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「十二月の文集」 山古志中学校池谷分校一年生

 

 

 昭和四十年十二月も終わり近くに書かれた文集です。生徒の皆さんが、本音で綴られた文章です。私も、心深く読ませいただきました。そして池谷分校に別れを告げました。

 

 

「今日から」

 今日から、国語を教えてくださる、先生がきてから。
 始めて挨拶をするときは、天気が良く、体育館の工事をしているときで、外でやった。
 最後の国語の時間は、みんなも、静かだった。
 ぼくは、とても気楽な先生だと思った。
 しているうちに、もうすっかりみんなと知り合いになった。
そのうち日、写生大会で三つ尾根に行って、楽しく写生をやってきた。行く時は、マムシを見、帰りには山鳥を見てきた。
 先生のいる間にも、色々な行事があった。焚き物拾い、展覧会、展覧会のとき、一緒に飾り付けをやった。その日は、他の学校からきた作品、先生方の作品、それと、習字クラブの作品が一年の教室に展示された。そこを、佐藤先生と習字部が、飾り付けをやった。その日は、暗くなるまでやった。
 その翌日、朝から早く行って、飾りを立派にすました。
それからは、立派にできた体育館の竣工式があった。
そんな日があるうちに、もう友達のように、遊んだりしていた。
 今日は、卓球をして遊んで、そんなこともして親しくなった先生も、この間替わった根岸先生が、おいでになるので、代わりに来てくれたけれど、もうすぐ別れなければいけませんね。
「ご親切に勉強を教えてくれて、どうもありがとう。」
先生がきてからは、山古志は勉強するようになりました。これからも、頑張りたいと思います。

「十月四日〜十二月二十三日まで」

 十月四日に来た先生が、今日、近いうちに帰るという話を耳にした。僕は、まさかと思ったが、神保先生に聞いたら、本当だと言った。
 先生は、根岸先生の代わりに来たと思ったら、もう帰るというので、これから寂しいような気がする。先生がきてから、約十月、十一月、十二月と、短い期間であったが、今振り返ってみると、色々うれしいこと、悲しいことが、思い出すとたくさんある。
 先生は、僕の名前を一番早く覚えたみたいだ。何故かと、先生に尋ねてみると、
「お前は特徴が有る。」
と言った。
 先生が、ぼくの名前を呼んだのは、三つ尾根というところに写生に行って、先生のいる場所に行ったら、
「あ、来た。」
と私の名前を言ったことを、まだ覚えている。直ぐ僕は先生のところに行き、先生が描いていた図画を見た。僕は、
「上手いなあ、やっぱり先生だけはある。」
と思った。
 それから早く友達になりたいと思っていた。このことは、僕らのクラス全員の祈りだったと思う。
 先生が、だいたいの人の名前を覚えたのは、先生も大変苦労して覚えたと思う。だいたいの名前を覚えてから、先生と一緒に遊び、大変うれしかった。
 しかし、先生は大変苦労して、僕たちに勉強を教えたと思う。僕たちの勉強のやり方といったら、先生が折角僕たちを成長させたいと思って教えたのは分かる。しかし、先生が話しているというのに、別の話をしている者が多く、大変困ったと思う。こういう時は、先生の方から、強く言い聞かせてもらいたかった。しかし先生は、全然怒らず、家に帰っていく。
 しかし僕は、先生が来てから、勉強をしてみようというような心持ちになった。これは先生の教え方が良かったから、こんな気持ちになったのだと思う。
 先生は、これから大学に進もうとしているのだから、しっかりと勉強し、立派な成績で大学に進学して欲しいと、僕は祈っている。
 僕たちは、先生に負けず、これからしっかりと勉強をして、先生に負けないような生徒になりたいと思う。

「お母さん」

 お母さんは、家の仕事をみんな、お母さんが守っている。私は学校、お父さんは働きだから辛いと思う。でも、私達も少しはお手伝いをする。
 お手伝いといっても、土曜日の昼から、少し手伝う。そして日曜日も少し手伝う。でも冬の日は、昼が短いので困ります。
 お母さんは、暗くなるまで仕事をやって帰ってきます。それから家に戻ってきてご飯の支度をして、それからご飯を食べると夜の仕事をする。終わると、もう十時頃、それから少しこたつに当たって寝る。朝は早いし、夜遅くまで働くお母さん。
 どこの家でもお母さんは、とても必要である。お母さんのいない家は、困ると思うのである。

