「雪のある城」 佐 藤 悟 郎 その年の初夏の頃、芝山藩の城主芝山大膳は参勤交代のため江戸に向かい、江戸城での挨拶を済ませ江戸屋敷に入った。 藩主が江戸に向かって間もなくの梅雨の始まる頃、芝山城下の足軽長屋、鉄砲組足軽頭の広野勘兵衛の隣に、一人の若い侍が越してきた。勘兵衛には、藩の勘定方重役の倅、土井栄太郎ということを知らされていた。 栄太郎は、何故、足軽に身を落とさなければならないのか分からなかった。ただ、十日程前に、登城した父が帰ってこなかった。屋敷はそのままに、栄太郎は足軽長屋に追いやられた。主君の命であると告げられ、逆らう意思はなかった。ただ、屋敷の門には生竹で閉じられ、入ることは許されなかった。 「いずれは、屋敷に戻ることができるだろう。」 そう思い、差し当たって生活するのに必要な身の回りの物、勉学のための多くの書籍を、引き車に積み込んでの引っ越しだった。 栄太郎は、隣近所に挨拶を済ませると、疲れを覚えて早く床についた。父の安否を思いながら、いつしか眠りに陥った。翌朝、夜明け前に目が覚めた。床をたたむと身形を整えて草鞋を履き、長屋を出ると走り出した。一里程離れた山に向かっていた。その山の中腹には、浄香寺という古い寺があった。彼は浄香寺まで行くと、手を合わせ、それが終わると更に山奥に入った。道のないところに分け入り、激しく木刀を振り回していた。正眼に構え、前、左右、後方へと歩を運んでの動きだった。 それが終わると、駆けだして木刀を縦横無尽に振りだした。藩校である「修誠館」での稽古では、物足りず実戦的な剣術の鍛錬をしてきた。雨が降ると蓑を着け、菅笠を被り出かけて行った。足場の良い時、悪い時の実戦的な鍛錬を心掛けていた。特に、暗い時の物の動きには注意を払っていた。 長屋に戻ると、竈に薪を投げ入れ火を焚き、ご飯を炊きあげて、漬け物とお汁で朝飯を済ませ、井戸から水を汲み上げて、茶碗と皿を洗った。長着と袴を替えて、長屋を出ると町にある「蘭岳塾」に向かった。藩校に通っていたが、二年前から父の薦めもあって、私塾に行くようになったのである。塾主は、山野蘭岳という儒学者で、江戸では名の知れた人であると聞いていた。蘭岳の門に入り、栄太郎は頭角を現し、その右腕になっていた。蘭岳には、父が行方不明になり、自分は足軽の身分となったことを話した。 足軽の身分になってからも、栄太郎は剣術と学問に励む姿勢は変わらなかった。日中は、部屋で書物に向かい、正座をして本を読んでいた。時には書を書き、時には目を閉じて思いを巡らしていた。毎日の賄いを欠かさず、町に出かけて野菜や魚を漁った。薪を割り、竈にくべて炊事をした。狭い土間に桶を据え、風呂桶の代わりとして身を清めていた。 ある朝、井戸で水汲みをする広野勘兵衛の娘、絹に出会った。水汲みを手伝い、自分の部屋に戻った。それから朝、井戸端で会うと、必ず水汲みを助けていた。広野家で、絹は「絹様」と呼ばれているのに気付いた。絹が、昔使えていた重役早野家の娘であると勘兵衛は言っていた。早野家の当主は、不都合があり所払いとなり、絹を引き取ったとのことだった。 絹は、ある日、栄太郎の案内で栄太郎の家を覗いた。部屋は綺麗に片付いており、書物があるのに目を見張った。 「栄太郎様は、土井家の若様と聞いております。どうして足軽の身になったのでございます。」 栄太郎は、俯いて何も答えなかった。絹を部屋に上げると、お茶を勧めた。向かい合って二人でお茶を飲み始めた。 「絹殿に尋ねられたこと、何故、足軽の身になったのか分かりません。城代殿から、殿の下知とのことを告げられました。何か至らぬことがあったのかと思っております。」 そう言って栄太郎は立ち上がり、奥の縁の障子を開けた。外の明かりが、部屋を一層明るくした。小さな庭には、躑躅が緑の葉を輝かせ、白や桃色の花が咲いていた。 「絹殿に隠し立てはいたすまい。私がこちらに越す十日程前、突然父の行方が分からなくなったのです。父の身に、何か良くないことが起こったものと思います。」 絹は、庭を見つめている栄太郎を見つめていた。その姿は、寂しそうに見えた。栄太郎が振り向くと、絹は俯いた。 「私は、身分がどうであれ、武士として恥じぬように努めたいと思っています。」 栄太郎は、そう言いながら席に戻り、絹と向かい合って座った。絹は俯いたままだった。栄太郎は、絹の茶碗を取って、残ったお茶を椀に捨てた。新たにお茶を注ぎ、絹の前に出した。 「栄太郎様、私は広野家の養女です。お聞きですか。」 絹は、顔を上げると栄太郎の顔を見つめた。 「広野様のご主人で、重役だった早野様の息女と伺っております。」 栄太郎が答えると、絹はまた俯いてしまった。絹は、何か考えを整理しているようだった。 「十四の歳になって、亡くなった母方の兄、広野家の養女となったのです。昔の我が儘が抜けません。広野の家では、私を絹様と呼ぶのです。私も勘兵衛、たけと呼んでいるのです。養女である以上、父と呼び、母と呼びたいのです。」 絹は、顔を上げると目に涙を浮かべていた。 「過ぎたことは、心に大切に閉じれば良いのです。今は、どうあれ広野の人なのです。一度だけでもよい、父上と呼び、母上と呼べば良いのです。一度、そう呼んでしまえば、次から拘りもなく呼べるでしょう。ただ、絹様と呼ばれても良いではありませぬか。年寄りは、直らぬものなのです。大切なことは、絹殿の心の置き方ではありませぬか。」 栄太郎は、微笑みながら言った。絹は、また俯いてしまった。 「今日、家に戻られたら、父上、母上と言ってみなされ。私が、外で見届けましょう。」 栄太郎は、励ますように言った。絹は、長い間俯いていた。栄太郎は、黙って絹を見つめていた。漸く絹は顔を上げると、意を決したように言った。 「これから家に戻ります。栄太郎様、外で聞いてください。」 絹は、立ち上がると、ぎこちなく玄関に向かった。栄太郎は、絹の後を追うように玄関を出て、広野の家の前で立ち止まった。 「父上、母上、ただいま戻りました。」 「絹様、そのような物の言い方、なりませぬ。勘兵衛、たけと呼んでください。」 母たけの声が、栄太郎の耳に聞こえた。 「私は、広野の養女です。私は広野の娘なのです。父は父上、母は母上なのです。」 絹が、はっきりと言っているのが聞こえた。 「母上だなんて、恥ずかしいではありませぬか。」 「母上なんですもの、恥ずかしいことなんかありませぬ。そうでしょう、父上。」 絹は、栄太郎の言ったように、一度言ってしまうと何の拘りもなくなった。栄太郎は、下を向いて微笑むと家に戻って、小さな声で笑った。何か清々しい思いだった。 梅雨の時も過ぎ、夜も幾らか暑苦しくなってきた。栄太郎は、町の市で野菜を買い、ぶら下げて長屋の道に入った。身形の整った女が、広野の家に入っていくのを栄太郎は見た。栄太郎は、身形から城の御女中だと思った。広野の家に入る際、栄太郎に気付き会釈をした。 暫くすると、水屋にいた栄太郎の耳に、話を済ませたのだろう、女が帰る挨拶をする声が聞こえた。栄太郎は、家の前を通っていく女の姿を、水屋の格子窓から見送った。女は、唇をかみしめ、気落ちした様子で俯きながら歩く姿だった。 夏の終わりに、城下では大きな祭りがあった。各町内毎に飾り付けた台輪を繰り出し、城下を練り回るのである。多くの見物人が集まり、露店も多く出た。栄太郎は、祭りを見に行きたいと言った絹を、一緒に連れて行った。露店を回って眺め、人混みの中を歩いた。数人の酔った侍が、女と連れ添った若い町人らしい男の二人連れに言いがかりをつけていた。どうやら女をお酌の相手として連れていこうとしているらしい。女は、男の後ろに隠れるように侍達を覗いていた。男と女の二人連れは、手を取り合って小路へと逃げていった。 「町人風情が、逃げやがって。追いかけて、女を連れていこうじゃないか。」 一人の侍が言うと、同調した三人の侍が後を追った。仕方がないという顔をして、残った二人の侍はその場で見送るように、後をゆっくりと歩いて行った。二人の内、一人の侍を栄太郎は知っていた。付き合いはなかったが、旗野松晴という幾らか身分のある侍だった。 「栄太郎様、何か悪いことが起こるのでは。」 絹は、心配そうに言った。追いかけた侍を追うように、無頼漢風の男数人が、その後を追った。 「心配はないと思うが、酔っているので何か不始末でもしないだろうか。」 栄太郎と絹は、ゆっくりと小路に入った。小路の奥にあるお寺の境内に行くと、三人の侍と二人連れが向かい合っていた。その間を分け入るように、無頼漢風の中の親分と思われる者が、侍達と話をしていた。侍の一人が、刀を抜き払い無頼漢風の親分に刀を突きつけた。 険悪となっていく様子を見て栄太郎は、刀を抜いた侍の前に立ちはだかった。 「酔って刀を抜くのは止めたが良かろう。収めなされ。」 「邪魔立てするな。貴様は誰だ。」 酔った侍に、栄太郎は答えた。 「鉄砲組足軽、土井栄太郎と申す。武士であれば、もっと身を慎まれた方が良かろう。」 「ふん、足軽風情が、笑わせるな。偉そうなことをぬかすな。お前から先に成敗してやる。」 酔った侍は、そう言うと栄太郎に斬りかかった。栄太郎は身をかわすと同時に、足払いをした。酔った侍は躓くようによろけ、倒れてしまった。 「足軽が、手向かいするか。面白い。」 酔った侍は、刀を杖代わりにして起き上がった。意を通じたかのように、他の二人の侍も刀を抜き、三方から栄太郎を囲むように身構えた。その時だった 「お前ら、止めろ。刀を引け。」 と叱るように言いながら、旗野が栄太郎の前に出た。旗野は詫びるように、栄太郎に一礼した。酔った侍は、旗野に向かって言った。 「旗野様、足軽ごときに、馬鹿にされたとあっては、腹の虫が治まらぬ。」 旗野は振り返ると、酔った侍に怒鳴り声で言った。 「お前ら、死にたいのか。前にいる御仁は、足軽と言えど、重役の土井源兵衛殿の倅殿だ。剣を持てば、藩随一の達人であることくらい、お前らも知っているだろう。詫びて帰るのだ。」 旗野の言葉に、酔った侍達は驚いたように栄太郎を見つめ、慌てて刀を鞘に収めると、深く頭を下げ、その場から立ち去った。 「土井殿、真に済まぬことをした。酔っているとはいえ、後から良く言って聞かせる。穏便にしていただきたい。」 旗野は、そう言って栄太郎に頭を下げた。 「誰も怪我をした者もおらぬ。気にすることはあるまい。止めていただいたこと、お礼を申し上げる。」 栄太郎は、そう言って旗野に一礼した。 「済まぬ。」 旗野は、最後に一礼をして、その場から立ち去った。寺の境内の周りで見ていた町人達も立ち去った。静かになった境内には、若い男と女の二人連れと、無頼漢、その親分らしい男が残った。 祭りは三日間続いて終わった。その翌日になって、旗野に連れられて三人の侍が、足軽長屋の栄太郎の家を訪れた。祭りの時、酔っていた侍達だった。手土産として菓子の折り詰めを差し出し、深々と栄太郎に向かって頭を下げた。侍達が帰った。暫くすると親分に連れられて、若い男と女の二人連れが訪れた。手土産に桶に入った酒と乾物の抓みを置いた。 「土井様の若様とお伺いし、この上もなく感謝をしております。お父上殿にも、えらくお世話になったことがございます。これからも昵懇に願います。」 親分は、栄太郎に丁寧に言った。話によると、女は親分の娘、男は酒屋の息子で許婚であると言っていた。 秋の穫り入れも終わり、農村では 稲架木の稲も、ちらほら見えるころとなった。広野勘兵衛は、栄太郎のところに訪れた。 「今日は天気も良く、山も色づいている。どこか紅葉の見られるところ、知ってござらんか。」 栄太郎は、そう訪ねる勘兵衛の言葉に少し考えた。日頃身体を鍛える山の麓にある、浄香寺が適当だと思った。今朝ほど、訪れた時にも紅葉が色づいていた。栄太郎の鍛錬の場所は、浄香寺を横に見て、更に山奥に入った樹木が鬱蒼と生い茂るところだった。 「東の山裾に、浄香寺という寺が御座います。そこであれば、見頃だと思います。」 栄太郎が答えると、勘兵衛は少し考え込んだ。 「拙者、浄香寺を知らぬ。良かったら、案内をしてもらえぬか。」 勘兵衛が、そう言うのを聞いて、栄太郎は微笑んで頷いた。間もなく、勘兵衛は妻たけと絹を連れてきた。栄太郎は、急いで握り飯を作り、漬け物を添えて竹皮に包み昼食を用意した。四人、連れ立って長屋から出かけた。 栄太郎と勘兵衛は並んで前を歩いていた。町を出ると農村の森影があちらこちらに見えた。東の山に向かう道を歩いていると、擦れ違う夫婦連れの百姓が、笑顔で栄太郎に挨拶をして行った。 「土井殿、今の百姓、お知り合いなのか。」 勘兵衛は、不思議そうに栄太郎を見つめて言った。 「暇を見ては、一緒に田畑に入って仕事をするんですよ。田植えや刈り入れの時など、汗をかくと気持ちが良いのです。父に連れられて、やり始めたのでよ。」 栄太郎は、素直に答えた。稲の植え方、刈り取りのやり方、稲の束ねや稲架木への掛け方などを道々話した。村の通りに入り、名主藤井仁兵衛の家の前を通りかかると、待ち受けていたように名主が立っていた。 「土井様、村の者から土井様が通られるのを聞きました。