リンク:TOPpage 新潟梧桐文庫集 新潟の風景 手記・雑記集

 

 

 

「故郷を想う文集」 山古志中学校池谷分校一年生

 

 

 今から四十数年前、山古志中学校池谷分校一年生の文集を見つけ、登載しました。池谷分校は、山古志の池谷、楢の木、大久保の各集落から生徒が通っておりました。当時の一年生は、二十三人でした。美しい自然の中でしたが、冬の厳しさをはっきりと覚えております。生徒は、自然を良く見つめ、感情豊に育っていたことを思い出します。

 なお、書いた生徒の名前は、割愛させていただきました。

 

「雪の下のものについて」

 

 雪の下で生きていて、冬を越すもの。それは、どのようにして冬を越すか。雪で折れたりしても、あきらめずに、また芽を出す。雪の下じきになっても、また春になれば、雪をのけて、立派に立ち上がる。半分くらい折れても、また芽を出す。

 僕に、そんな根性が有ればよいと思う。雪の下にある土、がんばって春を待つ。雪の下にある植物の芽は、どんなにして春が来るのを待っているのだろう。春、芽を出すのにそなえて、栄養をそなえているのだろうか。

 雪が降って冷たくても、根だけは生きている。冬の間でも、根を広めているのだろうか。

 雪があっても、少しは芽が伸びているのを見たことがある。それは、学校の実験でやってみたことなので、そうではないかと思います。全部、雪に埋まる木でも、出た時は芽が出ない。僕は、気温が低いので芽を出せないのだと思いますが、草などの方が、気温が低くても芽が出ると思います。

 

 

  「川の流れ」

                     

  私達の住んでいる集落は、楢の木集落です。あっちに家こっちに家と、いろいろ家が、ぽつんぽつんとあります。その集落のほぼ中心に、川が流れています。

 私達の、この楢の木集落の景色といったら、もうあたり一面真っ白です。その真っ白の中の中心に、川が流れている。川の広さは、雪に埋まり幅が狭く、水の流れているところは、本当に狭いところ。そのあたりの木は、みんな雪のために倒れ、水の流れている周りは、ふわふわとした真っ白な雪、その真ん中に水が流れる。上の方から新しい水が、次々とつながって流れる水、時には、その水が出っ張っている石に、ぱっしゃんとぶつかり、はね返って白い泡を出す。次々とくる水は、みんなこんなことをくり返し流れ去っていく。

 あたりについている雪が、時には川の中に、ぼちゃんと落ちて、たちまち水に溶かされてしまう。それも、この川の水と一緒に、どこか遠くへ流れていく。川の水は、上の方から勇ましい格好で流れてきたり、すいすいと流れてきたりして、楢の木橋の下を通り、川へ川へと流れていく。今までの水も、このように今日この日までこのように流れ、今日もまたこのように流れる。

 この前、川の流れが上の方から勇ましい格好で流れてきて、ドッーと押し寄せ、あまりの勢いで橋まで流した日もあった。その次の日、見てみれば水は引いて、川の付近に生えていた草は、みんな水に倒されているのです。水って、憎らしいもんだなー、とも思ったこともありました。

 こんなことが何故起こるのでしょう。水は、いつもすいすいと流れていればよいのだ。私は、そう思う。水も、やっぱり変わったことをやってみたいのだろうか。私達も同じことばかりやっていても、少しは変わったことをやってみたいと思うときもあります。

 今流れている川の水、いつまたどんな変わった流れ方をするかしら。勇ましい流れ方、すいすいとした流れ方、まだいろいろ変わった流れ方をやるかも知れない。いつ、どんなことが起きるか、私には先のことが分からない。

 今は、雪に囲まれ、細い線路を伝うように、すいすいと晴々とした流れ方をし、この私達の集落、真っ白な集落を通り、遠く遠く流れていく。

 

 

「川の思い出」

                     

  村の橋の下を流れる川、私の思い出のある川、それはいつの時だったか。子猫が生まれたとき、父が「こんなに飼われない。」と言って、その川に捨てた。その時私は、何とも思わなかったのだろうか。全然、記憶に残っていない。今考えてみれば、本当に可哀想なことをしたと、つくづくと思う。

 その子猫は、今もドンドンと流されているのか、それともどこかの石の間とか、どこかに打ち上げられているのか、全然分からない。川に落とされたときは、冷たかっただろうな、ミャーン・ミャーンと激しく泣いていたことだろう。落とされたとき、子猫は私達をどう思っただろうか。きっと、冷たい人だろうと思ったことでしょう。私は、そう思われても仕方がないと思う。