「仕事の思い出」

 私は、いつか母が
「山に行こう。」
と言った。私は、とても嫌だった。でも母は毎日山へ行って仕事をしているのに、私だけ遊んでいるのは悪いと思って、私と弟も一緒に行った。そして私は、畑まきをやって、その後を母が草集めをしてしていたら、弟が
「おれも、アコみてよんがしる。」
と言ったので、母は、
「アコしっちゃ、その鍬を、ちっとかしてけ。」
と言ったので、私は弟に鍬をやった。弟といっても、まだ三歳です。
 弟は、同じとこだけ何回もやって、ちっとも前に進みません。でも、やっぱり男の子なので、鍬をいじるだけで面白いんだなあと思った。
 そのうちに、だんだん母が続いてきたので、弟の鍬をとって私は、またまき始めた。腰がいわって、たまらなかった。母は一度も休まずに、まだ続けている。
 私は、もう三回くらいは休んでいても、もう腰が痛くなった。その時私は、ハッと思い付いた。母は、毎日こんな苦労をして、今までやってきたのだと思った。それから私は、嫌がらないで仕事をやろうと思った。それから仕事を言いつけられたときは、そう思ってやっていたら、そんなに嫌でもなかった。
 これからは、一生懸命、母の手伝いをやりたいと思っている。

「私の村」

 私の村は、山奥と言ってよいほど山の中だ。その中で、この楢の木部落の人は住んでいる。
 何をするにも、こんな山の中は不便だ。この世の中に、まだ私達の村はバスが通らない。通るのは、小型三輪くらいのものだ。それだって部落の真ん中は通らない。ある一部のところしか通らない。町へ行くにしても桂谷まで歩いて行かなければならない。桂谷までは長い距離だ。歩いて約四十分くらいはかかる。学校に行くにも坂道を歩いて行かなければならない。雨の降る日などは、学校に行くにも大変だ。
 雪降る日などは、もっと大変だ。吹雪の時は、道が全然分からなくなる。小さい子供達は、その分からなくなった道をこいでいく。冷たそうな手足、それを見ると、こんな坂道がなければいいのにと思う時もある。
 だれでもが、もっと学校が近ければいいのにと思っている。雪が降れば、毎日朝、道をつけなければならない。それに屋根の雪も掘らなければならない。
 この村が町だったらいいなあと私は思う。そうすれば、そんなに苦労するいらない。
 雪が沢山降れば、消えるのも、遅く消える。雪が遅く消えれば、田植えは遅くなる。私達の村でとれるのは米、米は高い値で売れるので、それでも良いが、その他の物はとれるけど、余り売らない。
 冬は、仕事は余りないのだから、からそつなぎや、まあたりよなっとを、ほとんどの人がしている。少しでも仕事をすれば、お金が取れる。こうして私達の村は働いている。
 お正月やお盆が一番楽しい日だ。正月は、お餅をついて食べたり、煮もんというものをつくって食べる。正月は、兄さんや姉さんが家に帰ってくるので、楽しい正月は花がるたや、色々な遊びをして過ごす。
 お盆は、みんなで遊んだりする。盆踊りもある。その時は、家族して盆踊りを見に行ったりする。盆、泊まりにくる人もいる。私達の村は、苦労するときもあれば、楽しく遊べる日もある。

「酒瓶」

 僕が家に帰る途中であった。
「アッ、また嫌な奴に会ってしまった。」
木の陰に隠れようかと考えてみたが、もう遅かった。彼たちは、もう目の前に来ていた。
「おい、どこへ行ってきてや。またか、おい。昨日買っていったばかりじゃないか。」
と言った。とても悔しかった。でも言ってみたところで、どうせまた、かまわれるだけだと思って、黙って俯いたまま、一升瓶を隠すように通り抜けてきた。奴等は、僕の後ろ姿を見ながら笑っていた。
 僕の父は、酒飲みなのだ。今日も、買いにこらせたのだ。いつも酒を飲むと、酔っ払って潰れるのだ。だから皆が、あんなことを言うのだ。
 それから何時間、時間が経ったのだろうか、すごいことをやらかしてしまった。瓶の蓋近くのところを、遠い山に向けて透かして見た。普通の目で見るよりも、もっと綺麗であった。そうして見てしまに歩いていたのである。「アッ」と思う瞬間、とんだことをしてしまった。瓶を割らしてしまった。土の上に酒がまかり、土の中に浸みていく。どうしょう。もう一度買ってくるにも、金などはないと考えた。
 憎らしいまったく、家に行けば怒られるに決まっている。畜生、こんな酒なんかなければ良いのだ、と言ってから割れた瓶を土にぶつけた。いい音を立てて、また細かくなった。
 その夜、とても叱られた。でも、叱られる後から、後から悔しさが湧いてくる。皆に笑われたこと、そうだよ、お父さんさえしっかりしていたら。でも今は駄目だ。この前買ってきた酒がもう少し残っていた。それをニコニコして飲んでいるのだ。このとき程に嬉しそうな顔を見たのはなかった。でも、やっぱり酒は嫌だ。罪も無い人間が惨めになるのだから。そして馬鹿にされるのだ、一人の人間が。酒はやっぱり嫌だ。

「お別れ」

 先生、短い期間であったけれども、ここでお別れすることは真に残念に思うが、もう先生も三月に大学のテストがあれば、僕たちはかまっていられない訳ですね。
 先生もテストには頑張ってください。テストが受かったら、後は安心です。まだ三月、時間もあるから大丈夫ですね。先生のテストを期待しています。根岸先生の代理だったからですから、先生がいたくても仕方がないですね。
 今年も、よい正月をしてください。