お立ち寄りください。」 名主は、案内するように右手を滑らせて、頭を下げながら言った。 「名主殿、有り難いが、これから浄香寺へ行くところです。今日は晴れて、空気も澄んでいる。浄香寺の紅葉も見頃、組頭の広野様と紅葉を見に行くのです。」 栄太郎は、笑顔見せながら言った。そして勘兵衛を名主に紹介した。帰りに名主の家に立ち寄ることを約束して、勘兵衛一行は東の山に向かった。 長い階段の両側には、赤や黄色に色づいた紅葉があり、枝が階段の上方に伸びていた。階段を上り切り、浄香寺の門を潜った。栄太郎は、住職の住まいに立ち寄り、挨拶をした。浄香寺の住職は、栄太郎の素性をよく知っていた。 「丁度、見頃です。手荷物を置いて、見物をして来なされ。」 住職に言われるがまま、寺の周囲を歩いた。谷川沿いに少し上ったところにある、不動明が祭られている御堂まで行った。谷川に向かって落ちるように、赤や黄色に色付いた木々が望まれた。空は晴れ、暖かくなってきた。暫く休んで、浄香寺へと向かった。寺近くまで戻ると、賑やかな人声が聞こえた。男の声もあれば、女のたおやかな声も聞こえた。山の下りの途中、木々の隙間から見下ろすと、寺の講堂の裏の広い草地に敷物を延べ、侍や遊女などが酒宴を開いているのが見えた。 「春草様ご一行です。賑やかであり、派手やかでもあります。何とも豪勢な遊びです。」 栄太郎は、広野勘兵衛と絹を見つめて言った。二人の顔に緊張した様子が一瞬現れたのを見た。勘兵衛への詮索もせず、再び春草と一緒にいる者を見つめた。土井家の隣屋敷に住む堀田禄之丞、家老の榊原義兼、城下随一の商家伊勢屋の主人の姿が見えた。 浄香寺に入ると、住職の案内で離れで昼食を取った。住職は、囲炉裏に湯を沸かし、煎じ茶を用意していた。 「講堂の裏で、春草様が、賑やかに宴を催しておられる。向こうへ行かなくても良いのですか。」 栄太郎は、住職に尋ねた。 「天気が良ければ、気が向けば宴をしなさる。場所がないのでしょう。」 住職は、軽く言い流した。人目につかぬ場所であれば、それはそれでよいと思い、寺に面倒をかけぬことで承知したと言った。住職が出してくれたお茶で、持参した飯を食べ、浄香寺を後にした。 浄香寺からの帰りに名主の藤井仁兵衛の屋敷に寄った。そこで村の様子を聞いていた。名主の話では、用水工事が中断されたままになったとのことだった。用水は、荒れた田畑を潤すのに必要なものだった。栄太郎は、父源兵衛が積極的に工事を推し進め、それを助けて百姓と共に汗を流して働いたのを思い返した。 「土井様の姿が見えなくなると、工事もできなくなりました。」 名主は、気落ちしたように言った。藩に金が無くなったというのが理由だった。人足は村人が進んで出ている。用水を造るための石も、近くの山から切り出している。人足に支払う金がないのだろう。春草殿の馬鹿遊びの金があれば、十分賄うことができる。人足料など後からでもよい、とにかく工事を始めるのが先だと栄太郎は思った。 秋も過ぎた頃、栄太郎は、隣家の重役、堀田禄之丞が父源兵衛の行方を知っていると強く思うようになった。父が行方不明となった日、父は隣家の堀田禄之丞と一緒に登城した。いつもなら一緒に帰ってくる。父が帰えらない翌日、栄太郎は堀田の家を訪ね、父が帰らないので、心当たりがないか尋ねた。 「私が帰るときには、土井殿の姿はなかった。大方、町へ遊びに行ったのだろう。」 父が品行方正であることを知っており、何処へ行くにも栄太郎に話してから、家を出る人だった。城代家老から、足軽への下知があった時、堀田禄之丞が同席していた。このような流れから、何か本当のことを知っていると思った。それに最近になって聞いた、旗野松晴の言葉が、気になっていた。 「土井源兵衛殿は、城代殿と堀田殿と一緒に評定所の方へ行った。戻ってくる時は、城代殿と堀田殿の二人、土井殿の姿はなかった。」 と、旗野が話した言葉には信憑性があった。堀田禄之丞に聞けば、父の消息が分かるはずだと強く思うようになった。 年の瀬も近くなり、昼過ぎになって時雨模様となった。栄太郎は、蘭岳塾からの帰り、大黒屋の店先で雨宿りをしている絹を見かけた。天候が急変して、雨が降り出したのである。絹は、空を見上げていた。 「絹さん、雨宿りをしているのですか。」 絹は、笑顔を見せて大きく頷いた。 「私の傘で、一緒しませんか。」 栄太郎は、笠を絹の方に近付けた。 「恥ずかしいですわ。もう少し様子を見ます。」 栄太郎は、絹の言うことが尤もと思い、肩を竦めて見せた。大黒屋に入り、唐傘を一本借りてきて、絹に手渡した。二人は並んで足軽長屋へと歩いた。 長屋の絹の家の前まで行くと、絹は傘をたたんだ。栄太郎は、手を延ばした。 「傘をください。明日、塾へ行く時に大黒屋に返してきます。」 絹は、傘を栄太郎に渡した。 「栄太郎様は、優しい方です。絹は、優しい方が好きです。」 栄太郎は、俯いて恥ずかしくもあり、嬉しさをも感じていた。 その年は正月になって、この城下にも雪が降り始めた。城の天守閣、隅櫓、そして石垣の上に聳える松の木々にも、雪が白く輝いていた。城の壕の水面には、淡雪がうっすらと浮いていた。城下の家々も雪化粧となり、町人の町に程近い足軽長屋の庇にも、氷柱が垂れていた。風混じりの雪は、時々舞い上がり、足軽長屋の軒の下を通り過ぎていった。 正月の三日になって雪は止んだ。雪は止んだけれど、北国の空は曇り、天上で風がけたたましく鳴っていた。小路をはさんで足軽長屋が向かい合って建っていた。 「私は、行ってきます。」 「止めなさいよ。何にもなりません。」 足軽長屋の一角から、そんな声が飛んできた。 「酒に酔い、酒の勢いで行かれるのは止めた方がよかろうと、拙者も思います。」 栄太郎を諫めるかのように、五十過ぎの絹の養父広野勘兵衛は、栄太郎に向かって言った。 「そうれ、私の言うとおりですよ。」 絹は、土間で栄太郎の手を引き、家から出ようとするのを止めていた。栄太郎は、女の顔を見返し、肩をすくめた。 「仕方がないんだ。堀田の家に行って、一言申し上げねば気が済まないんだ。」 栄太郎は、少し落ち着きを取り戻し、居間に上がり込んだ。火鉢に手を当て、半腰になったまま、勘兵衛の杯を受けていた。 「栄太郎殿、過ぎたことは忘れなさい。」 勘兵衛が諭すように言うと、栄太郎は頷いていた。 「さあ、今日はゆっくり召し上がってください。さあ、お席に着いて。」 勘兵衛の女房たけが、栄太郎の腕をたぐり寄せていた。若い侍は頷きながら、勘兵衛の前の席に腰を下ろした。絹が間もなく酒を運んできた。 絹は、栄太郎の一つ下で派手な出で立ちをしていた。 「栄太郎様、今日はお正月、ゆっくり飲んでくださいね。」 そう言って絹は、銚子を傾けて栄太郎の前に出した。栄太郎は杯を受けながら言った。 「絹殿には、いつも世話になって申し訳ないと思っている。」 娘は、俯いて首を横に振った。 「いいえ…。」 絹は、銚子を両手で包み、胸の前で押さえていた。 「栄太郎様はお一人で暮らしており、世話をするのは当たり前ですよ。それに若々しくて、男前も良いんだから。」 横にいた女房たけの太い声が飛んできた。栄太郎は、一瞬絹の顔を見た。絹は、目のやりどころがなく困った様子だった。 「何か、お考え事をしていますの。」 絹は、銚子を前に延べ、栄太郎の顔を覗いた。栄太郎は、一瞬、絹の方を見つめ、空の杯を前に出した。そして黙っていた。 「栄太郎様、私は堀田様のところへ行くのを、無理には止めはいたしません。」 絹は、杯に酒を注ぎながら言った。 娘が栄太郎に言っているのを聞いた母たけは、なだめるように言った。 「そんなことをなさっては駄目ですよ。いくらお父上が、以前重役で、親しかったと言っても、今日は相手にしてくれませんよ。」 栄太郎は、女房たけの言葉を静かに聞いていた。そして静かに目を閉じた。 「おい、そんなことを言うものではない。」 勘兵衛は、女房たけを叱った。女房たけは、勢いよく立ち上がると、不貞腐れたのか、荒々しく戸を開け閉めて奥に姿を消した。 栄太郎は、杯を静かに膳の上に置くと立ち上がった。絹は、銚子を両手で抱え、俯いて目を閉じて座っていた。 「もう止めますまい。けれど、お刀だけは置いていってください。」 勘兵衛は、そう言った。栄太郎は、荒々しく玄関の方へ歩き出した。絹は、唇を噛みしめ、悲しそうな目で栄太郎の後姿を見つめた。 栄太郎は、二の丸を通り抜け、濠の辺に向かって歩いた。堀田の家は、その濠の北の方向の武家屋敷にあった。栄太郎は、着流しで素足、雪駄を履いていた。濠の辺から三層の天守閣を見上げた。濠には雪が浮いている。その雪の間の水面は、城の姿を映していた。二の丸の林には、雪が積もり、重々しい姿を見せていた。 夕暮れ時、栄太郎は、壕の辺の桜の木の幹に背を凭れ、時を過ごした。頭に落ちてくる雪を払う気力すらなかった。 「お屋敷様の家に、灯がついている。」 栄太郎は、北の方に灯がつき始め、雪景色の中に、うっすらと明るく見え始めた武家屋敷を見つめていた。 「私は不幸だ。不運の星の下に生まれてきたのだ。」 冷えゆく正月の冬空の下で思った。静かな中を、時折、近くの木の枝から雪の落ちる響きが聞こえた。栄太郎の目には、涙が溢れていた。 「昨年の春先まで、父がいたころ、私もお屋敷様の住人だった。」 一筋の涙が頬を伝わった。涙を堪えるかのように、栄太郎は目をしっかりと閉じた。 「どうしてなのだ。父の行方が分からないのだ。訳も分からぬうちに、足軽長屋に放り込まれてしまった。どうしてなんだ。」 雪の城下に夜が訪れ、灯が点々と明るさを増していった。天上のどこを見ても、もう陽の明るさはなかった。天守が、荒天の雲の流れの中に聳えていた。 「私の父は、勘定方の長だったはず。堀田の家は私の屋敷の隣。親切な重役だった。」 栄太郎は、力なく目を開き、北の方に目を向けた。首を振り、涙に濡れた顔を空に向け、烈しい慟哭を吐いていた。雲は西から東へと急な流れを見せ、散っていった。 「私が悪いのではない。父も悪いのではない。ただ、この現実が悲しくてならない。泣くのは止そう。女々しいではないか。」 栄太郎は、足元の雪を両手で掬い上げると、顔に押し当てた。暫く顔に雪を押し当て、そっと外して胸元に手を下げた。そこには自分の顔型が冷たく残っていた。 栄太郎は癪に障った。両手で雪を握り潰した。雪はバラバラと音をたて、下に落ちていった。 「無駄なことだ。未練がましいことだ。堀田の屋敷に行っても、ただ惨めになるだけだ。」 お屋敷様の方を見つめた。雪が、ちらちらと目の前に舞って流れていった。 「暖かそうな灯りだ。行ってみよう。」 栄太郎は、雪の中の細道を、北の方を指して歩き始めた。俄かに、雪がその数を増して流れていった。そして、目の前が見えないほどになった。 お屋敷様のある通りは広い。白壁が続き、道の両側に杉の並木が続いていた。雪が激しく舞う中に、杉の頂は見えなかった。土井の屋敷の前に、忽然と栄太郎が現れた。門は締め切っていた。栄太郎は表札をじっと見つめた。 …土井源兵衛… その五つの文字を、食い入るように見つめた。栄太郎は、暫く立ち止まって見つめていた。 「これが、私が住んでいた屋敷か。」 栄太郎は、その門を開けば、用人や父がいるように思えてならなかった。ただ、表札の文字が冷たく見えるばかりだった。栄太郎は項垂れ、尚も動こうとしなかった。 「悲しまずにはおられない。この悲しさは、どこからくるのか。世を恨めばよいのか、誰を恨めばよいのか。」 ようやく、栄太郎は力なく歩き始めた。時折、土井の屋敷の門を振り返った。諦めるかのように、静かに歩き出した。新雪に、栄太郎の足跡が寂しく、ひっそりと残っていた。 堀田の家の門は開かれていた。門から、松明の灯でうっすらと玄関が見えた。栄太郎は、門の前で立ち止まった。玄関の屏風の脇に行灯が置いてあった。家の中から、笑い声が時折聞こえてきた。 「あの声は誰の声だろう。実に楽しそうな声だ。」 びっしょり濡れた服のまま、栄太郎の心も楽しさに誘われた。 「堀田様の家は、外も、中も、少しも変わっていない。嬉しいことだ。」 目を閉じ、堀田家の中から伝わる、人の声の温かみを感じた。 「目の前に浮かんでくる。堀田様、ご子息の新九郎殿は、今、江戸屋敷に、娘御衆の顔、みんな私に微笑みかけているようだ。」 栄太郎の上体は、前後左右に揺れていた。時折、足元が覚束なくなるのだろう、ふらっと動いた。それでも、目を閉じたその顔には楽しそうな表情が浮かんでいた。 「そこに立っておられる方、どちらの方ですか。何か御用でございますか。」 玄関脇の木戸から、年老いた用人が出てきて、栄太郎に尋ねた。返答がないことから、用人はもう一度問い掛けた。それでも返答がなかった。 年老いた用人は、男の風体が異常なので、恐る恐る近寄って顔を見た。そして考えて、軽く手を打った。 「土井様の若様じゃございませんか。」 栄太郎は目を開き、前に立って微笑んでいる年老いた用人を見つめた。 「甚助殿、確かそうだったな。」 年老いた用人は、軽く何度も頷いた。そして、栄太郎の手や服を触っていた。 「大層お濡れになって。