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 「修学旅行」

 

                佐 藤 悟 郎

 

 

 その日は、雨が降っていました。煙るような雨の中を、修学旅行の行列が、川の堤の上に見えました。私は、友禅染の振り袖を着て、家の二階の部屋の欄干から見ていたのです。私の家は、代々舞子の家で、私も中学校を卒業すると舞子の世界に入いりました。舞子になったことに、私は不満もありませんでした。

 その修学旅行の行列を見ていると、行列から遅れていく一人の学生さんがいるのに気付きました。その学生さんは堤の上に倒れてしまい、先生が近付いても中々立つことができなかったのです。私は母の部屋に行き、母を二階の部屋に連れてきました。

「お母さん。あれ、困っているのと違うやろか。」

私は、母に指差して、その学生さんが突然倒れたことを話しました。

「お前、先生にお連れするように言ってきなさい。」

私は、傘を掲げて堤に上がり、倒れている学生さんのところに行きました。他の学生さん達は、既に先へと歩き、おりませんでした。

「あの…、先生ですか。家のお母さんが、具合の悪い学生さんを、私の家にお連れするように言っております。」

ずぶ濡れになっている学生さんを抱えながら、先生は私を見上げました。

「ありがとう。でも仕事があって、邪魔になるんでしょう。」

私は首を横に振って、はっきり言ってやりました。

「そんなことありません。むさ苦しい家ですけど、おいでください。」

先生は、学生さんの方に目を落としたのです。倒れている学生さんの顔は、青白く、鼻血を出し、目を閉じて苦しそうに唇を震わせていました。

「こんなところではどうにもならないし、言葉に甘えさせていただきます。」

学生さんは先生に背負われ、私は二人を家に案内をしたのです。

 

 私が案内をすると、丁度お客様が来ました。母は、私達に向かって頷きを見せました。

「里代、お前の部屋にお通ししなさい。」

私は、二人を私の部屋に案内したのです。男物の着物を持ってきて、先生に渡し、床を敷きました。私が水の入った桶を持ってくると、学生さんは床に寝せられ、先生はその顔を拭いておりました。

「ありがとうございます。当分、起きないと思います。」

先生の様子には、そわそわしたところがありました。暫くして、母が様子を見に部屋に入ってきたのです。

「もういいのかい。」

先生は、母に向かって、座ってお辞儀をしました。

「お陰様で助かりました。でも、当分は寝ていなければならないと思います。疲れているんですね。旅行を楽しみにしていたのですが…。」

そう言う先生の様子には、落ち着きがありませんでした。

「先生、何か、お急ぎではないのですか。」

私は、先生に尋ねました。先生は俯いて、一瞬黙ってしまいました。

「少し落ち着かないのです。教師が少ないものですから、私がいないと困るのです。学生達のまとまりがつかないのです。」

先生は困った様子で、力なく答えたのです。

「学生さんが、気が付くまで、ここに置いておきなさいよ。」

私の母が先生を励ますように言いますと、先生は最初のうち躊躇していましたが、旅行の予定先を紙に書き記すと、そのメモを母に手渡しました。深々と母に頭を下げ、あたふたと先生は私の家を出て行ったのです。

 

 私は、学生さんが寝ている床の側に座って、学生さんの顔を見ていました。顔に苦しみの表情は消え、私の目には安らかに眠る、気品のある美しい人に見えました。

「綺麗な顔をしているよね。」

母はそう言ってから、私に

「里代、これからすぐ私の後についてきなさい。お前の顔見知りの社長さんのところへ行って、応援を頼んできましょう。」

と言ったのです。私は、その社長がどうも私の父ではないかと思っていました。幾時間も経って家に戻り、部屋に戻ってみると、学生さんはまだ眠っていました。側に座って、私は学生さんの顔を見つめていました。額の手拭いを外し、冷やして静かにかけると、学生さんは目を開け、澄んだ瞳を見せ、また目を閉じました。

「お気付きですか。」

私が声を掛けると、学生さんは目を閉じまま、頷いていました。

「どうも、お手数をかけたようです。先生に知らせなくては…。」

学生さんは、少し疲れているのか、力の無い声で呟いていました。

「ここに連れてきたのは、先生です。心配することはいりません。」

学生さんは、二度ほど頷いて見せると、深い眠りに陥った様子でした。私は学生さんの額に手を当て、私の額と比べてみました。かなりの熱があり、近所の医者を呼んで診てもらいました。