「道ふみ」

 朝起きたら雪、そんな時、今日は雪がいっぱい積もったので、道つけに行ってきてくれ、などと言われたときは、一番いやだ。だけどいやだといって道をつけないということは、いけないと思うし、道をつけないと小さい子でも私達でもとってもいやだから、仕方なしに道ふみに出て行く。
 雪がいっぱい降ったときなどは、足も冷たいし、手もはじかむので、とてもいやだ。足の一つひとつを動かすときなどもいやだ。でも、今はいやでも、もう少したつと、もっといやになると思う。だからいやでも、今は、一生懸命に道ふみをやらなくてはならない。
 あまりいっぱい雪が降ったときなどは、雪の降らない土地にならないかな、などと思う時がある。でも、道ふみはいやでも、スキーに乗るのや、しみった時にぼぼずいのに乗るときなどは、とっても面白い。
 正月などになれば、働きに行っているお姉さんたちも、みんな帰ってくると思う。でもやっぱり、道ふみや雪の降る日などは、みんながいやなんだと思う。
 正月などにならなければ、家では母とお姉さんと私と、三人でいるので、道ふみはお姉さんと私と、かわりばんこにやっている。母は、朝はご飯炊きをしている。お姉さんと、かわりばんこでしているけど、自分の番の時は、やっぱり道ふみのことを色々と思う時がたまにある。
 やっぱり、道ふみはいやだ。

「編み物をするお母さん」

 私が学校から帰ってみると、二階から編み物をする音がする。また編み物だな、と思って二階に上がってみると、母が一生懸命に編み物をやっている。私が
「ただいま」
と言うと、母は見向きもせずに
「あ、お帰り」
と言う。あまり一生懸命にやっているので、私が
「少し休んだら。」
と言うと
「もう少しやってから」
と言って続ける。私も、その隣の机に向かって勉強を始めた。そして私が勉強を終わっても、まだ編み物をやっている。
 そして夕食の支度ができても、まだ編み物を止めない。私が、ご飯ができたので、母を呼んだらやっと下りてきた。そしてご飯を食べてから、少し休んで、また二階に上がって編み物を始める。私は、よく嫌にならないで続けていられると思った。
 そして私は洗い物を済ませてから、二階に上がって、床をとって、そして勉強を始めた。そして私が母に
「少しくらい休まないと、風邪を引いてしまうぜ。」
と言うと
「そんなに休んでいたら、この編み物は間に合わなくなるから、これが終わったら休まの。」
と言って、休まない。そして母は、一生懸命編み物をやっている。
 私も母が、そんなに一生懸命やっているのだから、私も一生懸命勉強をやって、母を喜ばせてやりたいと思って勉強を始めた。そして勉強をおやして床に入った。
 それから朝になったので起きて下に下りたら、もう母は起きてご飯の支度を終わっていた。
 私は、毎日毎日編み物をやっているのに、私が学校から帰ってくると、もう薄暗くなっている。私は、母の手伝いをやるのは、とても少ない。だから母は、手が幾つあっても足りないと思う。私が、もし学校に行くのが要らなかったら、母の手伝いができるのになあと思った。
 私が大きくなったら、母に楽をしてやりたいと思います。でも、今は学校に行っているから、勉強をしっかりやって、母を喜ばせたいと思います。

「土に生えている草」

 私は、草は嫌だなぁと思う。草は、春は、雪が降ったばかりの後で、草は雪の下敷きなって、春になってやっと雪が消えた後から出てくる。春になれば、芽が出始めて、やっと大きくなったと思うと、私達が取ってしまう。ススキもそれと同じに、秋になれば家の人に、根元の方から切られてしまう。切られた草が、もしどこかの家族の子供だったら、大人たちは、切った人を恨むだろう。
 でも、草は人間と違って、切られても喋ったりしない。草が喋ったりすれば、人間のように切った人を恨むだろう。ススキのような草は、よく人間に切られても、毎年毎年、芽を出す。草は、土がなくては生きられないものが多い。水で生きていくのもあるけれども、大部分が土で生きている。人間だって、土に何かを植えて、それを面倒して大きくする。草は、誰でも面倒をみてもらわないけれども、一人で伸びる。人間が自分の野菜にくれた肥やしが、草のところに流れて大きくなったのもある。
 草は、学校や家で、草を鎌で刈って学校の草取りをやって、草はそれにまた一年くらい過ぎると、また大きくなってくる。途中枯れてしまうものもあれば、ぐんぐん伸びていく草もある。秋になると、田植えをする田圃の中の草は、除草機で草を取られる。そして踏みつけられたり、鎌や鍬で切られたりする。
 また冬になると、雪の下になって、雪の降り始めまでは、あまりいっぱい降らなくて、草は良いけれども、だんだん雪が積もってきて、草の上に雪が、のさりゆき、はらんであるかも知れません。雪は要らないし、草も要らないけれども、草は生き物だし、動物は人間に飼われて、育っていくものもあれば、その動物たちだって、中には助け合って生きていくものもある。人間だって、始めの小さいときは、大人の人達に育てられて生きていく。動物も小さいときは、動物たちで暮らして生きている。小さい子供のいる動物は、雪が降ると土の出ているところに行って、小さい子供を守ってくれる。家の人に聞いた話は、ウサギは鉄砲ぶちに撃たれて死んでしまう。人間は、撃たれないで良いなあと思う。

