを聞いて彼女の顔は、微笑み、嬉しさで満ちていた。
 音楽会が始まると、彼女は、彼が自分に視線を投げているのを感じた。彼女は、熱で暑苦しさを感じながらも嬉しさを抑えて何気ない風体を装って、音楽を聴いている振りをしていた。

 彼は、彼女の息遣いと小さく咳き込むことが気になった。そして彼女が俯いて、目を閉じていたのを見た。幕間となったとき
「ちょっと御免。」
そう彼女に言って、彼女の額に手を当てた。掌に高熱を感じた。
「誘って御免ね。帰ろう。」
そう言って彼女の手を取った。彼女の掌まで熱くなっていた。彼は、彼女を抱くようにして席を立った。
 ホールを出ると、彼女は虚ろな目を彼に見せ
「御免なさい。風邪をひいているらしの。我慢が出来なくて、御免なさい。」
と言った。音楽堂を出ると、彼女の指さすところに彼女の家の車が見えた。彼女が手を振ると、滑るように音楽堂の前に来た。彼は、彼女の家のお抱えの運転手に言った。
「お嬢さん、熱がある。体の具合が悪いようです。」
運転手は車から降りて、後部ドアーを開けた。彼は彼女を先に乗り込ませ、隣に彼も座った。彼女は、自分の体が、非常に暑苦しくなったのを覚えた。そして車を、家に向けさせて、急がせた。通りゆく冬景色は、何も目に入らなかった。

 彼女の家に着くと、彼は彼女を抱えるように玄関に入った。運転手の知らせを聞いた彼女の母が、玄関に姿を現し彼女を抱えるように家の中に連れて行った。彼は一人玄関に立っていた。間もなく彼女の母が姿を見せた。彼は、彼女が病気なのを知らず音楽会に誘ったことを詫びた。
「貴方が詫びることなんかないわ。驚いたのは貴方でしょう。掛かりつけの医者が来ます。中に入って様子を待ちましょう。」
彼女の母は、そう言って彼を応接室に案内した。間もなく医師が駆け付け、彼女の診察をした。診察の結果、風邪とのことで内服薬を処方して医師は帰っていった。彼も、帰るため玄関に出た。そこで深々と彼女の母に向かってお辞儀をした。
「娘は、あなたに音楽会に誘われて嬉しかったと言ってましたよ。気になさらないでください。」
彼女の母のその言葉を聞いて、一礼をして彼は、彼女の家を後にした。

 それ以来、彼は、彼女の家に姿を見せなかった。時々、彼女の母が、彼が来ないのを
「年末は、公務員は忙しいものよね。」
と言うだけだった。彼女は、兄が時々外で彼と会っていることは知っていた。それだけに兄が羨ましくさえあった。
 彼女は、彼に好かれるように、毎日の生活をすることに安堵を覚えたのだった。ピアノの練習、読書などは、日課としていた。できるだけ素直に、できるだけ優しく、そう思いながら人と話し、態度を作っていった。彼が訪れるだろうと思った正月にも、彼は、彼女の家を訪れなかった。

 春めいた風が吹く頃、彼女は同窓会があり、和服に着飾って出席した。華やいだ友達と、社会に巣立った紳士の会合は長く続いた。五〜六人の男女連れのグループで歓楽街を歩き、二軒店に寄って、盛り場を彼女は歩いていた。
「おい、遅いぞ、帰らないか。」
そのグループ脇に、一台のタクシーが止まり、後ろの半開きの窓から、兄の声がしたのだ。
「兄さん、もう少ししたら帰るわ。皆と一緒で、楽しいんですもの。」
そう言いながら、彼女はタクシーに近寄った。彼女の兄は、窓を一杯に開け、彼女に言った。
「知っているだろう。俺の後輩。今日は、昇進祝いで、家でもいっぱいやるんだ。お前も、早く帰って来いよ。」
兄は、さらに言った。
「若い娘が、そんな格好で、遅くまで、こんな場所をフラフラしてるな。」
彼女は、兄の奥にいる彼を見つめた。彼は、彼女に向かって笑顔を見せ、胸元で小さく手を振っていた。急に彼女は、同窓生と別れて、タクシーの助手席に乗り込んだ。同窓生も兄も、一瞬、彼女の行動が理解できなかった。タクシーが彼女の家に向かっている間、兄は、彼と彼女の間に何か、親密な心の交わりがあることを感じた。
 家に着くと、玄関までの通路を、彼女は彼の後ろを歩いた。玄関に入ると、彼女の母と父が迎えに出てきた。
「ご昇進、お目出とう。実に頼もしい青年ですな。さっ、どうぞ。」
彼女の父と母は、彼にお祝いを言った。
「お前も一緒だったのか。」
「いいえ、街で偶然お会いしたもので、一緒に乗せてもらって帰ってきたのです。」
「何言ってる。もっと遊びたかった癖に。」
兄が、靴を脱ぎながら、彼女にからかい半分に言うと、彼女は力が尽きた弱々しい声で
「そんなこと、もう言わないでください。私も、今日は少し羽目を外し過ぎたことを反省しています。今まで、こんなことなかったのに。」
今にも泣きそうな様子で言った。彼は、ただ唖然として、玄関に立っていた。
「ご免なさい。変なところを見せてしまって、どうぞお上がりになってください。」
彼女は、明るく彼に手を差し延べて、コートを受け取りながら言ってのけた。その気性が激しく変わる様を見て、彼は、彼女が少しどころではない程、酔っ払っていると思った。

