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「遠き日々」
佐 藤 悟 郎
真司は、左手で首を押さえながら映画館を出た。眩しい太陽がもう高く昇っており、目を細めて空を仰いだ。ビルの立ち並ぶ繁華街には多くの人が通り過ぎていく。両手をズボンのポケットに入れ、肩をいからせながら歩きはじめた。昭和から平成の時代に入って間もなくの頃、景気は比較的安定し、その田舎都市も賑わいを見せていた。宝塚会館は少年達の溜まり場だった。真司は、一寸立ち止まってポケットからお金を取り出してみた。多くの金はなかった。お金をポケットにしまい込むと、会館のゲームコーナーに入った。少年達がゲームに夢中になって遊んでいる。真司は奥の休憩所に向かって歩いた。
「やあ、真司、どこへ行っていたんだ。探したぞ。」 真司の遊び仲間の周平が手を振って声をかけた。彼の遊び仲間、男四人と女四人の姿があった。
「俺、眠たくてしょうがなかったんだ。穴倉に入って眠ってきた。」
遊び仲間の前に出て、真司は一人一人に頷くように挨拶をした。真司は煙草を取り出し、火をつけ、ソファーに腰を下ろした。遊び仲間は皆、朝までディスコで踊っていたと言っていた。女連中は眠たいのだろう、重そうな瞼をして、今にも目を閉じそうだった。真司は、右のゲームコーナーの一角が騒々しいのに気が付いた。
「さっきからなのよ。あの馬鹿、酔っ払って、女に絡みついているのよ。」
正面に座っている眞弓が上体を寄せ、声を細めて真司に言った。真司は、酔っ払いの姿をしばらく見つめていた。 「おい安、あの男と女を連れてこいよ。」
真司は、人差し指を二人に向け、安治に言った。安治は 「真司、ほっておけよ。ありゃまともな連中だぜ。下に学生服を着ているぜ。」
と言って、顔の前で手を振って見せた。 「いいから連れてこいよ。何もしやしないからさ。」
安治は肩をすくめ、政幸と雪子の三人で右の一角へと行った。
「おい、さっきから騒いでいるな。俺たちのアタマがな、貴様に話があるから来いってさ。二人で来な。」 安治が酔っ払っている男に声をかけた。
「何だと、アタマだかケツだか知らんが、手前らには用がないよ。」 やにわに政幸が男の襟首を押さえつけた。
「用があると言ったら、用があるんだ。来るんだ。」
政幸は、背の高いがっちりとした体格の少年だった。政幸は、襟首をつかんだまま酒臭い男を前に引きずり出した。男は少しもがいたがおとなしくなり、仕方なさそうに歩きはじめた。
「行くから、その手を放してくれないか。」 政幸は手を放すと、雪子に顔で合図をした。 「お前も来るんだよ。」
雪子は酔っ払いに絡まれていた女の肩を小突いた。その女は俯き、歩きはじめた。
二人は真司の前に連れ出された。真司の仲間は遊技場の客から見えないように並んで立った。
「お前ら、まともな学生だろうが。ここは酔っ払ってワアワア言っている場所じゃないんだぜ。帰れよ。」 真司は言葉を和らげて言った。
「お前達不良なんかに、そんなこと言われんでもいいや。」
男はそう言うと真司に向かって唾を吐きつけた。真司はやにわに右手で力一杯男の頬を平手で打った。 「痛てえな。何するんだ。」
「喧嘩の相手ならなってやるぜ。やるかよ。」 真司は左手で男の襟首をつかむと、右手の人差し指で男の額を小突いた。
「大学生じゃないか。結構な身分だよな、学士様。喧嘩ごっこをやろうじゃないか。」 男の後ろにいた女がその中に割って入った。
「お願いやめてよ。お兄さん謝ってよ。帰ろうよ。」
「やだね。喧嘩売られて黙って帰れるかよ。こんな、悪たれの餓鬼共に舐められてたまるか。玲子は先に帰りな。」
真司は、男の襟首から手を放すと、二歩引き下がった。右手を上げて出口を指した。 「お前ら兄妹か。悪かったな。酔っ払って来るんじゃないぜ。帰んねよ。」
玲子と呼ばれた妹は、真司の顔を見た。少し童顔の残る顔は凄みがあったが、瞳には優しい光を感じていた。真司と彼の仲間の野次が飛ぶ中、兄と妹は遊技場から足早に出て行った。
真司は高校二年生だった。母の手で育てられ、喧嘩の好きな、暴れん坊だった。真司の父はヤクザ桔梗組の組長の井上省吾だった。
真司の母は、真司に多くのお金を与えた。真司は高校の不良や落ちこぼれ仲間と遊ぶようになり、余り家にも寄り付かない少年となっていた。バイクを無免許で乗り回し、心は荒んでいた。ほとんど家に戻らず、仲間と一日中遊んでいた。母の悲しそうな顔を見るのも辛かったのである。
休みが終わる日の夜、真司は家に戻った。母は起きていた。居間でテレビを見て声を上げて笑っていた。 「お前、帰ってきたのかい。ご飯食べてきた。」
真司は母の正面で炬燵に潜り込んだ。そして眠った振りをした。母はできるだけ明るい声を出している。台所には、食事の用意がしてあることも知っていた。母は間もなく布団を掛けるだろう。そして、床に入ると静かに泣き出すことも知っていた。
真司は、それでも英会話塾と合気道道場に通うことを怠らなかった。誰にも頼らず、一人で外国に旅をしたいという思いがあった。父の素性を知ってから、特にその思いが強かった。一人で生きていくには、身を守ることも大切であると思い、幼いころから通っていた小さな合気道道場に顔を見せていた。合気道では図抜けた才能を発揮していた。仲間達は、そんな真司を羨ましく、あこがれの気持ちで見つめていた。
真司は、一人で浜辺に出た。海に戯れる若い人を見て、高校も夏休みになっていると思った。町の稲荷神社では祭礼があるのを思い出した。夜になって真司は街中のゲームセンターに戻り、仲間を誘って稲荷神社の夏祭りに行った。
真司と仲間達が露店の裏の空き地を歩いている時だった。露店から外れた人通りのない公園で、何か揉めごとが起きていた。香具師が男女連れと言い争っていた。真司は、男女連れがゲームセンターでの兄妹であると思った。妹は泣いている。兄は酔っているらしく、口論となっている。
「子供騙しの、まがい物だ。」
露店の物にケチをつけたことで口論となっているらしい。香具師が兄を殴った。土下座をして謝れと言っている。兄も殴りかかった。足元も揺れ、拳は外れ倒れ込んだ。遠くから、それと分かるヤクザ連れが来る。
「もう良いだろう。勘弁してやれよ。」 と香具師に向かって真司が言った。 「余計な口を出すな、この餓鬼が。」
そう言われた真司は、香具師を睨み 「俺が餓鬼か。手前は三下のチンピラか。止めろと言っているのが分からんのか。」
と言った。いきなり香具師は真司に殴りかかった。真司は身をかわすと足をかけて転ばした。香具師は起き上がると、懐から短刀を出した。
