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「足軽侍」

 

            佐 藤 悟 郎

   

 

 夜中に、町を歩いている侍、速水駿輔の姿があった。その侍は、訳のわからぬ間に、足軽の小頭身分にまで落ちた。幕末の近いころ、越後の小藩では、不可解なことが起きていた。重役の父が死に、江戸屋敷から戻って数か月のことだった。時代の荒波は、この堀口藩にも訪れていた。

 城下に能代屋という大きな雑貨商があった。駿輔は屋敷から追い出され、生活に窮していた。父と深い繋がりのあった能代屋から傘張りの仕事を受け、初めて納めに行くのだった。能代屋の玄関には、ほのぼのと行灯がともっている。駿輔は、戸を叩いた。眠そうに目を擦りながら、奉公人が戸を開けたのはそれからだった。

「番頭さんいないか。約束の物を持ってきた。」

「お侍様、もう番頭さんは、床に就きましたが。」

「それもそうじゃ、では、この傘を明日にでも渡してはくれぬか。」

奉公人は、なおも眠そうに瞬きをしながら、傘の点検をした。

「これはひどいですよ。こんな張り方では売れません。もう一度やってください。」

奉公人は、良い物は一本もないと言った。

「そんなにひどいのか。」

「そうですとも。こんな物を受け取っちゃ、明日、番頭さんに叱られてしまいます。」

「拙者は、初めてでな、ただ張ればよいと思っていたのじゃ。」

奉公人が束ねて返すのを、駿輔はじっと考えながら見ていた。

「のう、張り方のこつを教えてくれぬか。」

「今ですか、眠いんですよ。」

「いいではないか。さ、教えてくれ。お願いする。」

奉公人は、無理に頼まれ、土蔵にある仕事場へと案内した。そして、いちいち手を取って教えた。糊のつけ方や刷毛の用い方、紙の位置や糊の張り具合などだった。いつしか、夜も白みかけてきたころだった。屋敷の中が騒がしくなった。仕事場に、もう一人の奉公人が来ると、駿輔を睨んだ。

「おい、こら、起きろ、おい。」

「うん、もう朝か、今日は、眠いよ。」

「馬鹿、お前が逃げたと言って、大騒ぎじゃ。番頭さんが怒ってなさるぞ。」

そう言いながら、二人は慌てて仕事場から消えていった。

 

 駿輔は、食事を終えたばかりの番頭を店で捕まえた。

「番頭さん、約束の品です。少し遅れましたが。」

番頭は、品物を取り上げ、丹念に調べ始めた。

「速水様、初めてにしては上出来ですよ。ええと…。」

そう言うと、番頭はにこにこしながら奥へと下がっていった。暫くして、風呂敷に包んだ物を持ってきた。

「速水様、これは手間賃です。又、これもお願いします。」

そんなところに、奥から奉公人たちがしゃべりながらやって来た。

「武士などと言っても、足軽じゃね。」

「そうそう、威張っていても、食うに困っている始末でさあ。」

そんな会話が番頭の耳に入った。

「これ、お前たち、何と言うことを言うのだ。お謝りなさい。」

そう言うと、奉公人を駿輔の前に座らせた。

「えぇ、どうも、こいつらが飛んでもないことを。」

奉公人は、駿輔の前で手をついた。

「お許しください。お許しください。」

頭を床に擦りつけんばかりだった。

「お許しくださいって、お前たちの言っていることが本当なんだから、仕方のないことだ。だが、武士と言うものはとかく分からぬものだ。武士の前では、言葉を慎むがよい。」

駿輔は、それ以上何も言わなかった。新たな仕事を持ち、店を出ようとした。店先を掃除している、昨夜の奉公人を見つけた。

「おい、名は何と言う。」

「佐吉です。店では吉ドンと呼んでおります。」

「今朝は、番頭さんに怒られたか。」

「それはそうです。ひどく怒られました。」

駿輔は、その奉公人の手を握って金の入った包みを渡した。

「これをとっといてくれ。本当に夕べは有難うよ。」

「お侍様、こんなことをしちゃいけませんよ。」

「いいのじゃ、ほうれ、これだけ仕事が貰えたんだから。」

そう言って、駿輔は佐吉の肩を軽く叩いた。

「しっかり働くのじゃぞ。」

奉公人は、唖然として箒を持ったまま、駿輔が帰るのを見送った。

 