 彼は、奥の座敷に案内された。十畳もある部屋の中央には、黒光りのする四角の机があった。そこには、刺身とか野菜、漬け物など、彼の好きなさっぱりした物が並べてあった。彼は、過去にこんなに親切にしてくれる家庭は、見たこともなかった。自分の家でも、かって味わったことのないことだった。

 彼は、素直に感謝を込めて、出された物を食べ、飲み、そして大いに語った。彼は、今まで、父に連れられ、国内を転々としたこと、そして転々とした街の名勝や旧跡のことなどを話した。
「私には、故郷なんかないんです。」
少し寂しそうに言った。その席に、彼女は姿を見せなかった。

 彼は、かなり強い性格を持っていた。また、遠慮深い消極的な面も持っていた。矛盾するところは、自分の心に閉ざしてしまう方法も知っていた。これは、彼の放浪的な生活のために得た一つの知恵だった。
 彼は、彼女が好きだった。しかし、相手がそういう態度で応えなければ、自分から求めようとするような方法は取らなかった。彼女が彼に好意を持っていると感じていたが、彼女の明確な言葉がなければ、心の中に彼女を押し込めておくだけだった。

 彼女が目を覚ましたのは、もう明るくなってからだった。ただ、目が覚めて感じたのは、悲しいという感情だけだった。酔いを覚ますつもりで眠ったのが、朝になってしまったのだった。眠るときは、二時間くらい眠って、彼の祝いをしている座敷に行くつもりだった。日曜の朝は、静かだった。障子戸を開けて光をとり、机の上にある立派なケースの中に入った和人形を見つめた。彼女は、何よりも、その人形を大切にしていたのだった。そして、彼女は、何かじっとしておられない苛立ちを心に感じていた。
「もう、私は、このままではいられない。何かしなくては。」
彼女は、彼の宿舎へ行こうと決心した。そして自分は、彼の妻になりたい、一緒に生活したいと言おうと思った。

 彼女は、直ぐ外出の身形を整えて、玄関に向かった。母は、彼女を呼び止めて
「どこへ行くの。こんな朝早くから。」
心配そうに言葉をかけたのだ。彼女の母の目に、彼女が少し異常な、思い詰めた様子が見えた。朝早く彼女が外出するのは珍しいことでもなかった。
「私は、行ってきて、はっきり答えを聞いてきます。」
彼女の母は、何のことか、意味が分からなかった。彼女の母は、何のことか尋ねた。すると、彼女から、彼の宿舎へ行ってくることが分かった。彼女は、興奮していて余りよく話ができなかった。
「私は、悪い女です。そうでしょう。」
愚にも付かないことを言うと、彼女は、母の胸に縋って泣いてしまった。母は、とにかく彼女を、彼女の部屋に連れて行った。そして、落ち着いて話すように言った。