「山の子」

 私達山の子は、色々な面において、町の子と比較される。一番よく比較されるのは、どうしても勉強についてだ。そして最後には、必ず山の子は勉強しない。だから頭が悪いということになる。確かに、そうだ。でも町と山の中では環境が違う。町は政治等の社会的な問題が、直ぐ側にある。だから自然に社会的な知識があるようになる。また学校、その他の設備も違う。山の中の小さな学校は、体育用具、理科の実験用具、楽器など、ほとんどないと言ってよいだろう。この間、ある本で見たのだが、オルガンが一人に一台ずつの割合である学校が出ていた。私達の池谷校第一校舎には、一台しかない。それも壊れかけようなのだ。池谷校第一校舎に通っている生徒数は、おそらく百五十人くらいだろう。本当に、町の大きな学校から比べると、自分で、自分たちが惨めになってくる。オルガンだけではない。その他、全ての面にも同じようなことが言える。
 では、こんな環境の中でも、一生懸命に勉強をやれば、町の子供の能力になれるのだろうか。私は、なれると思う。だが、それは、ほんの僅かの人だろう。
 私達は、オギャーと生まれた時から、こういうノンビリした、気楽なところで、何もしないで育ってきたからだ。
 一週間くらい前、新保先生がおっしゃっていたが、町の中学一年くらいの子供は、もう毎日八時間は、家で勉強するそうだ。そして山の学校の通知表の五は、町の学校の三位だともいっていた。通知表の五は、三人位しかいないのだから、本当に私達は頭が悪いと言われても仕方がない。
 でも、この池谷分校を卒業して、東大の定時制に入った人がいたから、私達だって、やろうと思えば、幾らでもやれるのだから、しっかりやろうと思う。

「さいの神の日」

 今年の正月は、あんまり面白くなさそうな気がします。今年は、さいの神もない。去年はさいの神もあった。でも、今年はさいの神がない。さいの神とは、毎年災難の神を、藁の中に入れて燃やすのだ。今まで私が、自分のことは自分でやれるようになってから、家の人は一度もさいの神で、餅焼きをしたことがない。
 いつも姉の和子がやっていた災難の神の、燃えた火で餅を焼くと、今年一年病気をしないのだそうだ。私は、六年生からさいの神を作る藁集めをやった。男子は、大人と山に行って大きな木を切ってきて、それを柱にして、その回りに藁を巻き付けて、大体三時頃になると、みんなで集まって火を燃す。とても熱かった。
 おじいさんの死んだのも、去年のさいの神の時みたいな日だったことは覚えている。私の一年生の時だった。母と餅を持って帰ってくると、父がそれを
「じいさん、餅食え」
と言った。その時のおじいさんの顔はよく覚えていない。でも姉の和子を「たこだこ」と呼んでいたのは覚えている。次の日の夜、おじいさんは死んだのだ。おばあさんが綿に水を含ませて飲ませてやると
「おいしい」
と言いながら、だんだん静かになった。おばあさんが
「なんまいだ、なんまいだと言え」
と言ったら
「なんまいだ、なんまいだ」
と二、三回言って、
「これでいいか」
と訊いて、おばあさんがこっくりすると、寝てしまった。みんなが火なたに集まっていると、父が
「じさが変だ」
と言ったので、みんなが行ってみると死んでいた。その時、義理の兄妹の光子姉さんが、ものすごく泣いたことを覚えている。今でも山に行って、蛇が出てくると、父が
「じさの生まれ変わりだ。」
と言う。おじいさんは、山の小屋に何日も泊まっていたそうだ。家の人に「山のじさ」と言われていたそうだ。
 おじいさん死んだ日の前の日あった、さいの神がなくなると、何だか、おじいさんがいなくなるような気がする。
 来年は、姉さんもいないし、また寂しくなるだろうな、と思う。でも小包を送ってもらうことになっている。和子がいなければ、それだけ小包を沢山送ってもらえるし、姉になって威張っていられるし。
 でも、これでまた学校の人数が三人減るわけだと思うと、だんだんこの学校を出るのが嫌になってしまう。中学三年生になるのは、嫌だと思う。