 駿輔は、足軽長屋に入って、一か月も経ったころ、町の居酒屋に入った。雑貨商の能代屋に傘を収め、新しい品を脇に抱えていた。もともと、駿輔は酒好きだった。

「主、酒をくれぬか。それに、何かを添えてくれ。」

軽い返事があると若い娘が出てきて、お膳立てをした。駿輔は、荷を脇に置いてその若い娘を見つめた。髪が強張っていて、毛立ちをはっきりさせていた。

「どうぞ、お注ぎいたします。」

女は、そう言って銚子を傾け、手綺麗に注いで駿輔の顔を見た。不用意にも、駿輔は微笑んで見せた。店の若い娘には、嫌らしく見えたのだろう、一礼をして引き下がった。

「おい、お里、あのお侍さんは初めてじゃないのか。」

「ええ、嫌らしいのよ。私の顔を見て、ニヤニヤしているのよ。」

「おい、ちょっとからかってやれよ。」

「嫌よ、見たところ足軽よ。足軽なんか、かまったって。」

そんな、奥での話も知らないで、駿輔は酒を飲んで良い気持ちになっていた。暫くして、側に来たお里と呼ばれた若い娘に

「この膳を片付けてくれぬか。」

と、駿輔は言った。お里は、盆に徳利や皿を載せながら

「あの、お勘定、お願いします。」

と言った。駿輔は、そう言われて袂を探った。何も無いのに不審そうな顔をして、又もぞもぞやってみた。そして立ち上がって、胸元に手を入れてみた。

「名は、何と申す。」

「里と言います。あの、お勘定を。」

「おい、お里殿、ちょっと待ってくれ。無いのじゃ。」

駿輔は、きまり悪そうに笑みながら体を探した。

「無いな。一文も無い。そうじゃ、能代屋に忘れてきた。里殿、ちょっと待って下され。直ぐに行って参る。」

運悪く、駿輔は、風呂敷包みを小脇に抱え、店の出入口に向かった。

「食い逃げ!」

お里は、悲鳴ともつかない大声を出した。亭主らしい男は、それを聞きつけて走り出してきた。

「これ、お武家様に向かって何を言う。これはどうも、失礼を。」

「里殿、食い逃げとは、ちょっとひどい。」

「だって、お侍さんが、お金を払わないんですもの。」

「だから、今取に言ってくると言っているではないか。能代屋に忘れてきたのじゃ。」

店の主は、お里の前に出て、駿輔と向かい合った。

「お侍さん、忘れたのかも知らないが、でもね、出た切り、戻って来なかったらどうするんです。」

店の主が、そう啖呵を切った。

「必ず戻ってくる。信用してくれ。」

駿輔は、片手を上げて、店の主に拝むような様子を見せた。

「お侍さんを信用できますか。さぁ、何かを置いていって、取りに行ってもらいましょう。」

そう言って、亭主は小脇に抱えている物に目をつけた。

「おい、主、これは駄目だ。預かり物だ。」

「じゃ、腰に差しているものでも置いていって貰いましょうか。」

「何と、武士に対して失礼な。」

「足軽なんざ、怖くねえ。」

客も、周りに集まっていた。武士に対して冷たく、駿輔を指差していた。

「抜けるなら、抜いてみなせえ。ああ、さっぱり斬られてやらあ。どっちが失礼と思うんだ。能代屋に忘れた、中々うめえ事言うじゃないですか。食い逃げの侍なら、結構な御身分でさあ。」

駿輔は、そうまで言われて却って冷静になった。亭主の言い様もよく理解できた。武士に対する憎しみの言葉も分かった。しかし、腹の隅には、口惜しい気持ちもあった。亭主を睨み返し、刀の柄に手を掛けた。若い女は、亭主の後ろに隠れ、亭主共々後ずさりを始めた。