 彼女は、母に少し間を置きながら、彼を好きなこと、彼が昨夜のことで、自分を嫌っているのではないかと思っていることを言った。自分が心の卑しい女だから嫌われていることを、ポツリポツリ話した。
「それで、何を答えにもらいに行くの。」
「私を嫌っているのか、そうではないのかを聞きたいの。」
彼女の母は、微笑んで、労るように言った。
「お嫁に行きたいんでしょう。」
彼女は、母の顔を見つめた。母は、穏やかに微笑んでいた。
「私、お嫁になれるかしら。」
「ええ、なれますとも。私の娘だからね。」
彼女は、嬉しかった。嘘でも、そう言ってくれる人がいることが嬉しかったのだ。
「今日は、行くのは止めるわ。少し、私、気持ちが昂ぶっているみたいだから。」
「そうね。それに行っても会えませんよ。昨晩彼、酔っ払って、この家にお泊まりになっているからね。」
そう彼女の母は言うと、部屋から出て行った。彼女は、顔を真っ赤にして、何か恥ずかしい気がした。そして、庭越しにある客間の方をじっと見つめた。

 彼は、目を覚ますと、ひどく頭が痛いのを感じた。彼は、それが昨夜の飲み過ぎのためと思った。旅館のような落ち着いた部屋、彼は単衣を身に纏い、長い帯を腰に幾重にも巻いて、障子戸を開けた。庭の池の辺に、灌木越しに、彼女が魚に餌を投げているのが見えた。
 彼が、ガラス戸を開けると、その音に、直ぐ彼女は、彼の方に振り返った。、彼に向かい、綺麗に頭を低く下げて挨拶をした。彼の目には、いつもの曖昧な女性としての彼女の感じはなかった。明るく、親しみのある女性に思えた。
 彼は、縁から下駄を履いて、庭に下りて、彼女の方へと歩いていった。彼女は、目に微笑みを浮かべ、彼が近寄ってくるのを、ずっと見ていた。彼は、下を向いたり、庭の花を見たり、時々、彼女の目を見たりしながら、彼女に近付いていった。彼自身、こんなに屈託もなく、彼女に近付いていくのが、恥ずかしかったのだった。

 二人は、連れ立って、池の周囲を歩き始めた。ただ無言のまま、そう大きくもない池の周囲を、幾度も幾度も回った。彼も彼女も、話しをしたかったが、話しの糸口が中々なかった。初めの内は、話さないのが不自然で、少し気詰まりだった。何回も歩いている内に、二人は、何も話しをしなくても良いと思うようになった。時々、顔を見合わせては、お互い恥じらい俯く、その繰り返しだった。そして、その目の輝きを見る度に、動悸は高鳴り、幸せな感じが強くなった。三十分余り、二人は、黙って歩き続けた。お互い、相手のことを、ただそれだけを考えていた。何のわだかまりもないことを。

 彼女の兄が目を覚ますと、不意に彼の名を大きな声で呼んだ。彼は、一礼をして彼女の元を立ち去った。彼女は、池に向かって水面を見ながら、ゆっくり目を閉じた。そして、激しい動悸が収まりそうもないのを感じた。
 彼は、彼女の兄と一緒に、朝とも昼ともつかぬ食事を取って、彼女の家を立ち去った。見送りに出た彼女に、優しい眼差しを残していった。

 彼が彼女の家に泊まった日から、一週間も経たない夕方、彼女は、街中で偶然に彼と出会った。彼女が夕方近くになって、母と呉服の買い物に出かけ、その帰りのことだった。
 書店の前に差しかかったとき、彼は、一冊の本を携えて、書店から出てきたところだった。お互いに挨拶をすると、同じ方向に歩き出した。車を待たせてあるところに行くと、彼女の母が、頻りに彼を家に遊びに来るように勧めた。彼は、丁寧に断ると、車の中に入る二人を見送った。
 彼は、車が走り出すのを見送ると、また街の中を歩き続けた。暫く歩くと、彼の名前を呼ぶ声に、振り返った。彼女が激しい息をしながら、彼に近付き一礼をすると、二人は一緒に歩き出した。
「お母さん一人で帰ったの。私、残りました。」
そう言って、二人は、街の人の込んでいる舗道を歩き始めた。彼は、彼女に笑顔を見せて言った。
「私と二人だけで、いいのかい。」
「ええ、私は構いません。」
彼の心の中に、その言葉が大きく響いた。そして、幸せでもあった。彼女は、もう彼を信頼し切っているであろう、愛しているであろう、言われるがままになるであろう、どこへでも一緒に来るであろう、そう彼は思った。

 その翌日、土曜日だった。彼が退庁するとき、彼女の兄が、彼を待っていた。彼女の兄は、彼をドライブに誘いに来たと言って、彼を車に乗せ、自分が運転して国道を北上して行った。彼は、冗談などを言って、彼女の兄と話していた。ドライブの行き先は聞かなかった。彼は、移り変わる風景をただ見ていた。

