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「七里長浜」

 

       佐 藤 悟 郎

 

 

  西津軽の七里長浜の近くに町がありました。庄助は、その町の網元の倅でした。庄助の家は、黒門の大きな構えでした。ある日庄助は、ある決心をして七里長浜がよく見える別荘に行きました。松林の色と海の色が、その日の庄助には、とても鮮やかな緑と青に見えました。庄助は、かねてより堺に出て商人になりたいと思っておりました。今日は、こっそり船出をするつもりだったのです。

 庄助は、七里長浜も今日が見納めだと思うと、無性に松林の間を歩き回りました。そして、青空を仰いで、父や母、許嫁のお島に心から詫びたのです。

「庄助さーん。」

遠くから自分を呼ぶ女の声が聞こえたので、振り返ると、林の間を庄助の父とお島が駆けてくるのが見えました。

 庄助は捕まっては大変と思って、すぐさま逃げ出しましたが、屈強な父に直ぐに追い付かれ、仕方なしに父と向かい合いました。

「庄助、逃げることはない。商人になりたければ、堺でも博多へでも行ってよい。」

庄助は、強く反対していた父の態度を意外と思ったのです。庄助の父は、自分の用意した舟で行けばよいと言いました。庄助は、許嫁のお島に、商人になったら迎えに来ると言いました。お島は、それを聞き入れることなく、泣いていました。庄助は、いつも心豊かなお島が、今は暗い感じがするのを不思議に思いました。別れが辛いからだと思いました。

 

 庄助の乗った舟は、青森に向かって漕ぎ出しました。お島は、これから起こる不幸を思うと、切ない気持ちでいつまでも手を振り続け、庄助の姿を見つめておりました。仕舞に、お島は庄助の父の元に倒れ掛かったのです。お島の悲しみは、涙となって頬を流れていきました。

「許してくれよ。庄助。」

庄助の父は、舟に向かってそう言葉を漏らしました。庄助の父が帰っても、お島は、まだ砂浜にいました。お島が砂浜に伏していますと、どこからともなく、青葉が落ちてきました。舟影が見えなくなるころ、お島は長い浜辺を駆け出しました。砂に足を取られ、急に倒れてしまいました。余りにも悲しかったのでしょう、袖は涙で濡れていました。浜に泣き伏しているお島の姿は、悲しいというより静かでした。

 どの位したでしょうか、お島は大粒の雨と強い風に曝されているのに気付きました。変わりやすい津軽の海のこと、少しも驚きませんでした。砂を両手でしっかりと握り締め、涙で濡れた顔を上げました。海は、白く大きな波が走り、波の間にまに、かすかに庄助の姿が写りました。その庄助の姿は、大きくなり、そして小さくもなっていきました。庄助の叫び声が海を越えて、お島の耳を刺すように聞こえてきました。

 

 荒れ狂った津軽の海の真ん中に、庄助の乗った舟が、木の葉のように揺れていました。庄助は、縛られていたのです。

「平蔵、何をするんだ。何をするつもりなんだ。」 

平蔵は、幼い時からお島が好きでした。庄助は、そのことを知っていました。

「あぁ、海の中は、俺の天下だ。」

庄助は、その時急に不思議に思いました。どうして二人きりで、しかも小さな舟で来たのか。それにも増して、風が激しく、波は猛り狂っており、庄助はこれでは二人とも死ぬと思いました。

「平蔵、返せ。もう帰れなくなるぞ。」

庄助は、波飛沫を顔一杯に受け、大声で言いましたが、平蔵は暫くの間黙っていました。

「庄助、お前は漁師の倅だ。どうして商人なんかになろうとするんだ。な、庄助、堺に行かないと誓え。」

「嫌だ、俺は漁師なんか嫌だ。」

「そうか、苦しいからか。津軽の漁師は強いはずだ。網元の倅が弱ければ、他の漁師に示しがつくまい。」

「嫌だ、俺は漁師の生活から抜け出したいのだ。」

平蔵は、庄助が漁師に戻る気のないことを確かめると、懐の短刀を抜きました。

「庄助、悪く思うなよ。網元から、お前を殺せと言われた。」

庄助は、その言葉を信ずることができませんでした。平蔵の言葉で、網元の立場、一つの町を背負っていく立場には、いかに強い力が必要であるかを、庄助は初めて知りました。

 

平蔵は、一気に庄助に近寄ろうとしました。その時、急に大波が舟を激しく揺すったのです。平蔵は、舟底に叩きつけられました。そして、平蔵の倒れた体から鮮血が流れ出したのです。平蔵は、倒れた拍子に短刀で自分の体を突き刺してしまったのです。平蔵は、その苦しさの中でお島を思い浮かべました。平蔵は、二人とも死んではいけないと思いました。

