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「流れるままに」

 

新潟梧桐文庫 佐藤悟郎

 

 

 体の調子が思わしくない。こんな状況が一生続くのかと思うと恐ろしい感じがする。とにかく回復を早く願うばかりである。その中で気になるのは、痰が多いということである。これは大方煙草が影響しているのだろう。禁煙ができるかどうか分からないが、極端に節制をしなければならないことは確かなことである。ボケのような症状は、体内に摂取する食物の影響かもしれない。また、精力を費やすようなことを止め、健康を維持するための運動もしなければならない。それらが拘泥もなく流れるままに行われることが大切である。

 

 「流れるままに」という言葉は、良い言葉であるが無責任のような響きもある。ストレスを蓄積することなく、自然体で多くのことを受け容れてゆけばよいのではないかと思っている。疑いを持ちながら人生を送っても面白くないし、良い結果が生まれる訳ではない。なるようにしかならない。その時々に躓いていたのであれば、人生を有意義に過すことはできないだろう。まだ私は、生きているのである。

 

 身近な人でも、既に亡くなった人がいる。それらを思えば細かいことを齷齪するのではなく、悠々たる人生を夢見ることが肝要ではないかと思っている。職場が重要であることに疑いを持っている訳ではないが、職場が最終的な人生とも思っていない。自分の思いを、更に発展させるために忘れてはならない点である。

 

 朝の体の疲れも、だいぶ和らいできた。そして、こうしてパソコンで文章を書いている。ただ悪い癖は、途中で戸惑いを持ち止めてしまうことである。良いと思ったことはドンドン進めていくことである。文章は、それを作成して印刷し、綴ることによって終了するものである。色々な活動の方法があり、どれが一番良いのかは分からない。

 

 目的とするところは文学活動にある。そんなところを常に念頭において生活をすべきではないかと思っている。変わった話の収集もあるだろうし、文書表現の練習もしなければならない。それに文書の作成量も測らなければならない。一日原稿用紙百枚の作成をした人がいるという。この様式では五拾頁と言う事になる。果たしてそんなことができるかという問題があるが、やってみなければ分からない。要するに文書を作成し、多くの量をこなすにはそれなりの信念が必要だということになる。

 

 馬鹿なような文章をづらづらと書いていく、意味のないようであるが、決してそうではないと思っている。長い文章の中で多くを考え、その中で光るものを探すようになるのではないかと思っている。洗練された短い文章を作成していく、確かに美しい考え方である。それは、厳しい文章の鍛錬をつんだ人、あるいは天才の言うことではないだろうか。文学活動が簡単なものとは思っていない。作品を作り上げるのに、一気呵成の進め方が必要であることも知っている。だから、だらだら書くことも満更意味がないことではない。

 

 書くことがなければ、下らないと思うことまで書き出す。それが良いことではないだろうか。

 

 新潟の浜の葬式は、長い読経である。冬の葬式となると参列する者も辛いことがある。長い時間正座を続けることや、本堂の寒さに耐えながら過すことである。私が寺を訪れたとき、静まり返っており、これから葬儀があるとは考えにくかった。それで寺の住職の住居の戸を開け、声をかけたが誰も出てこなかった。住居の中から、ピアノを練習しているのだろう、ピアノの音が心地よく流れてきた。私は、ふと小千谷で過したころのあるお寺の面影を思いだした。そして、音楽教師の娘さんのことも思い出した。関連するようなことを次々に思い出していくのである。そして、何か物語になりはしないかと考えた。作って作れないことはないだろうと思った。

 

 「静かなお寺」

 

 一人の青年が友達の親の葬式に参列するため、連絡を受けたお寺を訪れた。しかしそこではこれから葬儀が始まるような感じがなく、ひっそりとしていた。

 住職の住居の方を訪れた。住居から美しいピアノの音が流れていた。声をかけると、ピアノの音が止み、うら若い女性が現れた。彼が、葬儀のことを聞くと、

「今自宅で読経をしており、間もなく葬儀の列を組んでやってくる。」

という話だった。それまでの間、本堂で待っている方がよいと言っていた。彼は本堂に入り彼女の出してくれたお茶を飲みながら待っていた。

 彼女は、この寺を継がなければならないのかと思っていた。お寺の住職、僧侶を夫として迎えることに苦悩していた。いっそのこと、家を出たいと思っていた。彼女の父は立派な僧侶だった。だから彼女が言い出せば、彼女の希望は適えることができただろう。

 何を思ったのか、その青年は住職から袈裟を借りると、一緒になって読経を始めたのである。その姿勢は正しく、目は生き生きと輝いていた。住職の娘はその姿を見つめ、微笑んだ。

 

 物語を書くときに大切なのは、筋を作り上げることである。どのような下らない話であっても、筋を形成していけば生き生きとしてくる。いや、そのように信じて書き続ける必要がある。だから何を取り上げるということが問題ではないと思っている。

 

 「流れるままに」という標題で二日目である。大量の文章を連ねることが、如何に難しいということを知るべきである。何も考えのないところからは、何も生まれることはないという疑念を払拭しなければならない。何もないところから何かが生まれるのである。

 

 友人の家の葬式で、正座をしたことが苦になった。尺八の練習をしていたころは、一時間程度は我慢が出来たものである。訓練が足りないと言えばそうであるかもしれない。日本人は、正座を好んでいる。尺八の先生は、尺八を吹くことに意義を見つけており、正座を求めてはいない。その判断は、私自身にある。今後、正座をして練習を積んでいくことを考えてはどうかと思っている。もっともっと下らない話が出てくる。切羽詰まった時に、人間が何を書くかを、自分自身が何をするかを見る絶好の機会でもある。

 

