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「思い出について」 山古志中学校池谷分校一年生

 

 

 

 

 以下、昭和四十年十一月十一日収集


「思い出について」  

 私が、どうして「仕事の思い出」というものを書いてもらったか、それは、思い出というものを通して、皆さんが自分のことについて考えてもらいたかった。皆さんは、だんだん大きくなっていきます。しかし、その始めから思い出というものが消えていったのでは、寂しいのです。もし、思い出が消えた自分は、どうでしょう。自分は、どういう人間だったのだろうかと、迷うに違いありません。特に、自分の心が汚くなったとき、自分にも美しい思い出、これは自分が美しい人間だったことがある、ということです。そのことが信じられないならば、また思い出すことができないならば、今の自分が正しく、美しい心の人間だということを思うことができないからです。
 思い出、今日の思い出でもよいのです。それを自分の知る限り、忘れないうちに帳面に書き留めるのです。一番良いのが、日記でしょう。つけるのです。日や天候などを付けるのではありません。自分の今日の心を記すのです。反省もなにもいりません。心に感じたことを書けばよいのです。

「仕事の思い出」  

 私の仕事の思い出とは、今年の秋、ぼいぶいをやったことです。姉と私と弟、三人でやりました。仕事は日曜日、休みにかけてやりました。家を出て、だいぶ歩き、そこを歩いていると、今にも蛇が出てきそうなところです。ある日曜日、昼から仕事を始めました。家を出て、道を歩き、川を渡り、草むらを通りました。私は、
「あーあ、これから、ぼいぶいをやらなくてはならない。」
など考えました。ようやくぼいの場所に着きました。ぼいにかけておいた笠を取らなくてはならない。私たちは、よしやるぞ、と心を決め、仕事に取りかかりました。
 姉が一番最初に取りかかり、私たちはやろうと心を決めても、手が動かない。それは、やる気がない。口だけ言ってもだめ。姉は、私たちがやらないので一人でやっていた。それを見て、済まないと思って、やろうと今度こそやる気になり、皆で力を合わせ、笠は取った。そのとき、私は笠を取る前は、蛇がいるようで、何となく取る気がしなかった。こうして取った後、蛇も出てこない。そう思ったとき、私は、なにもまだやらないで、自分の心を決める。そんなことでは、だめだ。実際にやってみなければ、分からないということが、この私に分かりました。ぼいを、しゃがんで、ぶおうとしたとたん、いや、これは重すぎると自分で決めた。一把へらそう、など考えた。だが、実際にやってみなくては分からないということを知った。これを思い付き、負ってみることにした。軽くない、重くない、やっぱり実際にやってみなくてはということが、さっきよりも、もっと深く感じた。
 ぼいをぶい、家へ家へと近寄っていった。そのとき、背中が痛い。
「おー、疲れた」
と思い、土にこしかけ休み、また、だいぶたつと休み、そのとき、弟は、もうぐんぐんと家に迫っている。
「男だから、力があるんだ。」
などと姉と話ししまに、ようやく一度目のぼいが家に着きました。弟は、私たちが来るまで、家の中で休んでいた。また三人で道を歩き出した。
 こうして五回目に家に着いた。母は、
「もう暗くなったから、行かなくてもよい。」
と言った。だが、私たちは、あと一回で終わると思うと、行かないでいられなくなり、母に
「あと一回で終わるから」
と言って、また、ぼいの山に向かって歩いた。今日で、もう全部終わった。こう思うと、嬉しくてたまりません。そんなことを考えながら、川を渡るところに来ました。
 姉が、
「あたりが暗いから、気を付けれ。」
と言った。私たちは、
「はい。」
と、いい返事をしたとたん、私は、川の中に勢いよく、ズデンと転んだ。あー、冷たい。あー、どうしょう。今までの元気な声、元気な顔が、急に寂しい顔、情けない声を出し、冷たい冷たいと言った。
 弟たちは、ポカーンとして、私を見ている。それから姉が、ここから帰れと言った。私は、その気になった。だが、みんなと一緒に帰ろうと思ったので、川から上がって待っていました。そしたら弟が、何か怒鳴った。よく聞いてみれば、私も来れば良かったのに、何故今になっていったんだ、などと皮肉を言いしまに、弟たちのところへ行った。
 いつもより、少ししか負わなく、家の方に向かって歩く私たち三人、あたりはもう暗い、あたりの家は、もう電灯をつけている。私たちは、少し急ぎ気味に、家へ家へと向かった。

