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「パン屋の主人」

 

                佐 藤 悟 郎

 

 

  町の人々の間には、あの乞食に対してある噂が流れていた。

「あの乞食は、銭をやっても受け取りもしなければ、動こうともしない。何か食べ物をやらなければ、動かない。」

その乞食は、二年程前から、この町に移り住んだと言われている。初めて乞食がパン屋に現れたとき、パン屋の主人が煙たそうな顔をして十円を渡したのだが、手も出さなかったという。癪に障った主人は、乞食をそのままにしておいた。一時間、二時間と経つにつれて、客が店に寄り付かなくなった。それで憤り混じりに、今度は五十円を出したが受け取らなかった。百円、二百円、五百円と包みを上げていったが受け取らなかった。乞食に馬鹿にされたとあっては恥をかくと思って、パン屋の主人は千円を包んで渡そうとしたが、それも受け取らなかった。その乞食は、下手なお経を小さな声で唱えるだけだった。すると、いつしかパン屋の店先に人が集まり、主人も困ってしまった。警察に届けようと思ったが、善意のパン屋の名で通っている主人には、それもできなかった。そんな時、店先に集まった人の中から、一人の男が入ってきて主人に呟いた。

「千円をあげるより、パンの欠片一つをあげなさい。そうすれば、喜んで立ち去りますよ。」

主人は、その男に言われたようにコペパンを袋に二つ入れて乞食に渡した。乞食は、幾度もお辞儀をして立ち去った。

 

 主人にパンを与えるように言った男は、その乞食が以前住んでいた町の人だった。その男は、乞食のことについて語った。

「あの乞食は、三年程前まで俺達の町に住んでいたんだ。町の人たちは、初めは良くしてやろうと思っていたんだが、それも長続きはしなかった。子供達が、乞食のねぐらに石をぶつけたりするようになってな。町中の話題になって、暗黙のうちに、乞食に何も与えないということにしたのさ。するとどうだい、何処から見つけてきたのか知らんけど、糸に手製の針をつけ、猫柳の木をへし折って竿の代わりにして、釣りをするようになったのさ。それがまた良く釣れるんだ。そしてな、川岸に流れ着いた枯れ木を集め、火を炊いて魚を炙って食ってるんだ。」

その男は、なおも話し続けた。

「ついに見かねてな、町で相談して、川魚の保護と言う名目で、組合の方から乞食に魚の捕獲許可の鑑札を示すように言わせたんだ。元よりそんなものを持ってはいないだろう。それを口実に、組合の人は、無理やり乞食を捕らえて、自動車に乗せ、この町に捨てて逃げたのさ。」

得意気に話は終わった。パン屋の主人はその話を聞いて、それなら一人分くらいのパンを、毎日その乞食にやってもいいと思った。

 

 毎日、パンをその乞食にやるようになって、かれこれ二年にもなる。そうすると不思議なもので、パン屋の評判は良くなった。夏になってパン屋の主人は、その乞食に関して不思議な話を聞いた。仙台に住んでいるパン屋の主人の弟が、何年か振りに尋ねてきた。着いた日の夕方、店頭に立っている乞食を見て、ふと何か見覚えのある顔付きだった。パン屋の主人は、弟のその様子を見て、その晩に弟に乞食のことを尋ねた。その弟は笑いながら答えた。

「いや、何でもないのだけれど、ふと見た感じが余りにも酒井様の坊ちゃまに似ているんだ。だから、おやっと思って見たのさ。そうさな、酒井様のお坊ちゃまと言えば、仙台の分限者でな、立派な家を立て、美しい嫁さんを貰って、それはそれは幸福な生活をしている。」

「でもな、お坊ちゃまには、弟がいたんだ。腹違いだったけれど、姿は二人ともお父さんに似て、そっくりだった。それだけに、兄弟はとても仲が良かったんだ。ところが大旦那様が死んでな、家は、みんな兄お坊ちゃまが継ぐことになったんだ。何故か知らんけど、兄お坊ちゃまは継母を憎んでおったのだ。」

「兄お坊ちゃまは事業を興し、成功して豊かになったんだ。しかし、一向に継母にお金を与えなかったんだ。継母は、兄坊ちゃまの扶養家族になっていたのだが、別居して暮らすようになったんだ。そのことで、仲の良かった兄弟も、言い争いをしてな、弟坊ちゃまは東京の大学をやめて、母と一緒に暮らし、そして働いたんだ。」

「継母と言っても、相当年を取っていてな、いつになく無理な仕事がたたって、結核にかかったんだ。病院に入院して治療を受けたんだけど、一か月、二か月と経っていくうちに、治療費がかさんだ。もう少しで良くなるところで、継母も誤魔化して退院したんだ。退院してから、継母は治療費を支払うために、激しい仕事をするようになったんだ。そんな状況だったから、弟坊ちゃまは、兄お坊ちゃまのところへお金を出してくれるように頼みに行ったけれど、どうしても出してくれなかったんだ。」