さぁ、用人部屋へと、先ずお入りなされ。」 年老いた用人は、栄太郎を引きずるように、脇の木戸の方へと連れて行った。用人部屋は、中に入ると土間になっており、奥に板の間と二帖ほどの畳が敷いてあって、そこは屏風で隠れていた。 「お体が冷えましたでしょう。今日は、正月の三日、無礼講です。熱い物をつけましょう。」 年老いた用人は、火を強く炊き、煮え湯の中に酒の入った徳利を差し入れた。 年老いた用人は、栄太郎に着替えを勧めた。濡れた服を几帳に掛け、火の側で干していた。 「ありがとう、甚助殿。」 茶碗で熱い酒を一息で飲み干し、栄太郎は年老いた用人に深々と頭を下げた。 「土井様の若様ともあろう人が、私風情のような男に頭を下げちゃいけません。」 「甚助殿、もう、その若様と言うのはよしにしてください。」 年老いた用人は、栄太郎の言葉に少し黙っていた。火鉢で、囲炉裏の火を弄りながら 「誰が、どう言おうと、私の目には若様です。」 そう年老いた用人は言った。栄太郎は、苦笑をした。年老いた用人の話は、取り留めのない昔の話だった。栄太郎は、その話を彷彿と思い浮かべ、楽しみながら聞いていた。 暫くたって、栄太郎は自分の服に着替えた。その姿を、年老いた用人は頼もしげに見上げていた。女の話し声が、一言二言したかと思うと、間もなく、用人部屋の戸が開いた。 「甚助、父上がお呼びじゃ、すぐ参れ。」 その声に、年老いた用人は女に返事を返して、栄太郎に一礼をした。 「じゃ、甚助殿、今日のご恩は忘れぬ。これで失礼する。」 栄太郎は年老いた用人に一礼をすると、振り返り木戸の方に向かった。 「お待ちなさい。」 栄太郎は、女の声を背に受け、立ち止まった。女は、廊下から用人部屋に入ると、何気なく言った。 「甚助、お客様のようだの。どなたじゃ。」 年老いた用人は、女中を一人連れて訪れた年の若い女に向かって、深いお辞儀をした。絹の質素な服を着ているが、少し丸み帯びた顔立ちの、口元が柔らかそうな十七・八の堀田家の次女の里という娘だった。 「お里様、長屋の私の友達でございます。」 里は頷いて聞いていた。そして、背を向けている栄太郎に言った。 「私は当家、堀田の次女、里と申す。当家に来たからには、ご挨拶を賜りたい。」 栄太郎は振り返った。そして、土間の上から見下ろしている里と相対した。里は、栄太郎の顔を見るや狼狽した。 「足軽長屋に居ります、足軽隊鉄砲組、土井栄太郎と申します。以後お見知りおき願います。又、本日、私が当家の世話になったご恩は忘れません。」 栄太郎は、当然のように土間に伏して、土下座をし、頭を下げたままだった。 …これが当たり前なのだ。… そう思うと、栄太郎には悲しみはなかった。 里は、唖然としていた。自分に向かって土下座をしている栄太郎の姿を見つめていた。顔から血の気が失せ、力なく頭をたれた。栄太郎は伏し続けた。 「この里は、悪いことを申しました。」 里は、後悔するかのように、悲しそうに首を振っていた。 「どうか、お顔をお上げになって、お立ち下さい。」 栄太郎には、顔を上げることは許されなかった。 「格別なるお言葉を賜り、有難うございます。」 栄太郎は、土間に伏したままそう言って、黙った。 …情けに甘えてはならない。今の分際を、よく知らなければ。… 里は、幾度も栄太郎に向かって、立つように申し向けたが、栄太郎は伏したままだった。 里は、暫く目を閉じて考えている様子だった。不安な翳りがさした顔、虚ろな目を軽く開き、板の間にきちんと座った。両手を膝の前に突き、栄太郎に向かって深々と頭を下げた。 「栄太郎様とは知らず、失礼を申し上げましたこと、お許しください。今日は家事多忙のため、御もてなしをすることができませんこと、なにとぞご容赦くださいますように。これからも気丈夫に、お体にお気を付け、お過ごしください。又、お会いできる日を楽しみにしております。」 里は、半ば屈み込んで、伏せ続けている栄太郎に向かって言った。 「深き、お情けのお言葉、一生忘れません。至極恐縮しております。」 栄太郎の返答を聞いて、里は悲しくなって唇を噛みしめた。里は、栄太郎の前に長くいればいるほど、惨めに思われた。 「里は、これだけは言っておきたいのです。私は、決して情けなどで言っているのではないのです。里の心は、いつも栄太郎様を気に掛けておりました。里のことを、決して悪い女と思わないでください。」 里はそう言い終わると、すくと立った。土間に伏し続ける栄太郎を、青ざめた顔をして見ていたが、それも鋭い目付きに変わった。里は、年老いた用人を見つめた。 「甚助、お父上がお待ちかねぞ、早う参れ。」 里は、年老いた用人にきつく言うと、足早に用人部屋から立ち去った。用人部屋には、重苦しい空気が漲っていた。 年老いた用人は、軽く栄太郎の肩をたたいた。暫くの間、栄太郎は動かなかった。 「お里様には、本当に、悪気はなかったのです。」 栄太郎は、座ったまま、両腕で上体を支え、年老いた用人の言葉を否定するかのように、ゆっくりと首を横に振っていた。そして、急に立ち上がり、年老いた用人の手を強く握り締めた。 「有難う。甚助殿、元気でな。」 涙で溢れた、赤い目を一瞬見せたかと思うと、顔をすぐ背けて手を離し、逃げるように用人部屋の木戸を開け、雪の中へ飛び出した。夜の雪の降る中、小走りに門を通り抜け、雪道に出た。栄太郎の火照った顔に、雪は融けていた。 里は、正月の家族の宴の席に戻った。席に戻るのが遅かったのを感じたのか、堀田の主、禄之丞が里に顔を向けて言った。 「少し遅かったが、何かあったのか。」 里は、少し俯いて考え込んだ。怪訝そうな顔を見せ 「甚助の用人部屋に、土井栄太郎様のお姿がありました。」 と里は言った。そして付け加えるように、 「いかにも見窄らしく、だらしなくお見受けいたしました。」 と力なく言った。禄之丞は、席を立つと部屋から出て行こうとした。丁度、用人の甚助が戸を開けて顔を見せた。 「土井様の子息がいたようだが。」 禄之丞は、甚助に尋ねた。帰ったとの返事を聞くと、席に戻り左手で顔を覆って考え込んでいた。手を外して宴席を見ると、皆が窺うように禄之丞を見つめていた。禄之丞は明るい笑顔を見せ、杯を口元に持っていくと、宴席は華やいだものに戻った。 堀田の屋敷から出た栄太郎は、頭を横に振りながら、よろめき歩いた。融けた雪は、顔面を濡らし、涙とともに流れていた。そして、迷える人のように、道を外れ、新雪の積もっている中を、深い足跡を残し、雪を蹴散らしながら歩いていた。 栄太郎は泣いた。杉の木にしがみつき、杉の幹を力一杯拳で叩きながら、声を上げて泣いていた。その声は、雪の暗闇の中に、風の音の中に消えていった。栄太郎は、精一杯泣いた後、杉の木に寄りかかって、深い吐息を何回も繰り返した。 「栄太郎様、帰りましよう。」 驚いて、栄太郎は横を見た。雪が激しく降る暗い中に、肩を窄め、御高祖頭巾をした絹が立っていた。絹は寒いのだろう、傘を肩に当てらい、両手を口に当てて息を吹きかけていた。そして、小刻みに震えていた。 「絹殿、どうしてここに。」 栄太郎は、絹の方に近寄った。雪は絶え間なく舞い落ち、風に流れていた。絹の正月の晴れ着も、雪のために裾は白くなっていた。冬の夜、寒そうに震えているその顔には、喜びも悲しみも、何もなかった。 「早く長屋に帰りましよう。とても寒いわ。」 栄太郎は、絹の襟元や胸元が雪で濡れているのを見た。 「絹殿、有難う。帰ろう。」 栄太郎は、一言そう言った。絹は、体や頭を震わせていたが、栄太郎に向かって微笑んで見せた。それは、大きな微笑にはならなかったけれど、清らかな乙女の顔だった。 栄太郎は、絹の肩先を歩き出した。絹は、栄太郎の横顔を見つめながら、一歩後から歩き出した。そして、二人の影はすぐ雪の降る中に掻き消えていった。暗い天上から大粒の雪が、絶え間なく降る夜だった。 絹は、雪が降りしきる中に長くいたのだろう、身体が冷たくなった。絹は、長屋に戻ると、床に臥してしまった。寒い足軽長屋の部屋で、火鉢が一つだった。栄太郎は、薄暗い部屋で眠っている絹を見つめていた。己の浅はかな行動が絹を惨めにしたことを恥じた。時折、絹は咳き込み目を覚まし、そして目を閉じた。栄太郎は、俯いていた。顔を上げると、絹が瞳を栄太郎に投げかけているのが見えた。 「絹殿、真に済まぬことをした。迷惑をかけてしまった。」 絹は、微笑みを浮かべ、顔を横に振っていた。 「栄太郎様、絹が出過ぎたことをしたのです。栄太郎様は、名家のご嫡男です。どうか身も心も鍛えてください。」 更に、栄太郎の瞳を見つめ 「絹は、栄太郎様を恋しております。生涯、連れ添いたいのです。よろしいですか。」 絹は、弱々しく言った。 「喜んで、お受けいたします。早く元気になってください。」 栄太郎の言葉を聞くと、絹は目を閉じて眠りに陥った。栄太郎は、目を閉じ一筋の涙を流した。 栄太郎は、三日目にも広野の家に訪れた。絹は、目を開けることはなかった。汗ばんだ顔には、苦痛が見えた。夕方近くになって、身形の良い御女中らしい女と医者が姿を見せた。栄太郎は家に戻り、火鉢の灰を払いながら、火を見つめていた。隣家、広野の家の前が騒がしいことから、玄関の戸を開けると、駕籠が去って行くのが見えた。駕籠の後ろには、身形の良い女、医者、広野の女房たけが歩いていた。 栄太郎は、勘兵衛が家に残っているのを知り、訪れて尋ねた。絹を医者の屋敷で手当を受けさせると答えた。 如月に入ると、勘兵衛も姿を消した。 「絹は、だいぶ良くなった。側に行かなければなるまい。」 そう栄太郎に挨拶の際言い、行き先は言わなかった。 栄太郎は、絹の面影を追い、病の身を案じていた。朝の剣の鍛錬を時々休み、蘭学塾での勉学に覇気を欠くことが多くなった。山野蘭岳は、栄太郎の姿を見て身を案じた。山野蘭岳は、栄太郎の父が失踪して長くなったと思った。何も便りがないのは、おそらく囚われているのだろうと思ったが、確証はなかった。 山野蘭岳は、栄太郎を、そのままにしておくことはできないと考えた。考えた末に、江戸の大学頭林家に働きかければ、芝山藩主を動かすことができると思った。栄太郎が江戸でも学問に耐えうることは、明白だと思った。 山野蘭岳は、大学頭林鳳谷に書状を寄せた。それを受けた鳳谷は、自ら芝山藩江戸屋敷に赴き、藩主芝山大膳と面談した。栄太郎を名指して、昌平黌で学ばせることを勧めた。弥生の桜の咲く頃だった。 藩主から土井栄太郎の江戸詰とするようにとの書状を受けた城代家老南郷宗親は、狼狽した。栄太郎を足軽の身分にしたのは、藩主に諮ることなく発した城代家老の命令だった。栄太郎の父、土井源兵衛を公金横領の罪をかけ、藩主の許可もなく捕らえ入牢させたのも城代家老の判断だった。いずれ源兵衛は獄死、栄太郎は浪人となるだろうと思っていた。 藩主は、外様大名で幕府で微妙な立場にある。命に従わず、栄太郎を江戸に送らなければ、城中に城主の探索が入るのは必定と思った。土井源兵衛、栄太郎を亡き者とすれば、なお一層嫌疑が城代家老にかかると思った。最も恐れたのは、幕府が嫌疑を抱くことだった。土井家の親子を相手に、力で押して抵抗された場合、多数の死傷者が出るのは明白だった。藩の命運に関わることにもなると思った。 「とにかく、土井源兵衛を獄中から放し、栄太郎を元の身分にしなければならない。」 「栄太郎が江戸詰となる趣旨は分からぬが、殿の命であれば、栄太郎は殿と面談することになる。これまでの所業が明らかとなる。」 城代家老は、そう思い立ったが、穏便に取り繕うことが不可能だと思った。己の身を捨てる覚悟があるのか、静かに自問自答を続けた。 城代家老は、土井源兵衛を出牢させ屋敷に帰し、そこで源兵衛に詫びを入れた。 「ご嫡男、栄太郎殿に対し、殿から直々に江戸詰を所望された。栄太郎殿には、足軽身分として足軽長屋に住まいを宛がっている。これも、私一存で決めたこと、真に済まぬ。」 間もなく、栄太郎は土井家の屋敷に戻った。 栄太郎が屋敷に戻って間もなく、改めて城代家老は、土井源兵衛と栄太郎に頭を下げた。源兵衛は 「城代殿、何事でござる。頭を上げなされ。」 と城代家老に言った。城代家老は頭を上げず、続けて言った。 「土井源兵衛殿、それに土井栄太郎殿には、長い間、無礼を働いた。許しを賜りたいとは申さぬが、私の申し開きを聞いていただきたい。」 そう言ってから、城代家老は顔を上げた。今までの、ことの成り行きについて、語り始めた。城代家老の話は、次のようだった。 昨年の春、重役の堀田禄之丞殿から 「勘定方の犬井虎之助から、藩のお金がおかしくなっている。調べたところ、勘定方重役の土井殿から依頼されたという伊勢屋への納品依頼書、伊勢屋の受領書が出てきた。しかし、品物が納品されていないにもかかわらず、藩の金が支払われているようになっている。伊勢屋に内密に問い質したところ、品物は納めていないし、金も受け取っていない。詳しい事情は、土井様がご承知と思われます。」 との話が舞い込んできた。重役の堀田殿は、犬井から書面を借り受けてきたと言って、私に手渡しをした。 「堀田殿、土井殿に嫌疑があると、そう思っているのか。」 