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「私の人生は何なのだろうか」

 

      佐 藤 悟 郎

 

 

 今迄、そう思ってきた。実際は、憧憬的なものでしかなかった。私は、それが人生の目的であることを、確実に認識し、推し進めなければならない。

 私の、この意思に反するかのように、私に対する抵抗は既に現れてきている。私は、それらに対抗し、克服しなければならない。

 執筆者と言っても、その内容は小説であり、詩である。これが私の目的である。他の全てを擲つことがあろうとも、私は、終局的に認識しなければならない。

 

 私の行動は、これらのことから全て生まれてくる。私の人生の理論的構成もここにある。今迄のように、精神的にも、社会的にも、また肉体的にも、過ごしてきた過ちを矯正していかなければならない。

 

 現実的な大きな問題は、私の職の問題である。精神的にも、行動的にも、私に大きな制約を課してきた。私は、最初にこの制約から解放されなければならない。

 特に、集まる人々の醜悪さ、精神の乱れ、組織内の醜悪さ、人格無視の大きさ、権力的高慢さ、これらに私は冒されている。他のものを見つめなければならない。払拭しなければならない。違う立場で、物事を見つめなければならない。

 

 では、私がどのような立場で見つめるのが良いのであろうか。それは、私の前提としての小説と詩を志す人の心である。これは現在の職と、真っ向から対立するだろう。

 

 職の中では、単なるサラリーマンとしての立場でよいのだろうか。職場には、私を受け容れない官僚的な心情が流れている。私は批判するのでなく、単に糧を得るための方法として考えるだけでよいのだろうか。定められた事項を、定められた方式で勤め上げることも難しいことである。

 

 次に、小説と詩を志す人として、どのような生活をすればよいのだろうか。私は、一人で考え上げることが下手である。その上、情操的な感覚が、過去の何れよりも後退している。

 これは、私が余りにも開放的な人間になっているからに他ならない。私は、毎日の努力で孤独になり、一人で考え、感情を内に押し込めることをしなければならない。閉鎖的な人間とならなければならない。

 

 ここで私は、厚い壁に衝突する。人との交流が無くて、どうしてできるのか。これは大きな問題である。人からの働きかけがくる。これは否定できないことである。孤独と、人の働きかけは、相対立する関係にあり、この問題を処理しなければならない。人への対応は、その目的に適う、必要最小限の言動をとることで終わりとする。感情を表さないことである。言われないことには、これに応じないという立場をとる。

 

 私の前から、全ての人々が消えた。肉親や旧知の人々も、私の前からその影を失い、私は孤独となって生きる。私には、約束された激しい苦しみが訪れる。終生、取り返しのきかない誤りかも知れない。人生の道から外れたことかも知れない。

 

 私の目の前には、今度は、逆戻りができない道があるだけだ。私が知っていると思っていたその道、私は本当のことを知らないのだ。私は何を為し、何を鍛えていくのか、それは間違いでも良い、進んでいくだけだ。