「現在、この私達の村」

 現在、この私達の村は、家がだんだん減っていく。去年も私達の村では、一軒減っていった。一体、どうして、みんなこの村から離れていくのだろう。
 この村が嫌になったのであろうか。だから引っ越していくのだろうか。私は、そう思うと憎たらしい。
 私の家の後ろの山に登ると、私達の家が全部見える。そこへ登ったとき、私はこんなことを感じた。
 家が、あっちこっちとある村の真ん中に川が流れている。くにゃくにゃ曲がった道、杉の木があちこちにかたまっている、この村。その家、あの家、いつこの村から離れていくか。そんなことを考え考え山から下りてきた。
 この村、空気がよい。この山古志の村に来る人達、先生方、みんな
「この辺は空気がよい。」
と言ってくれる。本当にそうです。それなのに何故、この村から去って行くのだろう。
 家が少なくなるこの村。だけど秋には、いつも村の人は、遅くまで一生懸命働く。元気なこの村の人達。冬には雪に負けず、雪の上で子供達はスキーで遊ぶ。親は雪と闘う。みんな、みんな元気な人達。こんな人達が、この村から少しずつ減っていく。引っ越していく人達は、こんな仕事が嫌になったのか。そんなはずない。だって、自分を守る仕事だもん。嫌になるなんてことはない。
 ある日、私は、こんなことが頭に浮かんできた。引っ越していく人達は、この村が嫌になったから引っ越すのではない。都合があるからである。
 だって、引っ越してから、私達の村の人達にお手紙をくれる。
「こんな村いやだ。」
と言って引っ越していく人が、この村にお手紙をくれるはずがない。だが、みんなの人がくれる。みんなの人が、この村がいやではないのだ。だが、都合により引っ越さなくてはならないようになるのだ。だから引っ越すのだ。家の減るこの村、いつも元気に暮らす人達、笑って過ごす人達、時には涙を出すときもある。
 学校に通う私達。学校に向かって進む私達の後ろ姿。村に向かって、
「行ってきます。」
と言っているよう。みんな元気に雪を踏む。夏には硬い土を踏む。仕事に一生懸命な人、元気な人、なんにも負けず元気に生きる人は、この村の人。
 もうすぐ、屋根の雪掘りもするようになるだろう。私達も元気に雪の上でスキーに乗るようになるだろう。夜は、
「絶対負けない」
と言うように、電気が輝いている。この村、その光の中に、もう一つ
「頑張る」
という言葉が加われ、さも電気は、あかあかと輝き続ける。

「友情」

 私は、友情とは良いものだと思う。助け合って、助けられて、協力し合っていく。私は、よく友達にいじめられる。こういうときは、なんとなく、悔し涙か、寂しい涙が溢れ出る。でも、必ず後になると、ケロリと忘れる。
  漢字の分からないのがあると、直ぐ人に聞く。聞かれた人は、教えてくれる。でも、もし教えてくれないとしたら、どうなるのだろう。もう一度と、人に聞かなければならない。そういうときは、なんて意地悪なんなんだろうと思う。もし、分からなかったら
「私、分からないから、誰かに聞いてくれ。」
と言えばよいのに、黙って知らん顔している。私も、こういう経験を何回も受けたことがあるので、人に聞かれたら、直ぐ教えてくれるようにしている。分からないのがあれば、隣に聞いたりして教える。いつでも仲良く、楽しく協力し合っていきたいと思っている。
 この間、私は友達にいじめられていると、私の味方をしている人がいた。私も、自分が正しいと思うので、人にぶつかっていく。味方をしている人も、私と同じ考えなので、私の味方をしているのだと思う。こういうとき、なんて友情とは良いものだろうと思う。
 私は色々考えてみた。友情とは、どうしてできたのか、どうして結ばれたのか。
 帰り道でも、よく喧嘩をする。二、三人組になって、人の悪口を言う。もういじめられたからには、みんなと一緒に歩くのもいやだ。一人で走って帰る。遠く離れると、大きな声で私の悪口を言っている。人の悪口ばかり言って、もし自分が私のようにいじめられたら困るのに、平気で言っている。
 一人、私は何回も通っている道を、トボトボ、悔し涙を流しながら帰る。
 友情とは、助け合っていかなくてはならないのに、人をいじめたりしないで、仲良く生きたいと思う。

「雪」

 僕たちの村、冬は雪が降る。いっぱい積もる。毎日雪掘りだ。僕は辛い。だけど仕方がないと思う。僕たちの村、春は、雪がまだ残っている。夏は大水だ。まるで僕たちの村、災害を受けている。特に冬は辛い、寒くて、屋根に雪が積もれば、掘らなければならない。 町の方では、雪の降るところもあれば、降らないところもある。僕たちの村、雪が降ると道が悪くなる。人が通る度に道が悪くなる。学校の帰りなど、ものすごい穴だらけで、登るなど歩くと、でこぼこだ。これになると、転ばないようにしなければならない。そしてまた雪が降れば、村の人が朝早く起きて、道ふみをしてくれる。まったく有り難い。池谷の人も、楢の木の人も通るのである。それだけ通れば、道も穴だらけになるのだと思う。
 そして人をよけるときも、僕たちの方がよけるのだ。また、荷物をぶっている人とか、僕たちはよけなければならない。まったく辛い。
 そして雪崩が起きた場合などは、特に危ない。雪崩が起きれば、村の人が来て道をつけるのだ。僕たちの村は危険だ。早く僕は、春にならないかと思う。まだ春になるまでは遠いのだ。もう正月だ。今は、雪が少ないので嬉しい。早く冬が過ぎないかなと思う。

