リンク:TOPpage 新潟梧桐文庫集 新潟の風景 手記・雑記集 「これからの試み」
新潟梧桐文庫 佐藤悟郎
今日まで、私なりに文学活動に努力してきたと思っている。正しい文学活動を求めて活動をしてきたつもりである。しかし現在までの結果を顧みると決して満足すべきものではなかった。色々な活動を実践したつもりであるが、多くが散逸をしてしまうことになり、手元に残っていない結果となっている。これは活動自体が統制の取れた方針がなく、無意味に流れている証しではないかと思っている。今、こうして文書を作成しているが、実を言えば既に同じ趣旨の文書を手書きで二回行い、さらに機械的な処理を行っている状態である。文章を書くことの難しさを感じなければならないと同時に、細心の関心を払って文書を作成し、折角作成した文書を廃棄するようなことであってはならない。文学活動が生活の最大の目標であることを自覚しなければならない。全力を傾注して自己改革を図らなければならないと思っている。
先ず考えなければならないのは、現在の文学活動が正しい方向に向かって実践されているのか検討し、常に正しい方向に維持されるようにしなければならないということである。正しい文学活動とは、どのようなものなのかという疑問がある。この疑問に対しては、これから考えなければならない大きな問題で、正直に言って明確な答えはない。観念のないところに方向がないということではない。観念の代わりに、当分の間は印象による判断、言葉を変えて言えば「直感」による判断に頼ることになるだろう。
文学活動の方向の改革の一つに、文書の作成を機械的な処理に変更しようと思っていることがある。過去にも機械的な処理をしたことがあったが、放棄した経緯がある。その理由は文書作成に時間がかかる、何時何処でも作成できない、文学的な思考能力が低下するといものだったと思う。確かに放棄した時点での理由は、それで良かったと思っている。その後の活動を顧みると、作成する速度は確かに早くはなるが、完全な文章あるいは吟味された文章という観点からすると、劣っていることが分かってきた。文学作品の生命はその量にあるのではなく、内容にあるのは紛れもない事実である。また、文章をコンパクトに保存できること、追加補正も容易であることを考えると機械的処理の道を歩んだ方が効果的だと思うに至ったのである。ただ、それが絶対的なものだと思ってはいない。時と場合によっては、従来の方法で行う必要があるし、機械的処理が不可能な場合があるのは当然である。その場合の文書の管理の方法を考えておく必要がある。
二つめに考えなければならないのは、文学活動に取り組む姿勢を、心から真剣に実現する努力についてである。今までの文学活動を顧みると、文学活動を本当に身に切迫した、実践すべき活動と捕らえた姿を見ることができない。悲しいことであるが事実である。悪く言えば、興味本位の遊びごとである、としか捕らえていない節が見受けられる。難しい問題からはすぐ逃れ、内容のない物語を漁りはじめている。大した内容のない全体を追い求め、いい加減な文章を書き綴っている。そこで生まれるものは拙い文章で綴られた内容のない作品だけである。文章は作品の内容と同じく、作品にとって最も重要な要素であることを忘れてはならない。
三つめに考えなければならないことは、文学活動の結果としての作成された文書を大切に保管することである。それがいかに愚かしい物であっても、保存することである。過ぎ去ったことはどうすることもできないが、これからは作成文書を保管する方法を考えなければならない。原則的なことをここで決めておかなければ、これから後の文学活動に支障が生ずる。先ず雑記帳を利用することが、どうしても必要となってくる。日記やその他の文書作成にしても、その骨組みを保存し、何時でも取り出せるようにしておかなければならない。また、一つの纏まりのある文書を作成しようとするときは、独立したものとして作成することが大切である。用紙が無駄になると思うことは危険である。補正する機会が必ず訪れるものである。
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