「仕事について」  

 私は、仕事が嫌いで、いつもいい返事はしない。そうすると、母は、いつも
「だって、仕事はいやだ。だれでもしなければ、どうなるのだ。」
といつも叱られる。でも、私は、そのまま仕事をしないわけではない。返事をしなくても、私は、いつも仕事をやる。母は、仕事をやる。母は、仕事を言いつけられたら、返事をやれば、少しぐらいいいのに、返事をやらないので、すぐ怒る。
 この間、私がこたつで本を読んでいたら、母が、
「大根を運んでくれ。」
と言った。私は、母からいつも叱られるので、今日こそいい返事をやろうと思って
「はい」
と言って、大根を運んでやった。母は、私を褒めてくれた。毎日、こんなだったらいいのに、いつも返事をしないで悪い子だと言った。私は、大根を運んで家に入って、また本を読んだ。私は、やっぱり仕事をして褒められることは、気持ちの良いことだと思った。
 今日、
「風呂を沸かしてくれ。」
と母に頼まれた。私は、そのときはいやだと言った。そのときの時間は、三時であった。私は、返事もしないで、ただ、いやだと言ってしまった。今、父がいたら怒られるのに、父が働きに行ったので、気軽に言った。風呂を沸かさずに、その辺をウロウロしていると千太郎のお母さんが、母と話を始めた。私は、仕方なしに家に入って、風呂を沸かし始めた。さっき言ったことを反省した。本当に、私は悪い子だと思った。今まで、平気で言っていたことが、母に向かって言えない気持ちになった。私は、今日からでも、仕事を嫌がらないで、やっていきたいと思う。そして、母に長生きをしてもらいたいと思っている。

「仕事の思い出」  

 真夏の太陽を受けながら、私と母は、桑畑の草を取り始めた。母の額に、たくさん汗がたまっていた。その汗が、ポタポタと地上に落ちる。母は、腰を上げて、頭にかぶっていた手ぬぐいをとって、その汗を拭いた。手ぬぐいに土がついていたのか、母の額のところに、少し土がついた。母の額には、しわがたくさんできていた。私は、
「母は、もう年だなあー。」
と思った。母は、汗を拭くと、また、はじっこなって、草取りを始めた。
 母の手は、土で真っ黒であった。私は、母に続こうと思い、必死で草を取り始めた。でも、私は半分くらい行くと休み、その場で立って、その辺を、何の気なしにキョロキョロ見ながら、首に巻いた手ぬぐいをとって、額の汗を拭いた。その間にも、母は、ドンドンと、前へ前へと草を取っていく。私は、その場で母が草を取るところを茫然としてみていた。両方の手で取っちゃ片手に移し、せっせせっせと草を取る。私は、今度も母に続いていこうと思い、必死になって、サッササッサと草を取った。その早いこと早いこと、私は自分でも早いなと思って、ちょっと後ろを振り返ってみたら、まだ草を取っていないところみたいに、ぼうぼうと生えていた。
 私は、あわてて後ろに後ずさりをして、もう一度、始めから、丁寧に、なるべく早くしながら取っていった。そこで私は、ちょっと休憩して、母の方を見た。母は、私より一列くらい早かった。母は、あまり休まなかった。私は、よく長く、そうしていられるなぁと思った。私なんかは、十分位すると、もう足がだるくなって、そこに腰を下ろすか、その場で立ってしまうので、私は、そして考えた。
 今度から、一列が終わらなければ休まないことにして、草を取り始めた。はじめの一回は、何度か、草を取りながら、休もうか休もうかと思ったくらいでしたが、母の方を見たら、母は、休まずに一生懸命にやっているので、私は手を動かした。足が弱ることといったらない。ようやく一列が終わった。立とうとすると、腰のあたりがとても痛い。何気なく見たら真っ黒、爪の中も土で真っ黒だった。暑い、汗がポタポタ落ちてくる。思わず、私は額を手で触ったら、土がざらざら着いた。手ぬぐいで拭くと、ざらざらして、とても気持ちが悪い。それに手ぬぐいで顔中なで回したので、土が着いて顔がざらざらしていた。
 その手拭いも、もう何回か汗を拭いたし、その時、汚い土だらけの手で持ったから、手拭いは、ざらざら、おまけに汗で汚れている。仕方がないので、片方の端で拭いた。端の方は、余り、それでも使わなかったので、きれいになっていた。
 でも、その方法で拭こうと、顔に当てたら、土がついていたらしく、当てた途端に「ざわ」とした。そっと手拭いを顔から離した。仕方がないので、そのままにしておいた。その間にも、母は、せっせせっせと草を取っている。だんだん、私との距離は離れていく。私は、急にはじっこになって、母と私との間を少しでも縮めようと、もう何も考えずに草を取り始めた。
 それから、どれくらい時間が経っただろうか、私は、ふと、顔を上げて後ろを振り返った。もう、二列位してあった。私は、ほう、と溜息をついた。その間に、私と母は、一言も話しをしなかった。その時、母の、ぽつんと
「まこ、ちょっと、休もうか。」
と言った。私は、ちょうど疲れたときなので、
「うん、休もう。」
と答えた。私と母は、二人で日陰のところに行って、腰を下ろした。母の額は、まさしく汗がたくさんたまっていた。母は、頭から手拭いをとって、その汗を拭いた。私は、母の手拭いは、きっと汗くさいだろうなと思った。
 私は、その草むらに寝転んで、空を見た。青い空に、白い雲がポツンポツンとあった。こうやって雲を見ていると、その時の雲が、いろんな形に見えた。私は、その時、アイスクリームを食べたいと思っていたのか、一つの雲がアイスクリームの形に似てきた。
 じっと、その雲を見ていたら、その雲の横にあった雲が段々近寄ってきて、その雲を隠してしまった。こうやって空を見ていると、実に気持ちが晴々とする。さっきの、暑い気持ちも、どこかに吹っ飛んでしまった。また、母と二人で草取りを始めた。