 夕方になって、山間の温泉町の大きなホテルに車は着いた。二人は、ボーイに案内されて、三階に部屋を取った。浴衣に着替えると、二人は、部屋のテラスに出た。日が赤く傾き、山々は赤く染まっていた。椅子に座ると、彼女の兄は話を切り出した。
「君、俺の妹をもらってくれないか。」
彼女の兄の言葉は、簡単なようで、彼には重く聞こえた。その響きから拒否はできない、即答を要求されていると彼は思った。
「妹さんに異存がなければ、是非とも。」
彼は、そう答えた。
「私の妹には、異存はない。よし決まった。話しは、終わりだ。」
そう言うと、彼女の兄は、直ぐ快活になった。彼には、後悔はなかった。却って、嬉しいと思った。しかし、自分が財力がない公務員であることに不安を感じた。それだけだった。彼女は、彼の良き理解者となると思っていた。
 彼女の兄が、何故、彼に妹の結婚の話しをしたのか、彼は、その経緯は知らなかったし、彼自身も聞きたいとは思わなかった。
 翌朝、早く二人は、起きると、半日かかって、昨日走ってきた道を戻った。そして彼女の兄は、彼を家に招き入れた。彼の不意の訪れに、彼女は少し戸惑った様子だった。

 彼女の兄は、奥座敷に酒宴の支度をさせた。彼の前に妹である彼女を座らせて、酒盛りをする前に、彼女に言った。
「おい、お前は、この男のところに、嫁に行くんだぞ。」
そう、彼に言ったときと同じように、反抗を許さない命令的な口調で言った。彼女は、驚いて、兄の顔を見た。そして、彼の顔を見た。彼は、顔を赤くして俯いていた。
「お宅様さえ良ければ、私は喜んでいきます。」
彼は、赤い顔を上げると、輝いた目を彼女に投げかけた。彼女は、嬉しそうにその瞳を受け止めた。動悸が激しく、自分の顔が熱く赤くなっていくのを感ずると俯いてしまった。
「よし、これで結婚することが決まった。俺は、皆んなに報告してくる。」
彼女の兄は、そう言って席を立った。部屋からの出際に
「二人で、良く見つめ合って、先に酒でも飲んでいてくれ。皆んなに話すのに、少々時間がかかるからな。」
そう言って、戸を閉めた。二人は、彼女の兄が部屋を出て行くと見つめ合った。そして、夢のような幸福に包まれていた。彼は、彼女の中に、清潔な、従順な女性を見ていた。彼女は、彼の中に勇敢な、思慮深い男性を見ていた。
 一時間もすると、彼女の兄と母、兄嫁が部屋を訪れ、お祝いを述べた。夕方になると、父も帰ってきて、二人の結婚を喜んだ。彼は、夜になって宿舎に帰ると、父母の元に、結婚をする旨、電話をかけ話した。それも、ごく簡単なものだった。

 彼の父と母は、土曜日に彼の宿舎を訪れた。彼から、詳しい話を聞こうとしていた。彼は、父にも母にも、余り多くを語らなかった。
 夕方、彼の父と母は、彼女の家を訪れ、改めて彼女を彼の嫁に迎えることを頼み、彼女の両親の承諾と結婚の段取りなど打ち合わせた後、大変なもてなしを受けた。そして、その家の娘を見て、その上品な、従順な美しさを見て驚いたのだ。とても自分達の子供の嫁に相応しいような女性ではなく、何か高貴な家に相応しい女性に思えたのだ。

 彼の宿舎に帰って、彼の父も母も、一様に彼女の品格が、彼に釣り合いが取れないのではないかと心配した。そして彼にもそのことを話したが、彼は微笑みを見せるだけだった。彼の父と母は、心配を抱きながら翌日、彼の元から帰っていった。

 その街の有力者が仲人として結納が行われ、彼と彼女の婚約は、公となった。彼の周囲の人達は、大いに彼を羨んだ。彼女の周囲の人は、趣味が悪いと良くは思っていなかった。
 彼女の父は、二人のために、郊外の静かな土地の、まだ新しい空き家を見付けて二人に与えた。そこで色々と調度品も運ばれていった。彼女は、その家の中や周囲を、毎日のように手入れをしていた。垣根を揃え、花壇も作った。寝室にも、落ち着いた箪笥が運ばれた。台所も整った。応接室も、そして彼女のピアノも運ばれた。でも彼の書斎だけは空っぽだった。

