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    「文学の心」

 

                       佐 藤 悟 郎

 

 

 心や物事を表現するのに、長い文章は必ずしも必要ではない。短い言葉の中に、多くのことが語られることを知るべきである。軽率に語るのでなければ、良い結果が生まれるだろう。

 

 若者よ、下を向いて歩いてはいけない。君達は、私と違って生き生きとしているのだ。生の楽しみは、限りなく広がっているのだ。上を見上げ、高き青空を望み、振り返れば遠くの山影の中に、大いなる希望が横たわっているだろう。

 

 君が年老いたことは知っている。だからと言って、そう急いではいけない。人は心で生き、余裕で幸せを感ずるだろう。一瞬の半分でよい、静かな心を持つことだ。そうすれば、人生は何倍にも広がるだろう。短くても、長いと思えば、人生が永遠であることを知るだろう。

 

 人々は、人々の摂理を知り、それを守らなければならない。知らずして生きる者、知りながら守らない者、様々な人生が生まれてくる。その多くは、現実をよく見れば分かることである。

 

 短い表現は良いことである。表現の中で一般論は、文学活動の目的とはならない。具体的な中に、一般論が入る調和の取れたものでなければならない。一般論だけでは、思想しか生まれない。人々は、それを好まない。人々が好み、読めるものを書くべきである。

 

 人間の性のことは、古来から語り継がれている。宿命的な人間の本能の問題である。人は、余りこの問題に触れようとはしない。人それぞれが判断すべきものなのだろう。文学的見地からすれば、自由であることを忘れてはならない。

 

 四十を越えた女性が、酒に酔って自動車を運転し、一方通行路を逆行して対向車と正面衝突した。女性は、独身で父と暮らす保険外交員である。郊外の独身男性のところへ保険勧誘に行き、そこで酒を飲み、三時間も過ごした後の出来事である。

 

 ある職場の幹部が自殺をし、自殺の原因がノイローゼと新聞に発表された。聞くところによると、女性関係によるノイローゼとのことである。女性は、同じ職場の若い女性とのことである。彼には、妻や子供がいた。この場合、問題となることは何であろうか。一夫一婦制の日本では、許されないことなのだろうか。形を変えれば、それでも円満に生きてゆくことができたはずである。このようなことをしている人も、現実にいるのである。

 

 創作活動の入口で躓いてしまう。何を書いてよいのか分からないからである。逆に言えば、主題を与えれば、或る程度の創作執筆ができるのではないかと思う。

 与えるべき主題とは、一般的小説形態、例えば「恋愛」「悲劇」「喜劇」などの観念を付与することである。次に、小説の骨子が必要である。この二つの要素があれば、少なくとも執筆ができるはずである。

 結果を求めるために、ノルマ的活動をすることも必要である。作品を、長、中、短編と分類し、作成すべき日数を決めて実践する方法である。

 

 小説家としての素質があるかどうか知らない。求め、歩いていることは確かなことである。根本的な人間改造が大切である。他人から見れば、馬鹿なことだと見えるだろう。

 常に小説家としての自覚を持ち、小説家らしい行動を実践することである。行動の支配と感情の支配をすることが必要である。軽率さを捨て、言葉を選ぶことも大切である。感情は内に秘め、思考は自由に、絶えず反省・検証する態度を持つことが大切である。

 

 激しい感情が私の心から消えていく。生命が消えると同じことである。取り戻したいと思う。相反する思いが、心の中で渦巻いていく。私は思想家ではない。心を悪魔に委ねても仕方がないことだ。

 常に、心の中で葛藤させよ。心の中であれば、欺瞞にも打ち克つことができるだろう。心を震わせる訓練をすることだ。そうすれば激しい感情を甦えさせることができるだろう。例えば、椅子を奪う様を思い起こすことである。その人の心も動き出すだろう。私の心も動き出すだろう。

 文学者の心は、千変万化である。神もおれば、悪魔もいる。賢者も愚か者も、全ての者が住み着いている。思想家と大いに異なる点である。嘘も簡単に述べれば、真実も事もなげに語る、それが文学者である。

 

 彼は冬の寒い夜、遅く家に帰って来た。アパートには二人の子供が炬燵に入り、テレビを見ていた。妻がいなかった。

 彼は直ぐさま、外に飛び出した。妻を捜し当てるのに、そう時間はかからなかった。郊外の木の茂みの自動車の中で、彼の友人と抱き合っていた。中年の男と女の絡み合いだった。

「おい、お前達は一体、何をしているのだ。」

彼は、運転席の窓カラスを叩き割って、怒鳴り声を上げた。彼の友人と妻が、驚いて彼を見つめた。白い肌か見えている。彼は、もう何も為すことがないと思った。彼は、その自動車から離れていった。

 案の定、妻は帰ってこなかった。真夜中になって、妻から電話があった。

「私は、許してくださいなんて言わないわ。別れましょう。朝に、父と母が、子供を迎えに行きますから。」

「そうか。それが一番良いことだろう。」

彼は、そう答えた。彼には、怒りも悲しみも、何も感じなかった。急激に、人生が変化するのを感じた。

 

 心の中に人を連れてきて、大いに語り合うことだ。人間の経験には限りがある。その経験の中に、自身を引き込んでいくことが大切である。一場面や興味本位なところだけでなく、一連の動き、多くの場面に引き込んでいくことが大切である。

 空想的な場面を、心の中で現出させることだ。その中に現れる人々と語り合うことだ。神であろうが、悪魔であろうが良いではないか。そこに文学者としての広がりが生まれるだろう。そこで色々な経験を持つことができるだろう。

 

 物語の多くは、終わりがある。小説の多くは、完結している。完結していないような表現もあるが、完結していると見て良いだろう。物語の全体が如何なるものであるか、読む側としては大いに興味のあるところである。

 効果的な構成を作り上げることが大切である。全体として、物語の価値が生まれてくるものである。

 

 恋愛小説とは、一般的に恋物語を指している。恋とは、何だろうか。愛にも似て、美しいものを思い浮かべる。自分が恋したこと、恋されたことを思い浮かべることは、大切なことである。知ることによって、作り上げていくことができるからである。

 

 私の父は、私が中学校に入って間もなく、初夏の頃に病死した。私は、少し離れた町の中学校へ転校することになった。

「転校するんだって。私、どうしたらいいの。転校なんて困るわ。」

転校が間近になった、ある日の休憩時間のことである。前の席の豊子は振り向いて、私に言った。私は肩を竦め、彼女の瞳を見た。彼女は、私を見つめていた。

 私は、その時初めて、豊子が美しいのに気付いた。小学校も一緒だったが、成績も良い訳でもなく、目立たない女の子だった。

「私、決めたの。高校は、隣町の一緒の高校に入るって。その時、知らないなんて言わないで。」

別れる数日前に、豊子は私にこっそりと、そう言った。私は転校した。転校した中学校でも、私は多くの経験を積んだ。大人びたと思う間もなく、地元の高校へと進んだ。

「私来たわよ。」

私の目の前に、すっかり女らしくなった、美しい豊子の姿が現れた。

 

 小説の形式の研究をしなければならない。小説は、私が一人で楽しむものではない。人々が期待すべき心も知らなければならない。色々な種類の小説がある。人々に読まれてこそ、文学小説であることを知るべきである。色々な要素があるが、少なくとも手抜きをしてはならない。