「学生さんの体が弱っている。しばらく何処にも出さずに、安静にしておいた方がよい。」

医者は、学生さんに注射を打って、そう言い残して帰っていきました。

 

 夕方になって、学生さんの先生がやってきました。私の母は、先生に医者の診立てを話し、当分、学生さんを置いてはどうかと、先生に勧めていました。

「だから、無理をしてはいかんと言ったじゃないか。」

少しがっかりした様子で、先生は学生さんの顔を見て言いました。先生の話では、学生さんは旅行の初日から旅館で寝込んでしまい、その日が旅行の最後の日だと言って歩いたということでした。

「仕方のないことだ。元気になるまで、ここに置いていだだけますか。この男の家はしっかりとした家ですし、私の方から連絡をしておきます。」

先生は、私の母に頼むと帰っていきました。

 学生さんが目を覚ましたのは、午後の九時頃でした。私が部屋に入ると、私の方に目を向けていたのです。

「お陰様で、だいぶ楽になりました。帰らなくては。」

学生さんは、そう言うと上体を起こしたのです。何か弱々しい感じがしました。

「学生さん、先生が元気になるまで、ここにいなさいって言っていたわ。」

私が言うと、学生さんは立ち上がろうとしました。

「そんな訳にはいきません。帰ります。」

学生さんは一旦立ち上がりましたが、直ぐに苦しそうに、顔を歪めて布団に伏せってしまいました。               

 学生さんは、何か悩んでいたようしたので、私はできる限り遠のいておりました。三日も経って、学生さんは良くなってきましたが、まだ養生が必要だと言うことで、寝ておりました。

 

 その日は、若い舞妓の集いがあり、三〜四人を私の部屋に入れたのです。三日間と言う間、全く遠のいていると言うことはできませんでした。私は学生さんに、心惹かれるものを感じていました。その集まりがあった時、学生さんは眠っていて、私たちが集まって遊んでいることは知らなかったのです。私は、他の人から学生さんを看病しているのを、褒められたり、冷やかされたりする度に、何故か嬉しさが湧いてくるのでした。

 彼女等が帰ると、じっと学生さんの顔を見つめました。堪らない感情が沸き、布団の上に伏しました。学生さんは身動きをしませんでした。その晩、学生さんは風呂に入って着替えをし、明日は帰ることになりました。

「明日は、会の催しがあるのよ。明日は、晴れますわ。一日でいい、遊びましょう。」

私は学生さんに向かって、膝を乗り出して言ってやりました。そうするうちに、母が来たのです。

「学生さん、気分はどうですか。」

「はい、お蔭様で良くなりました。」

色々と話をしました。母と私は、学生さんと馴染もうとして話をしていたのですが、学生さんは堅苦しいことを言うばかりで、馴染もうとしませんでした。

「お母さん、明日は面白いでしょう。」

「そうよ、きっとね。学生さんも、発表会においでなさいよ。」

母は、学生さんにそう言って誘いましたが、帰ると言うばかりでした。私は、とうとう感情的になって言いました。

「学生さん。どうしてなのですか。どこに不満があるのですか。私たちが芸妓だからですか。軽蔑しているのですか。どうして、そんなによそよそしくするのですか。」

学生さんは、驚いた顔を見せました。

「そういう訳ではありません。でも、学校へ行かなければなりませんから。」

私は、なおも言い続けました。

「そんなに学校が大切なのですか。私は少なくとも、あなたを看病しました。あなたは、そんなに堅苦しい方ではありませんわ。そんなこと知っています。私は、増せているかも知れません。少しでも情があったなら、私の言うことを聞いてください。」

学生さんの顔に、苦悩が現れてくるのがわかりました。

「このお礼はきっといたします。でも、明日は帰ります。」

私は、自分の感情を抑えることができませんでした。

「何故です。私の願い聞けない人なんか馬鹿です。あんたなんか、もう、この町に来ないで、今すぐ帰って。」

私は、そう言いながら学生さんに顔を向け、睨み合っていました。

「すぐ帰って。」

なおも、私はそう言いました。

「帰りましょう。」

学生さんは、そう言って立ち上がりました。

「今日は無理ですわ。明日にしたら。」

私は悲しくなって、そういい残して逃げるように部屋を出て行きました。庭の松の幹にしがみ付いて泣きました。風は冷たく、頬を撫でていきました。母に、学生さんに夕飯を持っていくように言われ、慌てて膳を運んでいきました。

