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    「雲の流れに」

 

                       佐 藤 悟 郎

 

 

 執筆活動を進めるについて、漠然とした心のままで良い訳がない。活動そのものの進め方、各分野における進め方をよく考え、明確な認識の下で進むものでなければならない。多くのことを書いていくものと思う。書くことが、即ち考えることだと思っている。

 

 考えなければならない範囲は、実に多いと思っている。その中で重要なこと、益すること、思い付いたことを書いていくこととしたい。自ずと文学に関することが、随想のような形となるかも知れない。それはそれで良いと思う。

 

 考えや思想は、常に流動的であることを知ることが大切である。この事実を容認できない人々は、思惟の発展もなければ、広さもないことになるだろう。考えや思想に統一的なことを求めてはならない。況してや結論的なことを求めてはならない。

 

 絶えず、総体的、全体的、広域的な考えを持つように鍛えなければならない。人を考えるならば、人生、社会、人類という風に全体的に考えることが大切である。流れる雨雲を見つめ、何故か人間の寂しさを思うのはどうしてなのか、心に問い質した。答えの返ってこない問いかけだった。雄大なものに触れると人間は優しくもなり、心も途方もなく広がっていく。

 

 中学生の頃、アパートの屋上で寝転がり、夏空の白い雲を見つめた。その美しさに心を打たれ、忘れまいとして、今も懐かしく思い返すのである。文学の出発点は、この人間らしい心の芽生えと同じではなかろうか。人間は、心を美しくしようと思えば、途方もなく美しくなれるだろう。悲しい花も、哀れな花も、楽しい花も咲くだろう。美しい心を育てることは、実に自分自身のためである。他人が思う程、幸福な花ばかり咲かせはしないだろう。

 

 人の心が美しいとは、一体何を基準として判断するのだろう。人によっては、醜いと言う人もあるだろう。偽飾と叫ぶ人もいるだろう。人間として当たり前のことだと言う人もいるだろう。人の心の美しさは、他人が判断すべきものではない。その心を持つ人の心だけにある。

 

 人の心が美しいとは、どのような状態を指すのか、どのように育てるものなのだろうか。困難な問題である。言えることは、美しいというのは、教育結果でもなく、法律でもないということである。教育者が言うことは、全てが正しいとは限らない。法律は更々、心を測るものでもない。どのような人でも、美しい心を持っている。事実として認めなければならない。

 

 教育は、正しくなされなければならない。人の多くは、教育者や教育内容を無条件に信じ、教育を受けている。教育内容の誤りに気付き、矯正するのに多くの時間と努力を必要としている。疑いが常に心の中に渦巻き、歩く道すら暗くなる。苦しみながら、それでも人の道を捜して歩かなければならない。人々を愛しながらも、私も疑いを抱きながら歩かなければならない。