「貴様、恥をかかせやがって。殺してやる。」
真司は、懐めがけてくるヤクザの短刀を払い落とし、右手首を押さえて小手返しで倒し、落ちていた短刀を拾い上げ香具師の頸めがけて振り下ろそうとした。
「お前のような奴、殺したところで、何の得にもならん。」
真司は、短刀をヤクザの顔の付近に投げ、手を離して立ち上がった。香具師は、短刀を拾うと彼と対峙した。
「馬鹿野郎。亀吉、殺されるのはお前だ。止めろ。」
突然、そんな声が聞こえた。露店を見回っていた、ヤクザの親分の声だった。会長と言われている男は、四人程のいかにもヤクザらしい男を連れていた。香具師は、慌てて短刀を懐に隠すとヤクザの親分に頭を下げた。ヤクザの親分は、真司の前に行くと、頭から足下まで見つめた。
「お前、高校生だな。度胸あるな。」 親分は言った。 「それ程でもないさ。恨みっこなしにしてくれ。」
真司は、親分の顔を見て平然と答えた。 「何も、後腐れはない。約束しよう。俺は桔梗組の組長井上省吾という者だ。お前の名前だけ教えてくれないか。」
と尋ねた。真司は腕組みをして言った。 「何だ、俺の親父か。俺は青葉高校二年生、井上真司だ。」 親分は、頷きを見せて微笑んだ。
「真司か、圭子は元気か。」 頷く真司を見て、目を反らして真司の仲間を見渡した。 「真司、少し話がある。あっちに行こう。」
省吾は、真司を連れて皆と離れたところへ行った。真司の仲間も、居合わせた桔梗組の組員、香具師連中も、唖然として親子を見ていた。親子の中に入ることも、手出しをすることもできない存在だと思い見つめるだけだった。省吾は、真司を正面から見つめた。
「お前、高校生なんだろう。こんな処で喧嘩なんかするな。退学になったら、圭子が泣くがな。」 真司は、そっぽを向いて黙っていた。省吾は話を続けた。
「圭子がどんな話をしているか分からないが、お前をヤクザの世界に触れさせたくない。そう言ってお前を連れて出て行った。」
そっぽを向いている真司を見て、仕方ないという風に省吾も上を見つめた。
「今のお前の姿を見ていると、俺の若い頃と少しも変わらないな。圭子は寂しく思っているだろう。お前は、俺のたった一人の子供だ。俺と同じ道を歩かないでくれ、そう思って圭子を送り出した。今でも圭子を好きだし、済まないと思っている。」
省吾が目を真司に向けると、真司は省吾の顔を見つめていた。 「親父、分かったよ。俺も母さんが好きだよ。」 省吾は彼の肩を軽く叩いて
「そうか、よろしく伝えてくれ。お前も困ったことがあったら、俺のところに来い。無駄な喧嘩はするな。怪我をしても詰まらんからな。」
と言った。真司は、右手を挙げて仲間と兄妹呼び寄せ、連れ立ってその場から立ち去った。
夏休みも終わって間もなく、真司は仲間をビルの隙間の小さな公園に集め言った。
「俺は頭を下りる。後を誰に任せるかは決めない。お前達勝手に決めるが良い。ただ、俺の時のように喧嘩で決めるな。お前達は分かったと思うが、俺は桔梗組組長の子供だ。ヤクザの世界には足を入れない。父である組長も、それを望んでいる。」
仲間達の顔は、不安が溢れていると真司は思った。仲間の中には、青葉高校の不良生徒と付き合いのある者もいることを知っていた。
「お前達が悪いと言うことではない。俺は、これから死にもの狂いで勉強をするつもりだ。遊んでばかりいられなくなる。お前達との付き合いもなくなる。だから頭を下りる。」
真司は、仲間の一人ひとりを見つめた。目を腫らした者ばかりだった。
「遊んでばかりでは、生きていけない。それは世の中の事実だ。勉強ばかりが道ではない。身近に働く場所があるはずだ。探せばきっとあるはずだ。嫌なことがあるだろうが、歯を食いしばって辛抱することだ。きっと未来が開くはずだ。それを信じよう。」
真司は、仲間一人ひとりと握手を交わすと、公園から去って行った。
真司は、翌日早く起きた。朝食を済ませると学校へ行く準備をした。
「学校へ行ってくらあ。」 明るい声を母にかけた。母は心配そうに真司を見た。 「今日は、帰ってくるんだろう。」
真司は頷いて、右手を上げて家を出て行った。自転車での通学、熱い風が彼の頬を通り過ぎて行く。朝なのに道路には陽炎が湧いていた。車の多い道路を避け、住宅街を通り学校に向かった。
前籠に鞄を入れ、ゆっくりと自転車を走らせた。高校の近くになり、同じ高校の生徒の姿も見えたが、誰一人、声を交わす者もいなかった。
「当たり前だ。二年生ということは分かるが、どのクラスなのかも分からない。」
真司は、そう思った。自転車置き場に、無造作に自転車を置いて、鞄を取り上げ、校舎に入った。勿論、靴箱が分からないので、靴を脱ぎ捨て、来客用のスリッパを履いた。向かったところは、教務室だった。戸を開けて中に入ると、誰も真司を見なかった。
事務員の女性が、真司が戸惑っているのを見て、声をかけた。 「どうしたの。何か用なの。」
「俺、二年の井上真司です。どこの組に行けば良いか、教えてもらいたいんです。」 少し大きめな声を聞いて、教務室の誰もが、一斉に真司を見つめた。
「え、自分の組が分からないの。井上さんと言ったっけ。」 そう言うと、事務の女性は、机から名簿を取り出し、名前を見付けると、微笑みながら答えた。
「B組ですわ。担任の先生は、谷川先生です。」 いつの間にか、事務の女性の後ろに、スポーツマンタイプの先生が立っていた。
「井上君か。谷川です。待っていたよ。よろしく。」 真司は、自分の担任教師を見つめた。 「よろしくお願いします。」 軽く頭を下げた。
教務室から出ると、真司は組のあり場所を探した。二階の中程に、札が掲げられていた。教室に入ると、授業の始まりが近づいたのか、生徒は席に座っていた。真司は、前の入り口から入ったため、席がどこなのか分からなかった。組の皆が、真司を見つめている。
「井上だけど、俺の席はどこか、教えてくれないか。」 一番前に座っている、女子生徒に尋ねた。その女子生徒は、びっくりした様子で、少し考えた末に
「井上君って、真司君でしょう。一番後ろに空いている机があるわ。そこよ。ずっと学校休んでいて、大丈夫なの。」 「ああ、俺は大丈夫だよ。ありがとう。」
そう言うと、後ろの席まで歩いて行った。 …確か、今の女の子は、中学校の同級生で、なんかの委員をしていた子だったな。名前は、思い出せない。…
彼はそう思いながら教室の中を見回して歩き、席に着くと鞄を置いた。どの教科書が必要なのか分からず、全教科を持参してきたのだった。鉛筆を取り出し、正面右に張ってある、時限表を写した。