私が問うと、堀田殿は頷いていた。 私は、直接土井源兵衛殿に問い質すのも、大人気ないと思った。数日経つと、堀田殿は、また土井殿にかかる書面を持参して参ったのだ。私は、放置できないと思い、先ずは土井殿を捉え入牢をさせた。家の処分を行うことができなかったので、栄太郎殿を足軽の身分に落とし、足軽長屋へと押し込んだ。土井源兵衛殿の周りを固めて、言い逃れのできないようにしようと思ったのだ。ことの顛末が明らかでないので、江戸に知らせる状況になかった。私が自ら、勘定方に入り、様子見をしていた。 間もなく、藩の金の出し入れが合わない事例が続いているのに気付いたのだ。つまり、事実無根の中で土井殿を疑い、捉えたことになると思った。表沙汰になれば、由々しき重大事となると思った。堀田殿に話をしたところ 「身分に関する処分は、遅滞なく報告せねばならぬ。もう、一月も過ぎている。殿に知らせることはなりますまい。」 そう思案している内に、半年が過ぎ、一年が近くになっていた。そんなところに、栄太郎殿に江戸詰の下命があった。もう、江戸に隠せるものでもないと思った。私は覚悟ができている。藩を考えると、大きな汚点が残る。そのことだけ熟慮していただきたい。 土井源兵衛は、何故自分が捕らわれたのか、初めて知った。その口実すら、馬鹿馬鹿しく聞こえた。 「城代殿、藩の金の流れは、殿の父君、春草公に流れていると思われる。誰が手引きをしているのか。恐らくは、縁戚にあたる家老榊原義廉殿と犬井虎之助だと思われる。春草公に流れている確証があれば、殿は何の咎めもしないだろう。詮索している途中に、囚われの身となってしまった。理由も分からぬまま、今に至っていた。もっと早く、話してくれればよかったものを。」 と源兵衛は言った。栄太郎は、悔しさの余り、震えが止まらなかった。身分を違えた時、人々の口が変わることも知った。 「栄太郎、この間のこと、心だけに仕舞っておくように。問い詰められたら、父子共々、望んで得た試練だと言えばよい。そう思えば、真にそうではないか。」 栄太郎は、そう父源兵衛に言われた。 「父上、言われなき仕打ちを受け、不問にしてよいものでしょうか。」 栄太郎は、父の顔を見つめ、不承知の言葉を述べた。更に、続けた。 「私は、ことの顛末を江戸で殿に申し上げる。できたらご裁断を仰ぎます。」 それを聞いた城代家老は、静かに栄太郎を見つめた。 「栄太郎殿、お話は、真摯に受け止めましょう。」 城代家老は、そう言うと深くお辞儀をした。更に、源兵衛にもお辞儀をすると、力なく立ち上がり、部屋を後にした。 城代家老が部屋を出ると、源兵衛は栄太郎に 「城代殿は、腹を召されるつもりだ。お主は、それで気が済むのか。」 ポツリと言った。栄太郎は、己の返答一つで、城代が不幸になるばかりでなく、更に不幸に陥る人が出てくると思った。禍が、罪なき人に及んだ時、そこに生まれるのは恨みだけであると思った。 「父上、城代殿を屋敷まで送ってきます。」 栄太郎は、城代家老の後を追った。玄関先で追い付くと、草履を履いた。 「ご城代様、拙者、この間のこと、忘れることにしました。江戸では、一生懸命に勉強して、殿の目に適うように努力します。」 栄太郎は、そう話をすると、後は江戸住まいの心得等について尋ねていた。明るく話を向けながら、城代家老の屋敷の玄関まで着いた。 「寄っていかぬか。」 栄太郎は、首を横に振って見せた。城代家老の帰りを待っていたかのように、その妻と、二人の娘が玄関までで迎えに出てきた。 「土井殿の嫡男、栄太郎殿だ。無理な願いを聞き入れてもらった。」 そう言って、城代家老は栄太郎に頭を下げた。 「土井様、有り難うございました。」 城代の奥方が、そう述べて両手を前にして臥すようにお辞儀をした。二人の娘も、深くお辞儀をしたままだった。その時、城代家老の妻が下に白装束をしているのを見た。それを見て過ちを犯さずに済んだと、心安らかになった。 「江戸詰となります。国表に帰る時は、ご城代に手紙を認めます。お土産になりそうなものを書きますので、返事をください。お願いします。」 そう言って明るく、朗らかな声を残し、栄太郎は城代家老の屋敷を後にした。城代家老とその奥方、娘は、長く頭を下げたままだった。熱い涙が流れるばかりだった。 絹は、典医の屋敷でも、高い熱が続き、体も弱っていた。ただうわごとで 「栄太郎様」 と幾度も、うなされるように言っていた。半月程過ぎて、熱も下がりかけた。食が細く、気力も減退した様子で、床に臥すことが多かった。二月に入り、漸く床から抜け出し、本丸御殿へと移った。 「歩かなければ、元気を出さなければ、栄太郎様に笑われてしまう。」 絹は、栄太郎の笑顔を思い浮かべて、自ら微笑んだ。本丸御殿内を歩き回り、三月弥生を迎えると、天気の良い日は、庭を歩き回った。ただ、栄太郎のことを口にすることはなかった。 栄太郎は、父に見送られ、江戸に向かうために屋敷から旅立った。屋敷を出て、城代家老の屋敷に立ち寄り、挨拶をした。城代家老と妻子の健やかな姿を見て、安心しての旅だった。編み笠を被り、古志や三国の山道を過ぎ、夕方には高崎の宿場に着く予定だった。日が暮れ始め、旅人の姿もなくなり、編み笠に草鞋履き、袴姿の栄太郎は先を急いだ。森の中の街道は薄暗くなっていた。とにかく、鬱蒼とした森から抜けなければと思っていた。この辺りでは盗賊が横行するといわれていたからだった。取り締まりの役人の目を掠め、神出鬼没の有様と聞いていた。街道が大きく左に曲がっていた。左は林の傾斜、右は急な下り斜面となり、下の方にかすかに川のきらめきが見えていた。 栄太郎が、人の駆けてくる音を聞いたのは、その時だった。栄太郎は立ち止まり、前を見据えた。町人風の男二人が走ってくる。それを追うように、浪人風の男が刀を抜き払って走ってくる。町人風の二人は、栄太郎の姿を見ると 「助けてください。追い剥ぎです。」 と言うなり、栄太郎の後ろに隠れるように屈み込んだ。追って来た浪人風の男達は、刀を脇に垂れ、栄太郎と向かい合った。 「そこの二人に用がある。邪魔立てをするな。」 一人の浪人風の男が、左手の指を指しながら言った。栄太郎は、浪人等の姿を見つめた。 「金を出せと言ったんです。断ると、切りつけてきたんです。手代の半助が腕を切られました。殺されます。助けてください。」 主人らしい町人の声が、栄太郎の耳に聞こえた。浪人達は、埒があかないと思ったのか、栄太郎を三方から囲み一人が斬りかかってきた。栄太郎は、身をかわすと足をかけて、相手を転げさせた。 「お主等では、拙者を切れぬ。立ち去るが良かろう。」 栄太郎がそう言うと、転げた浪人の合図で、他の二人がそれぞれに栄太郎に襲いかかった。栄太郎は素早く刀を抜き払い、刀を交えると簡単に三人の浪人の足を切りつけた。浪人達は、その場で倒れ込み這いずり回った。 栄太郎が刀の血を拭き取り、刀を鞘に収めた。すると数人の駆けてくる足音が聞こえてきた。町人と侍三人の姿が現れた。 「あっ、この三人の浪人です。わっしの財布を奪ったんです。」 町人と一緒に来た三人の侍は役人らしく、這いずり回っている三人の浪人に縄を打ち付けた。侍の一人が、栄太郎に近寄ってきた。 「貴殿ですか、この者達、中々の使い手の者で、恐れられていたお尋ね者達です。かたじけない。」 役人達は、栄太郎が相当な剣術者と認め、丁寧に頭を下げた。役人の一人が、自分の身元を明かした上、栄太郎の身元を尋ねた。 「越後、芝山藩の土井栄太郎と申します。江戸屋敷に赴く途中です。」 栄太郎は、そう申し立てた。編み笠をつけると役人に一礼し、その場を去って高崎の宿場に向かった。栄太郎が助けた二人の町人は、役人の尋問があり、その場で別れた。 一時も歩くと、高崎の宿場の明かりが見えた。適当な宿があるかと思案しながら栄太郎は歩いていた。宿場に近くなると、後ろから駆けてくる足音を聞いた。 「待ってください、お侍様。」 その声で栄太郎は立ち止まった。 「先程助けていただいた者です。私共も江戸まで行きます。どうかご一緒させてください。」 栄太郎は編み笠を外し、月明かりを受けた町人の顔を見つめた。 「一緒に行くのは構わぬが、宿が心配でな。心当たりはあるのか。」 町人は、大きく頷くと 「それはお安いことです。昵懇にしている宿が、あちこちの宿場にあります。勿論、高崎の宿場にもあります。」 町人が案内した宿は、大きな宿だった。宿が込んでおり、三人は相部屋となるとのことだった。助けてくれたお礼と言って、夕食の膳に酒が添えられていた。 「ご挨拶が遅れまして、私は江戸で上州屋という雑貨商をやっております、大久保総次郎と言います。この連れの男は、手代の半助と申します。」 町人は、飯女の酌で酒を飲んでいる栄太郎に言った。町人は、越後長岡で商いをしての帰りだと話した。栄太郎は、一合徳利を一本空けると、町人が酒を勧めるのを断り、飯を食べ始めた。 「旅では、よく寝るのが一番でござろう。」 そう言うと、早々と寝る支度をさせて、枕元に刀を置き床に入った。 高崎を出て二日目のことだった。松並木の街道を歩いていると、手代の半助が指差して 「向こうに、百姓の娘が泣いていますぜ。どうも、誰かが寝転んでいるようでさ。」 栄太郎は、指先の方を見つめると、街道から外れ、大きめの畦に入り、娘のいる方へと歩いて行った。遅れながら、総次郎と半助も、栄太郎を追うように歩いた。栄太郎が娘のいるところへ行くと、娘は泣きながら栄太郎を見上げた。娘の膝元に、仰向けに横たわっている老人が、苦しそうに顔をしかめている。栄太郎は、片膝を地に着けて、右手を老人の額に当てた。 「ひどい熱だ。娘、家はどこだ。」 娘は、栄太郎の姿を見ると泣き止んだ。山の麓の森影を指差した。栄太郎は、老人を背負うと娘に言った。 「ここでは身体に良くない。家まで案内してくれ。」 農具と苗がなくならないように、二人をその場に残し、娘の案内で栄太郎は、老人を背負って歩いた。 老人の家に着くと家に入り、土間から板の間に入った。部屋の隅に畳んであった藁布団を取り出し、老人をその上に乗せた。娘は、家に着くなり 「お父ちゃんを迎えに行ってくる。」 と言って、裏の方へと駆け出した。栄太郎は、部屋の中を見て、身体に掛ける着物を探し出し、老人の身体にかけた。水屋の方に行き、茶碗に水を入れてくると、印籠から薬を取り出し、老人に飲ませた。 間もなくして、家の者が家に入ってきた。老人の連れ合いを残し、田圃に行くことにした。田植えは、その日に終わらせなければならなかった。全員で田植えをする手はずの矢先の、老人の病気だった。田圃に戻ると、娘の親父が、栄太郎や総次郎にお礼を述べた。 「手が足りないのでしょう。」 栄太郎は、脚絆を外して袴を脱ぎ、長着の裾を高く上げた。 「お侍様、そんなことまで、なさっちゃいけません。」 「心配は要らぬ。田植えの心得はある。とにかく、早く片付けなければ。」 栄太郎は、半助にも声をかけた。半助も心得があることから、一緒になって田植えを始めた。 昼時になって栄太郎らは、宿で作ってもらった昼飯を食べた。田植えは、夕方近くまでかかった。足を洗い、袴を着けると、総次郎らと一緒に百姓と向かい合った。 「お爺さんを大事にしなさい。」 そう言って、二日分の薬を紙に包んで手渡した。そして、娘と倅の頭を撫でながら 「お父様、お母様を大切にな。」 と言った。茫然と見送る百姓家族を後にして、畦道を中仙道に向かって歩いた。街道に入ると、栄太郎は 「総次郎殿、急いでいるところ付き合わせて、済まなかった。」 と言った。更に、 「日も暮れそうだし、少し疲れた。次の宿場までどの位あるか知らないが、次の宿場で宿を取ろう。」 「次の宿場は、上尾の宿です。幾らもないですよ。」 総次郎は、そう答えた。剣の使い手でもある栄太郎が、田植えも手際よくやっている姿を見て、心惹かれていくのを感ずる総次郎だった。 「天気が持てば、今晩には江戸屋敷に着きますよ。」 空を見上げながら、総次郎は心配げに言った。風が少し強く吹き、雲は東へと早く流れていく。案の定、浦和宿を過ぎる頃になると、風雨が激しくなってきた。蕨宿を過ぎ、戸田の渡しまで行くと舟止めとなっていた。荒川の水量は増し、濁って激しい流れとなっていた。 「これでは、今日は無理です。蕨宿で泊まりましょう。」 総次郎の言葉に従い、蕨宿で宿を取った。 翌朝、戸を開けると、空は晴れて強い日差しが部屋に飛び込んできた。宿屋の主は、舟が出ると言っていた。朝飯を食べ、早めに戸田の渡し場に行った。まだ川の流れが強く、渡し船は出なかった。二時も、茶店で休むと、ようやく流れも落ち着いたらしく、舟が出ることになった。 舟は岸を離れ、難儀そうに船頭が櫓を漕いでいるのが見えた。 「あの船頭、酒を飲んでいる。向こう岸まで持ってくれれば良いが。」 総次郎は心配げに言う。流れが落ち着いたと言っても、流れは幾らか早い。急に、船頭は櫓を上げたかと思うと、船底に倒れ込んでしまった。一斉に乗客が騒ぎ出した。 「立つな、立たないでくれ。」 機先を制するように、栄太郎は大声を上げた。 