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「青年の時の流れ」

 

       佐 藤 悟 郎

 

 

 青年の時の流れとは、苦しいものである。その短い時の流れに迷うものも多い。彼は、今まで愛してきた、最愛の人と会うことができた。彼は突然に言った。

 

「洋子さんはちっとも変わっていない。俺なんか…。」

「あなたは今何をしているの。あらそう、鋳物屋さんにいるんだって。聞いたわ、夕子さんに。」

「そうかな、夕子さんが洋子さんと知りあいだなんて、知らなかったな。でも、里から出て洋子さんは五年になるかな。」

「そう、もう五年間よ。長かったわ。始めは一家揃って新潟に住んだの。でも、父の仕事がうまくいかなくて、半年も経たないうちに東京に出たの。祖父のお陰で父はまた銀行員になれたの。」

「そう、よかった。俺なんかすっかりいい加減に高校に通って、詰まらない人間になってしまった。」

「そうらしいね。夕子さんも嘆いていたわ。あの人、いつもふらふら遊んでいて、評判が悪いの。学校も休んでばかりいるの、と言っていたわ。」

「そうなのさ。やり切れないんだ。今だって、真面目に働く気がしないんだ。仕方がないなと自分でも思っているんだ。」

「仕方ないなんて弱虫ね。でも今、夜間大学へ行っているんでしょう。私も今年から父の会社で勤めているの。」

「そうか、銀行に勤めているんだね。じゃ、私も行きたいな。君の勤めている銀行、夜学出でも採用してくれるかな。」

「さあ、それは。でも偉いは、頑張っているんですもの。」

 

「やあ、洋子さん、こんなところにいたのか。おやおや、お友達ですか。」

「掛川さんじゃないの、さあ、お座りになって。紹介するわ。こちら故郷の友達で藤村さんというの。こちら掛川さん。私の会社の出世コースの第一人者の方です。」

「いゃー、出世コースだなんて。線でも引いてあればいいんですがね。今後ともよろしく。」

「掛川さんは入社したばかりで、今は私たちと一緒の所で働いているんだけど、すぐどこかへ移るの。」

「そう言われると恥ずかしいです。いつまでも洋子さんの横にいたいものです。半年間ですが、洋子さんほど美しく、人にもてる女性はいないです。」

「嫌ですわ。掛川さんって、意外のことを言う方なんですね。」

「いゃ、これは、これは。帰りは送って行きますから、お話が済んだら奥の方に来てください。藤村さんもよかったらどうですか。ご一緒に。」

「いいえ結構です。まだ他に用事がありますから。」

 

「どう、藤村君、感じの良い人でしょう。あの人は横浜支社の支社長のご子息、大学を優秀な成績で出てこられたの。いつも強引に誘うの。でも悪い感じはしないわ。」

「洋子さん、あなたはもう十九歳でしょう。少し大人らしい話も分かると思って話します。いいですか。」

「ええ、いいですわ。」

「私が今日洋子さんに会うために、どれだけ探したか知れません。私は洋子さんに相談をしにきたのです。私と、将来のことを約束してくれませんか。」

「そう、将来のことって、結婚のことね。でも、私は約束できないと言っておくわ。」

「何故ですか。私はこの五年間、洋子さんを慕い続けてきたのです。私は、最愛の女性として、洋子さんを忘れたことはありません。」

「そうですか。そうでしょうね。私も寂しかったの。でも、私達は幼馴染でもないのよ。思ってみれば、淡い恋だったのではないでしょうか。」

「違います。私と洋子さんは心の強い絆で結ばれたのです。洋子さんは、それを否定しますか。」

「否定はしません。それは三年間にも満たなかったけれど、心の通い合いがあったことは認めます。私が最初の恋心を抱いたことも認めます。強い絆で結ばれ、心から愛していたのです。でも、それからの私と貴方を振り返ってみてください。」

「洋子さんは、私の堕落を責めているのですか。確かに責められても仕方がないと思います。私は苦しいのです。何も動けず、精神も不安定なのです。今の苦しさを、洋子さんと共におれば、乗り越えられるのです。」

「えぇ、私は助けてあげたいと思います。そのために、私が藤村さんと結婚を約束するなんて、できないのです。私だって、長い間世間を渡り歩きました。私の心も変わってきました。」

「どんな風に変わったんですか。」

「私は初恋を藤村さんに捧げました。それは、その時の藤村さんの姿に向けられたのです。でも、今の現実は違うわ。」

「あの時の初恋は、偽りだったんですね。」

「偽りではなかった。藤村さん自身考えてみてください。あの頃の自分と今の自分、どちらを愛していますか。多分あの頃の自分を懐かしく思うでしょう。卑しい見方かもしれませんが、仕方のないことだと思います。」