真司は少し考えた。教室に入ったとき、自分の席を尋ねた女子生徒である。確かに中学校の二年生の時、一緒のクラスで学級委員をしていた子である。天井を見つめていると、いつの間にかその女生徒の顔が目に写った。
「二年になって、組み替えがあったの。座席表です。」
そう言って座席表を机の上に置いて、その女性は席に戻っていった。真司は、左手を顎に当てながら座席表を見つめた。その女生徒の名前が前山真由子、名前の上に文芸委員と書いてある。確か中学生の頃も、それに似た委員をやっているのを思いだした。眼鏡をかけた賢そうな生徒だった。
真司は、机に両肘を突いて掌にあごを載せ、過ぎ去った高校時代を思った。一年の二学期が始まるまでは、真面目に勉強していた。その頃になって、急に勉強を止め、学校にも行かなくなった。
それは一年の夏休みも終わったある日、家に派手な出で立ちの女性が訪れた。物陰に隠れ、母との話を聞いた。その話の中で、父が生きていることを知った。母からは、父は病死したと言い聞かされていた。更に、父が桔梗組というヤクザの親分だと知った。
真司は、母に問い質した。母は、気丈夫な女性で、ヤクザの環境の中で彼を育てない。普通の子として育てると言って、家を出たと言うことだった。別に父と離婚した訳でもなかった。
真司は、その日から学校にも通わず、中学校時代の不良達と遊ぶようになった。母は、それでも甲斐甲斐しく、一生懸命に働き、真司を育てていた。高校は追加試験を受けて、辛うじて二年生となった。高校では、真司を病気扱いにして進級させたのだった。昨日、真司は遊ぶのを止めて、今日、登校したのだった。母を見ていると、母の喜ぶ姿が見たかったのだった。
真司は、鞄から全ての教科書を出して、その日の教科書を選び、他の教科書を鞄に仕舞い込んだ。一時限目は、数学の授業だった。ページを捲ったが、内容が理解できなかった。ただ数学の教師は、中根加奈子という目筋のしっかりとした色白の女性教師だった。
真司は、教科書に一通り目を通し、一年生の勉強から始めなければならないと思った。追い着けるだろうかと不安を感じた。当面の計画を考えなければならないと思った。
「時には、徹夜をして頑張ろうか。」
そう思った。とにかく教科書を読んでいくことだと思った。一度読んだら、二度目を読んでいく。三度、四度と回を重ねていくことだと思った。そうすれば、分からないところが見えてくるはずだと思った。
真司は、昼休みもパンをかじりながら教科書を見つめていた。教科書の内容は、目新しいことばかりでほとんど理解できなかった。午後の最初の授業は、英語だった。英語で話す教師、英文の単語や熟語などは、ある程度理解ができた。遊んでいる間も、英会話塾に通い続けていてよかったと思った。ただ、文法については難しさを感じた。英語の授業が終わり、次の授業の物理までの間には、十分間の休憩時間があった。真司は、前の席の女生徒、石野弘子に声をかけた。石野は、次の授業の物理の教科書を見ている時だった。
「ちょっと石野さん、お願いがある。」 石野は、首を回して 「何ですか、お願いって。」
そう言ってから、上体を回して、肘を自分の椅子の背当てに凭れるように、真司を見つめた。 「俺、井上真司と言うんだけど。」
そこまで言うと、弘子は二度頷いて 「座席表に名前があるから、名前は知っているわ。用件は何なの、言って。」 弘子は、少し笑顔を見せた。
「俺、長いこと学校サボっていて、勉強が分からない。何かと聞くことが多くなると思うけど、教えてくれないか。」
真司は、そう言うと、机に両手をついて頭を下げた。
「分かったわ。私の分かることなら、教えて上げる。でもね、真司君、相当頑張らなくちゃ、いけないよね。」 石野は、少しおどけた笑顔見せて答えた。
いつの間にか来たのか、前山が石野の脇に立っていた。 「前山さん、思い出したよ。中学二年の時、一緒のクラスだったよね。」
そう言って真司は、前山に対しても机に両手をついて頭を下げた。前山は、笑顔で真司に頷きを見せ、その顔を石野に向けて言った。
「石野さん、真司君って、中学校の頃成績良かったのよ。それにね、喧嘩は飛び抜けて強かったわ。」 前山の言葉を聞いて、石野は真司を覗くように見つめた。
「へえー、喧嘩そんなに強いの。そんな風に見えない。」 石野は真司をジロジロ見つめながら、二度、三度頷きを見せた。
「真司君、石野さん、すっごく頭が良いのよ。何でも聞いた方がいいよ。」 前山は、そう言って石野に 「ねっ」
と会釈をすると、一番前の自分の席に戻った。間もなく物理の授業が始まった。真司は意味も分からなかったが、授業は真面目に聞き、分からないところはメモをすることに決めていた。メモは、直ぐにノート数枚に埋め尽くされた。
放課後になって真司は、石野に尋ねた。 「俺、もらった教科書、全部持ってきた。悪いけど、教科書のどの辺まで進んでいるか教えてくれないか。」
石野は、椅子の向きを変えて真司と向かい合った。教科書を真司の机の右側に積み重ね、一冊ずつ手にとって二つに分けた。一つの積み上げた教科書をとって、真司の前に置いた。
「この教科書は、一年で終わっているわ。」
真司は置かれた教科書を見つめた。教科書は、数学、化学、国語などの教科書だった。二年生で現在使っている教科書、生物、数学、化学、歴史、英語などの教科書が残った。石野は、残った教科書に付箋と鉛筆で印をつけていた。印をつけ終わると、石野は
「教科書いっぱいあるね。重たかったでしょう。」
笑いながら、印をつけ終わった教科書を真司に手渡した。真司は、石野に向かって両手を合わせて、拝むようにして頭を下げた。
何事もなく、学校生活の初日が終わり、真直ぐ家に帰った。自分の部屋に入って、全教科の教科書を机の上に重ねた。一冊ずつゆっくりと目を通した。英語、数学、物理、化学、生物の教科書を机の右に積み重ね、その他の教科書は左に重ねた。特に、数学を最重点に、物理、化学に重点を置いて勉強しなければならないと思った。他の教科は、とにかく繰り返し読んでゆくことにしようと思った。とにかく一日一日を大切に、継続していかなければならないと心に誓った。
真司は、高校の休憩時間でも教科書に目を投げていた。一週間もすると、そんな勉強態度にも慣れた。ある日、真司が購買からパンと牛乳を買い教室に戻ってくると、自分の席に前山が座って石野と話をしているのを見た。真司は、前山の椅子をぶら下げて、通路に邪魔にならないように椅子を置いた。丁度石野と前山の間の横に位置していた。
「あら、御免。」 前山は、真司にちょこんと頭を下げて謝り、椅子から立ち上がった。 「別に構わないよ。俺二人の間でパンをかじっているから。」