 もし、そんなに毎年、毎年生む子猫を、みんな飼っていたら、私達一家は、どうやって生活して良いのだろうか。ひもじい思いをさせないでと思うと、やっぱりそうする他ないと、私は思う。川に捨てられた子猫に、きっとどこかで私達は恨まれていることだろう。

 私は、そんなことも知らないで、夏はもう子猫のことなんか忘れて、子猫が捨てられた川で、いい気になって泳いでいる。その間にも、子猫はドンドン流されているだろう。私は、その川に花さえ流してあげていない。そればかりであればよいが、私はちり紙とか何かの屑など、いろいろなものを流している。そこいらへんに紙屑やいろんなゴミが流されている。

 子猫は、そのきたない川で、ゴミと一緒に流されている。ドンドンと下に流されている。それとも、もう川にいないで岸に打ち上げられて、何かに食われてしまったかも知れない。あの冷たい川、冬はもっと冷たい川、その川に子猫がいる。

 そんなことも知らないで、川の水はドンドンと流れている。何事もなかったように、ドンドン音を立てながら流れていく。子猫が流されたことも知らないで、新しい水がドンドンと下へ流れていく。私の思い出のあることも知らないで、流れていく川。

 

 

 「雪の下にあるもの」                  

 

  冬中、雪の下になっている草や木、そして土、三〜四メートル、多いときには、五メートルもの雪の下になっている草、木、土。人間がストーブやコタツに当たっているときも、草、木、土は、冷たく重い雪の下にいる。冷たくても、重くても、じっとがまんしている。

 この間、こんなことがあった。社会科で、白地図を完成させてくるように、と宿題が出た。私は、日曜日に朝から一生懸命にやっていた。簡単なところからやっていたので、むずかしいのが残った。学校で習ったら、すぐに白地図に書き込めば良いのだが、やらなかったので半分以上残っていた。教わってから日にちが過ぎたので、もう書き入れるのを忘れたところもたくさんあった。一つひとつ教科書やノート、地図帳などで調べてやっていた。

 ところが、むずかしいところになったら、もう見るのもいやになってしまった。がまんしてやってきたが、頭がいたくなってきた。そこで少し遊ぶことにした。遊んでいても、やっぱり白地図のことが気になって、らくらく遊べなかった。

 また白地図作業をやろうと机に向かったが、少しもやる気になれない。どうしてもやるのがいやだったので、午後になったらやろうと思った。でも、いくら午後になっても、いやなのはやっぱりいやである。もう地図や白地図を見るのがいやになった。結局、午後からは、少しも進まなかった。まだ大部分残っていたので、夜やることにした。

 夜になって、今度こそは全部完成させてやるぞ、とハッスルしてまたやったが、全部はやれなかった。だから、その日は、計画していた半分くらいしかやれなかった。そのわけは、簡単である。努力しなかったからだ。いやなことをがまんしなかったからだ。

 草や木、土などのように、がまんしなかったからだ。草、木は、雪が消えれば芽を出し、花を咲かせる。土は、その手伝いをしてやる。冬中、雪が降ったのをがまんしていたからだ。でも、私は、がまんをしなかったから、花を咲かせられないかもしれない。私も、つらいことがあってもがまんし、苦しいことがあっても努力し、りっぱに生きていきたい。草や木のように。

 

 

「川」                         

 

 私達の村の川は、どろどろな水の時もあるし、すんでものすごくきれいなときもある。橋の上に立つと、橋が上へ上へとのぼっていくみたいだ。深いところもあれば、浅いところもある。石ころが、ごろごろと転がっている。どこからか流れてきた。子供は、今はどこに行ったのか、ぜんぜん姿が見えない。今は、魚もさむいだろう。どこに行ったのか。

石を投げると、ドボンと音がして、水がパシャンとはねる。雪が流れて、プカプカと水にういている。石にぶつけながら流れる。大きな石や小さな石が、ごろごろしている。

この川の上は、どんなになっているのだろう。私が知っているのは、気味がわるく、黒くなっているところに、今にも大きなヘビが出てきそうなところや、大きな石で、少し長くなってすべすべしているところや、小さな石がごろごろしていて、歩くと足のうらがいたいところ。砂で、足で踏むと、足に砂がかかるところ。大きな石がたくさんあって、その石の上をピョンピョンととびこえなければならないところくらいだ。