 彼は、彼女と一緒に、新居となる家を訪れたことがあった。その家の中を歩いても、庭を歩いても、彼は落ち着きがなかった。彼は、彼女の家の人に、とても感謝をしていたが、余りにも大きな贈り物に少し戸惑っていた。
 婚約をしてから、彼女は毎日のように、彼の宿舎を訪れた。彼の宿舎は、六畳三間だった。一つの部屋は、応接室兼居間のような部屋だった。もう一つの部屋は、彼の書斎だった。彼は、努めて彼女の話し相手になっていた。だが、常に彼には不安が憑きまとっている。彼は、自分の生涯は、文学活動をすることに希望を持っていた。近い将来は、公務員を辞めて、文学活動に専念しようとさえ思っていた。

 彼は、必ずしも、自分の文学的才能を認めていた訳ではなかった。却って、否定的な見方すらしていた。自分には、知識が余りにも不足していると思った。また、過去の文学者の考え方、生活や知識と自分を比べたとき、いかにも小さな自分だと思った。

 彼は、生活が貧しいとか、豊とか、また楽しいとか、苦しいとかについては、頓着しない方だった。彼女は、ある時、彼の宿舎を訪れた時、彼が彼女の訪れたことに気付かずに、机に向かっているのを見たことがあった。彼女は、少しも不満に思ってはいなかった。そうしている彼が、美しいとさえ思った。それ以来、彼女は、黙って彼の部屋に訪れるようになった。
 彼は、黙って部屋に入ってくる彼女を、知らなかった訳ではなかった。彼は、彼女がいつ来ても良いように、居間の机の上に詩集や小説を置いていた。彼女は、黙ってそれを読んでいた。
 彼女は、彼が思っていた以上に、激しい生活をしていることに気付いた。まるで、時間を少しでも惜しむように、執筆活動をしていた。それは、彼女にとって嬉しい気持ちもあったが、やはり、自分を考えているのかどうか疑わしいという心配もあった。

 結婚式の一週間前になると、彼は、宿舎を引き払って、新しい家に移った。彼は、自分一人で、書斎を念入りに整理をした。彼は、好んでその書斎に入り、中々他の部屋に出ようとはしなかった。
 結婚式までの間、夕食は彼女と共に外食をした。そして、毎日彼女の家を訪れた。結婚式の次第や、新婚旅行などの打合せをした。でも彼は、一度も彼女の家に泊まることはなかった。遅くなっても、必ず新しい家へ帰っていった。

 結婚披露宴は、その街の最高級のホテルのホールで、盛大に挙行された。費用は、大部分、彼女の家が支払っていた。
 彼の招待客は、ごく少なかった。友人は、同僚二〜三人程度、後は上司や親戚の者達だけだった。その大多数は、彼女の家の招待客だった。町の名士、彼女の友達、彼女の父の取引先の主たる人々、多数が彼女の家の招待客だった。

 ただ彼女や彼女の父と母が驚いたのは、彼の上司として出席した人の顔ぶれだった。県知事、県の部長自身が顔を見せたからだった。県知事が祝辞を述べた。その中の言葉、
「彼は私の大学の後輩で現在県の課長という要職についており、将来大いに期待される人物である」
との言葉だった。
 彼が県の一職員と思っており、上司として出席するのは代理人だと思っていた父と母は、一瞬驚きの余り凍り付いてしまった。彼女自身も驚いたが、この上もない喜びを感じていた。
 彼女は、結婚は嬉しかった。県知事の祝辞の間、彼を見つめ強く手を握りしめて上気さえして、自分が幸福の絶頂にいると思った。
 彼女の兄だけは、彼が歳若くして県の課長であること、自分の大学の後輩であることから、キャリア官僚だと思っていたので驚く様子はなかった。

 彼の妻になることについて、何の異存もなかった。彼の顔を見ても、はっきり分からない程だった。長い祝辞が、あちらこちらから述べられた。彼女は、彼の姿を見た。少し落ち着きを、彼女は取り戻していた。
 彼は、実に落ち着き払って、その祝辞や、前にいる人を見つめていた。そして、その彼の目の中に、何か挑戦的な光を認めると、少なからず戸惑いを感じた。
『私は、この人を知っているのだろうか。』
今まで、彼女は、彼の殆どを知っているつもりでいた。落ち着いて考えてみると、彼の心の中まで、何も知らない人だと思った。何か、寂しい気持ちになった。