「信じて下され。直ぐにでも戻ってくるから。」

駿輔がそう言ったが、亭主は

「信じられるものですか。」

と、震える声で答えた。駿輔は微笑みながら、脇差を引き抜くと、亭主に手渡した。

「済まぬ、直ぐ取に行ってくる。」

そう言うと、駿輔は足早に出入口に向かった。店の客の嘲笑う声が、背に浴びせられるのが分かった。

 

 丁度その時、能代屋の番頭が店に入って来た。少し袂を探して、金包みを駿輔に手渡した。

「速水様、随分探しましたよ。こんなところにいるとはねえ。それに、大分困っているようですね。お金を忘れていっちゃ。」

駿輔は、すぐさま亭主の前に歩み寄った。能代屋の番頭も駿輔の後を追った。

「主、これで足りると思うが。」

金の包みから、少し取り出して言った。

「へっ、それはどうも。」

「脇差しを返してもらいたいのだが。」

急変した事態に、お里は気の縮まる思いだった。駿輔の刀を、両手でしっかり胸に抱えていた。

「へっ、お武家様、どうも失礼なことをいたしました。どうか、ご存分にしてください。」

「主、いゃ、里殿、刀をお返しくだされ。」

「お前、早くお返しするんだよ。」

主と駿輔に言われても、お里は刀を離そうとしなかった。刀を返せば、切られると思っていたからである。能代屋の番頭も、苛立ちそうに言った。

「娘御、早くお返しなさい。この方は、何もしないから。」

「お里、何をしているのだ。早くお返ししなさい。」

主もそう言って、お里の腕から刀を取ろうとしたが、中々離さなかった。駿輔は娘の心をよく理解していた。

「主、酒をもう少しくれぬか。番頭さん、飲もうじゃありませんか。」

番頭は、駿輔が事を荒立てず、誘ったことに安堵をして、隣り合って座った。

「里殿も、手前にお座りなさい。」

お里は、じっと目を凝らし、駿輔を見つめながら座った。

 

 駿輔は、番頭と酒を酌み交わし、一呼吸を置いて、お里に言った。

「里殿、私は、城中一の腰抜け侍だ。刀で人を斬るようなことなど、考えたこともない。その刀をお返しくだされ。」

お里は、しきりに首を振っていた。そして、怯えた目をしていた。

「里殿、そなたは、私に見覚えはないだろう。私は、里殿を覚えている。あの、村外れの地蔵様の前で、侍に斬られた人の娘御のはず。違いますか。」

お里は、驚いた目をした。よもや、駿輔が父のことを覚えているはずがないと思っていたからだった。

 一年程前の、初夏の頃だった。隣国の藩主の行列を、筆頭家老井原嘉門が先頭に立ち警護していた。地蔵の前を通りかかったところ、突然、お里の家の飼い犬が行列の前に飛び出した。押さえ付けようとした里の父親も行列前に出たところ、井原嘉門が刀を抜き払い、お里の父親を無礼打にした。お里の父親は、肩から胸にかけて傷を負い、その場に伏してしまった。それを見た駿助は、お里の父親に駆け寄り、自分の衣服を切り裂いて傷口を押さえ、体に巻き付けた。

「家老、領民に切りつけ、気でも狂われたか。」

「無礼打ちじゃ。さあ、出立じゃ。」

行列は、何もなかったかのように、駿輔の前を通り過ぎて行った。駿輔は、籠の中の隣の藩主が、済まなそうに頭を下げている姿を見た。駿輔は、お里の父親を背負うと、お里の案内で村まで行った。村の庄屋の屋敷まで案内させ、庄屋に介抱するように頼み込んだ。

 

 お里は、駿輔がその時の侍だったのを思い出した。

「あの時、父を助けていただき、有り難うございました。それなのに、食い逃げ呼ばわりしてしまい、言葉もないです。」

お里は、そう言うと俯き、泣き出した。

「里殿、余計なことを言ってしまった。ただ、そなたが父御に、縋り付いている姿が忘れられないのだ。」

お里は、顔も上げずに首を細かく振りながら、泣き続けていた。

「父御、まだ伏しているのか。」

その問い掛けに、お里は顔を上げると、首を横に振った。

「庄屋様が良くしてくれ、お城の御典医様まで来てくれました。すっかり良くなりました。」

お里は、駿輔を見詰め、丁寧にお辞儀をした。

「それは良かった。さ、気晴らしに飲もうじゃないか。」

お里は、少し微笑みを見せながら頷いた。そして、刀を抱えた腕も緩んでいった。

 