そう言って、パンと牛乳を机の上に置いた。それでも前山が、きまり悪そうだったので、自分の椅子に座りなおした。
「この椅子、前山さんの椅子だ。座って話を続ければいい。」 真司は、パンを取り上げて食べ始めた。前山と石野は、それを見つめた。
「真司君、花野良太君を知っているでしよう。おとなしくなって、嘘みたいになったの。真司君が来たからだと思うの。」
前山が、真司に言った。石野も前山の言葉に同調するように頷いた。 「良太か、時々俺を覗くように見ている。何かあったの。」
真司は、二人に尋ねた。二人は、交互に花野の悪口を言い始めた。授業をサボったり、時には授業中、先生がいるのに教室から抜け出すこともある。早弁、居眠りの挙句鼾である。先生が注意するものなら、先生の前に出て怒鳴り散らし、授業の邪魔をするとも言った。
「そうなんか。そんなことを見たら、俺が注意してやるさ。」 真司が言うと、前山は幾度も頷いて
「真司君、頼むわ。でもおとなしくなって、やっぱり真司君が怖いんだわ。」
と言った。花野が席に戻ると、前山と石野は首をすくめた。前山は恐る恐る椅子を持って、自分の席に戻った。石野は向きを変え、次の授業の教科書を見つめた。真司は、良太を見つめながらパンをかじり、牛乳を飲んだ。花野は、真司を見つめると、直ぐに顔を反らし俯いた。
そんな時だった、他のクラスの制服のボタンを二つ外した男、二人が勢いよく教室に入ってきた。 「おい花野、川へ行くぞ。」
そう声をかけた。花野は椅子に腰かけたまま、下を向いて動かなかった。 「どうしたんだ。花野行かんのか。」
二人は、花野の方へと歩いて行った。石野は、振り返って真司に言った。
「他のクラスの不良学生よ。花野君を迎えに来たの。でもおかしいわ、花野君、動こうともしないわ。」
石野の話を聞きながら、真司はパンをかじりながら、様子を見ていた。二人は、花野に近寄り声をかけたが、花野は返答もせず、ただ下を見ているだけだった。一人が、やにわに花野の襟元をつかみ、立たせようとした。
「俺は行かないよ。もう、飽き飽きしたよ。」 花野は、襟元をつかんだ男に言った。 「何を、偉そうなこと言って、叩き直してやる。一緒に来い。」
男は、力いっぱい花野を持ち上げた。 「君たち、花野君は行きたくないと言ってるんだ。乱暴はやめて、教室から出て行ってくれ。」
近くの席から立ち上がった級長の勝山健二が、二人に向かって言った。真司も、パンを食べ終わり、花野の席に向かって歩いていた。
「勝山か、級長ずらするな。余計なことを言うなってことよ。」 そう言って、男は花野から手を離した。
「花野、後があるからな。分かってるだろうな。」
二人は、そう捨て台詞を言って、出口に向かって歩いた。丁度、真司とすれ違い、目が合った。一人の男は、驚いた顔をして出口の方に向かった。もう一人の男は、立ち止まって真司に向かって言った。
「てめえ、ガンをつけたな。」
そう言って、いきなり真司に向かって殴りかかった。真司は、男の拳を抑えると、腕をひねり床に転がした。さらに真司は、相手の腕をひねったまま後ろ回しにして、立ち上がらせ出口まで行くと、男を放り出すように押し飛ばした。男は、廊下に崩れるように転んだが、すぐ立ち上がって足早に姿を消した。
真司は、花野のところに行って、ひと声かけた。 「良太、よく我慢ができたな。いい男になった。」
それだけ言うと、真司は自分の席へ戻った。その劇的な出来事に、教室は静まり返った。真司は、残った牛乳を飲みながら、次の授業の教科書を開き、見つめていた。
それから数日たった日だった。数学の授業が終わり、放課後となった。クラブ活動のため、争って教室を出て行く生徒が多くいた。真司は、級長の姿を見ていた。どこから入ってきたのか、数人の生徒が級長を取り囲んだ。二言三言話をして、級長を教室から連れ出した。
真司は、窓から外を見つめた。青い空、綿飴のような白い雲が浮かんでいる。中庭の三本の大きな桜の木が、葉を揺らせている。頬杖を外し、真司はゆっくり立ち上がると教室から出た。
真司は体育館脇の空き地へ、ゆっくりと歩いた。渡り廊下を横切り、体育館脇に出て見ると、案の定級長は、リーダーの男に胸倉を抑えられ、まさに殴られそうになっていた。真司の姿を見た仲間が、リーダーに目配せをした。リーダーは、級長から手を離し、歩いてくる真司と向かい合った。真司は、リーダーの間近で立ち止まった。
「お前ら、級長に手を出すな。」 と真司が言って、右手で級長に場から去るように指差した。級長は、真司の後方に回って立ち止まった。
「てめえ、真司か。長い間学校をサボって、悪ガキの箔をつけたそうだな。相手になるのかよ。」
リーダーは、そう言うなり真司めがけて殴りかけた。真司は、左腕で受け払うと同時に、右手でリーダーの左頬を殴ると同時に、左足で鳩尾を蹴り上げた。リーダーは、腹を抱えてうずくまってしまった。他の者が身構え、争う態勢を見せた。
「止めろ、お前らが敵う相手じゃない。」 リーダーは、顔をしかめながら言った。真司は、背を向けると級長と一緒にその場を立ち去った。
真司は、騒がしい不良生徒の顔を知った。不良生徒は、真司を避けて通るようになった。たまたますれ違ったりすると、頭を下げて通る。真司はそれと合わせて、必ず返礼をすることを忘れなかった。二年生は静かになった。三年生の不良生徒は残っていたが、気にすることはなかった。大方、彼等の間では、真司が桔梗組の組長の子供であるという噂が流れていると思ったからだった。格別に争う理由もないと思った。
真司は、一か月の間、特に数学を集中的に勉強した。他の教科も、睡眠時間を削って時間を作り、毎日継続的に学習を続けた。石野への質問も、面倒と思われるものを選び、教えてもらうようにした。石野は、わざわざ向きを変えて、丁寧に教えた。
そんなある日の数学の時間に、前の席に座る石野が中根先生に質問をした。どうしても解けない問題があるので、教えてくれというものだった。席から代数の問題を読み上げ、中根先生がその通り書いた。
「問題は、これで良いのですね。」
そう言ってから、中根先生は解答を導く数式を展開し、小数点以下五桁のルートの混ざった解答を出した。中根先生は、石野を見つめた。
「面倒な答えの問題ですね。計算は公式通りに行えば、良いのかと思います。」 中根先生が、頷きながら説明すると
「先生、参考書の解答は、整数の五なんです。私、何度もやったのですが、五にならないのです。」
中根先生は、もう一度計算をやり直したが、五にはならなかった。そして中根先生は、黒板をじっと見つめていた。時間が過ぎていく。参考書の問題を問議している、授業なんてそんなものではないと真司は思った。真司は立ち上がると、石野の横に行き