「皆が立てば、舟はひっくり返る。」 栄太郎は、舟の後ろの方へと行き、櫓を握り締めると漕ぎ出した。渡し場から外れたが、無事に向こう岸に辿り着いた。岸に乗り上げると、待機していた船頭らが綱を取り、舟が流れないように岸近くの大きな楠に縛り付けた。 「お侍さん、有り難うございました。」 乗り合わせた客は、口々に栄太郎にお礼を述べて、舟から下りていった。笑顔で、降りていく人達を見送る栄太郎に、一緒に旅する者として誇らしくさえ思う総次郎だった。 板橋を過ぎ、日本橋近くに着くと、もう日が暮れていた。立ち並ぶ商家の軒先には、明かりが灯っていた。大久保総次郎は、一際大きな商家の近くで歩を緩めた。栄太郎は、「甲州屋」の大きな看板を見て、総次郎の店だと思った。店先には、店の者が一人出ており、総次郎の姿を見ると一礼して店の中に入った。直ぐに、店の番頭らしい者が出てきた。総次郎の荷を持つと、総次郎が店に入るのを待っていた。 「総次郎殿、芝山藩の江戸屋敷、何処なのか教えてくださらぬか。」 栄太郎が、店に入ろうとする総次郎に尋ねた。総次郎は、身を後ろに回して栄太郎と向かい合った。 「土井様、お急ぎと思いますが、江戸屋敷に入られるのは、明日の昼過ぎがよろしいかと思います。今の時刻に入られても、屋敷の方でもご迷惑になるかと思います。お殿様にもお目にかかれないかとも思われます。」 総次郎は、頷きを見せながら栄太郎に言った。栄太郎は、頷きを返しながら 「総次郎殿の言われること、尤もであるが、今夜の宿も何処にあるのか知らぬ。世話をしてくれぬか。」 と尋ねるように言った。 「そんな心配ございません。私のところにお泊まりください。道中、大変お世話になったのでございます。お礼と言っても何ですが、是非泊まっていただきたい。明日、江戸屋敷までご案内いたします。」 そう言う総次郎の言葉に、栄太郎は甘えることにした。総次郎と一緒に土間で足を洗い、総次郎の案内するまま後を歩いた。総次郎は座敷に案内し、戸を開けて栄太郎を先に座敷に通した。栄太郎が入ると、座敷には膳が整えられ、家の者と思われる女が座ってお辞儀をしているのが見えた。 「素晴らしい書ですね。菱湖先生のものと拝見いたしました。」 栄太郎は、床の間の書を見て、総次郎に尋ねるように言った。 「さすがでございます。何と書いてあるのか分からぬのですが、見ていて清々しく思っております。」 栄太郎は、儒学者である菱湖にしては珍しく、杜甫の詩が記されていると思った。 「土井様、分かりやすく書いてもらえんでしょうか。」 栄太郎は、総次郎の求めに応じて、墨と筆、それに紙を用意させた。楷書体で一気に書くと、総次郎に渡した。総次郎は、家の他の者を呼んで丁寧に片付けさせた。総次郎は、栄太郎の書を見てただならぬ人物だと思った。 翌日の昼下がりになって、栄太郎は総次郎の案内で芝山藩の江戸屋敷へと着いた。門の前で、総次郎の見送りを受け、栄太郎は屋敷の中に入った。 「国表から参りました、土井栄太郎と申します。殿の命により、ただいま参上致しました。」 栄太郎が門番に告げると、門番は承知していたらしく、栄太郎を侍部屋に案内した。 「ここが土井様のお部屋となります。後ほど、江戸家老の江本様がお見えになる手はずとなっております。その指図に従うようにお願いします。」 門番は、そう言って姿を消した。宛がわれた侍部屋は、六畳二間だった。 暫く経って、恰幅の良い侍が声を掛けながら部屋に入ってきた。小脇に多少の書物を抱え、平伏している栄太郎の前に座った。 「この書物、これからの学びの参考とするようにと、殿が下された物でござる。」 そう言って、小脇に抱えていた書物を栄太郎の前に置いた。栄太郎は、上体を上げて相手と正対した。相手の目を見つめ、憶することなく言った。 「国表から参りました、土井栄太郎でございます。江戸家老様とお見受け致しました。よろしくお願い致します。」 そう言い終わると、再び平伏した。 「いかにも、江戸家老の江本甚三でござる。長旅、ご苦労でござった。面を上げてくだされ。」 江戸家老が申し向けると、栄太郎は上体を起こし、江戸家老を見つめた。江戸家老は微笑みを浮かべていた。 江戸家老江本は、二言三言、屋敷内でのしきたりを言った。その後に、栄太郎を連れて屋敷内を案内した。井戸端、水屋、厠、食事処などを歩き、執務部屋に入った。 「この奥は、御殿となっておる。殿の許しがなくば、立ち入ってはならぬ。外は藪椿の生垣で仕切られており、御殿の敷地には入ってはならぬ。」 江戸家老は、特に語気を強めて言った。その後に、殿へのお目通り方法について説明をした。一通り説明が終わると、江戸家老は殿のお呼びがあるまで待つように言って、執務室に栄太郎を残して姿を消した。三、四人の藩士が、机に向かって静かに筆を走らせていた。 暫く静かに待っていた栄太郎は、見覚えのある若い侍が執務部屋に入ってくるのに気付いた。その侍は、芝山の隣屋敷の堀田家の嫡男、新九郎に間違いないと思った。新九郎も、栄太郎に気付いたらしく、栄太郎の前に座った。 「栄太郎殿、久し振りじゃ。先日、父から便りがあって、栄太郎殿が、大学頭のところで学ぶと知らせがあった。貴殿であれば、遅れは取るまい。蘭学塾の師範もされている。」 新九郎は、頼もしそうに言った。それに応えるように、栄太郎は、何気なく言った。 「父殿は、真に元気でござった。お変わりもなく過ごされている。」 新九郎は、嬉しそうに 「そうでござろう。父禄之丞の便りは、いつも簡単でな。貴殿から、元気の便りを聞けて、何よりでござる。」 と答えた。栄太郎は、父源兵衛が行方不明となり、自分が足軽の身分となったことを、新九郎は知らないと思った。 新九郎は、江戸屋敷で勘定方の仕事をしており、偶数日には、藩主芝山大膳の若殿の芝山仙松君の剣術の相手をしているとのことだった。手加減をしながら教えるのも、中々難しいとも言っていた。そんなところに、江戸家老が姿を見せた。 「話の途中で済まないが、土井殿に、殿がお呼びだ。土井殿、拙者について参れ。」 江戸家老の言葉で、栄太郎は新九郎に一礼し、立ち上がると江戸家老の後ろに付いていった。 栄太郎は藩主が姿を見せると平伏し、型どおりの挨拶をした。藩主は、寛いだ風体をして、笑みを浮かべて栄太郎を見つめた。 「栄太郎、そちは重役、土井源兵衛の嫡男だな。林大学頭から、昌平黌へと栄太郎を推挙してきた。わざわざの推挙、藩にとって名誉なことだ。昌平黌で学問に専念し、藩の名誉を益々高めてくれ。よいな。」 そこで、栄太郎は平伏した。平伏したまま 「殿の、この上もないご配慮で、昌平黌で学問できますこと、恐悦至極にございます。また早速、殿から論語、孟子の書物を頂きありがたく存じます。殿の名誉にかけて、勉学に専念いたします。」 そう栄太郎は述べて、上体を上げた。 「よくぞ申した。父、土井源兵衛も優れた侍で、私が重役に据えた。」 藩主芝山大膳は、嬉しそうに何度も頷いていた。藩主は、江戸家老に、勉学に必要な書物、蝋燭、金銭等に配慮するように申し渡し、席を外した。 栄太郎は、昌平黌に通い出して三日程過ぎた夕刻、林大学頭に呼ばれた。暫く、山野蘭岳の様子を聞かれた後、論語とその解説を書かれた冊子を渡された。その書は、蘭学の元で教わった物と同じだった。大学頭は、素読するように言い、栄太郎は素読を始めた。 日は暮れ、蝋燭が灯された。既に里仁第四に入った頃、蝋燭は風に揺れ、間もなく消えた。栄太郎は、よどみもなく論語を読み続けた。郷黨第十まで進み、終わると大学頭は言った。 「次は、孟子「梁惠王章句」を諳んじてもらえぬか。」 栄太郎は、即座に 「畏まりました。」 と言うと、孟子「梁惠王章句」を諳んじ始めた。それが終わると、朱子語類についての問答が続いた。問答を打ち切ると、大学頭は蝋燭を灯した。時は、二時も過ぎていた。 「山野蘭岳殿が推挙するだけある。今の、貴殿の姿、少しも乱れておらぬ。暫くは、皆の者と学んでいただきたい。」 最後に大学頭が、そう言って終わった。栄太郎が江戸屋敷に戻ったのは、皆が寝静まった頃になった。 栄太郎は、学問に励んだ。別に学問自体を実現することではなかった。学問があっても、全ての人の心を支配することはできない。学問に示される道は、唯一つでないことからも分かる。受ける人は、その一つの考えに頼る訳ではない。時代が変わっても、不変なものがある。 一つは、生命である。自分の生命を守ろうとすることである。 次に、飢えないことである。 次に、他人に対する愛である。 そこには豊かさがある。それを実現するための方法というものもある。 澄み切った正しい思いが大切である。それを得るために、学問が必要な時もあるが、絶対的なものではない。学問と言われているものの中には、誤っているものがある。 人間社会に争いがある。それは昔からあることである。何故、争いがあるのだろうか。古くから、人間の欲から生ずると言われている。欲のために、人間の心に曇りが生じ、正しいことが見えなくなるのかも知れないと思っていた。 間もなく、栄太郎が優れた能力の持ち主で、俊才と言われていることを藩主大膳の耳に入った。塾生ではあるが、ゆくゆくは教授となる器だと聞いた。藩主は、早々に破格の評判を聞くのが心地よい思いだった。二年も経って、栄太郎が落ち着いたなら、嫡男仙松の指導をさせようと思った。そんなことを思い、藩主芝山大膳は六月の下旬になると、国表の芝山藩に帰った。 江戸屋敷の侍部屋に住み着き、栄太郎は日に日に落ち着いた生活となった。栄太郎は、昌平黌に通って二か月程経った頃、江戸家老江本甚三からの勧めがあり、剣術を習うために町道場へ行った。芝山藩江戸屋敷から近いところを選び、道場を訪れた。小野派一刀流の流れを汲む中西忠蔵が開いている道場だった。 道場は大勢の者の声が飛び交い、稽古をしていた。末席の者の案内で師範代と面接をし、末席に座ることを言われた。稽古のための道具をあてがわれ、代金と月謝を払った。 その日は、稽古らしいことはせず、座ったまま道場内の稽古の様子を見ていた。夕方になって、稽古が終わった。終わり近くになって道場主が、高座に姿を見せ、間もなく退席した。末席の者五人と共に、道場の拭き掃除をして、江戸屋敷に戻った。 栄太郎は、稽古が型に沿ったもので、余り実践向きでないことを感じた。 「身体を動かし、鈍らないようにするだけで良いではないか。」 と思った。目立つことを避け、機敏に動くことを心掛けた。特に、師範代や道場主の動き、姿勢をよく見ていた。 ある日、道場主は、高座から稽古を見ていた。途中、誰かが竹刀を床に落とした。転がる竹刀に、側で稽古をしていた者が足を掬われると思った。転げる竹刀に、一瞬乗るように歩を進め、何事もなく稽古を続ける栄太郎に目を見張った。 足の動きは、蛇のようである。適度の間合い、素早い打ち込み、相手の打ち込みに対しては相手の力を外している。相手の動きに伴い、相手の正面から少し外し、自分は常に相手の正面に位置している。 「流派など、どうでもよいが、ただ者ではない。」 道場主は、そう思うと板場に降りて、稽古を見て回る振りをした。三名程に稽古を付けた後、栄太郎と相対した。気負い、気迫はなく、ただ静かな構えである。左右面の打ち返しは早い。傍から見ているのとは、格段の違いがある。右上段から振り下ろすと、既に剣先を外され、正確に打ち込める態勢にあった。上段に対する構え、八相に対する構え、それは備わっている。 道場主は、いきなり正面から打ち込んだ。そこには、栄太郎の姿はなかった。道場主が左を向くと、無構えの栄太郎の姿があった。 「いや、いきなり、済まぬことをした。」 栄太郎は、竹刀を開き、道場主に一礼した。 稽古が終わり、末席の者らで道場の掃除も終わった。栄太郎は、道場主に呼ばれ、居室に招かれた。 「芝山藩の土井殿と聞いておりますが。」 「いかにも、栄太郎と申します。」 「土井源兵衛殿のご子息で御座らぬか。」 栄太郎は、驚いて道場主を見つめた。 「やはりそうですか。私は、源兵衛殿と兄弟弟子でした。でも、そなたの剣筋は、小野の剣とは、似ても似つかないですな。」 栄太郎は、基本的な手ほどきは父から受けたと言った。 「剣は、自らが考え、身体を鍛え、あらゆることに応ずることが大切、流儀など拘る必要はない。」 と父に教えられ、山の中に入って、樹木や獣と戯れてきたと言った。 「当道場では、土井殿に教えることは御座らん。他の道場に行っても、同じことで御座ろう。」 栄太郎は、答えた。 「身体を動かし、汗を流したいのです。以後も、よろしくお願いします。」 「では、客分として扱いますが、如何でしょうか。」 それは、勝手気儘にしてよいとのことだった。栄太郎は、これまで通りに稽古を続けることにした。時には、稽古が終わり、道場主と居室で共に過ごすことがあった。 栄太郎は、初めての江戸の秋を迎え、江戸の芝山藩の下屋敷にも、涼しい風が渡っていた。栄太郎は、上屋敷から半刻程歩いて下屋敷へ通った。下屋敷には、庭園部分と蔵部分があった。蔵屋敷には、空き地があり畑を作っていた。栄太郎は、甲州屋に頼んで、薩摩芋の苗を手に入れ、畑に植えた。