 

 能代屋には、藤という娘がいた。その娘の藤は、器量が良いということで、城中に躾見習いとして奉公していた。月に三〜四日は家に帰ってきていた。

 中秋の名月のころの夕暮れ時に、藤は家路へと急いでいた。小川や川の岸辺を縫うように縦横に走っている道、そんな中を少し乱れた髪を繕い、風を求めるように歩いていた。後ろに大きく結んだ帯、時々首を左右に傾けながら歩く。川の清楚な流れに、緑の川草が揺れるような、柔和さが感じられる娘だった。能登屋の主は、駿輔に声をかけた。

「速水様、今夜は中秋の酒盛りをいたします。どうか、私共とご一緒に。」

「そうか、もう月を見る時か。」

駿輔は、店の上がり口で腰を据え、能代屋の主人の誘いに、天井を仰いだ。

「番頭に聞けば、速水様は、大層、お優しい方とか。速水様の父君も、大層優しく、思い遣りのある方でした。共にしていただければ、有難いと思います。」

駿輔は、手を頭に乗せると

「嫌だと言えば嘘になる。拙者は、父と同じように、酒が好きだ。」

駿輔は、主人の申し入れを快く入れた。

店先に目をやると、若い腰元風情の女が立ち止まっている。駿輔の姿を見て、店の中に入るのを躊躇っている様子だった。駿輔は立ち上がった。すると、その女は一礼をして、裏木戸の方へと歩いていった。

「あの方は、腰元の藤殿ではござらぬか。」

駿輔は、静かに主人に問い掛けた。

「確かに、私の娘の藤です。城に奉公に出していましたが、奉公も、もう一年限りです。」

「そうでしたか。藤殿は、能代屋さんの娘御だったのですか。城中では、中々評判の良いお方です。」

「速水様は、娘を知っていたのですか。」

「ええ、今は足軽の身分、お目通りも適いますまいか。」

駿輔は、そう言って苦笑した。

 

 月見の宴も夜が更けて、他の客人が帰り、駿輔と能代屋の主人、それに番頭の三人となった。そんなところに、藤が入って来た。丁寧なお辞儀を済ませると、縁に飾ってある薄を通し、静かに月を見上げていた。

「藤、速水様は城中で、お前の姿を見たことがあると仰っている。速水様を如何様に思っているのかな。」

能代屋の主人は、藤にそう問いかけた。

「はい、藤は、幾度か速水様の姿をお見かけいたしました。たいそう優しい、物知りのお方と評判でございました。」

能代屋の主人と番頭が、感心したように頷いていた。駿輔は、藤が嘘を並べ立てているのを聞いて、苦笑をした。

「そうですとも、こんなことを言っては何ですが、町人にも頭を下げることがある。優しい方だからこそです。」

番頭も、合いを打つように言った。藤にしてみれば、可笑しくてたまらなかった。それ以上に駿輔も可笑しいと思った。藤が笑うと、その後を追うように駿輔も大声で笑った。

「これ、藤、何で笑う。速水様に失礼ではないか。」

「お父様、はっきり申しましょう。速水様が重役のお家柄から、足軽の身分になられたのは、他ならぬ、駿輔様の武士としての本分に問題があったからです。」

「これ、藤、何ということを言う。」

「言いましょう。私は腰元です。足軽ごとき身分の者に遠慮することはございません。」

藤は、少し間を置いて、意を決したかのように言った。

「腰抜けといえば、城中では速水様の他、おりますまい。速水様は、江戸詰が長く、速水様の父君が亡くなられて、藩に帰って家督を継がれたのです。最初は、藩の誰もが、優れたお人だと見ておりました。」