「そのノートを見せてみろ。」 石野が渡すノートを見つめ、石野が書いた解答を導く数式と、中根先生の黒板に書いた数式を見比べていた。
「石野、お前と先生の答えは同じじゃないか。それで良いじゃないか。」
石野は、納得しかねるという風に、立ったまま俯いていた。真司が石野の顔を見ると、今にも泣きそうな様子だった。真司は小声で
「石野、御免よ、余計な口出しをして。その参考書、持ってきているか。」
石野は、黙って机の中から参考書を出すと、ページを捲って、その問題を指差した。真司は、参考書と石野のノート、黒板に書かれた問題を見比べた。真司は、石野の耳元に囁くように言った。
「石野、参考書の問題と、先生に言った問題の一つの数字が違うよ。何事も無いように、謝って言うんだよ。泣くんじゃないよ。」
真司は、石野が言うのを側に立って待っていた。石野は、真司の顔を見て、意を決したように言った。
「先生、済みません。前のルート内の数字は六ではなく九です。」 中根先生は、笑顔を見せた。 「このルート内の数字が、九なのですね。」
中根先生は、計算をやり直し、解答五を導き出した。 「石野さん、五になりました。これで良いですね。」 石野は、中根先生に向かってお辞儀をして
「はい、有り難うございました。」
とはっきり言うと、席に腰を下ろした。側で立っている真司を見上げると、ぴょこんと頭を下げた。真司は、頭を掻きながら席に戻ると、椅子に腰を下ろした。中根先生は、真司を見つめ、椅子に腰掛けるのを見届けると、教科書の授業に移った。
晩秋の晴れた日だった、谷川先生の発案で、クラスの有志の者で近くの神楽山へピクニックに出かけた。クラスの十五人ほどの生徒が参加したが、他の生徒は勉強があると言って参加しなかった。真司は、ある程度学習の目途がついたと思い、気晴らしのつもりでピクニックに参加した。若い数学を担当する中根先生も参加していた。心地良い風を受けて、山頂で昼食をとり、谷川先生が記念写真と称して写真を撮った。
午後二時過ぎになって、頂上から山道を帰途についた。真司は、一番後ろでゆっくりと歩き、前には中根先生が歩いている。その前には、生徒達の姿は見えなかった。おそらく中根先生は、生徒達の最後尾を監視していたのだろう。
一陣の風が吹いて、中根先生の白い帽子が舞い上がった。先生は、舞い上がる帽子を見上げ、両手を上げて追いかけた。後ろを歩いていた真司は、笑いながら見つめていた。次の瞬間、真司は走り出した。帽子が向きを変えて、谷間の方へと流れていった。
「先生、危ない。」
と声をかけると同時に、先生は道の脇に寄り過ぎて、足を踏み外してしまった。悲鳴と共に落ちかけたところで、真司は右手で先生の左手を握った。真司も谷に引きずり込まれるように上体を乗り出した。断崖から下の川が小さく見えた。咄嗟に近くの木を左腕で抱きかかえた。真司は、中根先生が意外と軽いと感じた。
真司は見上げる先生を見つめ、落ち着いた声で言った。 「先生、右上にある小さな木がある。右手でしっかり掴んでください。」
先生は、右上を見つめて、右手で細い木を掴んだ。 「先生、大丈夫ですよ。私は手を離しませんから。」
先生は頷きを見せた。先生は落ち着いたと、真司は思った。右手で少し先生を引き上げると、
「先生、足場を探して。そう、そう、足場があったようですね。強く踏んで、しっかりしているか確かめてください。」
真司は、更にゆっくりと引き上げ始めた。 「次の足場を探してください。そうそう岩場をよじ登る要領で、上に来るのです。」
先生の上体が見え、真司も立ち上がってゆっくりと先生を引き上げ、道路上に上げて、谷と反対の道端に連れて行った。先生がひどく怯えているのを感じた。
「先生、もう大丈夫ですよ。」 真司が言うと、中根先生は真司の胸に顔を押し当て、震えながら泣いていた。
十分ほど山を下っていくと、牧場があり、小さな休憩所と広場があるところに出た。そこには、先に歩いて行った生徒や谷川先生の姿が見えた。中根先生も落ち着いたらしく、真司から離れて、生徒達の輪に入っていた。すると生徒の一人が、
「先生、帽子がないよ。どうしたの。」 と言った。中根先生は、振り返って真司の顔を見た。
「一陣の風が、先生の帽子をさらって、手の届かない谷へ、見えないところまで飛んで行ってしまった。」
真司が中根先生の代弁者のごとく、何ともないという風に答えた。すると谷川先生が、
「真司、お前、どこへ飛んで行ったのか見たのだろう。拾ってきたらどうなんだ。」 とからかうように言った。
「じゃあ、あるかどうか分からんけど、見てくる。」
と真司は答えた。中根先生も、真司の方に歩こうとした。真司は、右手を前に突き出して制止してから、向きを変えて山の方に戻っていった。三十分ほどして真司は、中根先生の帽子を翳しながら戻ってきた。
「随分時間がかかったじゃないか。皆、待ちくたびれたぞ。」 と言う谷川先生に、真司は、 「いや、谷川の木に引っかかっていて。」
と、何もないように言うと、帽子を中根先生に手渡した。
彼は、脇目も振らず勉強を始めた。何回も一年生の教科書を読んだ。二年の三学期も終わろうとする頃には、二年生の科目を理解することができるようになった。
真司は思った。人間は、どのような環境に生まれても、その人間自身がぶれない考えを持っていれば、必ず思うように生きていけると確信した。
夏休みになった、ある昼時に真司は、近くの通りにあるパン屋近くを歩いていた。歩車道の区分のある通りで、車道は片側二車線となり、自動車の流れは多かった。パンを買うために、店に入ろうとしたところ
「真司君、真司君じゃないの。」
と呼ぶ声が聞こえた。真司が歩道を見ると、自転車に乗って右手を振っている中根先生が見えた。中根先生は、真司の側まで来ると自転車を止めて降りた。
真司は、中根先生と一緒に、パン屋の中に入った。焼きたてのパンの芳しい香りが漂っている。
「私もパンを買って、何処かの公園で食べようと思っていたの。」
陳列されているパンを見ながら中根先生は言った。真司は、食パンを買うことに決めていた。パンを漁る中根先生について店内を歩いた。
「真司君、何パンが好きなの。」
「餡パンが好きなんです。でも家にバターとジャムがあるので、食パンを買うことに決めていたのです。母が食パンで良いって言ってますので。」
真司が答えると、中根先生は顔を真司に向けて見つめ、微笑んだ。 「お母さん、家にいるの。お邪魔して良いかしら。」
真司は、微笑みながら言う言葉に心地よさを感じた。 「え、来るの。そりゃ構わないですけど。」