「母のいない日」

 私が何年の時だか忘れたが、夏休みの時、母は十日町に行くと言った。姉と弟が一緒に行くことになった。私も本当は行きたかったのだが、私はバスに酔うし、よその子の子守もしなければならないので行かなかった。
 その日は、雪美を連れてきて、一緒に遊んだが、二人では面白くない。それに無性に母や姉たちのことが気になる。父は山に行っていなかった。その日は、晩ご飯を食べないで帰った。それは父がウサギを獲ってきたし、父一人では可哀想なので、私が
「今日、ご飯を食って、こねんしょうか。」
と言うと、父は
「ああ、そうせや。肉を煮てやるから。」
と言った。私は、急いで雪美を、てつこうの家に連れて行って帰ってきた。そして父と二人で、ご飯を食べた。
 二人なので、あまり話が弾まない。私は無理にとは違うが、色々と話をした。でも父は、あまりその話に乗らなかったのか、返事は余りしなかった。私は、父もきっと寂しいんだなぁと思った。母たちがいれば、きっと私と弟は、ご飯の時でも喧嘩をしていたに違いない。
 でも、夕食はおいしかった。私は、母がいれば後片付けや夕食の支度はしないが、父と二人なので、夕食の後片付けも、夕食の支度もやった。
 何だか、父にやらせるのも気の毒だし、父は山に行って疲れているげだし、私は始めから自分でやるつもりだった。寝るのも、やっぱり普通より早く寝た。私は、一人なので、父たちの部屋に行って寝た。
 私は、一人で留守番しても良いから、父も一緒に行けばよいのにと思った。そう思うと、思うほど、何だか父が可哀想になってきた。

「きょうだい喧嘩」

 私は、姉弟が四人です。姉は、二年前に卒業して働きに行った。だから今は、私と弟と妹です。私が一番喧嘩をする相手は、弟です。
 弟は、私が勉強しているときでも、何でも大きな声で、流行歌を歌ったり、笛を吹いたりする。私が注意をしても、止めないときが多い。
 昨日は、こたつから出て、机の上で勉強するのが寒くていやなので、こたつの上で勉強していた。弟は、母に勉強しれと言われているので勉強しようとした。そして私が使っていた板を取った。私は、憎いので板を取り返そうとした。そしたら弟は、
「いてー」
と言って、私の手を掻いた。もう一度掻こうと思って手をやったら、私は鉛筆削りをやっていて、削りで弟の手を一寸切った。弟は、
「いてー、血が出たがね。」
と言って、社会の帳面を、ぐしゃぐしゃにした。私は、弟の帳面二冊をぐしゃぐしゃにしたら、弟は口惜しかったのか、もう一度ぐしゃぐしゃにし、噛んで私にぶつけた。私も悪いんだから止めようと思った。そしたら今度、自分の使っている本を私に投げた。私は、弟に投げて返そうと思ったが、投げないで返した。手を切られたとき、弟はちょとくらい痛いようだった。私は、謝るのがいやなので、見ない振りをしてみていた。弟と喧嘩すると、どうしても勝ちたい。
 妹としたって、そう勝ちたくはないが、弟は自分勝手だ。母は、弟には甘く見ている。それは、
「ぶつぶつ」
言って、やかましいからである。
 テレビを見るときだって、私は弟が自分勝手のようだ。私が見る日でも、漫画を出すので、私は、弟が勝手にするのが憎い。だから今度は、私も漫画を見たいんだが、見たくないと言ってチャンネルを反対に回す。 弟と妹が喧嘩をすると、妹の方が悪くても、妹の方が良いことにする。妹は喧嘩をすると、わざと大きな声を出して泣く。大きな声を出して泣くといやだ。私が怒られることになる。姉から、ずっと前に
「和江と、もう一度、仕事しながら喧嘩をしてみたい。」
ときた。そういうもんかなと思った。喧嘩ならしてやってもよい。私は、喧嘩なんか好きでやっているのでもない。嫌いでもやっているのかな。

「思い出」

 春から今まで、色々なことがあった。いやなことや嬉しいこと、色々であった。
 一番面白かったことは、茸取りだ。雨が降って山に行かれないのは残念であったが、学校でしたけれども、とても面白かった。
 雨が少し止んでくると、学校の近くの山に行って、茸を採ってくる。小さい茸、大きい茸、いっぱい取ってくる。僕は大きいのをいっぱい取った。篭が小さかったので、入らなかった。それを女の子は、みんなもらってきる。小さい子は、「きる」のを待っている。みんなが採ってきた茸を洗って煮いた。それを持っていった。小さい子は、みんな弁当を出していた。みんなとても嬉しそうだ。
 僕は、僕たちの取ってきたのを、うまい、うまいと食べるので、楽しかった。僕たちも、小さい子と食べた。とてもうまかった。みんなニコニコしている。
 今年の茸取りは、雨が降ったため、雨が降らなければ、もっと面白いと思った。来年の茸取りのときは、雨が降らないように待っている。