そのずっと先はどんなだろうか。やっぱり、自分の知っているところを見てみたいいし、それを知りたいと思う。

 

 

  「楢の木橋の下を流れる川」                

 

  夏になると、この川で泳ぐ。時には、私たち楢の木の女子九人全部で泳ぐこともある。全部で泳ぐときは、小学生もだれもいない所で泳ぐ。今年の夏休みは、一回だけみんなで泳いだ。そして競争みたいなことをやった。あんがいおもしろかった。この川は、上の方へ行くと、あんがい深いところがある。私がうまる、手をのばしてやっとくらいだ。だけど一番深いところは、行ったことはない。私はよく泳げないが、なんとなくこわいようであるが、なんとなく行くとおもしろい。

 家の人は、この川に行くな、と言う。それは、きたないので病気になったらこまるだとか、耳の中に水が入るからだ。それで五年生ごろまで、あまり行かなかった。だけど、こんどは行くようになった。

六年生の時だったが、耳の中に水が入った。水が入ると、ぼさっとして、あまりよく聞こえない。それで、急いで帰ってきた。脱脂綿をまいたマッチを耳の中に入れたら、脱脂綿がでてこなかったようだ。脱脂綿が耳の中に入ったのだと思って、泣いたことをよく覚えている。今になってみれば、おかしいようだ。脱脂綿が入ったと思ったら、いっそう聞こえないようだった。だけど、脱脂綿は、耳の中に入っていなかったのだった。下に落ちていたのだった。

この川は、ちっちゃい魚があんがいいる。ちっちゃいので、取りにくい。遊びながら、二ひき取ったことがある。橋の上から一ヶ所を見ていると、だんだん上の方に流れていく。とてもおもしろい。学校からの帰りにも、じっと見ていることがある。流れが急なところに行って、反対側にわたろうとして、下を見たこともある。岩のあるところでころんだこともある。服を着ていて困った。がしゃがしゃになった。

冬にも、この川に入ったこともある。橋の下に長いつららが下がっていたので、それを取りに行ったこともある。そのつららは、一メートル三十センチくらいもあった。ふといところは、赤ちゃんの頭くらいもあった。とても重かった。そのついでに、中で遊んで、石を横になげて、川の上に何回ばちゃばちゃしてころんでいくか、などをして遊んだ。友達は、あまりいせいよくしようとして、ころんだ。もう一人は、ころばした。

この川のこの橋は、一回流されたことがある。八十ミリをこえたときだった。それで学校の行き帰りは、杉の木を切って、それをわたした。その上を通ったこともあった。一度に大勢歩くと、ぐらぐらゆれてこわかった。

 

 

「橋の下」

 

  橋の下に、川が流れている。きたない水、きれいな水、いろいろまじって流れている。遠くから、この川の水が流れてくる。水は、上から下へと流れてくる。その中にまじって、砂や石ころも流れてくる。水もつめたそうに、ザァーザァーと音を立てて流れてくる。

 天気のいい日などは、きれいな水が流れる。橋を渡るとき、その澄んだ水をのみたいなあと思うときもある。澄んだときは、下の石や砂が見える。木の根などが、すこしずつ、ゆるやかに流れ、そこらの大きな石につっかえている。水は、毎日休まず流れている。

 

 

 「雪の下にあるもの」

 

 雪の下に、何があるのだろうか。草や土やいろいろあると思う。その中の草の立場になってみようと思った。

 草は、とっても寒くても、がまんしているんだろう。その立場になって、ぼくが草としよう。すると、ぼくは寒くて死にそうだとします。そこを君達がとおりました。そうしたら君達はどうしますか。シャベルを持って「よいしょ、よいしょ」と、ぼくを掘ってくれるでしょうか。いや、たぶん「すーと」通りかかっていくでしょう。

 ぼくもどうかんです。きっと通りかかっていくでしょう。掘ってくれる人は、たぶん少ないと思う。雪の下でぼくたちは、美しくする大切なものではありませんか。そんなことを考えなくてもよいとおもう。

 草は、こうして春になれば、ちゃんと花を咲かせるではありませんか。雪の下にあるものは、大切なものだと思った。雪の下には、土もある。それは草とちがって、毎年、ふまれているのです。がんばって、それでもがんばって、いっしょうけんめいでがんばっています。