 少なくとも、文学のために頭を使うことに慣れなければならない。最近、事件関係の小説等が多い。私自身がそのような環境の中にあって、書けないのはどうしてなのか、思ってみなければならない。中身を知ると文学性がないなどと判断しているためかもしれない。そんな考え方は誤っているのではないかと考えたことがなかっただろうか。とすれば、今後は考えるべきだと思う。

 

 事件の中に文学性があるかという疑問がある。しかし、実際にそれを文学として捉えているものが多い。話の途中であるが、パソコンを打つのにも、椅子が低いためか、正座をして打っていると楽であり、効率的である。姿勢も良くなる。こんなことを考えると、今まで椅子の調整もしないで腰掛けていたのかと反省をしなければならない。

 

 こんな脈絡のないことを綴っているのは、集中力がないという一点に尽きるのである。今までの生活が示すとおりである。できるだけ、中心課題に向けて集中力をつけることが必要になるだろう。パソコンを打つにしても、間違いが多く、校正する際の不徹底さも目立っている。これらの能力を高めることは、全ての活動に大きな力を与えることになるだろう。

 

 「流れるままに」と題して書いているが、意味がない。しかしながら、標題に沿って書くように努力をしなければならない。この標題は、現在の自分の姿を映していることを窺わせるものである。「流れるままに」とは、いい加減に過すということではない。心地の良い流れを作るのも、粗く作るのも、その人自身の持つ力量から来るものである。そんなことを思わなければならない。文章を多く作ろうとする者が、作る前に考え込んでは何にもならない。流れが止まり、淀み、濁ってしまうだろう。遊び半分で入ったことかも知れないが、中に入ってしまえばそう簡単に聞き流すことはできなくなるだろう。

 

 大量の文章を集中的に書くには、相当の根気と努力と知識が必要である。これは間違いのない事実である。今まで、こんなことを考えたことがないが、今後直面しなければならないことである。何年間もかかって遅々として活動が進まないのは、この努力をしなかったことによるのではなかったのではないかとすら思うのである。

 

 こんなことを考えると、作家として大切なものは何かということになる。当然知識が豊富でなければならないこと、素材について総合的に配置記述ができることが必要ではないかと思っている。当然、そこには全体構成がどのような作品になるのか描きながら行わなければ、纏まりがつかないことも配意しなければならない。流れのままに、淀みなく作品が生まれなければならない。

 

 春が待ち遠しいという訳ではないが、余計な感情を捨て去らなければならない。作家という心構えに、今まで充分ではなかった。そんなところを真摯に反省しなければ、出発点に立つことはできない。人間の行動は心から生まれると囃し立てている私である。とすれば、作家としての心の確立を急がなければならない。それは取りも直さず、作家としての行動をすることを意味するものである。心と行動は、表裏一体を為すものである。

 

 百枚の原稿を書かなければならない。そんな思いをいつも持っていなければならない。一年かけて書けば、いかほどの作品が出来上がるのだろうか。そんな流暢なことは言っておられないのではないだろうか。書けるものは、今すぐ書いていくという、強い意思と実行力がなければならない。妥協の産物の中には、溌剌としたものがない。精神の集中制もない。脈絡の連続性もなくなるだろう。

 

 そんなことを言い聞かせながら、今その試作品を書いてみるべきである。未熟さが滲み出るだろう。しかし、それが自分の実力であり、姿だと思わなければならない。実作に当たって、どのようにするのかも吟味しながら、素早く着手していくことである。

 

 冬の新潟の海岸は波が荒い。護国神社の先の海岸に一人の少年が立っていた。彼は怒涛の響きを聞いていた。雨雲が低く垂れ、近くの波の飛沫が見えるだけだった。蠢く日本海の怒涛に向かって、彼は無表情だった。

 彼の人生は全てが失敗に帰した。そして、彼は人生の目的を失った。雨に濡れる顔から涙が溢れ流れていることすら分からなかった。彼は哀れだった。それ以上に寂しい姿だった。どんな悩みが彼を襲ったのだろうか。

 人間には多くの悩みがある。特に少年時代の悩みは、人生の中に生き続けるものである。失恋のことが多い。父母との確執や、受験の失敗などもある。純情な心を傷付け、人間は生きていかなければならない。純粋のままで生き続けることはできないだろう。彼は受験に失敗し、そして彼女を失った。受験発表の日だった。彼は茫然と発表看板をみつめた。自分の番号がないのに疑いを持った。同級生と群れだって行った場所には、彼女も一緒だった。彼が茫然と立ちすくんでいる間に、彼女は他の同級生と立ち去ってしまった。彼に一言も声をかけずに立ち去った。

 彼が我に返って横を見たとき、いるはずの彼女の姿がなかった。彼は寂しくなった。そして歩いてその海岸まできたのである。

 

 こんな書き方をやっていれば、膨大な時間が必要であることは確かである。しかし、そうだからと言ってその訓練を怠ることはできない。それから、人間ということについて、おそれを持ってはならないということである。最近、人々の間でも人の能力を云々する傾向がある。それは仕方のないことにしろ、自分自身がどう思われているかということで萎縮をしてはならない。所詮、人間の能力なんか大差はないはずである。運、不運で人生が回る場合も多いのである。少なくとも、人間性のないものが大手を振っているのを見ると癪に触るのであるが。それも、不健康社会の現象ではないかと思っている。一生懸命に生きている人もいるのだから。胡散臭い人間が、特に立場を得ることが多いということが言えるにしても、我慢をすればよいことである。

 

 「流れるままに」とは、本来文学的なことを書くつもりで始めたのであるが、どうしても色々な批判に心が動くのである。それが現在の私の心理状態なのかと思うと、多少がっかりとするのである。