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    「書くべき対象」

 

佐 藤 悟 郎

 

 

 文学者が書くべき対象を見失ったら惨めなものである。書くべき対象とは、一体なんであろう。思想だけでは小説ではない。思想を物語として創作しなければ意味がない。過去の私の作品は何だったんだろうか。自分への反省、悔恨、憧れ、希望の類である。中身は利己的考え、名誉欲の主張でしかなかった。

 今までの人生が利己的であり名誉欲にとり憑かれたものだった。今後も同じような醜い心を抱きながら生きていくのかもしれない。自分の人生への不満、矛先を誰にも向けられない不満、現在の立場への不満など多くの不満が渦巻いている。

 自分の能力の限界を問擬せずに飛び込んだ世界である。その問題が重く心を圧迫している。何でもいいから書かなければならないという気持ちに駆られる。しかし、何を書いたらよいのか心に浮かばないのである。本当に寂しい限りである。

 

 短編でもよいから書く癖をつけなければならない。文章を作ることに慣れるという意味からも書いていかなければならない。創作する上での要素として

 書くべきテーマは何か

 書くべき筋構成はどうか

を検討しなければならない。短編は、その簡素さ、単純性が特徴で、しかも面白さがなければならない。机上のものでもよいと思う。

 

 テーマと筋構成の間に相互の関連性がある。そのための訓練をしなければならない。人の心が、物や人物、更に何らかの事象を目にして何も思わないだろうか。何かしら思うはずである。たとえば、今にわか雨が降ったとしよう。雨自身のことを考えても意味がない。その雨の下にいる人々の情景を思わなければ意味がないのである。

  雨は冷たい。雨は地上に降る。地上に人が いる。人は雨に当たるのを嫌う。

 

これだけの要素があれば、筋は簡単に組み立てられると思う。それぞれ小刻みにしたテーマに対して考えを巡らせれば、幾通りもの筋が生まれるだろう。

 

  雨に濡れたい人もいるのではないだろうか。 いや、いたと仮定する。何故かと考える。

 

短編的なものはそこに生まれる。単純な心、天なる雨は彼の心を洗い清めるのだ。物語の広がりは、その要素の変化とともに変わっていく。その変化を叙述すればよい。

 

 よい作品を書こうと思っても、それはできないことである。能力や知識によって大きく制限されることだから諦めることである。

 書こうとするもの、思考の対象とするものが何でもよいわけではない。考え付かないものや何も感じないものに、いつまでも執着する必要はない。 

 

 物、人、事象、それらを見つめる。感ずる。組み立てる。さあ書こうではないか。同じ物は、次に見るときは違うように見えるだろう。

 

 

                    昭和五十三年十月七日