 土、そして草、とってもがんばって雪の下になっている。ぼくたちはどうでしょう。ぼくたちは、雪の上なのだ。だからいい方だが、動物はどうなのだろうか。動物は、雪の下の土の中にいます。眠ったまま動きません。冬に出るものもいますが、だいたい土の中に入っています。雪の下にいるなんて、つらいことでしょうね。

 草や土、それから動物、とってもいいものばかりです。雪が消えれば、また、「おはよう」と言って、みんないっしょに出てきて、たのしくなると思います。

 

 

 「楢の木の橋」

 

  僕は、昔の人達は、頭がいいと思う。どうして橋などをかけたのだろうか。それは、川などを渡るときに便利だからだと思う。その時、何人くらいで橋の木を持ってきたのだろうか。どのようにして上げたのだろうか。今みたいに機械や道具がそろっていれば簡単だろう。昔、道具があっても、その道具を誰が作ったのだろうか。

 僕達のこの橋は、大水の時、何回かどこかに流されてしまった。橋が流されたとき、川の向こうの人がどのようにして学校に登校してきたか。僕は、どのような橋がかけてあったか見に行きたかった。母や父に頼んでみたが、邪魔になるから駄目だと言って、やらせてもらえなかった。いつも何かを買いに行くときは、その橋を通っていくものだったので、買い物に行ってくれないかと言われるのを待っていた。橋が流された後、橋の近くの人達は

「昨日、縁の下まで水が入ってきとお。」

と、たまげたように騒いでいる。

 今の橋は、僕達の村の人達が造った。造る間の代わりの橋と言ったら、左右にゆらゆら揺れて、とても怖くて一年生は、大きな人に手を引かれて渡らなければならなかった。人が渡れないようなおんぼろな木を二本、針金で縛り付け、川の上に渡しておくだけです。小さな子供は、怖くて渡れないはずです。しかも、ゆらゆら揺れる橋の上で、面白がって遊ぶ人もいる。

 今の橋は、壊れないと思う。何故かというと、今までの橋と違って、両側から大きな木を二本ずつ橋の真ん中にくっつけておくので、相当大きなかすが来ても、その橋の下をくぐり抜けられるようになっている。今までの橋と言ったら、両側に届くような長い木を渡し、川の真ん中に二メートルくらいのセメンを置いていた。だから、大きなかすが来たときは、そのセメンに引っ掛かり、水のためにそのセメンが流されて、橋の木が川の中に落ちて流されてしまう。

 

 

  「橋の上より」

 

  私は、橋の上から川の流れの同じ所だけよく見た。そしたら、私は橋と一緒に、上へ上っていくようだった。汽車に乗っているような感じもした。イスカレーターだ!、エレベーターだ、汽車だ、バスだ、などと思っていたら、みんな乗っているような感じがした。

 私は、お金のいらないバスや汽車なのでいいなと思った。いつだったか、学校の帰り道で、川をよく見たことがある。誰かが

「ねら、おもしろいよ。橋と一緒に上へ上っていくような気がしらぁ。」

と言った。それでみんなやってみた。その頃、私が小さいときだったので、そんなことは知らなかった。やってみたら本当におもしろかった。それで、何回もやってみたことがある。人は、私の知らないことをたくさん知っているなあと思った。

 私は、小さいとき、川の水は毎日毎日流れていても、よく水がなくならないなあと思ったこともある。川は、便利なこともある。洗濯などをやれるので、良いときもある。でも、大水になると、いろんな害が起きるので困る。でも、やっぱり川があって、水が流れていた方がいいなあと思う。

 

 

 「雪の下」

 

  雪の下には土がある。人間である以上、見る土。百姓が作物を作る土。その土も雪が降れば見れない。しかし、その土の下にも生物がいる。冬眠をやり、眠り続けるカエル。そういうものがいるので土らしいと思う。

 雪の上にいる人間は、土を見れないと言う。そういう気持ちは寂しいと思う。二〜三メートル近い雪の下に、稲や野菜を育てる土がある。半年も雪の上にいることを思うと、心細くなる。

 雪の下には、多くの希望がある。ぼくたちは、冬、雪を掘って土を出すことがある。そんな時、とってもうれしい。カエルなど、半年冬眠する。生物も、春を待っているだろう。そして、雪の下でふきのとうも香りを出して春を待っている。色々変化する土は、いろいろな意味を持っている。百姓が汗を流すのも、この土の上。そして、米などがとれる喜びを知るのも、この土の上だ。草木の若い生命も、この土からだ。雪が降ろうが、雨が降ろうが、この土の値打ちは変わらない。  