「冬」

 とうとう冬がやってきた。ぼそぼそと降ってくる雪、たんたんと積もる雪と、ぴゅーうぴゅーうと吹く風。これだから冬がいやなんだと家の人も言っている。こんな冬になると、この村の家中が、戸をピシッとたてる。家の中の電気が、窓ガラスから漏れて、外の雪に当たる。
 冬になれば、面白いことも沢山あります。クリスマス、大晦日、それに一番楽しいお正月があります。
 冬には、そんな楽しいことばかりではなく、これからする屋根の上の雪掘りがあります。この雪掘りも、天気の日などにするのなら良いんですが、雪が降っているとき、風が吹いているときにするのが、一番いやな仕事です。
 冬になって楽しいのは、良い天気の時です。良い天気の時は、みんながスキーを持って外に出て行きます。みんな、大体同じところで乗っています。みんながいるので、よけい面白くてたまりません。
 町の方では、雪はそんなに降らないし、風もそんなに強くはないと思う。冬は、町でも村と同じようにクリスマス、大晦日とか、お正月もやると思う。町の方でも、やっぱり屋根の雪掘りはやるが、村のように何回も、何回も掘らないが、でも四、五回ぐらい、雪掘りをするんじゃないかな。
 今年の冬は、雪が少ないので、家の人達みんなで
「今年は、雪掘りはしなくても良いので、良いのう。」
と言っている。でも、僕は一月の中旬頃から、また雪が降るんじゃないかなと思うことが度々ある。

「クリスマスの相談」

 今日の夜、作業所でクリスマスのことで話がある。時間は七時からと言うことを、始まる一時間前に聞いた。
「俺は行かないから、みんなに言ってくれ。」
と兄は言った。その日は、母が十日町に母の姉妹が死んだ。だから行って帰ってきた。その時東京の人も二人来た。その人も母の姉弟である。その人がまたこう言った。
「今日はお客が来たので、かずは行かないから。」
そんなことを笑いながら言った。そんなことを言っている内に、始まる五分位前になった。兄が、あんなことを言ってたので、行かないと思っていた。作業所へ行く時、痛い足を我慢して走って行った。だけど四、五人しかいなかった。
 始まる七時になっても七人しかいなかった。だから今日は駄目だかもと思っていたが、その内二十三人の内、十七、八人くらい来た。そこで始めたが、真面目にやっている人は、ほとんどなかった。だから全然進めない。ふざけている人は、帽子を取りっこして、床に勢いよく投げている。そのうちに一人入った。そこへまた一人また来た。男子が遊んでいるうちに、女子の三年生四人全部、一年生は一人、それも戻った。部落長の幸一も、いっこうに注意をしないので、
「どうして注意しねか、部落長だろうが、それくらいのことはしや。」
と僕が言った。そしたら、幸一が
「今年、クリスマスをやめるか。」
「毎年やっているがだねか。今年始めてやる一年が一番可哀想だねかや。」
「じゃ、決を採ることにしるぞ。やる人手を挙げれ。一、二、三…八、九人、九対八だ。」
「じゃ、反対の方のやれか、棄権もいると思うんだ。」
「じゃ、反対の人」
そしたら六人だった。だからやることになった。それから、日時三十日、九時から飾り付け、昼からやることになった。場所、作業所に決まった。そのうちに、また帽子のぶつけっこや足の痛い人の足を押したりして、またやかましくなった。始めから真面目にやったことがなかった。そのうちに一時間経った。嫌になったので家に戻ろうと思ったが、行かなかった。
 木を持ってくる人が中々決まらないので、後回しにして、会費と買う物、買う人がやっと決まった。それから、また木を持ってくる人を決めたが、誰もなかったのでツリーをしないことにした。プログラムを決め始めたが、チョークがなくなったので、チョークの消した粉を指につけて、僕が書いた。二時間半くらいで、大体決まった。またもめ始まった。僕は面白くないので、走って家へ帰った。走りながら、こんなまとまりのないのは最低だと思った。二年の女子は、まだ残っていた。兄も十五分位してたつと、戻ってきた。

