「彼だけの文学活動」

 

   佐 藤 悟 郎

 

 

 彼は、文学に志を抱いた。小説を書きたい、詩歌を書きたいと思っていた。絶えずその希望が、能力がないために成就できないのではないかと恐れ、悩みながら活動を続けていた。彼は、専業作家ではなく、他に仕事に携わっており、時間的な制約、あるいは精神的な制約を心に受けながらの活動である。努力を続ければ、必ず成功するに違いない、いや、成功はしないだろうという疑心暗鬼の人生だった。

 

 最近、彼は、創作活動が果たして正しい方向に従ってなされているのだろうかと思い返した。現に、彼が行っている活動というのは、書くことに慣れるための日記を綴ること、時間を見つけての纏まりのない小説の草案を書くこと、大まかに言ってこれだけである。こんなことで果たして創作活動と言えるのだろうか、と自信すら消失しようとしている。

 

 彼が寂しく思うのは、創作活動をしているのに、結果が目の前に現れてこないということである。小説を書いても、詩歌を書いても、ノートの端くれの余白に書いている程度の扱いしかないため、再び目の前に取り出したくても、消失同然の状態になっていた。彼の根底には、今は未熟なものしか書けないが、将来完全なものを書き上げる。今書いているものは、単に踏み台でしかない、メモでしかない、という粗雑な感覚しか持ち合わせていなかった。彼は、この点に気付くと、最初から文学活動に対する態度が正しくなかったと深く反省したのだ。どのような活動であっても、現時点を大切にしなければならず、現在の能力はどうであれ、結果は現在に従っていかなければならないと思った。彼は、現在の結果、現在の反省検討が、活動の全てではないかと思った。

 

 中途半端な活動になるかも知れない。しかし、それは結果なのであるから、正確にその結果を残す努力をしなければならないと思った。反省と検討は、必ず次の段階へ良い道を示してくれるに違いないはずである。日記に綴る以外の創作活動で書くべきものは、原稿用紙に書いていくことが大切であり、目に見える結果として現れるものとなると思った。遊ぶ金に比べれば、原稿用紙代金など安いものだと、快い笑いを浮かべた。

 

 彼は、創作活動というものを、独立した活動として、仕事、邦楽や他の活動と並列的に考えていた。過去において、異なる考え方をしていたことも事実である。創作活動は、人生の目的であるから、全ての活動が創作活動に吸収されると考えていた。だが、現実を見ると、直接的活動であるべき創作活動が、他の活動の圧迫を受けて、実行不可能な状態を現出してしまった。そのとき、彼は大いに悩み、創作活動を独立させることを思い立ち、並列的な思考に至ったのである。

 

 今に至って、もう一度冷静に考える必要があった。創作活動を通して、作品の向上を図るには、やはり全生活体制を持って臨まなければ、やり遂げることができないのではないかと思った。創作活動の時だけ、文学者的態度で臨むことは、いかにも小さな思いであり、馬鹿げた物の考え方であると彼は思った。可能であるかどうかは別にせよ、彼は、全生活、全生涯が文学活動であり、文学者的態度で臨まなければならないと思った。人生目的が文学というところにあるならば、当然の考えでもある。

 

 職場での立場があることは間違いないことであり、彼は、時々文学者的観点から衝突する場面や、思考の混乱を生ずることを認めている。文学者は、元来自然発生的な思考を大切とするものと、彼は思っている。法と自然性が対立することは珍しいことではなく、統制と自由に至れば尚更のことである。彼は、過去の誤りを、職業人の立場から、文学者を見つめていた点にあったと思った。

 

 世の中の何が正義であるのかと自問した時、彼は自己が正義であると思った。自己を除いては正義の認識もなく、世の中もないからである。果たして、そうであろうかと彼は思った。不正義に陥ることは確かにある。自己の絶対的正義を論ずることは、不正義を称揚することでもある。彼は、常に自己が不正義に陥ることを防ぐことが大切と思った。心の問題であり、高慢さが大きな原因である。精神的なことでも、外形的なことでも、全ての分野に文学活動として捉えることが大切であると、再び彼は確認した。

 

 彼は、理論的思考は、それとして、いかに実践すべきか重大な問題だと思った。心と実践が一致すれば、それに越したことはない。果たして、そんなに簡単に実現することなのだろうか。実践の基礎となるものは、心である。適切な心さえ失わなければ、実戦することは可能であり、心を失えば、実践はあり得ないと彼は思った。心とは、文学者的心を維持することであり、実践とは、文学者的心を具現することである。

 

 文学者とは何であり、その心とは、一体何であるかと、彼は思った。それが分別できなければ、意識的な実践は及ばないことになるだろう。善き人間性に支えられた心の具現が、その一つに当てはまるのではないかとも彼は思った。ただ、文学者は、色々の感情をも知らなければならないと思った。

 

 文学者としての態度を維持することは、努力のいることであると彼は思った。時には、人類全体の行方を判断することでもあり、他に与える影響は甚大なものである。彼が意識しなければならないのは、広大な世界に立ち向かっているということである点である。それは高慢ということではなく、人間社会を外から全体的に見なければ、人間社会のことが分からないからだと彼は思った。人間社会を把握できなければ、文学的な思考は小さきに失することになる。

 

 彼は、この広い人間社会の中に、精神という心の世界というものが存在すると思った。そり世界は、人間の感情を色々と生み、多くの行動を生み出すものである。文学者は、これらのことを研究し、物語り、歌い、人生に果てしない問題を投げかけることにある。全てが、今までの教育や知識に藉口したものであってはならない。教育や知識を超えた立場に立って、考えなければならないと彼は思った。

 

 その研究の中には、独創性も入ることになるだろう。彼は、できるなら自分の感情を育てなければならないと思った。人間のことを、もっとよく知らなければならないとも思った。文学活動とは、全生活、全生涯を持って活動することであり、広い人間社会を見つめ、さらに人間を研究していくことによって創作されるものであると、彼は思った。自然の流れの中にあって、肩を張らずに行うものだと。