「平蔵、しっかりするんだ。死んでは駄目だ。」

庄助は励ましたが、苦しんでいる平蔵は助からないと思いました。

「平蔵、お前が死ねば、お島が泣くぞ。」

庄助がそう問い掛けると、平蔵は苦笑いを浮かべた。

「庄助、知っていたのか。」

「ああ、知っていたとも。お島もお前が好きなんだよ。」

庄助は、ベラベラと喋り出しました。庄助にとっては、縄が解けても生きて岸に着けるかが心配でした。平蔵は、庄助が嘘を言っているのが分かりましたが、庄助がいなくては、お島が寂しくなると思いました。平蔵は、舟底を這いながら庄助に近寄っていきました。そして、庄助を縛っていた縄を切り解きました。庄助は自由な身になると、平蔵の落とした短刀を拾い上げ、平蔵の背中を突き刺しました。

「若旦那、どうしても長浜に帰れ。立派な網元になれよ。」

平蔵は、庄助が自分の苦しみを見て、哀れに思って一息に刺したと思ったのです。そして、間もなく平蔵は死んでしまいました。

 

 庄助は、その時初めて平蔵を刺したことに罪悪を感じたのです。気性の荒い漁師でしたが、平蔵は心の清い男だったのです。庄助は、紛れもなく平蔵を殺すつもりで短刀を刺したのです。庄助は、平蔵の亡骸を前にして深く頭を下げました。

「平蔵、ありがとう。きっと帰る。帰ってみせる。荒れ狂った波に負けるような、津軽漁師ではない。立派な漁師になるよ。」

庄助は、平蔵に約束し、怒涛の海の中に飛び込んでいきました。すぐに、庄助の姿は、波に飲まれ消えていきました。

 

 それから五年も経ったときのことです。七里長浜を六部と言われている、修行僧が歩いておりました。六部は、体が見えるような襤褸の黒袈裟を纏っておりました。髪の毛は逆立ち、絡んでいました。疲れ果てた姿でありましたが、目だけは爛々と輝いておりました。小高い松林から町を望んだ時、六部は黒く焼けた頬に涙を流しました。黒門のある網元の家に、誰もいない隙をみて入っていきました。

 

 広い仏壇のある部屋に入り、仏壇に供えられた菓子を取り、仏壇の前で何食わぬ顔をして食べておりました。次々と仏壇の菓子を取って食べていると、つい手が引っかかったのでしょう、皿が音を立てて落ちてしまいました。その音を聞きつけ、網元の家の者達がやってきて、六部を取り囲みました。

「こら、乞食坊主め、何をする。」

陽に毛までが焼け爛れ、赤黒くなっていた六部は、家の者達に蹴飛ばされ、殴られ、その上に縛り上げられてしまいました。物置小屋に入れられ、夜になって引っ張り出されました。漁に出かけていた人も、女衆も集まっていました。そして皆が、今にも六部に酷い仕打ちをしそうになったのです。

「待ってくれ。待ってくれ。」

そう言って六部は大声を上げて頼んだのです。

「待ったがどうだ。」

一時、皆が待つと、六部は不思議なことを語りました。

「まあ、聞いてくれ。私は見るとおりの乞食坊主でな、酒が好きで、俺があそこの浜を歩いていると、そこに髑髏が落ちているではないか。それで俺は、その髑髏を相手にして酒を飲んだのさ。それからだよ。俺が、また浜を歩き出したら、後ろから若い男が追いかけてきてな、

…坊様、俺は今酒をご馳走になった髑髏だが、酒のお礼にご馳走するよ。今日は、俺の命日でな、ご馳走があるんだ。俺の家に来な。…

 そう言うんだよ。俺も、何か美味しいものを食べたいと思っていたから、一緒にここまで来たんだ。

…坊様、漁師になりたいか。俺の代わりになってくれないか。…

  そう髑髏は言うんだよ。俺は、ここの仏壇の菓子を食いながら、なりたいと言ってやったんだ。

…俺が後から、父に話してやる。…

 そう髑髏は言ったんだ。だが、駄目だなあ。髑髏は、人が来そうになると消えてしまうんだから。」

六部は、それが本当の話のように語りました。

 

集まった者達は、一つ一つ頷いて聞いておりました。もう六部を冷たい目で見る者はおりませんでした。

「ところで、今日は本当に命日かい。」

六部は、縄を解いてくれと言わんばかりに言った。

「うん、それは若旦那のことだ。」

「坊様、悪いことをした、勘弁。」

皆は口々にそう言いながら、六部の縄を解き、改めて懇ろにご馳走を出し、漁師にもすると言いました。

 

 翌朝、六部が座敷に出て行くと、美しい娘が板の間を掃除していました。六部は、じっとその姿を見ていました。娘は暫くの間、六部がそこに立っているのを知りませんでした。娘は、土間に降りて水屋に行き、桶に水を入れて戻ってきました。ふと、座敷の方に目をやると、襤褸をまとった六部が、じっと自分を見つめているのに気付きました。少し見返した娘は、思わず手桶を落とし、急に土間から駆け上がり、バタバタと足音を立てて六部の方へ走っていきました。