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    「何故、生きているのか」

 

       佐 藤 悟 郎

 

 

 最近、私は人間の死を考えるようになった。私自身も死の訪れを避けることはできない。秋の青い空、日差しの中で顔を上げれば、遠い空に筋雲が目に写る。秋の収穫が終わった田圃の畦道を一人で歩いていると、赤蜻蛉が幾匹も私の側を掠めて飛んでいく。枯れた色の農村の家々が、田圃の向こうに静かな佇まいを見せている。

 

 死んでいくのかと思うと、その落ち着いた風景が懐かしく、新しく、また悲しく目に写る。今まで過ごしてきた人生、必死になって変えようとしていることが寂しくなった。

 

 もし、もっと早く、若い頃にこんな気持ちになれたら、心に適った生き方をすることができたと思うと、後悔の念を禁じ得ない。私は、諦観的な心の中で生きてきたと思っている。物事に対する見方を、人一倍養いたいと思ってきた。人間の思考の差は、誰でもそう変わらないと思っていた。全てが、私の「思い」であり、誤った判断だった。

 

 人間の生は、人生である。それ以上に誇張することはできない。人生を、目的論的な解釈をして生きたがる人がいる。間違いと思わない。一貫した人生への執着があり、それを糧として生きていけると思う。

 

 死を目前とし、自分の消滅を考えた場合、果たして目的論的な安易な解釈で済ますことができるだろうか。死を前にした人間の感慨は、ただ「生きてきた。」と言うことではないだろうか。人間が社会的なものと言われているが、元来、人間の死は一人の寂しい事実である。生あるものは、自然に戻るだけである。

 

 世の中には、様々の人がいる。人生を計画的に生きようとする。人生の時間を数え、時間毎に目的を与える。私も、そのように思って生きてきた一人である。

 

 また、自分に都合がよいように物事を考えて、人生の組み立てを希望する人もいる。果たして、全てが正しいのだろうか。このような思い込みが、何故必要なのだろうか。人生の価値観を測る人がいる。社会的立場を求めることや金銭を求めるなど、色々である。人生の長い終わりを考えた場合、無意味でないだろうか。

 

 私は、平凡な人間の一人である。野心をもって生きる以外に、人生はないと思っている。ところが、今日、死という物を目前に置いて考えると、何もかも無意味であり、野心を抱くことが卑しいと思うようになった。人間は、生きている。そして、やがて死んでいく。この定められた籠の中で、どのように羽を広げ、どっちに飛んで行けばよいのか分からなくなる。左か、右か、何れかの道を選ばなければならない。選んだ道が間違っているのかも知れない、道なんかなく混沌しかないのかも知れない。

 

 私は、二か月近い休養の間、本を多く読んだ。その長い休養期間が終わろうとしている今、これまで本を多く読むことができなかったのかと、深く反省するのだった。静かな時間を大切にしなければならないとも強く思った。

 

 私は、何回も決心し、自身に対する規則を作った。全てが、粉砕してしまった。自然さに比べれば、無意味なことだと思った。絵のように描いたところで、更に大きな物の一部にしか過ぎない。

 

 他人に変人と言われること、屡々である。そう言われると、気分が大いに悪くなる。それらの人は、私にとって邪魔者と思うことがある。今更、どうすることもできない。

 

 満足感を削ぐ、騒音や言葉が周辺に溢れている。

「静かにしてくれ。俺は我慢ならんのだ。」

世の中の全てが、無意味に思える。

「やっと静かになった。」

何を考え、感じていたのか分からなくなった。

「みんな、何処かへ行ってくれ。私、一人にしてくれ。」

どんなことをしても、私に満足というものが訪れないことは知っている。私は、思うがまま生きたい。でも、それができない。何故だろう。何故、思うがまま生きることができないのだろうか。

 

 精神的不安定、行動的音痴、無知、何れも卑しい言葉であるが、私に当て嵌まる言葉である。落ち着くんだ、そしてやるべきことを考えることだ。何故生きているかを、心の中に吐き捨てるのだ。それで私の心は終わるのだ。お前は、斯くの如く生きるのだ。しかし、雑音だけが、私を狂わせてしまう。