 彼と彼女は、新婚旅行から帰ってくると、彼女の家と仲人の家の挨拶を済ませ、新しい家に入った。新婚旅行の間中、彼は、彼女に終始微笑みを絶やさなかった。優しく、愛で彼女は覆い尽くされていた。それは、恋人同士の、あの清らかな心のときめきと、言葉のそれだった。
 二人の生活が始まった。それは、少しぎこちない生活だった。郊外の地に、彼が勤めに出ているとき、彼女は一人家にいた。努めて彼女は、家にいるようにしていた。彼の書棚から、文学についての本を、色々と読んでいた。母が時々尋ねてくれるほか、静かな、寂しい程静かな生活だった。

 彼は、家には、必ずと言って良い程、決まった時間に帰ってきた。寄り道をしてくることはなかった。早めの夕食を二人で済ませると、彼は、直ぐに彼の書斎へ入っていった。彼女は、黙ってそれを見送っていた。彼は、夜中過ぎまで、書斎に籠もっていた。時々、彼は、書斎で眠ってしまうことすらあった。
 彼女は、描いていた楽しい生活と程遠い生活に、ふと寂しさを感じた。彼と同じように、彼女も本を読んだが、飽きることが多かった。そして、心を抑えるように、静かなピアノ曲を弾くことが多くなった。

 彼女は、いつも彼の側にいたかった。彼の書斎には、彼女は入れなかった。彼の仕事の邪魔をしたくなかった。彼の抱いている希望に、彼女自身憧れもあったし、尊敬すべきものと思っていたのだった。

 彼女は、彼が持ってくる給料が少ないことに驚いた。彼女には、給料で、その日を賄うことが不可能のように思えた。母が来た時、彼女は彼の給料が安いと言った。
「贅沢をしなければ、間に合うものです。」
母は、娘にそう教えた。それでも帰りがけに、そっと娘にお金を渡していた。

 彼女は、日曜になるのが待ち遠しかった。日曜日の昼は、彼は、彼女と一緒に時を過ごしていた。何も話さず、居間で寝転んでいるときもあった。彼女を付近の野道に散歩へ連れて行くこともある。彼女のピアノも聞いてくれる。その時ばかり、彼女は娘らしく明るくなるのだ。だから、毎日の彼女の思うことは、過ごした日曜の思い出に耽ることと、次の日曜日への準備だった。できるだけ、二人の楽しい時間を過ごそうと思っていた。深く甘えても、どこまでも彼は受け容れていた。

 郊外には、川が流れていた。高い土手の上を、山間の方まで寄り添って歩いた。風が彼女を包む、その感触は、全て彼によるものだと思えた。川縁におり、靴を脱いで浅瀬に入り、水を掛け合う。濡れて二人が帰ることもあった。
 朝から夕方まで、彼は家にいて、彼女をじっと見つめていたことがあった。彼女は、努めて気取って歩いたり、仕草をして見せた。彼は、微笑んでいた。二人で、庭の花壇の手入れもした。花が、季節ごとに切れないようにしていた。

 彼女は、自分が身籠もったのを知った。彼は、それを大きな喜びで表した。彼に、労りの心は大きかったが、生活は変わらなかった。彼の激しい文学活動は、変わらなかった。彼女は、身重になると、彼の愛情の示し方が不満に思えてならなかった。彼は、優しい言葉をかけてくれたが、近寄ってはくれなかった。

 その頃から、彼女は、彼の作品などを読み始めた。彼が、どの程度の才能があるのか、知りたかった。殆どが、内向的な暗い感じのするものだった。中には、彼女も上出来と思う、恋愛小説の珠玉的なものを見出したことがあった。今まで、彼女が読んだことがある小説と見較べると、その作品が、ごくつまらないように思えた。

 中でも、意味が分からないもの、単に興味的な思索しかないと思われる節が見受けられた。
「文学かぶれ。文学に恋している。」
彼女は、時々そう思うようになった。彼が文学に熱中しているのは、ただその中に、その活動するだけの中に、自己満足を求めているに過ぎない。作品が発表されるものでもなく、また発表できるような作品でもないものであると思った。
 自己満足の、自分の生活を買いかぶった、何ら文学者としてのものでないこと、彼には文学に対する才覚が乏しいことを見て取ったのだった。