仕事をすれば、汗が落ちるのも変わらない。塩の固まりのような汗が、土に向かって落ちると、土が吸い取る。その汗の一滴が、苦労のぬけがらのように落ちる。雪の下には、土がある。

 

 

「楢の木橋の下を流れる川」

 

 いま、ぼくたちの村の中を流れている川は、何回も洪水を起こしたことがある川です。一昨年の大水は、ぼくたちが学校で勉強していたとき、雨がだんだん大きくなってきた。その日、橋が傾いたということが、学校に入ってきた。家に帰るときは、家の組の人が分かれているので、その家の組の人たちが組になって一緒に帰った。

 その時、先生も一緒についてきた。学校から村に来るまで、その橋のことを皆んなが話をしていた。橋に着いてから橋を見たら、橋が傾いて通れないようになっていた。だから丸太を二本渡して、その丸太の上を行き来していた。その上を皆んなが、五人くらいずつ渡った。

 上の橋は、ゆらゆらと揺れて歩きにくかった。翌日から、集団欠校となり三〜四日続いた。それから幾日たってから、橋の工事も始まった。真ん中からセメントで柱を立ててから、上の方に木を渡した。その橋も作り変えて、真ん中にあった柱をなくした。

 それからは、大水もでないので橋は壊れない。橋が流れるのは、まず橋の高さが低すぎるということだ。それに今迄、真ん中に柱を立てたので、そこに木の根っこが引っ掛かって橋が壊れるのだと思う。その橋の下に滝を作った。その滝は、掘れないように作ったものである。その滝も大水で被害を受け、今年工事をして立派にした。横に石垣を作って、水も溢れないようにした。

 

 

「雪の下にあるもの」

 

 雪の下には色々なものがある。植物や動物など。動物には、穴を掘って生活をしているヘビ、イタチ、アリ、その他たくさんの動物が住んでいる。食べ物は、秋のうちに穴の中に入れておく。こんなことをするので、動物も大変だと思う。

 植物は、土の上に生えている。だから雪が降ってくると、どこにも逃げ場がない。毎日、冷たいところにいなければならない。花が咲く植物はいろいろある。菊は、雪が降ってもそのままにしておくと、春に芽を出し、秋に花が咲く。菊はこのようにしながら生きていく。

 土の下にいるものや上にあるものは、数え切れないほどたくさんあります。水の中に住んでいるものもある。魚は一生水の中にいなければならない。冬になって雪がたくさん降っても、魚は死なない。金魚はすごく体が強い。川にいるハユだけ生きているのをぼくは見ました。池の中は、とてもくさくて、いられないようだった。

 植物や動物には、体の丈夫なものもあるし、体の弱いものもある。動物は、けんかを始めたら、強いものが勝ち、弱いものは殺されたりする。アリは、人間に踏みつぶされて死ぬのが多い。アリは小さいので走るのがとても遅く、すぐ捕まりやすい。アリは、小さい体で大きなものを運んだりする。冬の支度は皆んなでするから早く終わる。雪が降ってもアリは小さいので、穴へもぐればいい。

 雪のために、動物はいやなことがたくさんある。

 

 

 「川の流れについて」

 

私達の川の名は、中野川です。たなす原の中野川から流れてくるので、中野川と言うそうです。川に泳ぎに行くときは、中野川で泳ぎます。私は、泳ぎが余り好きではありませんが、少しは泳げます。私達の川で、しめしや洗濯物を洗います。でも、泳ぐときは、上の方で泳ぎます。上の方では、水も綺麗なので泳ぎやすい。冬になると、大きな石にところどころ雪が積もっている。 川の流れを見ていると、私まで流れていくように見える。ザーザーと音を立てて流れている。それを見ていると、なんだか不思議になる。

秋は、木の葉が散って木の葉が流れてくる。春には、水が多く濁っている。雨が降った次の日は、べとと水の混ぜ合わせたみたいな水が流れてくる。いくら濁っても、白い泡は、頑張って上に進もうとする。そのために一生懸命頑張っているが、すぐ流れる。けれども白い泡は、頑張っている。流されてはまた出てくる。白い泡は、いくら流されても頑張っているのだなと思った。私も白い泡のように、くじけないで勉強をやろうと思った。私も白い泡のように、流されても一生懸命に頑張ろうと思った。私は、白い泡のように、くじけないように苦労しようと決心した。まだ、やれるかやれないか分からないが、一生懸命にやろうと心に決心した。