「ぼいだし」  

 ぼくは、いつも、ぼいだしのとき、学校を早くあがる。そして家の手伝いをする。その時は、だいたいの村の人もやる。雪が降っても、未だ、ぼい出しをしない家がある。でも、ぼくの家は、雪の降らないうちにする。今年も、雪が降らないうちにしたので、ぼくは良かった。
 もしか、雪の時は、寒くてできない。そうすると、冬、たきぎがなくなる。学校では、まだ、たき物ひろいをしていない。そうすると、雪が降ってからするのも、寒くてしてられない。ぼくは、早くしたほうが勉強が進む。やはり、ぼい出しというのは、早くしたほうが良いと思う。
 もしか、たきぎがたえた、などというと困る。だから、たき物は必要であると思う。早く学校の、たき物ひろいをした方が良いと思う。ぼくの家の小屋の中には、ぼくたちが拾ってきた、たき物、家に入らないので小屋に入れた。
 あまり雪が降らないうちに、家に入れるつもりである。だけど、ぼくは、たき物は必要と思う。

「仕事の思い出」  

 私の仕事の思い出は、草取りのことです。夏の日の、太陽ががんがん照りつけているとき、山に、小鎌を持って、暑い道を、手拭いを頭にかぶり、山に来て草取りを始めた。大きいものもあれば、小さい草もある。それを取るのには、なかなかてまどる。それを、みんなとろうというのがこまる。ときには、ごまかしておいて、大きな草だけを取り、それから少し遊んだりして、叱られる。仕方なく、やったこともあった。もとは、姉さんがいたし、だから私は叱られなくて、遊んでいたが
「今度は、そうではないど。」
と、お母さんに叱られる。
 だから一生懸命やる。もとは、お父さんが、足が痛くてやれなかったとき、私達でお父さんのやる仕事をやって、それから、自分達の仕事をやって、暗くなって家に帰り、夕飯の支度をやり、やっと終わったと思うと、宿題などあって、遅くなってやったことがあった。
 また、次の日の天気の良い日は、山に行って草取り、また、草取りをやっている時に首の中に土が入って、汗のかいた顔に土がぶっかったりすると、怒りたくなることもあった。でも、土や草を怒っても、土や草は何も言わない。怒ろうたって、無理なことだ。でも土や草のお陰様で、人間や動物たちは、生きていられるのだ。
 土の上に種を植えれば、その種が大きくなり、それを人間が食べる。ときには、動物たちに食べられることもある。それを人間は、一生懸命働いて、苦労し、荷を背負ったり、草を取ったり、土を肥やしたりして、やっと作ったものだ。
 でも、それを動物たちに食べられるのは、憎い。でも、動物たちだって、食物を食べなければいけない。でも、大人達は、動物の気を知らない。動物たちも、もっともっと、人間の作ったものを食べないようにすれば、人間だって殺しはしないのになあ、と思った。

「仕事の思い出」  

 私は、山で母の仕事を手伝って、お姉さんは、桂谷から、鳥の餌を背負ってきた。帰るとき、お姉さんは、トンネルまで、私は山から帰る途中にトンネルのところから、鳥の餌をぶってきた。
 家に帰るまで、色々なことが起こった。私は、トンネルのところから、ぶったけど、とても重かった。そして少し歩いてから、重蔵の畑のところの曲がり角まで来たら、横にだいぶかしがった。
 だけど、私は、そのままぶっていった。そして製材場のところまで来たら、縄が外れそうになっていた。そして、稲荷様の曲がり角を曲がるところで、足が変になり、その道のところで転んだ。
 そして、その餌が重いので、私はやっと、じゃまでないところにゆくことにした。そして、自分でおねて、ぶたけど、重くて、おねても、たてないので、餌を少し分けて抱いた。また、おねて、ぶてみたら、やっと起きられたので、そこからやっと家まで、やっと、ぶてきた。良い方の道からぶてきた。そしたら、家にはまだ、山から帰っていなかったので、家の中に降ろしていたら、直ぐお母さんが来たので、自分が転んだことを話したら、お姉さんも、母も、みんなに笑われた。どうして、このことを覚えているかというと、自分で始めて、ぶて転んだことや、やっと、ぶたことなどで覚えていた。

