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「物語」

 

    佐 藤 悟 郎

 

 

 人の物語は、先に進んでいかなければならない。喩え、それがつまらない話であろうと、興味のある話であろうと、物語は、語られることにだけ意味があるものである。私が今、語ろうとすることは、皆さんが聞き飽きた話であるかも知れない。しかし、私は語らずに、この世を去って行くことができないのです。信ずることが、人の全てではないと思います。感ずること、触れることが、あなた方の心を、より高く、豊かにしていくものです。世の中に、本当につまらない話は少ないのです。一番つまらないのは、私たち自身の人生ではないのではないでしょうか。

 

 物語と言っても、昔話ではつまらないと思います。今様の話を手短に語っていきたいと思います。平凡でいて、また悲しく、明るい話が、私は好きなんです。

 

 小さな都市に、小説を書きたいと思っている男がおりました。彼は、その小さな都市の、小さな会社に勤めている男です。毎日、会社の仕事に疲れて家に帰ってきました。家に帰り、妻や子の顔を見て、一人アパートの小さな部屋に入るのです。彼は、その小さな部屋で、せっせせっせと原稿用紙に物語を書いておりました。彼の小さな心は、書いた作品を、世の中に出そうという決心がなかったのです。

 

 彼の妻と子は、彼が小説を書いている間を、勉強している時と思って、励ましておりました。ある日彼は、小包を用意しました。翌朝、妻に自信なさそうに、それを妻に手渡して言いました。

「某新聞社の懸賞募集に出すんだ。どうせ駄目だろうが。」

妻は、その小包を受け取ると、胸に抱きました。彼が言ったとおり、その作品は入賞もせず、送り返されることもありませんでした。彼は、妻を見つめ、笑いながら

「俺は駄目なんだな。能力はないことは知っていたけど、それだけ精一杯書いたつもりなのに。」

と言った。妻は、明るい笑顔を見せながら、頷いていた。

「貴方は、そう思っているけど、私には、とても素晴らしいことに見えますわ。だって、小説を書けるなんて。そして投稿するなんて。それでさえ、素晴らしいことと思いますわ。」

彼は、妻の明るい顔を見て、心が前より豊かになった。ただ、自身がどういう世界に顔を突っ込んでいるか、妻は知らないと思った。文学が、知識階級のものであることを。その中には、厳しい掟が、暗に存在していることを。その立場は、およそ作品の良否ではなく、作者の経歴にかかることが多いことを、妻は知っていないと思った。ある日、突然、作品が世に出て、作家としての地位が築かれると思っている妻、彼の最後に思う心であるが、そのような社会でないことを知らない妻が、彼は羨ましいと思った。

 

 しかし、彼にとっては、その懸賞募集は、文学界に対する挑戦状であることも意味していた。彼は、彼なりに、小説とは、どうあるべきかを考えており、その意志を曲げることはなかった。小説は、読んだ人に感動を呼ぶべきものであり、明るく、悲しく、美しく、全ての心が人間らしく語られているものと思っていた。

 

 彼は書き続け、そして投稿を続けた。そしてある日、彼の手許に入賞した旨の通知が届いた。彼の作品は、人々から賞賛を浴びただけでなく、今まで投稿した先から、今までの作品の発表の打診があった。彼は、それらについて、全て承諾した。彼が思うまでもなく、彼の全集が発刊されるまでになったのである。