「では、私があの頃の姿のままでいたら、洋子さんの心も変わることはなかったのですか。」

「はっきり言えませんが、そうだと思います。」

「私はどうすればいいんです。私は洋子さんを五年間愛し続けてきました。これからどうすればいいのですか。もう、洋子さんを愛してはいけないのですか。」

「まさか、私からそんなことを言うことはできませんわ。」

「そうですか、私には全然可能性がないということが分かりました。」

 

「では言います。私は掛川さんと正式に婚約をしております。今は、藤村さんより掛川さんの方が尊敬できる人に見えます。外面的にも、内面的にもそうです。掛川さんも私を愛しております。そうです、私も掛川さんを愛しているのです。」

「洋子さん、止めてください。分かりました。私は帰ります。」

「待ってください。落ち着いてください。座り直して、私の話を聞いてください。」

「嫌です。聞く気にもなれません。」

「聞いて戴けなくてもいいんです。私は藤村さんと向かい合い、話ができればいいのです。ですからお願いです、座ってください。」

 

「私と藤村さんとの間には、確かに恋というものがありました。私は藤村さんが好きでたまりませんでした。私はいつも藤村さんを思っていました。だから、貴方に会うと恥ずかしくて走り出したことがよくありました。二年経っても私達は交際をしませんでした。私は藤村さんと二人きりで遊びたかった。色々言葉を交わしたかった。でも、私は何もすることができなかったのです。できることと言ったら、弟の遊び友達として藤村さんが私の家に来る時に御もてなしをすることくらいしかできませんでした。」

「私の父も母も弟までが藤村さんを好きだったのです。貧しい身形をしていたけれど、優れた実力を持っていたことを知っていました。私は余りにも安心していたのかもしれません。私が故郷を去ってから、幾度も便りを出したかったのです。考えてみれば、私と藤村さんの間で、二人きりで交際をしたことも愛の言葉を交わしたこともなかったのです。私は貴方の面影を大切に抱き、離れた土地の中で無限の可能性を信じておりました。私の愛する人は、世の中の人々に尊敬される人になると信じておりました。」

「私は貴方に相応しい者になろうと思っておりました。再び会う日には、一緒になろうと言い出す決心もしておりました。でも、夕子さんからの便りは、私を満足させるものではありませんでした。始めは、夕子さんが中傷しているのかとも思いました。そのうちに、夕子さんの便りが全て事実だと分かりました。」

「父や母、弟までが口を揃えて貴方を貶したのです。あれは馬鹿だ、だらしのない奴だと口にしていたのです。私はそう言う家族の言葉に耐えておりました。そして、貴方の無限の可能性を信じ続けておりました。でも、今日に至るまで、明るい話は何一つありませんでした。私にとって、こんなに寂しいことはありません。」

 

「こんなことを言って御免なさい。私もそんなに強くない女性です。掛川さんを別の意味で愛するようになりました。そして、私は掛川さんと結婚をします。」

 

「今までの私を支えたのは初恋です。藤村さんが私を支えてくれたのです。これからも藤村さんは私の心の支えになります。結婚と言っても、一生の身の契りにしか過ぎません。不貞の女と言われても構いません。私の純粋の心は最愛の人に捧げ続けます。私の心は誰の支配も受けません。」

「藤村さん、私のような薄情な女に気を捉われず、これからの人生を励んでいただきたいと願っております。今、私の心と貴方の心の契りを交わせと言われれば交わすことができます。心だけは藤村さんに捧げます。私は生涯、貴方を愛し、貴方の無限の可能性を信じながら生きていきます。私ごとき女に迷ってはいけません。」

 

「実に、体のいい弁解です。」

 

「弁解ではありません。私は貴方と結婚はできません。でも、貴方は私の最愛の人で す。」

 

「矛盾もいいところです。」

 

「藤村さん、貴方にだけ永久の愛を誓います。」

 

「洋子さん、貴女の言う通りかもしれません。私も永久の愛を誓いましよう。そして、自分の無限の可能性も信じましよう。貴女の愛のため、真っ直ぐに人生を歩いていきましよう。心から語り合えるのは、洋子さん、貴女だけだ。」

 

 青年の心は、時として激しく燃える。そして本当の愛の言葉を知る青年が意外と少ない。青年の時の流れが永久の愛を生み、そして人生への揺るぎない勇気を与えるものである。