「仕事の思い出」  

 母と一緒に山へ行って畑まきをしていたら、わらびが出ていたので、母と一緒に畑まきに行ったのが、いつのまにか、わらび採りになりました。とてもたくさん出ていたので、取りきれませんでした。私と母のわらびを比べてみましたら、二かめくらいありました。私は、あの時が、一番うれしかった。

「仕事のこと」  

 今日、ぼくとお母さんと、豆刈りをした。ぼくは、少し刈ったけれども、あまり遅いので、家まで「ぶて」来ることにした。ぼくが一回行ってくるまで、いっぱい刈っていた。それをまたぶって行く。三回ぐらい行って休んだ。もう少しで終わりそうなので、少し休んで、またした。ぼくが「ぶた」ら終わった。終わる時、お母さんと少しずつ持ってきた。


「仕事の思い出」  

 仕事の思い出という題の作文の宿題を出された。先生は、労働の思い出を書いてもらいたいかも知れない。でも私達、生徒の仕事は勉強なので、勉強についての思い出を書こう。
 思い出といっても、中学校に入ってからのことだが、英語があまりできないので、先生が特にできない人に、十課を筆記体で百回書いてこい、といわれた者もいた。中には、二百回ずつも書いてこいと言われた人もいる。でも、それは止めて、全員に二十回ずつ書いてこいと言われた。ちょうど、その日は、本校で弁論感想文発表会があった。本校から帰ってきたら、もうほとんど暗くなっていた。それから夕飯を食べて書き始めた。三回くらい書くと手が疲れてくる。でも、がまんしてやった。時々休まなければならなかった。家族が、みんな寝てしまって、かすかな寝息が聞こえてくると嫌になり、ふとバカバカしい、止めて寝てしまおうかと弱気になりかけた。でも、どうしても書かなければいけないのだと思い直し、鉛筆を握り直した。だが、目が痛くなってくる。目薬をつけつけ書いた。そのうちに、お腹も空いてくる。母がくれた、おこしをかじりながら、ウトウトしたことも何度もあった。でも、目を覚まして、あわててやった。
 ようやく終わって床に就いた。十二時を打った。次の朝、まぶたがふくらんでいた。手は、痛くて、鉛筆を握るのも一苦労だった。学校へ行ってみたら、大部分の人が、まだ全部書いていないと言って、一生懸命に書いていた。委員長が集めて先生に渡した。
 でも、二十回書いていない人もいた。Aさんは、二時までやって、朝またやったが終わらなかったという。Bさんは、五回しか書かなかった。Aさんのように、本当に努力してもできないのと、Bさんのように努力してもみないで、諦めた人がいる。しかも、この人達の中では、百回書いてこいと言われた人が多いのだ。先生は、二十回書かない人も、怒らなかったが、本当に努力した人は良いとして、努力してみもしないで、諦めた人は、どういうのだろうか。


「仕事の思い出」  

 稲刈り休みの日、熱い太陽を受けながら、私は稲ぶい。父は、はざを作っているし、母と兄は、稲刈りをしている。母と兄が刈った稲を、私がぶっていく。兄の稲刈りは、とても早い。母のとは、比べものにならないほど早い。熱い太陽を受けて、私は坂道を上る。額から汗が頬に落ちる。落ちるたびに、私は額にタオルをあてながら、よく考える。どうして私たち、村の人たちばかり、苦しい目にあわなければならない。そのことはよく分からない。いくら考えても、いくら考えても、分からない。いくら考えても、私には分かりっこないのだ。
 昼になった。私たち家族は、家へ帰って、ご飯を食べて、直ぐに山に行って、稲刈り。
 山に行ってから、少したったら、母と兄が刈っていた田圃の稲刈りは終わった。父も、はざ作りも終わった。こんどは、家族みんなで、稲ぶいをした。みんなで、稲ぶいをしたら、すぐ終わった。稲ぶいが終わったので、こんどは、稲かけをした。母は父に投げ、私は兄に稲を投げた。それから、稲は、ほんの少しになったので、私と母は、家に帰ってごはんの支度をした。父と兄は、稲をまだかけていた。私は、家に帰って風呂たきをした。母は夕飯の支度をした。
 夕飯の支度をしていると、父と兄が帰ってきた。父と兄は、すぐに風呂に入った。風呂に入ってから、ご飯を食べた。

「仕事の思い出」  

 私は、蚕の時、母と山へ桑とりに行った。母は、ポツポツと休まず、桑をとっていた。私は、母に負けないようにと、一生懸命やった。それから袋の中を見た。まだ、半分くらいだった。母の袋の中を見たら、もうすぐ、いっぱいになりそうだった。
 私は、母みたいになりたいなあと思った。それで一生懸命やった。でも、母には追いつかれなかった。母は、もう、この袋いっぱいにした。二つ目の袋の中に、やっと私も二つ目の袋に取り始めた。
 私と母は話しをしながら取っていったら、いつの間にか、いっぱいになった。そして袋の中に手を入れて押したら、半分くらいになって、まだ、たくさん入りそうであった。
 でも、もう薄暗くなったので、桑の袋を二つずつぶって、私と母は家に帰った。

