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「社会的観念の誤りと孤独」

 

            佐 藤 悟 郎

 

 

 私は、最近変わってきたのかも知れない。意識的に態度を変えるのかも知れない。それは、私に必要な生活の態度であり、徹底していかなければならない基本的な事柄である。その態度は、自己満足や偏見から生じたものであるかも知れない。このような卑屈な思いを払拭して考える。創作する者としての態度と言うことについて考えなければならない。その態度の中心は、あくまで個人的に見つめるところにある。人々は、偏屈者と非難する。しかし、多くの場合、人は偏屈であるということを疑わない。

 

 その理由は、次の点にある。人の真の在り方と人の実際の在り方の相違があるからである。人間の姿は、真実と事実が異なるといえる。人々は事実から、その真実を見通すことはできない。多くの場合、人の事実的要素は、その教育、道徳、立法、倫理等、今日までの人間に果たしてきたものにより、人間その物を事実的存在として作り上げている。それらの全ては、人間の真実とは思われない。この点を、疑ってかからなければならない。

 

 即ち、従来的な人間観、社会観、人生観等の全てを見つめなければならない。冷静に考え、感じて、それらを真実と見較べなければならない。これこそ私の一生の仕事になるはずだと思う。このような私の態度は、事実的要求に動かされている人々とは、相違があるのは当然である。その中でも融和できる現象がある。これは私を知らずのうちに堕落させることになるだろう。知らない内に、事実的要求の流れに乗せられてしまう危険がある。これが故に、私は人々から離れなければならない。今、私が思い返してみても、今迄の道徳や教育などによって、多くの間違いをしてきたことを思うと残念な気がしてならない。

 

 事実的要求の姿、社会的事実の中で働き、強制されなければならない。個人は、社会的に動かなければならないという観念である。果たして、こんなことが真実であろうか。この考え方は、個人は社会的存在という一般的事実を観念化したにすぎない。個人の全てが、社会的存在と言うことはできない。そうあるべきだと要求する現実は、確かに誤っている。この考え方の全体を見ると、社会あるいは指導者が望むところを強制しているに過ぎず、容認することができない話である。彼等達は、事実的要素を、単なる一つの観念を事実化し、恰も真実と見せようとしている。それは恣意的な強制でもある。その都合に合わせた教育をしているのである。もっと深く考えてみれば、これらのことが習慣化して、人間は従来の観念が正しいものと、無意識的に受け容れ、動いているのである。現代は、全てが観念化されている。人々は、その中で盲目的に動いているに過ぎない。

 

 私は、このような現実の中にあって、自分の基本的立場を考えなければならない。その中の一つとして「孤独」ということがある。この態度の必要性というのは、人々から離れ、人々を見つめ、物事を考えることができるというところにある。人々は、そのような者に対して非難を浴びせることが必至であり、次には圧迫的態度、その次には無関心となるだろう。

 

 孤独という態度は、一見して人々に異端児、反抗的、高慢のように見えるだろう。決して自分の立場を説明したり、納得させる態度はとってはならない。それらの行動は、孤独その物を否定するからである。孤独な人に対する非難、これらも含めて、ただ見つめていく。そして、誤った事実を受け容れないという強い態度と精神を養っていくことが必要だと思っている。