その返事を聞いて、大きく頷くと餡パン三つとクリームパン三つを買った。
真司は、自転車を曳いている中根先生と並んで歩いた。
「先生の家は何処なんですか。」 「須坂よ。少し遠いけれど、休みになると、時々こうして出かけてくるの。」
真司は、須坂といえば七キロくらい離れた郊外で、農家も比較的多くあるところであるのを知っていた。 「学校へは、バスで通っていますよね。」
中根先生は、真司の顔を見て大きく頷いた。
小さな平屋建ての家に着いた。周りはウバメガシの生け垣を巡らし、小さな庭があった。
「ここが私の家です。母と二人の、母子家庭です。」 玄関に入ると、真司は母を呼んだ。
「数学の中根先生です。数学が苦手で、面倒をかけている先生です。」
母は、笑顔で中根先生を迎えた。中根先生は、玄関に飾ってあるカサブランカを見て、軽く目を閉じて深呼吸をして玄関を上がった。
「百合が好きなんです。良い香りがするでしょう。いただいたものなんです。」
母は台所に案内した。コーヒーを用意してくれており、台所のテーブルの椅子に腰掛けた。三人で食事を取った。
「お口に合うかどうか、これを食べてください。真司君は、アンパンが好きだと言っていましたので。」
中根先生は、クリームパンとアンパンを竹駕籠の中に入れた。それぞれに、好きなパンをとって食事をした。
真司の母は、何故担任でもないのに、中根先生が息子と親しそうにしているのだろうかと不思議に思った。中根先生の立ち振る舞いを、逃すまいと一つひとつ見つめていた。中根先生は、真司の母の視線を感じていた。
「お母さん、私は数学の教師をしております。須坂で大学三年生の弟と二人暮らしです。両親はいるのですが、現在会社の仕事で海外勤務が続いております。七年にもなります。今は、中国で勤務をしています。」
中根先生の話を聞いて、真司の母の顔が緩んだ。 「そう、須坂の中根さんですか。須坂には、中根さんという方多いのですか。」
中根先生は、顔を横に振った。 「中根という家は、私の家だけです。祖父が名古屋から来て、住み着いたと聞いております。」
真司の母は、笑顔を見せ、何回も頷いて中根先生を見つめた。 「両親が海外出張と言うことで、今年、柏崎からこちらの高校へ転勤させて貰いました。」
そして付け加えるように、中根先生は言う。 「空き地同然の庭があるので、草取りが大変です。」
そう言うと、コーヒーを飲み干した。真司の母は、テーブルに置いたコーヒーポットを取り上げ、中根先生のコーヒー茶碗に注いでいた。中根先生は、何気なく真司の母に尋ねた。
「真司君のお父さん、お亡くなりになったの。」 真司の母は、真司の顔を見た。 「そうなの、真司が生まれて間もなく病気で亡くなったの。」
そう言って、顔を一瞬伏せた。真司は、平気を装って 「お母さん、無理をしなくてもいいよ。俺、親父に会ったことあるよ。」
と言った。母は驚いたように、目を大きく開いて真司を見つめた。真司は、中根先生を見つめて言った。
「俺の親父、ヤクザの組長なんだ。母と私を心配していた。住む世界が違うけれど、親父を嫌いではない。ただ、親父と同じ世界には入らない。親父も、それを望んでいるようだった。」
中根先生は、真司と母を頷きながら見つめた。 「真司君、それにお母さん、辛いことを聞いで御免なさい。」
中根先生は、そう言って俯いた。少し考えているようだった。
「お母さん、私、真司君に命を救ってもらったことがあります。それ以来、真司君は、忘れられない人になってしまいました。真司君のこと、多く知りたいのです。」
顔を上げて、中根先生は真司の母に向かって言ったのです。暫く、真司の母と中根先生は、見つめ合っていた。そして真司の母の顔が、優しく微笑みを見せた。
「先生、これからも真司をよろしくお願いします。」 真司の母は、中根先生にそう言ってから、真司に顔を向けた。
真司と母、それに中根先生も、言うことは全て言ったと思った。お互いが、少しはみかみながら、ぎこちなくパンを食べ始めた。そして笑顔を交わし、他愛もない話を始めた。
中根先生が帰るとき、中根先生の自転車を引きずりながら、真司は大通りまで送った。
「そう言えば、真司さん、勉強の方、順調にいっているようね。」 真司は、中根先生が名前を「さん」を付けて言ったのに、何か特別な親密さを感じた。
「数学の方、とても成績が良いわ。」 真司は、中根先生に顔を向けた。中根先生の明るい瞳が見えた。
「まだまだです。勉強の方、もう少し頑張らなくては。」 中根先生は、頷きを見せた。 「分かったわ。真司さん、体を大切にね。無理をしないでね。」
中根先生は、労わるように真司に言った。大通りに出ると、真司は自転車を中根先生に渡した。 「先生、近いうちに、草取りに行きますから。」
真司はそう言った。中根先生は、右手を出し、二人は握手をした。お互いの温もりを確かめるように、顔を見つめ合って少し長い時が流れた。時々振り返り、手を振っていく先生を、真司も手を振って見送った。
真司は、三年生となった。クラスの組替えはなかった。同じクラスの青木軍治が剣道部の部長となった。
「真司君、防具と胴衣が置いてある。時機を見て、虫干しなどをしてある。たまに練習に来てみたらどうだ。」
五月に入っての放課後、真司は剣道部の練習に行った。素振りや運足は日ごろしている。胴衣を着て袴をはき、胴と垂をつけた。深い茶染めの胴姿に、一、二年生部員は、珍しそうに見つめた。
男女に分かれ、学年順に整列して正座をし、指導する先生を待っていた。指導者は、漢文の諸墨先生で変わりがなかった。少し遅れて、白胴着に赤色の胴を付けた中根先生が入ってきた。中根先生は、女子部員の前に正座をした。真司は、中根先生を見つめた。清楚さに満ち、穏やかな目付きだった。青木部長の
「黙想」 との声で、両手で円を結び、全員が目を閉じた。真司の目には、中根先生の凛々しい姿が浮かんだ。
練習が終わり、終わりの挨拶をした。防具を脇に抱えて、真司は青木部長と道場の出入り口に向かった。出入り口近くに、立っている女子部員がいた。真司が前を通るとき、その女子部員は真司に向かって一礼をした。真司は見覚えのある女生徒だと思った。
「部長、出る時挨拶をした子は、誰だ。」 「二年生の、樋浦玲子という子だ。筋のよい子だ。」
真司は、玲子という名前で思い出した。ゲームセンターと夏祭りで、酔っ払った兄と一緒にいた子だと分かった。
真司は、三年生の夏休みも終わり、初めて大学入学模擬試験を受けた。ある程度の手応えがあった。秋になって、中根先生の家の草取りを約束したのを思い出した。自転車で、須坂の中根先生の家に向かった。