「父と母」

 僕のうちでは、四人家族であります。冬になると働きに行く父、子の世話をする母、母は一年中家にいます。食事の支度、何でもやったりする。学校に出ている子が三人もいるので、おかず作りで大変だ。今は、牛をやっているので、牛の世話までする。僕は、朝、牛をこすってやる。
 牛は、こすってやると大きくなるので、一生懸命こすってやった。父がいれば、こすらなくてもいい。父は、牛が大きくなるように寝てんだ。この前、父がいたとき、牛にあまり餌をやったので、牛は寝転んでいた。牛を、どうにかして元気にしようと、夜も寝ないで牛を見ていました。約二日もいてから、やっと元気になった。父も、やっと元気に。父は、僕に牛にくれる量などを教えたりした。
 戦争の時、父は体が悪かったので、家にやっと来たという。今では元気で働いているけれど、まだよく治っているわけではない。けれども毎日働いている。僕は、立派だと思う。
 母は、毎日同じような仕事をしている。ご飯の支度は、僕がやったりする。茶碗洗いは、母がやる。冬になると、茶碗洗いが嫌になると思う。冷たい水で洗うときもあるので、いやだと思う。けれども、どうしてもしなければならない。こんなのはまだ良い。冬の雪掘りなどが大変だ。多く雪が降れば、すぐ雪掘りをやる。学校から帰ってきても、まだやっているようなことが何遍もある。雪掘りは、少なくても、とても時間をかけてやるだ。父と母がいないと、どんなに仕事があるか分からない。こんなことを思うと、父と母がいた方がとても良い。

「冬のこと」

 僕は、冬のことについて考えてみました。先ず、去年の冬のことと、今年の冬の想像をしてみました。去年の冬は、まだ体育館がありませんでしたので、大部分の体育の時間はスキーに乗っていました。たまには、四、五時間目に体育をやった日には、山に弁当を持っていって、山で食べて帰りました。学校内でやると、たいていの時間はポートボールやマット、跳び箱などでしたが、それをやるにしたって、総合室が狭いので怪我をしたり、ガラスを割ったりするときがありました。
 僕たちは、中学になると一年から三年まで一緒になって体育をするかと思っていましたが、体育館ができたのでバスケットボール、マット、跳び箱も思い切ってできるし、内でやる率が三分の一、いや三分の二くらいにもなるかも知れません。
 三月頃には、スキー大会もあります。みんな一生懸命にスキーを履いて走ります。二月頃、雪の芸術もありますが、僕たちの学級は、去年三つの組に分かれて、動物や汽車、船などを作りました。これは、四年生以上が、みんな二組以上に分かれて、思い思いに作るのです。
 それから雪の中の卒業式、雪で道を高くし、そこを卒業生が通り、下では在校生が拍手をします。
 僕たちの方の冬休みの中で、一番面白いのは、お正月とスキー乗りです。お正月は、御馳走が沢山でます。それから、お餅もつきます。スキー乗りは、近くの山に二、三人で行って、ウサギの新しい足跡を見付けるのです。
 新しい足跡が見つかると、それに沿っていくと、崖の方に行っている足跡もありますが、穴に入っている足跡があります。先ず、周りを取り囲み、ウサギを追い出すのですが、僕たちが近付くと逃げるウサギもありますが、逃げないウサギもありますので、雪を落として追い出し、逃げられたら、また足跡をたどって追いかけていきますが、どうしてもつかめられません。

「おかあさん」

 この間、お母さんとお手伝いをした。お母さんは、僕が一つ終わると、
「ありがとう、ありがとう」
と言う。僕は、その一つの言葉が、とても嬉しかった。
「次はどれ」
と聞く。お母さんは、
「もういいよ」
と言って、僕に手伝わしてくれなかった。僕は、しょぼしょぼと、いつの間にか外に出ている。風船を持って、僕はお母さんの気持ちはよく分かった。でも、僕は今日だけでもと思ったのだった。しかし駄目だったのだ。お母さんは、どう思っているのだろう。
 まだ、コツコツと一生懸命にやっているお母さん。僕は一人で可哀想だと思ったので、僕も仕事をしなくても、一緒にいてあげようと思った。話をしながらして、ブラブラしていたら、もう六時、あたりは薄暗くなってきた。そして、そのうちにご飯も炊けたので、僕は、みんなと一緒にご飯を食べ、ようやく終えた。
 またお母さんの活動が始まった。お母さんは、いつになったら休めるのだろう。活動といっても、茶碗洗いだった。冷たい水で、お母さんはせっせと洗う。冷たそうな手。とっても可哀想だ。そこで僕は、湯をわかした。お母さんは、また
「ありがとう」
と言った。僕は、さっきよりも嬉しかった。湯を持っていくと、真っ赤な手をして洗っていたのだ。僕がお湯を持っていくと、とっても嬉しそうに、すぐに洗面器の中に入れて手を温めていた。そのとき
「ありがとう」
と言ったのだ。そんなお母さんを見ていると、僕はじっとしていられなかった。そして、僕はお母さんを立派だと思った。そんなお母さんは、僕にとって、一番良いのだ。そして、お母さんは、誰のために働いているのだろう。
 良く考えてみた。やっぱり僕たちのために働いているのだ。今度は、僕たちが、お母さんに
「ありがとう」
と言わなきゃならないのだ。