十程の畝を作り、畑の土質を変えたり、肥料を変えたりして栽培していた。 藩主芝山大膳は、国表の芝山藩に帰っていた。絹は病も癒え、綾姫として本丸館に入っていた。大膳は、綾姫の元気な姿を見て、大いに喜んだ。侍女として使えていた志乃が寄り添い、養父母の広野夫婦も身辺にいた。 綾姫は、側室藤の方の子で側室は産後の肥立ちが悪く亡くなり、その後大膳は正室を迎えた。綾姫が四歳の時に、正室は嫡男仙松君を生んだ。十年程は、正室の元で綾姫と仙松君は育てられていた。側室藤の方の父、早野草平が酒の上で町人を手にかけ、所払いとなり行方が分からなくなった。そのまま綾姫を江戸に置くこともできず、ほとぼりが冷めるまで養女として家臣広野勘兵衛に預けられた。広野勘兵衛は江戸屋敷から芝山に移り、身分を変えて足軽となって足軽長屋に住んでいた。 綾姫こと絹は、冬の雪の中で体が冷え切り、重病に陥った。広野勘兵衛は、絹を典医の屋敷に運び入れ、典医に手当をさせた。広野勘兵衛から知らせを受けた大膳は、養女として元の名前、綾姫として芝山の籍に入れた。更に十分に静養した後に、本丸御殿に住まわせるように下知したのだった。長い間見ることができなかった綾姫が、母藤の方に似て美しく成長した姿を見て喜んだ。 秋になると、大膳は、土井源兵衛を呼び寄せた。大膳は、綾姫を脇に座らせ源兵衛に言った。 「綾姫の相談役になってもらいたい。」 と申し渡した。 「土井源兵衛、しかと承知賜りました。」 源兵衛は、大膳に深いお辞儀を済ませると、綾姫の方に向きを変え、両手を合わせて前に置き、頭を伏せたまま言った。 「綾姫様、よろしくお願いつかまつります。何なりとお申し付けください。」 源兵衛が顔を上げると、綾姫は軽く微笑み、立ち上がると一段高い上座から下り、源兵衛の横手で源兵衛に向かって座り直した。 「土井様、この綾は、ふつつか者でございますが、よろしくお願い致します。」 綾姫は、源兵衛に言うと、綺麗にお辞儀をした。源兵衛は、少し慌てて綾姫と向き合い、一礼をした後言った。 「綾姫様、家臣に頭など下げてはなりせぬ。それに、それがしを源兵衛と呼びなされ。」 綾姫は、源兵衛の言葉を聞き、首を横に振った。 「いいえ、土井様は、私の相談をいただく、大切なお方です。綾は、土井様とお呼び致します。」 それを聞いていた大膳は、二人に向かって言った。 「源兵衛、綾姫の言うことも、尤もなことである。姫の言う通りにするが良い。」 そして大膳は、思い付いたように、源兵衛に言った。 「そこ元の倅、栄太郎は、真に大した者である。江戸屋敷に入って、時も少なかったが、昌平黌では、既に俊才の呼び声も高いと聞いておる。」 源兵衛は、頭を伏せて聞いた。 「殿のご配慮のお陰でございます。殿の役に立つように、私からも書状を送りたいと思います。」 そう源兵衛は申し立てた。綾姫は、目を輝かせて大膳を見つめた。そして俯くと、嬉しそうに微笑みを浮かべた。足軽長屋を出てから、栄太郎の消息を聞くのは、初めてだった。それも良い話だったことから、嬉しさが心に広がったのだった。ただ、栄太郎のことは、自らの口で言うことができなかった。栄太郎が、足軽長屋にいた事実を、大膳に言ってはならないと思った。 大膳から、相談役を源兵衛と言われてから以後、綾姫は、何かに付け源兵衛に対し 「土井様」 と丁寧に話しかけた。他の者とは、明らかに態度は異なっていた。 芝山では、大膳は穏やかな日を過ごしていた。綾姫が、身の回りの世話をすることに、喜びを感じていた。秋の紅葉の頃、綾姫は浄香寺の紅葉を見に行きたいと言った。 「浄香寺の紅葉は見ごたえがございます。些か遠くにございます。」 源兵衛は、大膳に向かって言った。綾姫は 「土井様が言われた通り、遠くでありますが、以前から評判を聞いております。馬で行けば、時もかからぬと思います。」 と言った。大膳は、綾姫の顔を覗いた。 「そうよの。姫は、幼い頃から馬が好きじゃった。久し振りに、馬で出かけてみようか。」 と大膳は笑って見せた。 綾姫は、髪飾りを取り除き、髪を後ろに束ね前髪を垂れた。袴姿になると、美しい若い武士姿だった。最後に姿を見せた綾姫に、大膳も源兵衛、二人の供の者も目を見張った。 大膳一行は、脇道から浄香寺住職の住居脇、馬止めで馬から下りた。供をそこに残し、大膳等三人は住職の住居に入った。住職は、藩主の突然の訪問に驚いた。 「春草公様のお招きでございますか。」 住職は、大膳に尋ねた。大膳は不思議そうな顔をして 「春草公が来ているのか。」 と住職に尋ねた。住職は取り繕う振りもなく、落ち着いて応えた。 「一時も前から、大勢を引き連れ宴を張っておられます。聞こえますでしょう。鉦や鼓、三線の音、私には煩く思われますが。」 住職の言葉を聞いて、大膳は俯いて暫く黙っていた。顔を上げると、大膳は綾姫を見た。綾姫は、ゆっくりと頷きを見せた。 「父に見つからぬように、宴の様子を見たいのだが、案内してくれぬか。」 三人は、住職の案内で裏山に入り、暫く宴の様子を見ていた。 「榊原、それに堀田の姿が見える。あの若いのは誰だ。」 大膳は、源兵衛に尋ねた。 「勘定方におります、犬井虎之助と申す者でございます。」 「そうか。榊原が側にいることは知っていたが、堀田がいたとはな。」 呟くように大膳は言った。宴のことは、供の者、あるいは城中の者には言わないように、綾姫と源兵衛に言った。 年が変わり六月となり、江戸詰のため大膳は江戸に向かう時となった。浄香寺で見た、父春草公の馬鹿遊びが、脳裏から離れることがなかった。江戸への出発も迫った日、綾姫は大膳に言った。 「おなごの分際で、政に口を挟むようでありますが、申し上げたいことがございます。」 「ほほう、姫が政のことでのう。聴きたいものじゃ。」 「八幡あたりの荒れ地のことでございます。広い土地でございますが、良く肥えているようです。用水を引くことになっておりますが、普請が止まっております。」 「その話、誰に聞いたのじゃ。」 「長屋に住んでいた時、八幡あたりの百姓から耳にしました。」 側には、土井源兵衛が控えていた。 「源兵衛、普請が止まっているとは真か。」 その問に、源兵衛は頷いた。 「真にございます。名主からも要請があり、普請を進めなければならないと思います。」 普請が止まっているのは、費用が不足あるいは無いのかと大膳は思った。普請については、源兵衛が口を挟む立場でないことも思った。綾姫は、 「用水の普請について綾は、調べた上で再開させたいのです。」 と言った。大膳は少し考えた後に、 「それは面倒なことじゃ。まあ、それについては源兵衛とよく相談したが良かろう。姫に任せようが、無理をするな。」 綾姫を諭すように言った。姫が承知したのを見た後、大膳は源兵衛に向かって言った。 「源兵衛、姫に力を貸してくれ。良いな。」 源兵衛は、深々と頭を下げた。二人は、殿の前から引き下がった。 大膳は、芝山藩を出て、多少の行列を組み江戸に向かって出立した。幕府に挨拶を済ませ、江戸藩邸に入った。御殿に入り、江戸家老江本から、留守中の出来事を聞いた。別に変わったことはなかった。脳裏には、父春草の遊ぶ姿が、忌まわしく回転していた。江戸に戻り嫡男の仙松を見ても、相変わらず覇気を感ずることができなかった。そんな中、綾姫の姿を逞しく思った。源兵衛は、良く助けてくれるだろうと思った。 大膳が出立して間もなく、梅雨も明けたのであろう。綾姫は、源兵衛の前に座った。 「土井様、春野の春草様のところへ行きたいと思います。乱行を改めて頂き、用水の資金を得たいのです。」 綾姫の真剣な眼差しを見て、源兵衛は頷いた。二人は馬を駆り、春野へと向かった。百姓たちが、田で雑草を抜いている時だった。 春野の屋敷に着いたのは、昼過ぎだった。玄関で源兵衛が声を上げると、姿を見せたのは町の芸妓風の女だった。少し酒に酔っている様子で、目はうつろだった。 「誰だね。見かけない人だね。」 右手に持った扇子を口元に当てらいながら言った。源兵衛は女に向かって言った。 「こちらは綾姫様じゃ。春草公にお目通り願いたい。取り次ぎを願いたい。」 女は、一瞬目を光らせて綾姫を見たが、目を細めて嫋やかに笑った。 「そんな人、知りませぬ。お帰り遊ばせ。おほほほ……。」 女は、そう言いながら首を回して、肩を窄めた。その時、身形のしっかりした女が姿を見せた。 「お静様」 芸妓風の女は、そう呼んで一礼をして退いた。源兵衛は、静という女と会うのは初めてだった。昔は城中で腰元をしており、今では春草公の身の回りの世話をしている女であることを伝え聞いていた。 「お見受けしたところ、城中から出向いてこられましたね。私は春草様に仕える、静という者です。」 静の言葉を聞いて、綾姫と源兵衛は丁寧に一礼をした。 「ここにおられる人は、春草公の孫娘の綾姫様でございます。拙者は付き添いで参った、勘定方筆頭、土井源兵衛と申します。今日は、春草公に、折り入ってお願いがあり、参上いたしました。どうか、お取り次ぎを願いたい。」 静は、二人の姿を見つめた。 「どうぞ、お上がりください。」 二人が中に入ると、奧の広間からであろう、賑やかな声や囃子の音がしている。静は、広間と反対の廊下へ案内し、書院の間へと連れて行った。 「お聞き及びのことでしょう。今日も、昼過ぎから馬鹿遊びをしております。心底、酔うこともできない春草様、馬鹿遊びも寂しいからなのでしょう。」 お茶を出しながら、静は言った。お茶を出し終わると、立ち上がり 「暫く待っていてください。春草様をお連れいたしますから。」 と言って、部屋から出ていった。綾姫と源兵衛は顔を見合わせた。開け放たれた縁から、手入れの行き届いた庭が見えた。遅咲きの花を抱く緑葉の躑躅、それに菖蒲の花が見える。間もなくすると、春草公と静が部屋に入ってきた。床の間を背にして、春草公は胡座をかいた。静は廊下近くに、侍るように座った。 「綾か、大きくなった。それに母に似て、美しい。」 穏やかな声で、春草公は綾姫に声をかけた。 「そこもとは、土井殿とな。大膳が、勘定方として召し抱えた者と聞いておる。剣の達人と言うことだな。」 春草公は、源兵衛に向かって言った。源兵衛は、春草が酔い痴れていないのを確認し、丁寧に一礼をした。 「私に願いごとと言うが、綾、どのようなことか。まさか、私の遊びを止めろ、と言うことではあるまいな。」 春草公は、綾姫を見据えた。綾姫も、凛とした顔を春草公に向けた。 「春草様、綾がお願い申し上げたいのは、まさに遊びのことでございます。」 春草公は、綾姫の言葉に顔色を変えることはなかった。却って、にこやかな目を投げかけた。 「綾、春草なんて言わないでくれ。お前は孫だ。爺と呼んでくれ。」 綾姫は、春草公が昔と変わらず、自分に優しい人だと思った。 「お爺様、八幡の百姓が困っております。用水を造るのにも、お金がないのです。」 春草は、綾姫の言い分を頷いて聞いていた。そして源兵衛に尋ねた。 「藩に、工事をする程の金がないのか。私の遊びが、どれ程なのか。」 源兵衛は、春草公を直視した。 「藩の金は、底をついております。伊勢屋を通して、春草公への金と称する額は、藩の蔵にも影響を与えるほど、莫大な額となっております。」 春草公は、源兵衛の言葉を聞いて、少し眉間に皺を寄せた。 「静、大広間の客人に帰って貰いなさい。私が、具合が悪くなったと言ってな。」 春草公は、静に言った。静は、一礼をすると部屋から出ていった。 「綾、分かった。どうも、私には悪い虫がついているようじゃ。もうこの年じゃ、遊びに疲れた。飽きがきた。」 春草公は、綾姫に言った。 「遊びに遊んできた身、春野に隠居してからは、遊びにいかほどかかるか、承知していたつもりだ。後始末のこと、よろしく頼む。これからの金のことは、綾を通して行うことにするから。」 そう言って、春草公は綾姫に笑顔を見せた。微かに聞こえていた囃子の音は止み、人が帰っていく騒々しい音も消えた。そして静が部屋に戻ってきた。春草公は、静に向かって言った。 「静、わしは、もう馬鹿遊びは止めた。これからは、裏の空き地で畑でも耕そうと思っている。金のことは、綾姫に頼んだ。もう煩い者どもを、屋敷に入れないようにしようと思っている。」 頷きながら春草の言葉を聞いていた静は、 「それが、ようございます。近くの者、私もお手伝いいたします。」 と返答した。静は、心の底から嬉しそうな様子を見せていた。 それ以後、遊興の話は止め、城の様子、春草が思い起こす者についての最近の話など、雑談をした後に、綾姫と源兵衛は春草公の屋敷を後にした。 初夏の雨の降る夕方のことだった。栄太郎は、昌平黌からの帰り道、牧野藩の藩士佐々木勘三郎と共に歩いた。白い土塀が両側に続く、大名の屋敷が並ぶ通りを歩いていた。袴を腰に掛けて裾を上げ唐傘を差して語り合っていた。牧野藩邸近くになって、雨のために煙る薄暗い通りの先を栄太郎は見つめた。大名の籠が道の中央に置き去りとなり、周辺で侍達が争っている。 「勘三郎殿、前方で何か争いが起きている。」 栄太郎の言葉で、勘三郎は訝しげに見つめると、傘を投げ出した。 