 そう思うと、彼女は、彼に多少失望した。その上、彼の執筆活動のため、生活が味気ないものとなっていることに、大きな不満を持つようになっていた。
 疑いを抱いた人間は、中々それを打ち消すことができないように、彼女もそうだった。彼に対する能力を疑い始めると、それを除いた彼には、殆ど魅力がない男であることを認めた。彼女は、何故、このような男と結婚したのだろうかと疑った。

 時々見せる、彼の優しさでさえ、彼女には、卑しい者が見せる欺瞞のように見えた。彼も、彼女が身重になって喜びを見せた。ただ、いつもの通りの生活を続けていた。
 彼女は、早々に体の具合が悪いと言って、実家に戻っていった。予定日までは、まだ数か月あるはずだった。彼は、そうすることに別に反対はしなかった。彼女の母は、毎日通ってくるとさえ言ったのだが、敢えて、彼女の思い通りにすることに、彼自身賛成したのだった。
 彼は、もう感じていた。彼女が、彼に冷たい心を持っていることを。しかし、その原因が何なのか分からなかった。

 彼は、毎日は、彼女の見舞いには行かなかった。時々顔を見せたが、彼女は、不機嫌な顔が多かった。そして、彼自身行きにくくなった。
 彼女は、ある日、母に、彼について失望したことを述べた。彼女に馴染んでくれない生活、卑屈に思える心、そして自分が敬愛していた才能ある彼の姿と、真実は違うこと、彼女は、自分が苦しい立場にあると、涙ながらに語った。
「私の結婚は、失敗だった。」
そして、これから彼と生活を続けていく自信がないと言い出した。彼女の母は、やはり娘が愛らしかった。娘の言うことを信じ、身重の娘の今後のことを思わずにいられなかった。
 彼女の母は、家の者に、彼女の悩んでいることを話した。彼女の父も兄も、顔を曇らせた。結婚する前の彼女に、あれ程明るい喜びがあることを思うと、理解しかねるのだった。

 彼女の父は、彼のところを訪れた。娘の思っていることが事実であるかどうか、知りたかったのだった。
 彼は、生活については、彼女が言っていることと殆ど違いないと答えた。そして、彼女が不機嫌なことも、以前から知っていたが、別に気にしていなかったとも言った。
「大方、私の価値がある程度分かって、失望したのでしょうね。」
彼も、やはり寂しそうに、彼女の父に言った。
「どうにかならないものだろうかね。」
彼女の父は、彼に尋ねた。
「今のところは、どうにもならないと思います。彼女は、私のことを信じていないのですから。愛情というようなものではないようです。私の才能に不満があるのでしょう。」
彼自身、自分の力を認めていないにしろ、そう彼女が思っていることについて、深い悲しみを感じた。それに反発できる確証が、何もないことに、それと同じ程度に、自分自身に不満もあった。

 彼は、彼女の父の訪問を受け、その父が帰っていくと、悲しい気持ちに襲われた。自分の人生が、何の価値があるものかと思った。外に出て、長い時間歩き回った。美しい緑や、川の優しい音も、彼の心を慰めてくれなかった。

 翌日も、いつもの通り役所に通った。ただ思った。
「自分の才能のなさが、人を不幸にした。」
しかし、自分の、これから歩く道は、もう決まっていた。それは仕事に勤しみ、文学活動も続けることだった。
 彼は疲れていた。顔も青白くなって、目も窪んでいた。悩んだ末に得た結論を持って、彼女の家を訪れた。彼の悲愴な面影を認めたのか、彼女の母は、声も掛けなかった。
 彼は、彼女の家に入って、何か、懐かしいものを見つめるような気がした。玄関も、廊下も、そして庭も、彼女の部屋に入って、彼女の顔を見たときも、親愛な、懐かしい恋人を見たような感じだった。

 彼女は、無言で、優しそうな、思い耽っているように、彼を見つめていた。彼は、黙って彼女を見つめていたのだった。ふと我に返った彼は、心の内を言おうと思ったが、言葉にならなかった。
「どうなさったの。そんなにやつれて。」
彼女は、微笑みながら、彼の目を探っていた。彼は、明るく笑おうと思ったが、すぐ、その顔は苦しい笑いとなってしまった。
「私は、近い内に、東京へ転勤になりそうだ。」
彼は、彼女の返答を待っていた。彼女は、顔を背けると、少し間を置いて答えた。
「私は、一緒に行きません。」
彼と彼女は、それ以上話しはしなかった。彼は、ただ黙って、彼女の床の側に腰を下ろして、庭を見つめていた。そして、彼は、彼女の側にいるだけでも、安らぎを感じていた。

