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「歩きながら」

 

新潟梧桐文庫 佐藤悟郎

 

 

 妻に言われ、一時間ほど部落外れの道を歩いた。そして歩きながら、色々考えてみた。冬なのに、所々に少しの雪が見えるだけだった。穏やかな日だった。私が歩くのは、最近になってからである。糖尿病の進行を抑えることが目的である。これからどれだけ生きるか分からないが、そう易々と死んでしまう訳にはいかない。妻や子の生活を維持することは、私がやらなければならない最低限の義務だと思うからである。自分勝手な人生を送ることは、禁じられたことであると思っている。少しでも長生きをすることを考え、その方法があれば、敢えて望んでいくべきだと思っている。

 

 家を出かける時、歩きながら考えようと思い出た。太夫浜の部落を抜け、神谷内部落から右に折れて、砂地の田畑の広がりに出た。冬の殺伐とした自然の広がりの中を歩いているのは、私一人だった。生来、犬が嫌いなことから、犬の見当たらない道を探しながら歩いた。ゆっくりした歩みでは健康のためにならないことから、比較的速い速度で歩いた。これからも犬のいない道を多く探し、それらの道を組み合わせて頻繁に歩くようにしようと思った。

 

 考えるということについて、気の付いたことがあった。考えることは大切であると口癖のように言っている私であるが、毎日真剣に物事を考えているのかという疑問を持ったのである。いつの頃からか知らないが、書きながら考えるという観念が私に定着したのである。本当にそれで良いのか、書くという限られた時間に考えればよいのか、甚だ疑問を持つことを禁じえないのである。書くことは、書くことである。考えながら書くことは当然であるが、それが書かなければ考えないということになっていないだろうか。面前に紙と鉛筆がないから考えない、そんな構図に私は陥っているのではないだろうか。そうであるとすれば、私は大変な過ちを犯していると言わなければならない。書くことは、常日頃考えていることを表現するものではないだろうか。思ったことや感じたこと、見たことや考えたことを書くのでなければ、全くの机上の遊びとなるのではないかと思われるのである。考えることは、書くことと別個にあることを強く認識をすべきだと思った。書く前に黙想をするくらいの配慮をしなければならないのではないだろうか。

 

 考えたことの二つ目は、どのようにして日常の行動を発展させていくかということだった。予定とか計画の確立の必要性を叫んでいる私であるが、私にはちゃんとしたものがあるのかと疑問を持った。こうして歩いていることも、本来一日の行動予定に入っていなければならないのである。行き当たりばったりの行動には、その行動の目的、更には人生目的が見えてこないのである。考えながら歩き、考えたことを忘れてしまっている。忘れることは仕方がないにしても、できるだけ思い出すように工夫をすべきだと思っている。メモを取ることの重要性がそこにある。歩きながら立ち止まり、メモをしていけばよいことである。全て思い出すことはできないことである。私は、メモ帳を持っていない訳ではない。しかし、メモ帳も整然と整理される必要があるという観念が強い。そのために、例えば昼休みなど一定の時を定め、まとめて書くような状態になっている。そんな形式張ったやり方では効果がなく、時々に書くようにしなければ意味がないことになる。

 

  予定や計画を、目的に沿ってしっかりと立てなければならない。計画などを立てるということになると、今まで分刻みの決め方をしていた。そんなことを実行できる筈がない。一般的なものでよい、必要なことを包含できる計画の組み方をすべきだと思っている。人生設計、長期的な計画、毎日の計画など等閑にしてはならない。明確になるように、これから作業をすべきだと思っている。急がなければならないこともあるだろうが、基本的な方針が定まっていないのに闇雲に過ごすようなことがあってはならない。

 

 もう一つ、いつも私が口にしていることへの反省について考えた。残りの人生が短いということで、余りにも焦り過ぎているのではないかということである。そのために、考えも雑になっている嫌いがある。ましてや文書などは、投げやりとしか思えないようなものも目立っている。人生が短くなったことは事実である。しかし、物事を雑にしてよいということにはならない。一つひとつ確実に、丁寧に行うことが特に必要である。

 

平成十五年一月十三日