藤は、駿輔を見つめた。駿輔は、一瞬目を合わせると、目を反らした。

「城中の人々は、藩の将来を考えております。勤皇とか佐幕など、武士として、自分の理想を持っております。それがため、文武に励んでおられるのです。ところが、重役のご子息であった駿輔様は、文も下手、剣も取らず、毎日ふらふらとして、町へ降りていく。これでは、腰抜けと言われても、仕方なかろうと思います。」

能登屋の主人は、藤の人を見下げた言葉に慌てた。

「そんなことはあるまい。速水様は、立派な、良い方じゃ。滅相もないことを言うものではない。」

藤は、駿輔の前に進み出ると

「それならば申し上げましょう。速水様の刀をご覧ください。果たして真剣でしょうか。竹光なのではないでしょうか。反りの少ない鞘、それが何よりの証拠でございましょう。さあ、速水様、お刀を出しなされ。」

駿輔は、黙って藤の前に刀を差し出した。藤は、一礼をして、そっと刀を両手で持ち上げて手前に寄せた。その重みは、竹光でないことが明らかだった。藩士が携えている刀より、遙かに重く感じた。柄に手をかけ、一尺程鞘から引き抜いた。鈍い光が見えた。藤は、駿輔の顔を見た。

「これは、同田貫ですね。」

藤が力なく問い掛けると、駿輔は、頷いた。藤は、俯きのまま、刀を駿輔の前に返した。藤は、駿輔に対し、畳に頭が付く程、深く頭を下げた。藤は、駿輔がただならぬ武士であるのを感じた。駿輔を愚弄したことで、その場に居づらくなり、部屋から出て行った。

 

 駿輔は、寂しそうな目を庭に向け、そして満月で明るい空を見上げた。江戸詰めの頃を思い出していた。駿輔は、何故、身分が足軽に落ちたのか、朧気ながら知っていた。江戸屋敷に長く勤め、武術や勉強に励んだ。何のためか、二年ほど江戸屋敷から京都や西国の地に行ったことがあった。それは勿論、殿の命令だった。

「どうも、世の中の情勢が騒がしい。京都へ行けば分かる。」

と殿の話から、京都に向かった。京都で感じたことは、幕府の物々しい警備だった。それに対する朝廷を中心とした、激しい攘夷・倒幕の動きだった。

 ある日、京都所司代に追われている者を助けた。宿に匿い、難を逃れた。それが縁で、倒幕に奔走している人と多く知り合った。特に、多くの倒幕の志士を助け、所司代や新撰組など、幕府側の武士と戦い、幕府側から「闇の一刀齋」と呼ばれ恐れられていた。西国の彼らの国にも訪れた。若い下級武士が台頭し、軍事力も整備されていた。駿輔は、戦が始まれば、幕府とて容易に攻めきることができないと感じた。

 駿輔は、倒幕の志士に別れも告げず、江戸屋敷に戻ると、殿に正直に話した。

「やはりそうか。我が藩は、外様故、迂闊に動かないようにしなければならぬ。見聞したこと、誰にも話してはならぬ。そうだ、お主は笛が得意だったな。京都に、笛を習いに行ったことにすれば良い。」

殿は、そう言った。駿輔の父の死に伴い、藩主は駿輔を国表に帰した。葬儀を済ませ、家を継ぎ、勘定方に勤めていた。藩主の意向もあり、駿輔は城中の動きをつぶさに見ていた。城代家老井原嘉門は、幕府を擁護する姿勢を示していた。表面では、多くの藩士が、家老井原嘉門の考えに添うように見えていた。駿輔は、心底から家老井原嘉門と同調する者は、数十人程だと思った。駿輔は、無関心を装って、意見を述べたり、同調したりすることがなかった。

 

 江戸での駿輔は、武芸や学問に優れていたと藩内でも名声が高かった。駿輔は、城中の者と余り話すこともなく、ただ帳簿に静かに筆を走らせていた。その内に、文も下手、武芸にも疎いと囁かれた。町へ出かけることも多く、腰抜けと言われるようになった。そんな日を送りながら、城内では城代家老井原嘉門を始めとする一派が、幕府擁護の考えを強要するのを感じた。城下の町民、百姓は、安穏とした生活を望んでいると感じた。駿輔にも、城代家老井原嘉門が尋ねたことがあった。「殿の下知に添うまでです。」

