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    「小説の書き方」

 

                       佐 藤 悟 郎

 

 

 紳士淑女のようなことを言っていられない。反省することも要らない。将来の遠い夢も必要でない。何故なら、幻想に過ぎないからである。必要なのは、現実の態度だけである。

 

 小説は、待っていても出来上がらない。書かなければ、出来ない。簡単な事実である。この事実を、事実として受け止めていない態度が、一番の問題である。真摯な態度こそが、前進を生み、作品を書くことができる、唯一の力である。読書家になろうとしているのではない。文学者、知識人になろうという意思もない。存在するのは、小説家である。

 

 小説の創作理論を追いかけることは有益ではない。理論を身に付けたとしても、何に役に立つのだろうか。無いよりは増しであろうが。理論を考えて書くより、実作に向けて活動することが好ましい姿である。書くことについて、最良の方法はない。能力と言われるところである。どのような勉強をすればよいと言うことでもない。そのようなことを論ずるのは、まやかしでしかない。自分を信じ、書き抜くこと、それが創作の力である。

 

 幾ら書いても、実際、下らないものばかり書いていることが多い。悲観することはない。やたらと良い作品ばかりが書ける訳ではない。下らない作品は、それはそれで良いのであって、捨てることも反故にする必要もない。況してや、それを現在の評価とする必要もない。創作は、継続と断続だらけの世界である。早急に取り纏め、積み重ねておけばよい。紳士淑女的な作家でないからである。

 

 下手なことを恐れてはいけない。書かないことを恐れることだ。書かないで減らず口を叩くことは、絶対にしてはならない。社会に追従する作品を書いてはならない。少なくとも、社会を無視して書くのがよい。結果として、社会に追従するものとなれば、結構である。常に、自身を疑って書かなければならない。これまで受けた教育や知識が、誤っている虞が十分にある。

 

 創作に当たっては、常に命題を果たすことである。書く標目になる。小説が、小説である意味を、常に考えることである。考えは、消え去っていく。消え去っていく考えを、深く追い求めてはならない。動きが取れなくなってしまうからである。命題に対するものであれば、深く物事を解明、探求する必要がある。

 

 作品は、世の中に出すように努力すべきである。どのような紙上、どのような姿でも構わないのではなかろうか。発表される、されない、そんなことを心配してはならない。公表されることは、世の中に出たと理解すべきであり、多くの人の前に出たかどうかは問題ではない。活動の苦しみは、公表されるという結果があるかどうかかも知れない。見苦しくとも、そんな道を選んだ人間であることを自覚すべきである。理解者もなく、師もなく、友もいない。そんな人間がやることは、見栄など必要がないではないか。

 

 批判すべき者は、批判すればよい。批判で理由のあるものは、心に留め置くことだ。理由のない批判だからと言って、敢えて反発をしないことだ。そんな労力は必要がなく、世の中の人々がやることである。これまでの消極的な活動は終息とし、活発に活動する時期に来ている。取るべき態度を、もっと厳しく見つめなければならない。決して環境に恵まれた者ではない。荒削り、破格、あるいは無能、全ての欠点を負っている者かも知れない。人生の、これまでの経過から見ると仕方のないことである。消極的に破滅に陥るより、積極的に生き、生涯の幕を閉じる方が増しである。

 

 己に厳しく、態度を形成するべきである。全てが、そこから始まるような気がしてならない。