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    「継続的な文学活動の推進について」

 

                       佐 藤 悟 郎

 

 

 人生の意義を述べている人がいる。熱い言葉で、心を震わせるごとく喋っている。よく聞いてみると、その人の人生経験だった。

 誰の人生でも、結果がよければ美しく見えるものである。文学活動というと堅苦しくなる。一体、書くことが好きなのだろうか。今更のように問いかけをする愚かさに失笑する次第である。好き嫌いの問題ではないようにも思う。

 春が過ぎ、梅雨も過ぎて、今日は七夕である。本格的な夏がすぐに来るだろう。そして、瞬く間のうちに秋の訪れとなるだろう。季節の移りの中で、無感覚で過ごそうとする生活の流れに深い悲しみを感ずる。どうにかして、文学活動を人生の糧にする努力をしなければならない。

 

 勇ましい言葉、それも良いことかもしれない。人生訓を作ることも良いことかもしれない。大切なことは創造的な世界に入っていくことではないだろうか。楽しくない活動を推進していっても、良い結果は生まれてこない。下らないことで悩んでいても、物事の解決とはならない。注意深く毎日の活動を検証しながら進んでいくほかない。

 

 最初から良い作品が生まれることはない。天才でもなく、優れた能力の持ち主でもない。この辺の自覚認識が大切なのではないだろうか。他の文学者の真似をしてはならない。専門的な作家でないことを知るべきである。過去のことを過大評価してはならない。活動すべきは、現在なのだから。書くことについて、時間の制限をすると、誤る場合が多い。類型別に規定することも危険である。

 

 活動結果の評価は、量の問題ではない。内容の問題である。意味のない文章を数多く作っても感心することではない。心に残る文章こそ大切である。一つの文章に心を配り、全体の表現を整然としていくことが正しいと思っている。

 この文章の全体像が明らかにされないまま、作成に着手している。最初の試みであるから仕方がないと思っている。「書き下ろし」的な作成方法がある。時には良いと思われるが、全てが同じ方法で記述することは適当でないと思う。

 課題や命題を定め、その骨子を項目的に羅列していく、全体を見つめながら肉付けをしていく。公文書の作成方法でもある。賛否両論があるかもしれないが、文学的な能力を考えるとそれでよいのかもしれない。