駿輔は、そう答えた。その答えを聞いた家老井原嘉門は、渋い顔をした。間もなく城内では、駿輔の態度が、考えも覇気も無い者として、悪評を買うようになった。駿輔は、城代家老井原嘉門の判断で、足軽の小頭に身分を落とされたのだった。彼は、馬鹿馬鹿しくなった。いずれは、殿の耳にも聞こえ、身分は戻るだろう。追い出された家にも、戻ることができるだろうと思っていた。

 

 駿輔は、そんな思いを浮かべていたが、庭から目を能代屋の主人と番頭に目を移した。二人の心配そうな顔を見た。駿輔は、杯を前に出し

「詰まらぬことを思い出しましてな、どうも失礼した。ご主人、笛はござらぬか。お礼に笛でもお聞かせ致そう。」

番頭は、駿輔の杯に酒を注ぎ、主人は部屋から出て行った。主人が戻ると、駿輔は杯を置き、笛の入った袋を受け取った。笛を取り出し、黒漆の笛を暫く見つめた。

「中々の笛でござる。確かな人の銘が入っている。」

駿輔は、庭の方に歩み寄り、正座をして笛を吹き始めた。笛の音は、澄み渡った空気の中に響き渡った。優美でもあり、寂しくも思える曲だった。

 笛の音は、部屋に戻った藤の耳にも聞こえた。藤は、少し曲を聴いて、身震いを感じた。庭に面して座り直し、目を閉じて笛の音を聞いていた。

「間違いなく、「望郷の曲」だわ。何と美しく心に入ってくる。」

藤は、目の裏で曲の物語を思い浮かべた。若い貴公子が、京を離れ、遠くの地に派遣され、色々と困難に遭う。夕暮れになると、京の方に向かって、彼方の空を見つめる。優しい父と母の面影を追い、京の山々、家の佇まいを恋しく思い続けた。地方での戦いに成果を上げ、都に戻ったが、親もなく、家は絶えていた。貴公子は、悲しみに耐え、ひっそりと暮らしていた。時が経ち、京で戦乱が起こり、貴公子は颯爽と帝に寄り添い、積極果敢に戦い、戦乱を鎮めた。その貴公子が、京を思い忍んだ時の曲だった。

 藤は、涙を浮かべ静かに聞き入っていた。同田貫を使える藩士は、堀口藩ではいないと思っていた。同田貫は、戦うための刀であると聞いていた。駿輔を見下げた言葉、それが口惜しく思えてならなかった。駿輔が、城中で噂されているような腰抜けではなく、ただ静かに時を計っている者であること。正しい道を開こうとしている、優れた人物であることを確信した。

 

藤は、曲が終わろうとする頃、立ち上がると小走りで部屋を出た。そして、駿輔のいる部屋に入り、駿輔に向かって座ると深く頭を伏した。

「速水様、先ほどの藤の言葉、誠に無礼いたしました。どうか、どうか、お許しください。私が思い違いをしておりました。速水様は、誠の侍です。立派な方です。」

藤は、両手を畳の上に着け、涙で頬を濡らしておりました。藤の姿を見ていた能登屋の主人も、藤の隣に座り頭を下げました。

「そう買い被らなくても、先ほどの藤殿の言葉には、嘘はない。ただ、私とて道を踏み外していないと思っている。期待に添わぬかも知れないが、藤殿には、私を静かに見ていて欲しい。」

藤は、幾度も頷いておりました。

「人には、見かけの姿というものがあります。それを信ずる、信じないは、それぞれ勝手です。武士の意地など、表に出すような世の中ではなくなったのです。」

駿輔は、明るく、軽快に

「明日からも、仕事を頼みます。」

そう言うと立ち上がって部屋を出て行った。能登屋の主人と藤は、駿輔を店先まで見送りに出た。番頭だけが部屋に残った。

 

 それからは、能登屋の主は、駿輔を丁寧にもてなした。駿輔が、父にもまして姿勢態度、心情に優れた者だと思ったからだった。倅が江戸の奉公先から年期が明けて戻ってくるのも、そう遠くないと思った。できたら、藤を駿輔の元に嫁がせてやりたいと思った。

