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「精神の起源と形成」

 

      佐 藤 悟 郎

 

 

 私が物を書くとき、順吉という名前が欲しくなる。簡単なことであるが、果たしてそうであろうか。

 

 人間に精神が宿る。一般的に言われていることである。精神のない人は、人間的に完成することはないと言われている。精神とはどのような物なのであろうか。人間についての理解以前に、他の生物との比較をしておく必要がある。霊長類以下の生物に精神が宿るのであろうか。人間には、絶えず精神が宿るであろうという観念を前提として考えなければならない。

 

 動物に精神があるかどうかの証拠はない。全てが条件反射的に形成される行動、あるいは表現でしかない。習性というのが正しいことかもしれない。本能と精神の関係は、いかなるものであろうか。本能で動く習性は、全く精神的な行動とは違うと言わなければならない。この研究方法として、習性の変化を詳細に追う必要があり、それを理解する必要がある。何故ならば、精神と習性の間に互いに影響を与えている可能性があるからである。世の中では、自分の一生を通して精神を持たず、死を迎えあるいは老いてゆく者がいる。そのような者は、人間の皮を被った習性だけの動物である。その是非について論ずることはできない。人間に精神など必要はないと考えている人は多い。敢えて人間に精神が必要であることを説いてみたい。

 

 失ってしまった精神をもう一度欲しいと思うことがある。年を重ねるに従って、それが無理なことだと思うようになった。精神を失っても生きていくのに困らないという事実があるからである。一生を振り返ってみたら、生活のための意思と多少の知識しかなかったとしよう。何かが足りない。精神が足りないのである。精神を貫く、精神を抱いているということがどれだけ大切なことであるか、その起源を辿らなければならない。

 

 人間の精神の総合力が時代とともに生れ、現代に至っている。その精神の中を見てみると種々雑多である。このまとまりのつかない精神が、人間の進歩に必要なのである。人類の精神の歩みはどこに辿り着くこともなく、時間とともに絶えず過ぎて行くものである。雑多な精神環境の中で我々は生きている。総体的な精神環境の中で、我々は個人としての精神を持たなければならない。そして同じ精神を持つ人がいることは、当然のことである。私も一つの定型的な精神を持ち、さらに総体的精神環境の上に立つようにしなければならない。

 

 精神を生み出したものは何であろうか。人類史において考えてみると、人類の行動が精神を生み出したものと思われる。それは霊長動物として、分離する由縁であるかもしれない。重要なことは、精神が行動を生み出すように変化したことである。この変化は、決して見逃してはならない。人類は、こうして精神が行動を生み、行動が精神を生むという循環を身に付けたのである。このような過程をたどった人類は、種々雑多な精神が存在するのは当然のことである。

 

 人類の精神は、今までどおりであるが、個人についてどうであるかを考えなければならない。精神は「宿る」という言葉があるとおり、精神は程々に立ち去っていく性格を持っているようだ。たとえば、二つの精神があったとすると片方が増殖し、もう片方が衰退したとすれば、衰退した精神は去ってしまうことになる。これが変化というものではないだろうか。

 

 個人の精神は、突然個人の中に生まれるものではない。多くは、先人の精神を受け継ぐという形態をとる。人類が進歩すれば、その度合いも激しいものとなるだろう。受け継ぐ精神とは、個人にとって個人以上のものではない。また、個人が認識することのできる範囲内でしか選択をするしかないのである。認識外の精神とは、個人の生まれた環境に左右されることが多い。それは別の問題として、本能とか習性の問題があることに着目をしなければならない。

 

 本能と習性は、精神と密着したところにある。この場合の習性を「精神になりうる行動」と呼ぶのが正しいであろう。認識外の精神の発見は、精神になりうる行動を個人の中に導入することによって、個人のものとなり個人の精神が誕生することになるのである。精神の誕生があっても、それを堅持しなければ、その後に誕生する精神に追い払われ、去ることになるだろう。

 

 次に精神の形成について考えなければならない。精神形成に当たっては多少の苦しみがあることを、まず認識をしなければならない。不安や苦悩が伴うものである。

 

 前に述べたように、精神と行動はお互いに影響しあっているものである。総合力がある程度発達をしていれば、見た目では速やかに一体となって形成されていくように見える。認識内の精神は誕生したばかりのもの、またはその状態が続いているものとみなされる。それらが何の苦痛も伴わないということになれば、空転しているか形成もされていないものだということになる。

 

 一生、行動がある限り、精神は完成されることはない。それでも完成されたということになれば、それはただ頑固になっただけというほかない。精神の形成期が無限であるとすれば、我々はその無限に向かって進まなければならない。形成期は絶えず動いている。潜在的精神というものもある。これをどのように理解をするか。これこそ認識を超えた精神である。人間はこのような認識を越えた精神に向かって進んでいかなければならない。

 

 最初に苦痛について述べたが、苦痛には精神的苦痛と習性的苦痛がある。この二つは互いに転がっていかなければならない。転がっていかなければ、精神の形成は鈍ってしまうだろう。苦痛がなくなったら、精神と行動が去ってしまったか、潜在的精神に変化したかである。潜在的精神は目的でないものであるが。

 

 精神を形成しない者とは、私のことであるからよく知っている。人々に多くの叱責を受ける者である。言うことと行動が一致しない者である。自分や他人に偽りを言う者である。口からの出任せの言葉、心を弄ぶ癖、精神の発見がなく、誕生した精神がすぐに去ってしまうものである。道徳を守らない者、これは精神の植え込みが必要な者である。未来を楽観視する者は精神認識の薄いものである。具体的な目的を持っていない者は自己精神を認識していないものである。

 

 これらのことが実際の行動規範となっており、その個人の精神形成の有無や程度が推し量られるのである。精神形成には苦痛が伴うものである。私が「順吉」と書くのは、新しいことを望んでいるからである。宿れる心を得んがために。