冬の川の色は、緑に少し濃い色をしている色だ。やはり白い泡が頑張っている。それを見ていると、私はすぐ考える。勉強を泡に負けないようにするには、くじけず、しっかり勉強するということを、いつも私は身に付けておきたいと思う。私は川を見ていると、こういうことを思った。

 

 

 「雪の下に」

 

  雪の下には、木がある、草がある。木や草は、冷たい雨、そして重い雪を背負っている。長い間、その雪の下になっている。

 そして、ようやく春が来ると、やっと重い雪も段々と溶けていくので、軽くなる。草や木は、その春を待って、長い間辛抱している。三メートルも積もる雪の下に、長い間よく辛抱していられるものだなあと思う。草や木は、楽しい春が一番好きだと思う。春は、鳥も鳴くし、暖かいし、綺麗な花が咲くし、草や木はそれを待って、重い雪もへいちゃらで背負っているのだと思う。草や気は強いなあ、私は、そんな物を背負って、長い間辛抱していられないと思う。

草や木は、雪の上から人が上がるので、雪が重くなる。雪の下の草や木は、どのようにして生きているのかなあ、と不思議に思う。私だったら、そんな冷たくて重い荷を背負っていたら、枯れてしまうに違いない。私は、草や木は強いなあ、と思った。

 

 

「雪の下のもの」

 

 雪の下のものと言えば、木、草、だいたい植物、生きるものである。雪が溶けるまで、骨を折らなければならない。植物は、夏、春、秋はそんなに苦労しなくてもよい。ただ、冬だけ雪の下になる。草なので、特に冬は、草は出ない。木ぐらいは、雪の降った後は、晴れた時くらいに見えるくらいだ。

 木は、背ぼんこのように曲がっている。それも苦労の一つだろうと思う。ぼくたちの家は、その木のお陰である。皆んなの家は、皆んな木で造られている。その中にぼくたちが入っているのだ。僕は、木は本当に良いものだ、と思う。だから植物、見えない物は、毎日苦労しなければならない。そして、木や草などは苦労するのだと思う。

 草などは、一年中、冬は雪の下になるのである。ぼくたちは、植物は大変よい、と思っている。私は、草や木に感謝したいと思う。木や草は、土がないと生きてゆけないのである。木は、十年も二十年も、大きくならないと家を造られないのである。

 木は、水分や土などで大きくなるのである。木も草も、年寄りみたいな物があるのではないか、とぼくは思う。特に木などは、腐るときがある。その腐るのは、年を取った記みたいだと思う。人間も年を取れば、一度は死ななければならないのである。可哀想だと思う。

 

 

「楢の木橋の下を流れる川」

 

 ぼくたちの村は、「下けた」と「てっちょうけた」の二つに分かれている。ぼくの家は、「てっちょうけた」のだいたい真ん中だ。

 川は、「下けた」を二つに割るように、「下けた」の真ん中を、ごうごうと音を立てながら流れている。その川は、池谷から流れて、ぼくたちの村を通って、木篭に通じている。

 ぼくたちは、いつも暑い日が続く夏休みには、川に行って遊んでいる。時には、木篭の子供達が川に上ってきたり、ぼくたちが木篭に行ったりすることがある。

 この川は、毎年、毎年、大水になり、この川にかけてある橋が壊れたりする。それで、何度も、何度も、造り直した結果、今の楢の木橋となったのだった。でも、大水で橋が流れて通れないときは、ぼくたちが一番困る。それで、村の人達が一生懸命になって、壊れた橋を造っていても、そんなに早くはできない。

 ぼくの家は、川の近くでないので、村の人が壊れた橋をどうして通れるようにしたのか分からない。それで橋の近くに行くと、川に橋の代わりに大きな丸太棒を二本渡してあった。

 ぼくたちの村は、山ばかりなので、雨が降ればすぐ川に皆んな流れ込んで大水になる。それで川岸にある家は困る。山古志の代表的な錦鯉を飼っている家が、川岸に多いので、大水になると大事な錦鯉が皆んな川に流されてしまうことが多い。