「あの籠は、紛れもなく牧野藩の殿の籠だ。一大事だ。」 そう言い残して、勘三郎は駆けていった。それを追うように、栄太郎も駆けだした。近くに寄っていくと、牧野藩主の籠が、十数人の浪人風情の者に襲われている。覆面姿の徒党は籠を取り巻いている。徒党の背後から、栄太郎と勘三郎の二人は切り崩し、籠の側まで行った。藩主は籠の外に出て、刀を抜いて身構えていた。勘三郎は、藩主牧野豊前の前に立ちはだかり、徒党と対峙した。栄太郎は、刀を抜いて小康状態の中で、徒党の動きを見つめた。 「老中牧野豊前と知っての狼藉か。」 徒党からの返答はなかった。栄太郎は、徒党の後ろにいる首領らしい者の動きを見つめた。首領らしい者の合図で、再び斬り合いとなった。刀がかち合う音、地面に倒れる者、傷口を抱える者の姿が見えた。首領らしい者は、腕の立つ者らしく、牧野藩士を切り倒しながら籠に近付いてきた。勘三郎は、進んでくる首領らしい者と対峙し、上段から袈裟懸けに切り下ろした。無残にも、勘三郎の剣は横に払い除けられ、次の瞬間右腕を切られてしまった。栄太郎は、牧野豊前の服を掴み、庇うように自分の背後に置いた。 「柳生の剣を使う者が、闇討ちとは、卑怯でござろう。」 栄太郎は、敢然と首領と対峙した。乱れ八相に構え、静かに間合いを詰めていく栄太郎だった。首領が切り込むその瞬間、栄太郎の剣は相手の剣を払うと、返す剣で両腕、更に刀を返して右太腿を切った。首領は、刀を落とすと、両腕を抱えるように前屈みとなり、いざり同様に座り込んだ。栄太郎は、すぐさま他の徒党に目を向けた。牧野豊前の近くに身構える徒党を三、四人切り倒すと、徒党達は散り散りとなって逃げていった。 栄太郎は、刀を収めると佐々木勘三郎を肩にし、牧野豊前に寄り添って歩いた。藩邸に入ると、直ぐに門は閉じられた。捕らえた徒党は、首領を含め八人程だった。駆けつけた町奉行に引き渡し、それを見届けた栄太郎は牧野藩邸を後にした。供の者を付けようとする牧野藩の好意を断り、雨の中をずぶ濡れになって芝山藩邸に辿り着いた。 脇門の戸を開けてもらい、中に入ると門番を務めていた用人が、栄太郎の姿を見て驚いた。 「土井殿、如何為された。尋常ではない姿だ。血の跡も見受けられる。」 用人の問い掛けに、栄太郎は用人の肩に手をかけた。 「何でもない。小競り合いがあっただけだ。身を整えてから、殿に申し上げる。」 そう言って、栄太郎は水屋の方へと歩いて行った。井戸で水を汲み上げ、幾度も服の上から浴びた。服を脱ぎ、今度は肌身を洗い落とした。一先ず服を井戸の脇に置いて体を拭き、宛がわれた自分の侍部屋に入り、乾いた服に着替えていた。 「栄太郎殿、何があったか分からぬが、殿がお呼びだ。」 廊下から、堀田新九郎の声が聞こえた。服を整えると、栄太郎は新九郎と共に芝山大膳の前に参じた。 「尋常でない姿で立ち戻ったと用人から知らせがあった。何があったのだ。話してくれるな。」 大膳の言葉に、平伏していた栄太郎は顔を上げた。 「老中牧野様の藩邸近くで、牧野藩士佐々木勘三郎殿と歩いている時、牧野様の籠を襲う覆面姿の徒党に遭遇いたしました。牧野様に助勢いたし、我が方は数名の曲者を捕らえましたが、後は逃げ参じました。一旦、牧野様の藩邸に入り、町奉行が来るのを見届け立ち帰った次第です。牧野様の身は、怪我はなかったように見受けられました。帰り際、供を付けると言っておりましたが、牧野藩士には怪我人もあり、藩の警護もあることから断り、立ち返って参りました。」 大膳は、少し驚いた様子を示し、暫く考えていた。 「そうか老中殿は、ご無事だったか。老中殿は、厄介なことを抱えておられる。それらの一派なのだろう。首領はどうした。」 大膳は、興奮を押し隠し、更に栄太郎に尋ねた。 「その場にいた首領らしき者は、深手を負っているようですが捕らえているようです。」 落ち着いて受け答えした栄太郎を見つめ、大膳は頼もしくなり、微笑んだ。 「栄太郎、よく尽くしてくれた。いずれ老中から話があるだろう。」 そう言うと、栄太郎と新九郎を下げさせた。 翌日早く、芝山大膳の元に牧野豊前からの使いが来た。それは栄太郎の助勢に対する感謝の書状だった。そして日を改めて、牧野藩邸で宴を儲けたいとのことだった。七日も過ぎると、招かれて芝山大膳と栄太郎は、牧野藩邸を訪れた。その席には、佐々木勘三郎も同席していた。 「この度は、そこもとの土井殿の助勢、真に感謝申し上げる。芝山殿も、真に優れた武士を抱え、そこもとを羨ましく思っている。土井殿がおらねば、私とて落命の憂き目を見たであろう。先ずは、この通り感謝を申し上げる。」 牧野豊前と佐々木勘三郎は、座布団を外すと深々と大膳と栄太郎にお辞儀をした。大膳は、大袈裟とも思える挨拶に面食らった。 「まま、手を上げなされ。ゆっくりと話でもいたしましょう。」 芝山大膳は、そう言った。栄太郎が話さなかったことがあるとも思った。座り直した牧野豊前は、直に大膳、そして栄太郎の杯に銚子を傾け酒を注いだ。 「事の詳細は、土井殿から聞いておられるかも知れぬが、大膳殿、土井殿は私の前に立ち、相手の首領と渡り合い切り伏せたのです。奉行所の調べでは、その者は柳生流の使い手、柳生永良という柳生一族でござった。過ちが多く、柳生から離縁された者だった。ここにおる佐々木勘三郎も長沼道場で鍛えた者であるが、一太刀で切られてしまった。」 牧野豊前は、不思議そうに聞いている芝山大膳の顔を見た。大方、その辺の話は聞いていないものと思った。藩主に対して、自らを褒めるような話は藩士としてしないのは当然と思った。 「芝山殿、その辺の話を土井殿が語らないのは当然だと思います。牧野藩の不甲斐なさが知れるところですから。私は敢えて話したい。その時、土井殿は私を背に回されて庇い、その者と刃を交え、返す刀で切り伏せたのです。その折、柳生の者が、何故狼藉を働くと、土井殿が申された。その時、土井殿が尋常ならぬ侍と感じた。昌平黌では学問に優れていると、ここにおる佐々木からも聞き及んでいる。真に文武に秀でた者を育てた芝山殿には、平伏せずにおられぬのだ。」 大膳は、牧野豊前の話を頷きながら聞いた。そして栄太郎に目をやると、拳を膝の上に載せ、頭を下げて畏まっている姿だった。 「大事があれば、侍として当然のことよ。のう、土井栄太郎とやら。」 大膳は、栄太郎に声を掛けた。 「いかにも、殿の仰せの通りです。」 一層頭を低くして、栄太郎は答えた。芝山大膳は、栄太郎のその仕草を見て、賢い者と思い何回も頷いた。 「一大事の事の顛末、お伺いし、配下の者が役に立ったのかと思うと安堵した。血生臭い話は、お終いにしようではありませんか。事の顛末、お国の話でも如何でござる。」 芝山大膳は、そう言って牧野豊前と佐々木勘三郎に酌をした。 芝山大膳は、藩邸に帰ると部屋に栄太郎を招いた。栄太郎は、藩主芝山大膳の前で平伏した。 「栄太郎、何故、そんなに畏まっているのだ。」 栄太郎は、黙って平伏していた。大膳は、栄太郎が言葉を待っているのを察していた。 「分かった。老中殿の命を救ったことを、何故、話してくれなかったのだ。」 大膳は、侍としての考えなのだろうと思い、問いただした。 「牧野様が申し上げておりましたように、牧野藩に汚点を残すのではないかと思ったことでございます。それに、もう一つ理由がございます。それは、堀田新九郎が同席していたからでございます。」 大膳は、栄太郎のその言葉を聞いて、いたく感心した。 「分かった。栄太郎、お主の心遣い、感服したぞ。もう、些細なことは言うまいぞ。」 大膳は、信頼を置いていた新九郎ではあるが、事の重大さを考慮せず、新九郎を同席させたままにしたことを顧みたのだった。新九郎が知り、それを他言したならば、話は歪曲されて広がっていったと思った。そこまで、配意して立ち振る舞った栄太郎を心から信頼を寄せた。 秋になり、夕暮れのことだった。芝山下屋敷の、奥庭の紅葉が美しいことは知られていた。藩主の催しで、越後の隣接する藩主を招き、例年紅葉狩りが行われていた。その年は雨続きで、不作の年だった。 「例年のことだ。多少の出費も仕方あるまい。」 部屋に栄太郎を呼び寄せ、大膳は覇気もなく言った。 「国を栄えさせるには、行事を行うことは必要と思います。たかが一年の不作で、藩が窮乏することを考えなければならないと思います。」 「何も、贅沢三昧している訳ではない。奥にも贅沢は禁じている。禄高に見合った米も取れぬのか。」 「国表にいた時、特に足軽にとっては、いつも食うに困っている状態でした。原因が江戸でなければ、国表にあるのではないのですか。」 「国表からは、毎年勘定書が送られてくる。新九郎等が検査しているから、間違いがないだろう。」 「殿、一度くらいは、殿自身も目を通したら如何でしょうか。配下は配下の目、藩主は藩主としての目があるのではないでしょうか。」 二日経って、大膳は栄太郎を呼び寄せ、少し怪訝そうな顔をして尋ねた。 「栄太郎、不作の年と豊作の年の勘定書を見た。江戸では、その年に応じて出入りがあるが、国表では伊勢屋への出費が変わらない。それも大金に上がっている。我が藩には、一つの商人に、それ程の取引が必要なのだろうか。」 「殿、それ程の取引ができる人が、殿を置いてございますか。よくよくお考えいただきたいと思います。殿が思われる人、一人一人を数えるのです。」 「考えるまでもないだろう。できるのは、我が父、春草その人である。我が父は、藩主の頃思いのまま過ごし、藩を食い潰していった。それを見かねた、家老や重臣共が、隠居させることを思い立ち、私を藩主として父を隠居させた。」 「それが真であれば、如何されます。家臣に責めを負わせるのは、些か筋が違うと存じますが。」 「いや、家臣にも責めがある。私に事の真を知らせないことだ。」 「殿は、毎年勘定書を見ましたか。勘定書は、藩存立の基礎が書いてある物です。この度、殿が一見して不都合が分かるものとなっております。勘定書を書いた家臣が、どのような思いで書かれたのか思いましたでしょうか。いずれは、殿が見て分かってくれると思って書いているものと思います。家臣が、如何にして春草殿と対峙できるでしょうか。」 「栄太郎の言いたいこと、私が真を知った今、父君を如何にするかと言うことなのだろう。父を蟄居、あるいは幽閉する他ないだろう。父一人の我が儘のため、家臣が苦しみ、藩民が苦しむことがあってよかろうか。」 そう言うと大膳は、肘を突いた左手の掌に顔を伏せ、目を閉じた。栄太郎は静かに見つめていた。 翌日になって、芝山大膳は、江戸家老江本甚三を国表に出向かせ、状況を調査させた。江戸家老が、藩の財政を国元に赴き調べた結果を、大膳に報告した。 「春草公は、梅雨も明けた頃、綾姫様の言葉で遊びを止められ、今では畑を耕して楽しんでおられるとのこと。ただ、春草公への出費は少し減ったものの、依然として伊勢屋への支払いは続いているとのことでございます。春草公へのお金は、綾姫様が頃合いをみて持参しているとのこと。」 「土井源兵衛殿は、金の流れを黙ってみているとのことです。多くの憑証を集めている様子です。それによりますと、伊勢屋と榊原殿が山分けをしているとのことです。土井殿は、犬井を問い詰め、子細を知ったようです。犬井は、出奔して行方が分からなくなったとのことです。」 大膳は、報告を受けて、藩に戻った時の対応を考えた。 「できるなら、誰も手にかけたくない。伊勢屋、榊原を所払いにしょう。父君にも責がある。いかがしたら良いのか。」 と暗い気持ちとなった。とにかく芝山大膳は、国元での異変を知った。新九郎にも疑心を抱いた。異変を幕府に知られたくなかった。その元凶は、父春草にあると思った。自らの手で解決しなければ、道はないと思った。国表に帰る六月を待ちわびた。六月に入り、国表に帰る時となった。栄太郎にも相談し、新九郎を伴って国表に帰ることにした。 栄太郎は、国表の伊勢屋の始末、その後に核となる商人を根付かせなければならないと思った。江戸の大商人、上州屋に相談を持ちかけた。 「土井様の頼みであれば、どのようなことでも承らせていただきます。お金を用意するならば、何万両でも結構でございます。」 「今は、金の無心に来たのではない。ある不都合があって、国表の伊勢屋を所払いとするつもりなのだ。国表では、伊勢屋は大店でな、その後を賄う店を構えてもらえないか。できるかどうか、見てきてもらいたいのだ。」 上州屋の主人、大久保総次郎は、快く引き受けた。栄太郎は、事の首尾を大膳に話をした。 大膳は、嫡男仙松君の学問と武術の指南を栄太郎に託し、上州屋を伴って国表へと向かった。藩主の嫡男、仙松君は聡明な子だった。栄太郎の指南が、新九郎と違い筋の通ったものであることを間もなく知った。姿勢や行動、才能や判断に優れていることを知った。身を正し、人を敬う態度を身に付けようと努力しているのが明らかだった。文を書き、文字を読み、武芸にも向き合う姿を、奥方は目を細めてみていた。 「やはり、栄太郎は、ただ者ではない。若いのに、尊く優れている。」 我が子が、見違えるように変わっていくのを見て、栄太郎に深く感謝していた。