 彼は、東京にある公務員宿舎へと移住すると言った。ささやかな送別の宴が、彼女の家で催された。彼女は、体の調子が思わしくないと言って、席に姿を見せなかった。彼は、それが嘘なのではないかと思っていた。
 彼は終始、彼女の家の者に親切にされたことの礼を述べた。彼女の家の者も、何か、それが別離の言葉に聞こえたのか、侘びしい気持ちになった。

 彼は、床に伏せている彼女の部屋に訪れて、早々に彼女の家を立ち去った。彼女の顔を見て、彼女が本当に病気になっているのを認めたとき、彼は少し後悔の念を持った。
 帰りがけに医者の家を訪れ、明日、彼女の診察をするように頼んだ。

 翌日、彼は、車中の人となり、東京へと旅立った。その町が遠くになるにつれ、苦しいことや悲しいことも、段々と少なくなり、懐かしい思い出となってゆくのが感ぜられた。
 彼は、書斎の自分の財産というべきものを、全て荷造りをして送り出していた。そして、思い出となるようなものは、全て残さないように整理をした。

 彼は、三つある部屋の一つを書斎とした。そして、また激しい文筆活動に入った。彼女の思い出を打ち消すように、激しい文章、言葉となって表れた。
 彼は、奔放な書き方だった。文章の筋書きなど、殆ど気にも懸けていなかった。だから、書き終わると、その拙さが目立って見えるのだった。
 彼は、全体的なことを、特に、その中の思想的なものの纏まりさえあればよいと思っていた。後は、付随的なものと思っていた。

 彼のところに、彼女からの音信らしいものは、一つもなかった。もう、彼と彼女の子供が、生まれる頃になると思っていた。
 彼は、本を買うこと、食事を取ること、催し物に顔を出す金の他、殆ど金を使わなかった。夜遊びに出ることもなかった。
 疲れたり、気が滅入ったりすると、海岸に出かけ、松林の中を散歩するのが好きだった。落ち葉の、柔らかい足の感触が、何とも言えなかった。そして遠い海を見つめ、やはり彼女のことを考えた。

 遠くから見てみると、彼女が、何か哀れに思えてならなかった。そして、自分だけが逃れたことが、卑怯に思えてならなかった。別れなくとも、解決する方法があったのではないかと思った。彼は、自分が一人で楽な道を選んでしまったと思った。周囲から陰口をたたかれる彼女を思うと、悲しくなった。

 彼女の元から彼に便りが来たのは、予定日を半月も過ぎたときだった。簡単なものだった。
…去る五日、長男が生まれました。名前を幸一郎とつけました。私は、貴方を信頼していなかった、悪い女だったと反省しております。今は、貴女に会いたい気持ちでいっぱいです。…
 彼は、彼女のこの手紙には、全て言いたいことが書いてある立派なものに見えた。彼は、短い彼女の手紙を見て、内心安心をした。彼は、もっと恐ろしいことを、毎日考え続けていたからだった。

 生まれてくる子供の死や彼女の死などを、毎日考えて眠れないときも多くあった。彼は、彼女が、自分の取った行動に対して、一応は冷静に考えていることが分かっただけでも安心をした。
 彼は、何を聞こうが、見ようが、心を乱さないと思いながら、彼女の町へ、彼女の家に向かった。彼が訪れたのは、夜になった。できるだけの金を集めて、手にいっぱいの贈り物を抱え、彼は彼女の家を訪れた。

 彼女は、嬉しそうに彼を迎え入れた。彼は、彼女の目に、涼しく、強く、優しい母親としての眼差しを認めた。
 彼の子供は、彼女の部屋に、小さな姿を見せていた。彼は、自分に似ていると思った。子供の側にいた彼女の母は、彼が部屋に入ると、静かに笑顔を見せて出て行った。彼女の母が部屋を出て行くと、彼と彼女は見つめ合った。その二人の目の中には、お互いに燃えるような熱い心が映っていた。
「貴方、私この子を連れて東京へ行くわ。もう、我儘は言わないわ。よろしくね。」
彼は、彼女の言葉を聞いて心が洗われ、自ずと涙が頬を伝うのを感じた。彼は涙を拭いもせず、我が子を抱き上げるのだった。