 町に行くにも、山に行くにも、学校へ行くにも、皆んなから使われている橋が、大水に流されては造り、流されては造り、何度も何度も造ったのだ。

 今、この川は、下に砂利でいっぱい。大きな石が、ぼこぼこと出ている。その中にも、つるつる滑る石が幾つもあるので、安心して歩くことができない。それに、浅いところもあれば深いところもあり、それに川で遊んでいるとき、強い波が来て流されたりすることがある。台風や地震がきた後、川岸にある田畑がメチャクチャに荒らされて、始末されないようなことが多い。

 

 

 「雪の下にあるもの」

 

  この雪の下にあるものは、多くのものがある。カエルやヘビは、寒くなると土の中に入って、春になるまで出てこない。春、暖かくなると出てきて、カエルは田圃に入っている。ヘビはどこでもいる。鳥のスズメやカラスは、穴や土の中に入らないで、大空を飛んでいる。スズメは、虫などを捕って食べている。カラスは、池の傍に降りて、魚などを捕って食べている。そうして生きている。

 雪の下には、もっと大事なものがあると思う。来年の春に出るものが、雪の下に埋まっている。フキノトウは、そうだ。春、雪が消えそうになると出てくる。雪のところに穴が開いている。そこに行くと出ている。出ていそうなところは、決まっている。ぼくの家の近くにも出る。

 水の流れているところに、大きな穴が開く。そこをぼくたちは、潜って採ってくる。それを「水ほおき」と言う。長さが四十センチくらいのも沢山ある。それを採ると気持ちがよい。小さいのも、いっぱい出る。袋の中に、いっぱい採ってくる。桜や色々の木も、みんな春に咲く花である。

 

 

「雪の下のもの」

 

 雪の下にあるものは、空気中以下である。雪の下にあるものと言うが、数え切れないほどだと思う。

 先ず、土、虫、ケラ、ヘビ、カエル、植物、木、橋、田圃、あらゆるものだと思う。そして、現在人間までも、雪の下になっている。何故かと言えば、家の屋根は雪の下になっている。そして、ぼくたちは、その家の下つまり雪の下であると言っていいのではないかと思う。冬、本番になれば、家の屋根まですっぽり埋まり、ぼくたちは冬になると冷蔵庫に入っているのと同じだ。何故、雪が降るのか。それは日本海と太平洋に挟まれた山脈があるからだ。日本海側から冷たい風が吹いて、そして日本海から水蒸気が上がり、上がった水蒸気が冷たい風に冷やされて、雪となって落ちてくる。

 地面の下の根や花などは、どのようにして生きているのだろうか。あんなに冷たい中に漬かって、春になれば出てくる。一体、どれだけ温度が低くなったら、倒れて駄目になるのだろうか。木などは、水分さえあればよいのだろうが、ぼくならば一分も入っていれば、もう死んでしまう。虫けらもそうだ。ヘビもハエも皆そうだ。

 お湯をかけても、中々溶けない。でも、人々はそれぞれ頑張っている。人間は、家を造って入る。虫けらなどは、卵を産み付ける。ヘビなどは、土の中にもぐっている。カエルも、木までが立派に生きているのだ。

 

 

 「楢の木橋」

 

  私達は、今日、学校の帰り道に、橋の上から川を覗いてみた。川の流れを見ていたら、段々、上へ昇っていくような気がする。そして、こんど雪を落としてみた。そしたらポチャンと音がしたと思ったら、少し下の方に落ちたみたいだった。それから家に帰った。また川のことを思い出してみた。川の流れを見ていると、薄濁ったような水の流れているところへ、ジャンプみたいなところが白くなった。それから川のはじっこにあった草が揺れていた。

 岩のあるところは、薄く分かる日もあった。岸の方は、砂と石で、石の間に砂があり、砂の間に石が入っていたりしていた。川の流れを見ていると、面白いような感じがした。でも、川の中に入って、波の強いところで立っていると、なんだかフラフラするように感ずる。夏は、川の中で競走する。潜って、どこまで行けるか、競走したことがあった。でも、今は冬だから、夏みたいに川の中で泳げないし、橋の上で眺めていれば面白い。

 橋の上で眺めていると、色々な波が来る。それだけ見ても面白い。水の多い日や大水になったときは、水が濁って汚い色になっている。その反対に、水の澄んでいるときは、川の中の石までよく見えるときもあった。濁っている時は、川の水が多くなって、澄んでいるときは少ないように感じる。川の流れをよく見ていたり、何か、石や雪を落としてみても、面白い。