中根先生の家には、先生の弟が一人いた。卒業論文に取り組んでいると言っていた。 案の定、庭には雑草が伸びていた。真司は一人で草取りを始めた。
昼近くになって、中根先生が帰ってきた。午後から三人で草取りをして、思ったより早く始末ができた。
「もうすぐ、柿が実りますね。大ぶりの実ですね。とるのを手伝いに来ます。」 真司が中根先生に言うと 「柿をさわすくらい、私にもできます。」
と嬉しそうに中根先生は答えた。真司は、コーヒーとケーキを御馳走になり、家に帰った。
秋になって三年生の修学旅行があり、中根先生も引率教師として同行した。京都、奈良への三泊四日の旅行だった。四国の栗林公園にも立ち寄ったが、帰りは車中泊という行程だった。慌ただしく寺院を巡り、それでも思い出を作って帰ってきた。
中根先生は、居間のソファに腰を下ろして修学旅行の写真を見つめていた。集合写真の多くは、真司と隣り合わせだった。スナップ写真を見た。真司は同級生の生徒会長となった勝山健二、前山真由美、石野弘子と一緒になって行動するのが多く見られた。時々、不良生徒だった花野良太も顔を出していた。中根先生も、真司らと一緒に行動することが多かった。スナップ写真では、自分に寄り添うように真司が写っていた。
中根先生は思った。自分が求めてそうなったのだろうかと。それとも真司が求めてきたのだろうか。二人で並ぶ写真は、二人に笑顔が溢れんばかりの姿だった。京都の歌声喫茶に入って、みんなで校歌を歌った時、真司と顔を見合わせて歌ったのを思い浮かべた。
「先生、一緒にいてくれて楽しい。」
そう真司に言われたとき、真司の顔を覗き込んだ。優しい目、笑顔が見えた。何故か、その時幸福感で満ち溢れたのを思い出した。
「素晴らしいわ。真司君、いや真司さん、本当に一緒にいたいね。」 中根先生は、写真に向かって声を漏らした。
「二人だけで、京都、そして奈良を歩いてみたい。そうなると良いね。」
中根先生は、写真の真司に語りかける言葉で、一層幸せが増していくのだった。ただ、現実的でないとも思った。真司が卒業してしまえば、全てが終わるのだと思うと、悲しさが込み上げるのだった。
中根先生は盲腸炎で市民病院で手術し、少し状態が良くないことから入院した。学校の先生方を代表して教頭先生が見舞いに来た。診察に訪れた主治医に教頭先生が尋ねたところ、一週間ほどの入院と言われた。中根先生は、クラスの担任でないことから、見舞いに来る生徒は来ないと思っていた。
病院のベッドに身を横たえ、窓に向かって右に体の向きを変えた。窓から青空の中に白い雲が浮かんでいるのが見えた。静かな時が流れ、何故か真司の姿や顔が浮かんでくる。教師という立場を考えると、生徒である真司に想いを寄せてもどうにもならないと思った。
「会いたいな。」 と、中根先生は声を漏らした。それを聞いたように病室の戸をノックする音がしたと思うと、看護婦と真司が入ってきた。
「学校の生徒さんが面会に来られました。面会時間は、十分ほどでお願いします。中根さん、まだ起きてはいけませんよ。」
そう言って看護婦は病室から出て行った。
「母に、先生の見舞いに行きたいと言ったら、カサブランカを持って行きなさいと言われました。良い香りがするから。そう言って、母は私を送り出してくれました。」
そう言って真司は、家から持ってきた大きめな花瓶に水を入れ、カサブランカの花を生けて中根先生の枕元に置いた。
「とても良い香りがする。加奈子、とっても嬉しい。真司さんに会いたいと思っていたの。」
中根先生は、掛け布団の下から手を伸ばした。真司は、黙ってその手を握りしめ、微笑みを見せた。真司は、少し言い難そうに
「私は、大学を卒業したら、高校の教師になろうと思っています。」 中根先生は、もう真司に、それ以上の学力が備わっていると思った。
正月も過ぎると、高校の卒業式も目前に迫る。中根先生は、寂しさを感じた。真司との別れを考えると、切ない気持ちになるのだった。真司が、自分をどう思っているのか、それすら分からなかった。先生という立場から、真司に想いを打ち明けることはできなかった。真司の幸福を見つめながら、一人ひっそりと過ごす自分の姿を思った。ただ部屋で俯き、涙を落とすだけだった。
それは三月の日曜の暖かい日だった。真司は、中根先生の家へ遊びに出かけた。大学合格の挨拶も兼ねたものだった。手土産にセパレートケーキを携えての訪問だった。
「まあ、いらっしゃい。合格おめでとう。」
そう言って真司を応接室に招いた。そこには中根先生の弟孝治がコーヒーを飲みながら雑誌を読んでいた。弟は、真司の姿を見ると
「やあ、おめでとう。学部は一緒だね。」
そう言って立ち上がると、真司と握手を交わした。真司がソファに腰掛けると、中根先生はコーヒーを入れた。真司の持ってきたケーキをそれぞれの小皿に載せて置いて、中根先生も真司と向かい合って座った。コーヒーを食べながら、大学の様子などを話していた。暫くすると中根先生は少し顔を曇らせて言った。
「父から手紙が来たの。父は、丸河商事に勤めているの。今月の末には中国支店から戻ってくるという知らせだったの。私は、父と母に厳しく育てられたわ。」
さらに、俯きながら言った。 「父の便りでは、新潟支社長として戻るとのことだった。この家で過ごすのを楽しみにしているとのことだったの。」
中根先生の弟は、その話を聞いて少し驚いた様子を見せた。 「俺、アパートを借りるか、寮に入って暮らすよ。父とは性格が合わないから。」
そう言うと、中根先生の弟は立ち上がり、応接室から出て行った。 「私も息苦しくなるわ。真司君ともお別れね。」
そう言う中根先生の表情は暗かった。
真司は、中根先生にいとまを告げて玄関を出た。玄関を出て、中根先生は真司の自転車がないのに気付いた。
「バスで来たのね。私バス停まで送っていくわ。」 真司と中根先生は並んで歩いた。バス停近くなって中根先生は 「少し浜辺を歩いてみない。」
と横を向いて、真司の顔を覗くように言った。真司は、中根先生の顔を見つめて頷きを見せた。二人は寄り添うようにして歩き、浜辺を見下ろす社のベンチに腰掛けた。二人は黙って海を見つめていた。お互い肩が触れ合い、お互いの吐息が伝わってきた。
「私ね、真司さんのこと、忘れないわ。歳なんか気にしていないわ。私、真司さんのこと好きなの。ずっと待っているわ。」
中根先生は、海を見つめながら言い終わると、急に立ち上がった。真司も立ち上がると、二人は手を強く握り合った。真司は中根先生の瞳を見つめ
「先生、先生と一緒になりたい。きっと迎えに行きますから。待っていてください。約束ですから。」