大らかに、時には激しく、仙松君の姿を見つめながら、栄太郎は指導を続けていた。藩主としての素養にも、配意しながらの指導だった。 大膳が藩に戻った時、最初に耳にしたのは、春草公が病床に伏しているとのことだった。時々、綾姫が見舞に訪れているとのことだった。 「典医の話では、余命幾ばくもないとのことでございます。」 大膳は、春草公を見舞った。そして春草公の 「済まぬことをした。余りにも、迷惑をかけすぎた。」 との言葉、涙を流している顔を見ると、大膳も目を伏した。 春草公は死んだ。大膳は、菩提寺に手厚く葬った。静には、春野の館を与えると申し向けたが、 「私は尼になります。私はこれからの生涯、春草様を供養いたします。」 と言って断った。大膳は、静に閑静な庵を与えた。時々、綾姫が静のところへ行くのを聞いて、嬉しく思っていた。伊勢屋と榊原の処分は、春草公の葬儀が終わって暫くした後に断行した。源兵衛が蓄えた証拠に基づき、蔵や小屋、別屋などを捜して、多くの金を没収した。それが終わると、所払いとした。 城代家老南郷宗親は、一連の始末が終わると藩主大膳に申し立てた。 「この度の件、この城代の不行き届き、存分に処置を願いたい。」 大膳は、城代が平伏したまま、頭を上げようとしなかった。余程の決意をしているものと思った。 「南郷、頭を上げよ。申し開きを聞こう。」 城代は、頭を上げると、はっきりとした言葉で言った。 「土井家に対する取扱には、済まぬ限りのことをいたしました。」 「何をしたというのか。話は聞いておらぬ。」 城代は、単刀直入に言った。 「三年前のことです。殿の裁可を仰がず、公金着服の罪で、土井源兵衛殿を入牢させ、子息の栄太郎殿を足軽の身分にいたしました。十分な吟味もせず、処置をいたしました。」 そこまで言うと城代は、再び平服をした。 「何ということをしたのだ。子細を述べよ。」 城代は、顔を伏せたまま、ことの成り行きを述べた。大膳は、目を閉じ話を聞いていた。城代の話を聞き終わると、大膳は城代に言った。 「土井の親子は、疑いが晴れて元に戻った時、どのように申した。」 城代は、謝罪に行き、却って慰められ、許されたことを述べた。 「南郷、お主も苦労したようだな。相手が土井の親子で良かった。藩を思っての所行だった。その件については許そう。お主、勝手な真似をするなよ。」 大膳は、そう言い渡すと席を立った。城代は、落涙が激しく、暫く立ち上がることができなかった。 平穏の内に年が明け、桜の春も過ぎて、大膳が江戸に行く日も近くなった。大膳は、広野勘兵衛と綾姫を呼んだ。そして二人に、声をかけた。 「勘兵衛、お主には、綾のことで面倒をかけた。江戸藩邸に戻らぬか。それに綾、お前も江戸に戻って暮らさぬか。」 広野勘兵衛は、 「殿の仰せ、有り難く、お受けいたします。」 と答えた。大膳は、綾姫を見た。綾姫は、目を輝かせていた。 「父上、綾は、是非、江戸へ行きたいと思っておりました。御台所様、仙松君とお会いしたいと思っておりました。」 綾姫が、そう答えると、大膳は 「綾も、そろそろ嫁に行かなくてはならぬな。ま、心配することはない。」 と言った。綾姫は、驚いて顔を伏せた。大膳は、綾姫が、恥ずかしさのため顔を伏せたものと思った。 「殿、長年、綾姫様の父代わりとして、綾姫様に仕えて参りました。それ故、申し上げたい議がございます。」 広野勘兵衛は、平伏して言った。何事かと思った大膳は、 「勘兵衛、申してみよ。」 勘兵衛は、上体を起こし、大膳を見つめて言った。 「綾姫様には、思いを寄せた者が、家中におります。」 大膳は、綾姫を見たが、俯いたままだった。 「何と、それは、一体誰なのだ。」 勘兵衛は、憶することなく答えた。 「土井源兵衛殿の一子、栄太郎殿でございます。江戸に赴かわれるのは、栄太郎殿に、お会いしたいこともございますのではないかと思います。」 勘兵衛の言葉を聞いた大膳は、俯いている綾姫に向かって尋ねた。 「綾、それは真のことか。」 綾姫は、顔を上げて大膳を見据え、両手をついて深々と頭を下げて言った。 「父上、真のことでございます。私は、栄太郎様と連れ添いたいと思っております。江戸に行って、確かめたいのです。どうか、綾の我が儘、お聞き届けください。」 綾姫が顔を上げると、大膳が頷いているのが見えた。不機嫌な様子は見られず、却って、微笑みが見えた。 大膳は、とにかく綾姫を江戸屋敷に連れて行かなくてはならないと思った。栄太郎と娶せることに異論はなかった。ただ格式をどのようにするのか悩んだ。 「土井家を城代にすれば良いのではないか。」 そう思うと、大膳の心の蟠りが消えた。六月になると、藩主芝山大膳は綾姫を連れて江戸屋敷に戻った。 それは藩主芝山大膳が、国表で荒仕事を終え、幕府に挨拶を済ませ江戸屋敷に戻った時だった。駕籠が玄関口に横付けとなり、大膳が駕籠から降りた。玄関口には、奥方の徳子の方、仙松君が正面で迎えた。周囲には、江戸家老を始め家中の侍が頭を下げて迎えた。 「奥、仙松、元気で何より。綾姫を連れてきた。」 大膳は、正面に声を掛けた。そして家中の者を見渡した。 「皆の者も、息災で何よりだ。」 家中の者に声を掛けると、正面に向かって屋敷に入っていった。栄太郎は、出迎えた奥方、仙松君を見つめた。そして駕籠から降り立った綾姫の姿を見ると驚いた。 「似ている。綾姫様は、絹殿に瓜二つだ。」 栄太郎は、そう思った。 綾姫は、駕籠から下りると、周囲を見渡した。侍の中に栄太郎の姿を見付けると、栄太郎を見つめながら微笑んで、軽く会釈をして、屋敷の中へと姿を消した。 藩主が屋敷に戻って十日も経つと、屋敷内は落ち着きを見せた。大膳は、その短い間に仙松が見違える程、立派な侍に成長しているのを感じた。体は逞しく、言葉、姿勢も厳格となっているように思えた。 「皆、土井殿のなせるところです。仙松は、学問だけでなく剣術も好んで学んでおります。土井殿を師と仰ぎ、尊敬している様子に思われます。」 奥方は、大膳の問いにそう答えた。 仙松君の隣の部屋は、学問する書院造りの場所だった。栄太郎を前にして、仙松君は「論語」の学習をしていた。「論語」の意味や実践的な考え方でもあった。部屋の障子は開け放たれていた。その縁に、綾姫の姿が見えた。栄太郎は、話を止めると座布団を外し、両手をついて顔を伏した。綾姫は、縁に座ると仙松君に声を掛けた。 「学問中、失礼いたします。仙松様、父上がお呼びです。」 仙松君は、振り返って綾姫であるのを確かめると、栄太郎に一礼して席を立ち、部屋から出て行った。 綾姫は、栄太郎の姿を見ると、驚きとも戸惑いともつかない表情を見せた。綾姫は、栄太郎に一礼すると、懐かしそうに栄太郎を見つめた。 「栄太郎様、私、絹でございます。お久しゅうございます。お会いしとうございました。」 そう綾姫は言って、大きく息を吸い安堵した顔となった。微笑みを湛えて、言った。 「栄太郎様、お庭を歩きましょう。」 栄太郎は、仙松君の学習途中で躊躇した。綾姫は、それを察したらしく 「仙松君は、直ぐにはお戻りにならないでしょう。」 と言った。確信にも似た綾姫の言葉に、栄太郎は綾姫と共に庭に下り、歩き始めた。おそらく綾姫は、殿に言い含めたものと思った。 「お身体は、すっかり良くなったのですか。」 綾姫は、栄太郎を覗き見るように、微笑んで頷いた。 「少し長くかかりましたが、春の暖かさと共に、身体も良くなりました。」 庭の四阿で、向かい合って座った。 「私は、父上に話してあります。栄太郎様に添いたい、そう頼みました。」 綾姫は、栄太郎を見つめて言った。栄太郎は、綾姫から目を反らすことはなかった。 「綾姫様、できることなら、そうしたいと私も思っております。」 綾姫は、栄太郎の手を握りしめた。 「栄太郎様、これから父上のところへ行きましょう。」 二人は、藩主大膳の部屋に赴いた。大膳の部屋に訪れると、仙松君が寛いでいる姿があった。綾姫と栄太郎は、大膳の前で並んで座った。栄太郎は一度平伏をした後、上体を起こして言った。 「謹んで殿に申し上げたい儀がございます。」 大膳は、栄太郎を見つめ頷いた。 「この栄太郎は、綾姫様を娶りたく、殿にお願い申し上げます。おそれ多いことでございますが、よろしくご裁可願います。」 栄太郎は、そこまで言うと再び平伏をし、平伏のまま大膳の言葉を待った。 「栄太郎、面を上げよ。」 栄太郎は、頭を上げると大膳を見つめた。大膳は、頷きながら微笑みを浮かべた。 「栄太郎、あい分かった。許そう。それにしてもお主の方から願い出る、感服した。」 その場に居合わせた仙松君は、手を叩いた。 「先生が、姉上と一緒になられる。この仙松、誠に嬉しく思っております。先生は、兄上となられるのです。」 仙松君は、喜びを満面に浮かべた。 「今後の段取りは、こちらで決めることにする。異存はないな。」 そういう大膳の言葉に、綾姫と栄太郎は並んで頭を下げた。頭を上げると、二人は顔を見合わせ微笑み合った。 秋の青空が広がった暖かい日、急に大膳は紅葉狩りと称して、仙松と綾姫を連れて、下屋敷に向かった。栄太郎を伴っていこうと思い、江戸家老に尋ねた。 「朝早く、下屋敷へ行くと言って出かけました。」 「下屋敷に行って、何をしているのだ。」 「畑で、薩摩芋を作っております。何か、出来栄えが良くなるように、色々と試されているようです。」 大膳は、米が不作、あるいは飢饉の際の食料として、薩摩芋が有効であることは知っていた。薩摩芋の種がどこにあるのか、その育て方がどうなっているのかまでは知らなかった。有用な食物であるが、手に入らないだろうと思っていた。それを栄太郎が取り組んでいることを知り、頼もしく思った。 芝山藩の江戸下屋敷に大膳と仙松君、それに綾姫が訪れた。庭に面した部屋で、三人は寛いだ。供の者は、それぞれ三方の部屋で休息を取っていた。仙松君は、暫くすると部屋を出て行った。 「先生が、こちらの畑に来ておられるとのこと、先生のお手伝いをしてきます。」 大膳は、頷いていた。綾姫は、俯いて少し緊張したが、顔を上げ笑顔で見送った。その笑顔を確認して、仙松君は部屋を後にした。松林を境にして、畑地があった。江戸屋敷の賄いのために、野菜などを作っているのだった。 仙松君が畑地に出ると、あちこちに小作人の姿があった。近くで働いている女小作人に声を掛けた。 「土井様は、どちらにおいでだ。」 女小作人は、手を止めて腰を立てた。仙松君だと分かると、慌てて地に伏せた。そして左手で指差した。少し遠くであるが、袴をたくし上げている栄太郎の姿を見つめた。仙松君は、女小作人に礼を言うと、栄太郎目がけて歩いた。栄太郎は、緑の葉の着いた蔓を引き抜いていた。比較的大きな根菜が顔を覗かせている。 「土井様、精が出ます。私もお手伝いします。」 その声で、栄太郎は手を休めた。 「これは薩摩芋です。甲州屋に手配して、手に入れたものです。少しやせた土地でも育ちます。飢饉などの時には、役に立つと思い、試しに作りました。」 栄太郎は、笊に入れた薩摩芋を指差した。 「殿がおいでになると聞いておりましたので、大きめのものを採りました。仙松君も、抜いてみますか。」 栄太郎の勧めもあって、仙松君は腰を屈め、右手で蔓を掴み引き抜いた。薩摩芋が三つ程顔を見せた。土を払い落とし、笊に入れた。二人は顔を見合わせ、微笑んだ。 「さて、今日の収穫はこれまでです。これを茹でて、殿に召し上がってもらいます。」 栄太郎は、笊を小脇に抱え、仙松君と並んで屋敷の水屋へと行った。 水屋では、襷掛けをした綾姫を先頭に、下女達が迎えた。栄太郎は、綾姫に礼をした後、下女に笊を渡しながら茹でるように言った。 「箸で通るようになるまで茹でるのが良い。少し堅めの方が良い。」 そう言って、栄太郎は足と手を洗い、仙松君もそれに倣った。 一時程立つと、栄太郎、綾姫と仙松の三人は、二人の下女に薩摩芋の入った笊を持たせて大膳の前に姿を見せた。三人は、大膳の前に寛いだ格好で座った。 「こっちの笊は、薩摩芋を茹でたものです。もう一つの笊は、焼き上げたものです。」 そう言うと下女は、大膳と三人の間に敷物の上に薩摩芋の入った笊が、置かれた。 「姉上、一ついただいてみては如何です。」 仙松は、茹でた薩摩芋を皮を剥き、半分紙で包んで差し出した。大膳も笊の側に行き、一つ取り上げて食べ始めた。 「このお芋、甘くて美味しいわ。」 綾姫は、一口食べると言った。 年が明けて、春を迎えたころ、芝山藩邸で綾姫と栄太郎の祝言が行われた。質素な祝言だったが、席には老中の牧野豊前、甲州屋総次郎の姿もあった。国元から、栄太郎の父土井源兵衛を呼び寄せたのは勿論だった。大膳は、牧野豊前に、予め綾姫の婚儀について是非について相談をしていた。その折、牧野豊前は 「綾姫殿は、嫡男ではない。不都合はなかろう。一応、話は通しておこう。それにしても、土井栄太郎殿と娶される、誠に結構な話じゃ。ゆくゆくは、土井殿を城代になされるのじゃろう。羨ましいことじゃ。」
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