 川は、泳いでいたり、魚を捕る人もいたり、川はみんなと遊んで嬉しそうだなと思う。川が静かなときは、薄暗いとき、金次郎のところへ買い物に行くと、一番よく分かった。誰もいなくて、川の流れだけが聞こえてくる。そして学校の帰りや、橋を渡ってみて、何かを落としてみたら面白かった。夏の日、泳いでいるときは夢中で泳ぐが、冬や秋の泳がないときは、なんだか心細くなってくるようだ。

 

 

 「雪の下にあるもの」

 

  雪の下には、かたくりやじゅんの花などがある。これは、雪の消える頃に、雪の下で芽を出している。雪が消える頃に、かたくりは紫色の花が咲く。そのかたくりは、百合のように開いて、紫である。じゅんの花は、桃色と白の色、その他色々な花が咲く。かたくりもじゅんの花も両方、雪の消える頃に咲く花で、その他緑色の小さい、はやくさ等が雪の下にある。

 雪が消える頃に咲く花や芽を出すものなどは、全部雪の下にうずくまって、小さい芽を出している。かたくりやじゅんの花、木や草などが雪の下にある。だいたいは、背の低いようなものは、全部雪の下にある。じゅんの花、かたくりの花、ちょうちん花などが沢山ある。

 

 

 「雪の下のもの」

 

  雪の下は、土と草である。草は、雪が降ると、自然と駄目になっていく。それが二か月くらいもいると雪が消える頃、春に近くなっていく。春が近くなると、草も土も軽く朗らかに育っていく。草や木は、もう重たい目をしなくても、ドンドン大きくなっていく。伸びるのは構わないけれど、横も太ってもらいたい。横が太ると、木に登りにくくなる。でも、登りにくくても、大きな木があると言うことは、とても嬉しいことである。

 隣村に行くと、大きな木がいっぱいある。その木は、大きくなると村の人達に切られてしまう。そうすると、木はおしまいである。でも、切った木から芽が出て大きくなっていく。木は、そんなことをして一年を過ごす。

私達も木と同じことをしている。でも、私達の毎日は、一日毎に生活が変わる。それは、自分で計画を立てていくからである。そして人間は、一年を過ごす。人間は、仕事をする。それは自分が食べていくためです。自分が食べなくては、死んでしまうからである。草や木も同じだと思う。自分で水分を吸って生きているのですから、木も働いているのです。働いて生きていくという、村や町は全部です。

貧しい家もあれば、お金持ちの家もある。私もお金持ちはいいけれど、人のことを考えると余り良くない。先ず、最初に贅沢すると、社会に出てから一人暮らしをしなくてはならない。家にいたときは、お母さんからご飯を食べさせてもらったのが、社会に出ると自分のことは自分でしなければならない。苦しいことを承知してから、社会に出てもらいたいと思います。やがて私達も、社会に出なければならなくなる。あと二年です。私は、頑張りたいと思います。

 

 

「楢の木橋と川」

 

 私は、学校の帰り道、なんとなく川を見た。さんざん見ていると目が回ったようになって、ずんずん上の方へ行きそうだった。私は、吐きたくなるようなめまいがして、怖かったような感じがしたので、川から目を離した。川から目を離したら、少しフラフラとふらついたが、すぐ良くなった。泡の立つところ、立たないところ色々様々だ。

 私は、川が怖いような気がする。どんな時かと言うと、大雨が川があふれ出して、川の付近の家近くまで水が来ているときや、大雨で橋が流されたときなど、色々である。大雨で橋が流れたのを覚えているのは、二回です。

 一度目は、大雨で橋が流れた。橋がなければどこかに行けないので、大きい杉の木を切り倒して橋にした。学校に出てる子供達は、その橋を渡らせなかった。その時、学校がどうしたのか、今はよく分かりません。

 二度目は、小学生が帰ってくる途中、小学生達が渡り終わったら、すぐにムチムチと真ん中から割れた。先生方が心配をして、私達を送ってくれた。その日から、団体で行動するようになった。

 夏になると、その川で水あぶりをするのです。上の方で何をしているのか分からない。肥樽を洗っているのやら、しめしを洗っているのか、小便をこいているのか、分からない。そんな川で私達は、水あぶりをしているのだ。水をあぶっているときは、そんなことを考えない。ただ、面白い。暑いから、ただそんな理由で、水あぶりをしているだけだ。