「夕飯です。」

私は、そう声をかけてお膳を学生さんの前に置いたのです。

「有難う。怒らないでください。私だって、帰りたくありません。」

俯いている私に向かって、学生さんは呟くように言ったのです。私は、軽く頷きを見せ、立ち去ったのです。

 

 翌日、私は早く起き、学生さんの部屋へ行きました。そこには、もう学生さんの姿はありませんでした。

「学生さんは、早く発っていきました。」

女中の声も空しく、私は歯を喰いしばりました。そして、学生さんは、行きずりの人、気にすまい、忘れようと思いました。ただ、昨夕の優しい言葉を忘れることができなかったのです。

 その日の会に、私は藤娘を演ずることになっていました。晴れやかな役柄は、舞妓連中の中でも誇らしいものでした。私のところには、幾人もの人が声をかけてくれました。社長のご子息や実力者もおりました。学生さんのことは、忘れていました。最後の出番で、藤娘を一生懸命に踊っていたのです。ふと、客席にあの学生さんがいるのを見たのです。踊りが、急に乱れそうになりました。言いようもない甘い感情が溢れ、懐かしさに似た思いで、胸が一杯になりました。

 

 私は踊りが終わると、急いで楽屋に戻り顔を洗って、学生さんのいるところへ走っていきました。

「有難うございました。」

私は、学生さんに向かって深いお辞儀をしました。

「とても上手でした。見に来て、本当によかった。」

それは、本当に優しい言葉でした。褒められて、それを素直に受け入れることができたのです。

「まだ時間があるのでしょう。どこかへ行きませんか。案内しますわ。」

私が誘うと学生さんは、微笑んで頷いていました。私は、学生さんを連れて楽屋へ行きました。学生さんは、楽屋の外で待っていました。

 

 私は、急いで身支度を整えようとしていました。そうこうする内に、社長のご子息や会長さんが姿を見せたのです。

「少しでいいから、ご馳走をしたい。」

そう言って、私を連れ出そうとしていたのです。特に、会長の誘いは断ることができなかったのです。私は、そのことを学生さんに知らせ、どこかで落ち合いたいと思いました。しかし、それは無理だったのです。私は、会長達に囲まれ、笑顔で歩かなければなりませんでした。

 私は、当惑したように、学生さんの方に目をやりました。学生さんは、軽く微笑んで頷いておりました。

 

 会長達の宴会に、小一時間ほど付き合い、急いで楽屋に戻ってきました。学生さんの姿はありませんでした。急に心に穴があき、無性に寂しくなって泣いてしまいました。私が、会長達に連れ立って歩く姿を見て、学生さんの目に卑しい者と写ったのではないかと思ったりもしました。

 ただ、私は泣いておりました。誰かが声をかけてくれましたが、それにも構わず泣いておりました。泣きながら、川原に出て佇み、思い出したように泣いておりました。雨が降ってきて、ようやく家に帰ったのです。力なく、玄関に立っていたら、母がやってきました。

「お部屋に、学生さんの手紙を置いておいたよ。」 

母は、怪訝そうな目つきで見つめながら、そう言ったのです。一瞬、母が何を言ったのか理解できなかったのです。急に元気が戻り、私の部屋に向かって走りました。

「馬鹿だねえ。走るんじゃないよ。」

母の、そう言っている言葉も軽やかに聞こえました。

 

 部屋に入って、机の上に置いてある手紙を、両手で取り上げました。便箋一枚のものだった。

 

 今日の藤娘の姿は、美しいと思いました。深く胸に残しておきます。皆さんとお出かけのこと、仕方ないと思っております。私も、父が迎えに来ていたものですから、帰ります。

 いつの日か、それも遠くないことと思いますが、また、お会いする予感がいたします。そのときもよろしく。

 明るい微笑が、とっても美しい貴女へ

心から真剣に          藤巻真一

 

私は泣いていたことが、恥ずかしくなりました。そして、明日への希望が彷彿と湧いてくるのを感じたのです。