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    「創作論」

 

                       佐 藤 悟 郎

 

 

 草稿の題材を如何にするのか、大切な問題である。創作は、大きく分けて二つの方法がある。一つは、抽象的、一般的思考の中から選んだ主題から、具体的な記述へと創作する方法である。もう一つは、具体的事実、話題などの物語として適当な事実を基礎として、抽象的、一般的思考を加味し、創作する方法である。草稿活動は、主として後者の方法によって進められるのが妥当である。所謂、題材となる具体的事実があって、それに小説的要素を加味し、草稿とするものである。

 

 具体的事実としての題材を、どこに求めたらよいのだろうか。世の中には、具体的事実が溢れていることを認識しなければならない。見聞し、あるいは経験した事実を、全て対象とするべきである。具体的な例を挙げれば、次のようなものがある。

 

 新聞によるものがある。新聞記事を読みながら、その記事の中で小説性のあるものを選び、最も小説として適したものから書いていく手法である。派手な記事と言っても、小説性のないものは対象として不適切である。テレビや雑誌によっても、同じ処理ができる。注意することは、自身の完全な恣意の下で草稿されることであり、他の模倣となってはならないことである。

 

 夢を見た事実がある。夢は、心に瞬間的に浮かぶ感情である。夢を見た場合、おそらく脈絡がないと思われるが、夢を脈絡のあるものとして構成することである。構成する要点は、真理の追究、人が到達すべき課題である。

 

 実際に経験した事実がある。その経験した事実に、何故心を奪われたのかを、良く追求しなければならない。

 

 人間としての希望、欲望がある。それから生ずる具体的行動とは何か、如何なる人が、どのような行動をした事実があるのかである。

 

 このように考えれば、草稿の対象は、枚挙に暇がない。問題は、実際に着手し、書くかどうかにかかっている。結果のでない活動は、全く意味がない。草稿活動は、量を積み重ねることに意味がある。草稿活動の中でも、文章力、文学的センスを鍛える必要がある。

 

 草稿が下作、愚作であろうか、それはそれで良い。書くことに意義があることを忘れてはならない。題材を求め、文学的処理をすることである。文学的処理とは、人間としての永遠的な物に基づくものであり、単に短絡的、道徳的なものであってはならない。人間の底流に潜む全てを、赤裸々にすることを容認することから始まるのではないかと思っている。