「それで、保健所にも頼みに行ったけれど、扶養者が兄坊ちゃまとなっていることから、門前払いを食ったんだ。継母は、病気が再発して、ひどい熱を出したんだ。弟坊ちゃまが入院を勧めても、継母はどうしても入院は承知しなかったんだ。そして、半月もしないうちに継母は死んでしまったんだ。急な知らせを聞いて、びっくりして兄坊ちゃまが、死んだ継母の枕元に駆けつけたとき、もう、弟坊ちゃまの姿はどこにも見えなかったんだ。」

「兄坊ちゃまは、ひどく後悔してな、俺が悪かった、俺が悪かったと言って泣き明かしたんだ。後から、弟坊ちゃまの手紙が出てきてな、たった一言「もっとお金があったらな」と書いてあったんだ。それ以後、弟坊ちゃまは、行方不明のままさ。ふと見たら、酒井様の坊ちゃまに似ててな。でも、顔が真っ黒でそう見えたのかも知れん。弟坊ちゃまは、北上川に身を投げたと言われているからな。」

パン屋の主人は、神妙な面持でその話を聞いていた。

「あの乞食は、そのような人とは違うよ。書置きに、もっとお金があったらなあと書く人が、千円ただであげると言っても、受け取らないんだから、違うよ。」

そうパン屋の主人が話すと、乞食について余りにも神妙に話しているのが可笑しく思われ、二人は顔を見合わせ笑い出してしまった。

 

 秋の頃になって、パン屋の主人も、八百屋の主人も、肉屋の主人も、その乞食が店に来なくなったのを知った。時たま店を訪れると、心配して言った。

「昨日は、どうして来なかったの。」

乞食は、ただ決まり悪そうに微笑むだけだった。さらにおかしなことに、今度は店先に立たなくなり、店から離れて目立たぬように、店の遣り繰りを見ていた。手招きをしても、中々店に近付かなかった。主人はパンを乞食のいる場所まで持っていき、手渡すと丁寧なお辞儀をして微笑むだけだった。そして暫くの間、店の商売の様子を見ていた。

「どうしてお金が、単純に回らないのだろうか。どうして人は、儲けたがるのだろうか。お金のために働き、お金のために生涯を投じている。そこから生まれるのは、お金の利得だけ、何と詰まらないことだ。でも、俺がこうして恵みを得ているのも、店が儲けているからであって、結局儲けたことによる善意からだ。人々が、お金に支配されることがないような、完全な精神生活ができる時代になって欲しい。そうすれば、お金なんて、本当に小さなものでしかないのに。」

乞食は、小さな声で呟いていた。

 

 秋も深まる頃になると、その乞食はパン屋にも、八百屋にも、肉屋にも訪れなくなった。しかし、パン屋の主人は、その乞食がまだこの地にいることを知っていた。乞食の様子を、店員などから聞いた。それによると、乞食は川に潜って魚を取ったり、野原から蛇を取って食べたりしていると言うことだった。ある日、パン屋の主人は、その様子を確かめたいために、パンを数個袋に入れて、自転車に乗って乞食のいそうな場所を探し回った。案の定、河原で焚き火をして、魚を焼いていた。その近くには、秋蛇の皮が投げてあった。

 

 パン屋の主人は、どうしたのかと乞食に問い質したけれど、何も答えは返ってこなかった。仕方なしに、パンの入った袋を、近くに置いて帰った。そのことが、町中の評判になった。

「あの乞食は、何も欲しがらない。じゃ、乞食じゃなかろう。浮浪人か。」

「いや、あの方は、世の中を悟りきった方じゃ。世捨て人じゃ。」

そんな噂が囁かれている内に、冬が来た。初雪が降り積もった翌日、その乞食は神社の境内で死んでいるのが発見された。凍え死んだのだった。パン屋の主人はその知らせを聞いて、声を上げて泣いた。

「俺の家に来れば泊めてやると言ったのに。働きたければ俺の家に来て、働けばよかったのに。」

パン屋の主人は、何回も同じことを繰り返し、泣き言を言っていた。ふと、乞食が書き残したものを見た。

「世の中に、お金が無かったら良かったのにな。」

そう書いてあるのを見て、パン屋の主人は、思わず思った。

「この方は、酒井様のお坊ちゃまだ。きっとそうだ。」

そう思いながら、パン屋の主人は、店を休んでまでして、その乞食の葬儀を行った。片手に、書き残しの紙切れを持ち、じっと涙をこらえていた。

「お坊ちゃまの言うように、世の中にお金が無かったなら、私の善意を素直に受けてくれたに違いない。」

そう何度も、パン屋の主人は自分に言い聞かせた。乞食の葬儀には、町の大勢の人々が集まり、焼香をした。これには、善良なパン屋の主人への敬意を示すことによったものだった。

 そんな葬儀の場で、一人際立って立派な身形の人が、泣いていた。その人が、仙台から来た分限者で、乞食の兄であったことを知ったのは、ずっと後のことだった。