「仕事の思い出」  

 学校から帰ってきて、ご飯を食べてから、柿の木に登って、妹たちにもいでやって、ぼくもポケットの中に入れて、父と母とぼくの三人は、耕運機に乗って山に行った。行く途中に雪があって滑るので、押していって山に着いた。畑のところまで藁を持っていって、ネギを少し運んだ。それから残りのネギをこいだので、ぼくは母のところまで運んだら、父が
「上の水のあるところで、土を少し落として行け。」
と言われたので、土を落として行った。そしたら母が、今度
「枯れた葉を落として、藁で縛って持ってきてくれ。」
と言ったので、言われたとおり持っていった。全部運んでから、母が洗ったのを、藁の上に並べた。それが終わると柿を一つ食べた。それから大根をぬいて、母は耕運機のところまで背負っていった。ぼくは、ぬき役なので、雪をのかしながら、大根をぬいた。父は、ネギをこぎ終わると、木の冬囲いをやっていた。ぼくは、五郎作の人から柿をもらった。今度は、母がネギを縛って、ぼくは耕運機のところまで担いでいった。三回行ったら父が来たので、柿を一つやった。
 父も一緒に道具などを耕運機のところへ運んだ。帰る途中、道が滑るので、ぼくは滑り落ちはしないかと心配であった。
 家に運ぶときは、一回目は、梯子と空気入れを持って、二回目と三回目は、ネギを背負った。運ぶのが終わってから、焚き物を二階へ運ぶときは、弟Aも来たので四人で運んだ。終わった後、汚れたので掃除をした。弟Aは、風呂を焚いていた。それが終わったので、ぼくは柿を食べた。妹たちも帰ってきた。テレビをつけたら、相撲が終わりそうになったので見た。

「仕事の思い出」  

 今日は日曜日で村は休みでした。父が公民館に行ってきたら、ぼくに
「おれのどうをやぶれ。」
と言った。スコップを持ってきて破っていると、家の中にいた弟が、父から聞いたらしく外へ出てきた。弟も鯉が好きらしく、鯉のことになると元気になるようだ。そして全部鯉を取ったときは、四時過ぎだった。もう、辺りは暗くなっていたので、家の中に入って、きれいな鯉と汚い鯉と分けたら、五時十五分だった。それから、選んだ鯉を網の中に入れた。明日の朝まで生きているだろうかと思った。明日は、父は役場へ行かなくてはならないので、誠一が水土に持っていくことになった。

「仕事の思い出」  

 稲刈りの時だった。今年の稲刈りの最初は、学校に行っていたので、稲ぶいはしなかったが、稲刈り休みの時から稲ぶいをしました。始めの日は、近いところから、ぶっていたから、軽いような気がした。二、三日はそんなにやらなかったが、それからは、段々遠いところから、ぶつて来なくてはならないので、嫌になってきた。一回は、側まで来ては、休みながらぶってきた。よく晴れた日は、稲は軽くてよいが、汗がだくだくと出てくる。おまけに、首がしくしくして、どうしょうもなかった。それからは、終わりに近付いてくるにつれて、だんだん
「早く終わらないかなあ。」
という気持ちが強くなった。そのうちに、その終わりの日になった。その日は、はざ場まで、みんなぶったが、暗くなってしまった。その稲は、明日すると言っていた。その日は、もうぼくは行かなくともよいと言ったので、その日は、他の人は真剣にやっていたが、ぼくは、その日は休んだ。その次の日に、近所の家に、稲ぶいにいった。その日は、一日行っていた。そのお礼に、お金をもらった。その次の日も、来てくれと言ったので、ぼくは行った。長い道、何遍も歩いたので、その日は、すぐ疲れたので寝た。
「仕事の思い出」  

 ぼくの家では、日曜だといって、稲ぶいをさせられた。汗びっしょりになってぶている。手拭いには、もうびしょびしょになっている。だが、ぼくとお母さんは、稲をぶう。もう二回ぐらい運んで、そして三回目ぶってきた。そして、ザザ…と下ろした。とても肩が軽くなって、楽だった。お母さんも下ろした。下ろしたところで休んだ。ぼくも休んだ。下から上へと運ぶのだ。昼まで頑張ろうと、一生懸命に、また運んだ。しかし、十時頃になると、とっても疲れた。ダラダラしてきた。
 しかし、ぼくは、ダラダラしてくると怒られと思って、まだ頑張った。お母さんも、手拭いがびしょびしょになってきた。だが、ぼくは、ますます稲ぶいが嫌になってきた。人は、遊んでいるのに、自分だけが、こんな切ない思いをするなんて、考えてみれば考えるほど、嫌になってきた。ぼくには、人の遊んでいる声が聞こえなければ良いと思った。
 しかし、お母さんは、もう少しと言って、ぼくを最後までさせようと思っているのだ。ぼくは嫌だ。
「母ちゃん、遊びに行ってもいいかい。」
と聞くと、お母さんは、もうすぐだ、何回も聞いてみた。いつも同じ答えであった。ぼくの心の中は、遊びたい、遊びたい、と言うのであった。ちきしょう、ちきしょうと言いながら、ぶっていると、もう十一時であった。
 お母さんは、もう家に帰って、ごはんの支度をすると言った。そしたら、おとうさんが、
「せごも、帰って良いよ。」
と言った。ぼくは、喜んで、飛んで帰った。そして、すぐ遊びに行った。