と言った。スーと二人は顔を近づけると、長く口付けを交わした。
中根先生は、手を離すと社の鳥居に向かって走り出した。時々振り返って、真司に向かって手を振っていた。そして手を目に当てる姿が見えた。真司は中根先生が泣いていると思った。そう思うと、真司の目からも熱い涙が流れくるのを感じた。中根先生の姿が見えなくなり、真司は海に向かって歩き始めた。
真司は、中根先生と別れたが、余り寂しさを感じなかった。 「私、真司さんをとても好きです。いつまでも…。」
その言葉を聞いたからだった。家近くの垣根を見て、ふと空を仰いだ。遠くの社には桜の大木が花を咲き誇っているのが見えた。
「大学に入って勉強をし、人格を高める。大人になって、中根先生に会おう。」
中根先生は待っているという確信があった。中根先生には、高校教師になると言ったが、それだけが道ではないと思った。
「そうだ、中根先生の父の勤める会社に入ることも出来るのではないか。日本の名だたる商社であるが、入ることも可能である。とにかく知識と人格を磨くことだ。」
真司は、将来を朧気ながら考えていた。 家に戻ると、母が夕食の支度をしていた。母はそれとなく真司に言った。
「真司、大学に行くことになったね。これを機会に、母さんの身の振り方を承知してもらいたい。どうだろうか。」
母は、そう言ってから、町で小料理屋を開くと言った。父省吾の援助を受けてのことだった。
「母さん、僕は別に反対はしないよ。これからは、お母さんの好きなことをすればいい。父さんも一緒になってやってくれればいいと思っている。」
真司は、そう言った後に、大学を卒業するまでの間、学費などの面倒を見てもらいたいと言った。 「それは勿論ですよ。お金の心配はさせないわ。」
そう言う母に、真司は頭を下げた。 「家事、食事などは、自分でするから、心配しないで。」
真司はそう言って、自分の部屋に入った。机に向かって椅子に腰掛けると、頬杖をして中根先生を思った。 「中根先生、苦しかったのだろうな。」
父母の帰国で、自分の素性を話すほど気丈な女性ではないと思った。寂しく過ごす中根先生を思うと、哀れにも思った。
「待っていてくれるだろう。きっと迎えに行く。」 窓の外の夕暮れの空をみながら、真司はそう呟いた。
真司と中根先生が別れてから七年の歳月が過ぎた初夏のころ、日中蒸し暑かった日だった。中根先生は夕暮れ時になって勤務も終わり、高校の校門を出た。最寄りのバス停からバスに乗り、繁華街で下りた。賑わっている街中で、中根先生はハンドバッグからマッチ箱を取り出した。小料理「桔梗」と書かれたマッチ箱で、住所も記載されていた。繁華街の電柱に貼られている町名表示を頼りに歩き、繁華街に沿った裏通りの歓楽街に出た。人の往来は少なく、静かな通りだった。小料理店「桔梗」の看板を見付け、店の前で暫く立っていた。
勤め帰りの数人の集団が、背後を通り過ぎていく。その集団に目を走らせると、それと擦れ違って二人の芸者風情の女性が、和服姿で目に入った。その二人は、近くにある大きな料亭の門の中へと姿を消していった。中根先生は、また「桔梗」を見つめた。すると脇を通って「桔梗」に入っていく会社員風の男二人連れがあった。戸を開け閉めするとき、暖簾の下から小綺麗な店の中が見えた。
中根先生は、意を決して「桔梗」の暖簾をくぐり、戸を開いて中に入った。 「いらっしゃい。」
三人ほどの女性の声が聞こえた。若い女性店員が向かってくる。中根先生が店の奥を見つめると、真司の母圭子が見つめているのに気付いた。中根先生が一礼すると、真司の母が驚いた表情見せた。若い店員を押し退けるように、真司の母は中根先生の前に向かい合った。
「まあ、中根先生、お久し振りです。こちらに来てください。」 真司の母は、そう言って中根先生を奥のカウンターに案内した。
「先生、何になさいます。今日は、暑いですからビールにしましょうか。」
真司の母は、カウンターの中に入って生ビールを樽から小ジョッキーに入れた。中根先生と向かい合い、ジョッキーを先生の前に置いた。厨房の女料理人から、卵、ちくわ、蒟蒻のおでんを受け取り並べた。
中根先生が、一口ビールを飲んで、真司の母を見た。真司の母は微笑んでいた。 「真司さん、お元気ですか。」
真司の母は、微笑みながら頷いていた。 「ええ、元気ですよ。大学を卒業して、今、アメリカに行ってますよ。」
真司の母が、そう話すのを聞いて、中根先生は少し驚いた。 「え、アメリカですか。遠いですね。」
そう言って俯いた。俯いた耳に、客が来たのだろう戸の開く音が聞こえた。店の入口の方を見て驚いた。 「お父さん。」
店に入ってくるのは年配の男二人連れで、一人は間違いもなく、中根先生の父だった。父も、娘の姿に気付いた。
「加奈子か、驚いたな。お前が酒を飲めるなんて。」 そう言って、娘の肩を叩いた。 「丁度いい、奥の小座敷で一緒に飲もう。」
中根先生の父が、そう言って連れの男と一緒に小座敷に入った。若い女店員が、中根先生のビールとつまみを中根先生の前のテープルの上に置いた。父は、娘を見つめてから、連れの男の方に手を延べ
「加奈子、この方は、俺の高校時代からの親友の、井上さんだ。この店の主人だ。」 父の紹介を聞いて、中根先生は驚いた。
「真司さんのお父さんですか。中根の娘、加奈子です。よろしくお願いします。」
中根先生は、何故か心に光が差し、明るい声で真司の父に言った。丁度、真司の母が小座敷に入ってきた。生ビールを中根先生の父健三と真司の父省吾の前に置いた。
「貴方、中根先生には、真司が世話になったのよ。」 女店員が、おでんを運んでくる。真司の母は、真司の高校時代の思い出を話した。
中根先生の父健三は、本社からの通知文で、この市の生まれで井上真司ということから、本社に問合わせ父が省吾ということが分かったとのことだった。一年間、本社で勤め、その後アメリカ勤務となったと話した。
「本社では、真司君は優秀で、将来、見込みがあるとの評価である。」
そう話すのを聞いて、中根先生は長く抱いていた拘りが解け、心の中が益々明るくなっていくのを感じた。娘が華やいで明るく振る舞うのを、父健三は見逃さなかった。
帰国したときの娘は、暗く、言葉も少ない女性となっていた。それが今、何の屈託もなく心底明るく振る舞う姿を見た。それが井上省吾の倅、真司の存在が大きく影響していたのだと思った。
「来年の春には、真司君は帰国するだろう。」 と言う父の言葉を聞いて、中根先生は微笑み、俯いて目を閉じ真司の姿を思い浮かべるのだった。
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