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「想 芸」

 

      佐 藤 悟 郎

 

 

 琵琶の音色をじかに聞いたことはない。ましてや琵琶の音に合わせ物語をするのも聞いたことはない。大陸から伝わった琵琶は、鎌倉、室町の頃に最も栄えたといわれている。私が琵琶を聞いたのはテレビやラジオ等を通してである。琵琶の音色について明るいという感じを持ったことはない。雑音のように聞こえたのである。

 

 琵琶法師に代表されるように、日本の琵琶は語り物の中に生きている。寂しい音色と調子、その中に燃えるような余韻を持っている。語り物の中で弾かれる琵琶は我々に深い感動を与えずにいられない。我々の心を揺さぶり起こすのである。感動を生ずるのは、単に琵琶の音色があるからではない。庶民層から生まれた語り物と融合するからである。

 

 西洋音楽は日本音楽にないほど、理論性と複雑性を持っている。それだけに類似した旋律は一つの感情しか受け取れないのである。日本の伝統としてたどってみよう。日本人は旋律の法則を発見し受け継いできた。しかし、類似した旋律しかなく、古い旋律といえば聞いたことがあるようなものばかりである。日本人の音楽の伝統はそこに生まれているのである。日本人の歌は言葉なくしては分からない。私に言わせれば、日本人は類似した旋律しか作れなかった。それだからこそ、類似した旋律の中に幾つもの感情を乗せることができるようになったのだと思う。

 

 日本の歴史を知り、日本の言葉を知るものはこれらのことが分かるはずである。日本人は余韻の美しさを知っている。西洋音楽で表すことができない表現である。日本の音楽は全て余韻を大切にしている。吟詠、小唄、お琴、能楽などがそうである。だからといって日本音楽が西洋音楽に優っているというのではない。日本人は伝統音楽に接すれば、そのよさが理解できると思っている。伝統芸術は大切なものであり、我々は子々孫々にまで伝える義務がある。

 

  余韻の厳しさを知るものがいるだろうか。日本音楽は西洋音楽より、遥かに多くの余韻的表現がある。音楽そのものが余韻で形成されているといっても過言ではないだろう。余韻とは符号で表現されるものではない。余韻は感情の流れである。そう考えると日本音楽も西洋音楽と変わりがないのである。我々は本当に日本音楽を理解しているかを胸に手を置いて考える必要がある。