「初雪のかぶなとり」

 朝、起きてみると、中々寒い。雨も降っている。昨日、お父さんが、あの天気なのに、山に行って、かぶなを取ってこなかったので、今日は、冷たいところへ行ってこなければならない。ぼくは、家から出るときは、お父さんよりも遅かった。けれども、追い越して、先に山に着いた。とても暑かったので、先ず蓑を脱ぐと、それから、お母さんに腰にナイロンを巻いてもらった、そのナイロンを外した。そして蓑を着けて、そこらを回った。かぶなを植えてあるところも見た。全部、雪に埋まっている。かぶなを植えた、おねまで埋まっている。
 お父さんに、お母さんが、ゴムの手袋を持っていくんだと言ったのに、持っていかなかったので、ぼくが持ったのだ。ようやく、お父さんが来た。お父さんは疲れていたようであったが、休まず、かぶなを掘り始めたので、ぼくも手袋をして始めた。始めたぼくは、冷たくもなんともなかったが、お父さんは、しれっことに、手が真っ赤になり、だんだん遅くなってきた。最後の一列目には、もうぼくだけが掘っていたときは、お父さんは立っていたのだ。お父さんは、お母さんの言うことを聞かずに来たから、そういうことになったのだと思った。帰るときは、ほくは、二束ぶった。お父さんは、三束ぶったし、ぼくは、お母さんの言うことを聞いて良かったと思った。

「仕事の思い出」  

 一週間くらい前のことだった。近所の人が、ぼえぶえに来てくれていた。それで、母に
「米を、一升はかって、冷やしてくれ。」
と頼まれていた。
 テレビで「白とむらさき」という題のものをやっていた。それが面白かったので、釜の中を見ないで、テレビを見て入れてしまった。そしたら、釜の中に、ご飯がいっぱい入っていた。その中へ、生の米を二合くらい入れてしまった。だから食べることはできない。入れながら、何の気になしに釜の中を見たら、まだ、ご飯がいっぱい入っていることに気付いて、ちょっと、びっくりした。怒られるかも知れない。おかしいようでもあった。自分は、バカだと気付いた。
 それは、米を入れる前までは、その釜のご飯を食べていたんだもの。なぜ今まで、食べていたことに気が付かなかったのかと、ちょっと変に思われた。
 釜に入れた米は、飯しゃもじで、上を三センチくらい取った。そしたら、生の米は入っていないようであった。生の米とご飯を、ごちゃごちゃにしたのは、どうすればよいか分からないので、しまっておいた。
 みんなが帰ってきてから言ったら、父は笑っていたが、母は怒った。
「自分で食べていて、分からなかったのか。バカだな。仕事をしつけていないからだ。」
と言われた。
 自分はバカだ。
「自分でバカな子を産んだのが悪いんだ。」
と言おうとしたが、がまんして言わなかった。夜ご飯は、ほんの少ししか残らなかった。

