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    「文学活動の実際について」

 

                       佐 藤 悟 郎

 

 

 文学活動の入口で立ち止まっている。難しい問題を抱えている訳ではない。活動方法を決めてしまえば解決することである。今後の方針を明確にする。

 

 最初に、文章作成に関する基本方針を定める。文章作成は、パソコンの活用を基本とする。

・文章の打込みは一段原稿で行うこと。

・一段原稿は、原稿用紙と同じく一頁四百字 とすること。

・文章は、特別の定めがあるほか、一段原稿 で印刷をすること。

・小説等の完成発表作品は二段原稿とし、一 頁八百字とすること。

 

 次に、文学活動の区分である。旧文学活動と新文学活動に区分する。

 何か釈然としないが、とにかく一つの方向付けをしたことになる。用紙が勿体ないという思いがするが、活動する上で最も良い方法に思える。

 注意をしなければならないのは、パソコンの打込みと同じく印刷をすることの重要性を自覚することである。活動の内容を何時でも確認できるようにしておくべきである。必要があれば、時々は目を通すようにしなければならない。そのための工夫もしていかなければならない。

 旧文学活動であろうが新文学活動であろうが、文学活動に変わりがないのである。重要なことは、文学活動を継続維持することである。継続維持することによって、充実発展していくものと思っている。

 

          平成十四年六月九日

 

 

平成八年七月一日(月)

 

 文学活動の実際について考え、それを実践する必要がある。余り活動を広げてしまうと収拾がつかなくなる恐れが強い。当分の間、この帳面に必要なことを書き記し、初期的な段階を克服していかなければならない。どうせ私の人生である。過ち、失敗の連続である。反省の日々でもあった。しかし、そんなことにもう負けてはいられない。自由に活動を広げていく勇気を持つつもりである。

 

 ワープロ処理に慣れることが差し当たって大切なことである。次にどのような活動形態を取っていくかを考えることである。過去のこととの決別が必要である。そして今の自分が文学に関し、全くの無知、素人であることを認識すべきである。無知あるいは幼稚な状態から新しい物が生まれてくることを信じようではないか。

 

 人間と文学との関連がある。文学がどうして世の中に必要であるのかを思うことも大切である。一般的な心の問題でもある。このノートはダラダラと書かれていくだろう。そうでなければならない。まとまりのある考えを作り出すことではなく、広範囲の活動のために必要なことである。脈絡もなく主題もないこのノートは、自由な広場といったところである。気にするところは何もない。

 矛盾したことが多くこのノートには綴られるだろう。矛盾とは、大切なことであり、思想の発展に欠かせない物でもある。矛盾の無いところには思想の発展は無いのである。過去の自分の作品を思ってみた時、欠如する部分が目につく。他人の物真似であったり、表現不足であったり、全般的にいって構成のとれていない幼稚な物ばかりであった。それらを一挙に解決する方法は無い。

 

 創作のためには草稿段階が大切である。そのために草稿集を作りたいと思っているが、現在それだけの余裕が無い。このノートはいずれ消滅する運命にある。私の心が一定して安定した時に消滅すべきものである。次の段階は草稿集の段階である。それまでの間、このノートは雑居ビルのごとく、ごちゃごちゃしたものとなるだろう。仕方の無いことである。

 

 本当は文学論、草稿、本稿という活動をしたいと思っている。果たして現在の私の状況で可能であるかを考えなければならない。やってやれないような気がする。失敗してもともとである。早い段階で着手した方が後悔が少ないと思う。

 

 日記を中心に生きている人間は余り利口とは言えない。自分の事だけを追い求め、そして毎日に区切りをつけるからである。毎日が始まって、そして夜になると終わるのである。そんな不合理な世界で生きようとする人間は決して進歩的とは言えないだろう。一生は生まれて始まり、死を以て終わるのである。人生は連続である。その連続性を自ら毎日に細切れにする必要がどうしてあるのだろうか。人生、事を為すには、どうしても時間が必要である。日記なんか文学活動に比べたら、本当の傍らに小さく存在する補助的手段にしか過ぎないのである。

 

 今日も職場から帰る時、防砂林の道を通って来た。それで良いんだと思った。これからは人生の在るべき姿を大きく変えていく必要があると思っている。その一つは枯れ切った私の心を改善していくことである。叙情的な姿が私の身体、あるいは行動から消えてしまったのに気付くであろう。どうするのが良いのか、それを考えなければならない。こうして机に向かっている姿が果たして人間の叙情を掻き立てる姿であるのか、現実の姿を考えていかなければならないと思っている。

 

 世界を相手にすることとは、人間の心を相手にすることに他ならないということに、何故今まで気が付かなかったのであろうか。世界を旅することではない。世界のことを語ることでもない。人間の心を語ることが、全ての人間に語りかけることになるのである。私は、こうして机に向かっている。昨日まで私は鉛筆を持ち、ノートに向かって書き始めたことだろう。それもまず日記を書き始め、そして日記で終わり、床に入ってしまうのである。それが今日からは、机の上にはワープロが置いてある。そして日記というけじめのあるものを優先的に書くことを止めたのである。文学を研究しなければならない。恨みの多い人生を歩むのではない。仕返しの人生を歩むのでもない。ましてや見栄の人生を歩むのでもない。一個の人間として、文学を習い始める者としての人生を歩くのである。

 

 文章を大切に綴らなければならないと思った。美しい文章を書くことに努力しなければならない。写生的な文章も書けなければならない。文章が難しいということは知っている。それを乗り越えなければ、文学作品が決して成功しないことも知っている。辛いことである。それだけの能力があるのかと疑問を感じているからである。全く無いということはないのだと思いながら活動をしていかなければならない。時には自分自身を優しく励ましながら活動するのである。

 

 さて、文学活動を真剣に考えるならば、時の確保というのは重要である。毎日活動し得る組み立てをしなければならない。支障のあることはこれを排除しなければならない。音楽が流れている。音楽も心に適ったものでなければならない。平日の行動、今日の行動も考えなければならない。睡眠も考えなければならない。仕事のことも考えなければならない。仕事が終わり家に帰って何をすれば良いのか、今までの考え方は希望的な計画でしかなかった。具体的なことを示すべきである。 遅くとも午後七時には家に帰り、食事と入浴をすること、それが終われば文学活動に専念することである。晩酌をしてはならない。文学活動の中心は、草稿活動であること、その時々に文学活動を行うことである。日記は翌日の行動計画を立てることで足りるものではなかろうか。毎日行う不合理なことならないようにすべきである。日記は事実的な列記で良いのではないだろうか。そして文学活動の範疇から外して考えることである。一日の三十分も必要のない作業だと思っている。日記だけで一日が終わるような生活態度を終了させなければならない。

 

平成八年七月三日(火)

 

 とにかく激しい生活をしなければならない。人生の焦りをこれほど感じたことはない。

安閑として眠っている場合ではない。文学にしろ仕事にしろ脇目を振らず激しく行動をすることである。余り上等に生きようとすれば時間がないのである。最も早く走れる方法を追い求めなければならない。