「仕事の思い出」  

 春になると、仕事に入る。冬は、雪が降るので、仕事はできませんが、春になると仕事をしなければならなくなった。
 先ず、始めに稲の種子をまいて、苗になるまで畑の仕事をしている。苗が大きくなったら、今度は田植えを始める。その田植えが一週間くらいで終わると、学校は田植え休みである。
 田植えが終わると、畑の方にかかる。私たちの学校休みが終わると、もう家のお手伝いはできません。だから、お母さんとお父さんで、しなければなりません。辛いと思います。だから、みんなが、お母さんかお父さんのお手伝いをしたいと思っているだろうと、私は思います。
 私たちが学校の時は、夕方の五時半頃まで、学校にいるので家のお手伝いはできません。できると良いんですが、私の家は、朝は、ご飯は遅いけど、夜はとても早いです。
「日の暮れが早くなるので、仕事はちっともできないんです。」
と、よく村の人々は言います。
「秋に入ると、稲刈りが近付いてきますので、だんだんと忙しくなってくる。」
など、私の家のお母さんは、言っています。それからも二週間くらいかかります。でも、供出を出す家は、稲を刈ります。
 供出する家は、田圃がいっぱいある家の人たちだけです。稲を食べるようにするには、何日もかかります。稲を刈ってから、干して、それから稲を機械でもいで、臼を引いてから、やっと白い米にします。それには、何日もかかって、やっと終わります。
 後は冬を待つだけと言いたいところだが、でも、私の家は、まだ豆を落としていないので、家のお母さんは困っています。今度の天気になったら、落とすと言っていますが、雨が降ったり、雪が降ったりしているので、いつまでも、いつも、豆落としは終わりません。本当に困ったことになりました。豆や小豆に、今年は少ないと、お母さんは言っていた。
「あまり、小豆餅は、食べられないよ。」
と言っていた。
「クルミがいっぱいあるから、なるべくクルミで作ろう。」
と言っていた。そうするほかないと言った。私の家は、みんなが餅を好きですので、餅をついても、余ったり、腐らしたりしません。
 学校から帰ると、もう、餅はなくなっています。でも、もう冬になるという風が吹いています。今日の朝は、もう雪が降っていた。学校に行くときは、カバンを持っていくので、手がとても冷たい。足もとても冷たい。学校に着きそうになると、足が温かくなってきます。
 また、学校に入ると、ズックをはいていますので、また冷たくなる。でも、雪が降って良いと言えば良いし、悪いと言えば悪いのです。良い点は、バレーボールができないし、スキーが乗れるので、少しは良い。悪いのは、冷たいので困る。雪が暖かいのなら、文句はないのですが、冷たいのでやっぱり困ります。いくらバレーボールはあっても、雪は、やっぱり欲しくはありませんね。また、学校の雪掘りをするのは、ご免です。

「仕事の思い出」  

 稲刈り休み中のことである。母が私たちに
「今日、うどんげの花を見たや。」
と言いました。私は、うどんげの花なんていうことを初めて聞いたので、
「母ちゃん、うどんげの花とは、どっけん花で。」
と聞いたら、母は
「うどんげという花は、その花を見た人には、一つでも良いことがあれば、続けて良いことがあり、悪いことが一つでも起きれば、悪いことが続いて起こるし、滅多に見ない花で、咲いているのは、どういうところに咲いているということが決まっていない花のことをいうのだ。」
と教えてくれた。私は、良いことが起きれば良いなと思っていました。でも、三日くらい経ってから、母が
「どうも悪いことが続く。」
と言っていたので、私は、うどんげの花のことを思い出した。母が、うどんげの花を見たのは、稲を縛る根のところに生えていたのだから、悪いことが起きるのは、稲に関係あることだと言いました。私は、悪いことが起きるなんて「迷信」だと思って、いくらかは安心して、大道に行きました。そして、昼近く、私たち四人が稲をぶって、父と母が稲を刈って
「もう少しで十二時になるすけ、まんまだぞ。がんばれ。」
と父が言いました。私も
「待ってました。」
と言いながら、稲を背負って起きました。そしたら母が、「いて」と言って、畦に飛び上がりました。私は、驚いて母の方を見たら、母は痛そうに、顔を歪めていました。母は、自分の手で、右手を握っていました。その握っている手の間から、血がたくたくとたっていました。母は、
「痛くて、どうしょうもない。」
と言いながら、唇を噛んで真っ赤になっていました。私は、驚いて、稲をそこにドスンと下ろして、母のところに飛んでいきました。父も兄妹A、B、Cも飛んできました。父は、
「もんじ草を噛んで、そこに付ければ良い。」
と言いながら、もんじ草を噛んで、母の右手の小指に当てていました。私は、
「なんしたか。」
と言いましたら、母は、
「指を、爪の半分くらい皮を残して、切ってしまった。」
と、痛そうに言いました。朱美が、救急箱を持って飛んできました。包帯で、指をぐるぐる巻きに縛りました。母は、とても痛そうだった。でも、今は母も、やっと包帯を取って、何でもやれるようになった。指は、肉と肉がくっついて、元どうりになった。やっぱり、迷信じゃなかったなあ、と思った。

「仕事の思い出」  

 熱い真夏の太陽が照っているとき、私と母は、山に草取りに行った。草が、ぼうぼうと生えているところを、私と母は取り始めた。大きい草、小さい草、色々の草が生えている。本当に暑い、顔中から汗が流れて下に落ちる。
 私は、首に巻いていた手拭いで顔を拭いた。埃と砂で、顔は汚れていた。白い手拭いで顔を拭くと、そこが黒に汚れた。
 母は、一生懸命にやっている。母も、暑そうに手拭いで顔を拭いた。私は、母に負けまいと、私も一生懸命、せいを出した。私は、余り暑くて水が飲みたくなった。母に聞いて、水飲みに行った。冷たい水の出ているところに行った。カンカンに水を汲んで飲んだ。冷たくて、本当にうまい。私は、この水が、あんまりうまいので、思わず二杯も飲んだ。余りうまいので、母にも汲んでいってやりたいような気がした。水を飲んでから、また草取りを始めた。私が水飲みに行っている間、母は、もう五列も取ってあった。私は、まだ三列も取っていなかった。
 水を飲んだから、いっそう汗が出てくる。私は、汗をふきふき草を取った。もう二列くらいで終わりそうになったが、私は、だんだん草取りが嫌になってきた。何故かというと、暑いからだ。それから、私だけ日陰のところに入って、休憩をした。また、草取りを始めた。母も私も、顔中から汗が流れた。手拭いは、汗に染まって真っ黒になった。母は、ぽつんと私に
「暑いから、休もう。」
と言った。二人で、杉の木の陰で休んだ。そこは風通しが良いところで、非常に気持ちの良いところだった。それから三十分くらい休んで、また、始めた。
 手は、土と草の渋で汚くなっていた。かも土が付いて、ヌルヌルしていた。なんとなく、気持ちが悪かった。

「仕事の思い出」  

 ぼくは、母に言いつけられた仕事を、よく失敗することがある。この前、父の弁当の玉子焼きを作れといわれたので、卵を割ったところ、茶碗の中に入れないで、外に出した。一時、どうしょうかと、まごついているうちに、母が来てしまったので謝った。しかし、余り叱られなかった。不思議に思って、良く考えてみた。その結果、昨日のこと、母が竹沢へ行くので、姉の買い物をするつもりで出かけた。家に帰ってきたら、買い物を忘れていた。その時、姉さんは、こういうことを言った。
「大人は、自分が失敗しても、叱る人がいないから、いいな。」
と母に言った。そのことを考えたから、叱らなかったのだと思う。どうも、叱り方が足りないと、調子が狂う。
 こんな失敗もあった。稲下ろしのとき、ぼくが一輪で家へ運ぶ、父が、
「いっぱい積むと、穂が落ちる。」
と言ったが、いっぱい積んでしまった。これだけならよいが、運んでいる途中、一輪車が下へ落ちてしまった。親の言うことは、良く聞くものだと考えさせられる。

「道踏み」  

 去年は、雪が四メートル近く降りました。毎日のように、道踏みをしました。一日で一メートルくらい降ったとき、ぼくと弟Aと早く起きて、かんじきをはきました。
 手が、しゃっこいので、よくはけなかった。外に出てみたら、前の方が雪で、外に行かれないようだ。Aが、こしきをもって雪を外に出した。やっと、外が見えるようになると、かんじきで雪を踏んだ。あまり雪が降ったので、早く進めなかった。こしきで両端に雪を出して、進みました。約四メートルぐらいまでくると、かんじきの縄がほどける。前の方から、米大工のBが、道を踏んでいてくれた。半分くらい、踏んでくれた。

「仕事の思い出」  

 ぼくは、仕事をするとき、大部分、父と母と一緒に仕事をする。この時、ぼくは途中で
「ああ…、やんなっちゃった。」
というような気持ちばかりでなく、口に出してしまうことが、ぼくの癖である。しかし父や母は、その苦労をがまんすると、大きくなって役に立つから、がまんしてやれと言う。実に嫌になるときは、田植えをしているとき、腰が痛くて、どうしょうかと考えてみると、ぼくにはがまんできず、つい、腰を伸ばし、辺りを見回す。そうすると、休憩のときは、あそこに行って遊ぼうと考える。しかし、休憩には、母たちは、まだまだと言って、休憩にしない。ぼくは、がまんができず、ちょっと止めて、そこらをウロウロしている。また、すぐ母と父の声、
「早く来て、田植えをしれ。」
と言う。ぼくの父は、怖いので
「うん」
と言って、田植えをしに、田に入る。
「ああ…、嫌だな。百姓は、難儀をして、金もろくに入らず、汗をかきかき仕事をする。」
しかし、父たちは、よく我慢をしていられるなあと、ぼくは思う。大人を見ると、いつも子供より長く仕事をやっている。ぼくも、そのうち大きくなるのだが、どうなることやら、見当が付かないような気がする。しかし、そのうち、この苦労をがまんできるようになるだろう。
 それから冬になると、朝の道付け、朝は寒いので、また、おれかというようなことがある。しかし、道付けに出れば、少しは暖かくなる。しかし、道付けなどしなくてもよいところに、引っ越し、朝は遅くまで寝っていられるようなところに行きたいなあ、と思うこともある。しかし、町に行けば、もっと忙しいと思う。そういうとき、さっきののような苦労をやっていれば、役に立つと思う。
 しかし、この小さいぼくらに、そんな苦労は無理である。しかし、中学生くらいになったら、この苦労をだんだん乗り切っていけるような気がする。
 それに、仕事も余り嫌にならない。だから、母たちは中学なるといいなあ。小学校みたいに、止めるようなことはないと、母は言っている。しかし、そのように、ご飯を多く食べる。だから
「そのように、仕事をしてもらわなければ、おらたちは、こんなにしてまでも、育てねえよ。」
と母たちは言う。