藤が家に戻る日には、必ずと言って良い程、駿輔を招いた。駿輔は、能登屋の誘いを断ることもなく訪れた。藤から城内の様子を聞きたいと思ったからだった。藤も、駿輔の心を察していた。できるだけ、城内の様子を話した。

藤は、城内の様子を知りたいと思うようになってから、色々なことを知った。尊皇、佐幕、攘夷、倒幕などの言葉、それにまつわる意味を知った。城内の藩士の意思、重役の思い込みなども知るようになった。駿輔が、城内の噂を良いことに、足軽の身分にされたことも知った。これは城代家老井原嘉門の独断ではないかとも疑った。駿輔は、いずれ藩の重要な立場になると思うようになった。

 

駿輔は、藩の重役の高頭家に立ち寄った。速水家と高頭家は、昔から親交があった。高頭家の嫡男進之助と駿輔は、幼い時からの友であり、足軽となった駿輔とも親交があった。

「長屋の生活、さぞ苦労しているのだろう。」

進之助の言葉に、駿輔は俯いて首を横に振った。

「俺は独り身、どうにもなる。妻や子のいる足軽暮らし、貧しくて惨めだ。何とかしてやらなければと思っている。」

そう言いながら、駿輔は進之助を見詰めた。

藩の財政が、貧しくなっている。武士は財を生む力がない、商人の時代である。二人は、それをどのように舵取りをしたらよいのかと話した。進之助は、急に話を変えた。

「幕府は、切羽詰まったようだ。幕政を帝に譲ったらしい。薩摩と長州が手を組み、幕府を威圧しているとのことだ。」

駿輔は、進之助を見ながら、頷いて聞いていた。江戸からの情報は、駿輔には入らなかった。駿輔は、それらの情報を如何にしたら、早く得ることができるのか考えていた。

「幕府側には、まだ多くの諸藩が味方をしている。大きな内乱とならなければ良いが。戦いがあれば、民百姓が難儀する。」

駿輔は、そう言うと、庭に目を向けた。

「我が藩は、どのように進むのか。家老井原殿は、幕府一辺倒だ。」

進之助は、吐き捨てるように言った。それに答えるかのように

「井原殿は、世の中の動きに疎い。藩政を任せる訳にはいかないだろう。」

と、駿輔は言った。進之助は、駿輔の言葉に揺るぎない信念を感じた。家老井原嘉門が、駿輔を相容れない者として、遠ざけたものと確信した。

「速水殿、殿が、どのように考えておられるのか。家老に押し切られはしないだろうか。」

進之助は、駿輔に尋ねた。駿輔は、即座に

「殿は、世情に精通されておる。心配するには及ばない。我が藩は、殿の下知に従って動けば、誤りはない。」

と答えた。駿輔が藩主堀口俊高を信頼していることを感じた。

「駿輔殿は、以前、江戸屋敷から京へ行ったことを聞いている。笛を習いに行ったと聞いているが、それだけなのか。」

進之助は、駿輔に強いて尋ねた。

「進之助には言っておこう。殿の命を受け、京に行った。何が起きているのか、それを見ることだった。幕府は、朝廷に対し危惧を抱いていた。西国の藩、長州、薩摩などは、幕府の権威を認めていない様子だった。国は、天皇によって治められるとの考えが底にあった。」

駿輔は、そこで茶を啜った。更に話を進めた。

「政は、朝廷に還し、朝廷の権威の下で行われるべきだとの思いだった。私も、同じ考えで見詰めた。朝廷から賜った征夷大将軍、幕府の務めは、不要となった。朝廷直接の親政により、日本国が一体となって、国を振興させていかなければならないと思った。進之助も知っての通り、外国の勢力は、日本国を侵すように迫っている。」

進之助は、駿輔が、重要な任務を帯び、京に赴いたことを知った。

「京では、幕府が尋常でない警備をしていた。西国の武士や倒幕を掲げる者を、探り、見付けては問答無用の如く斬り殺していた。特に会津、庄内の各藩は、その主力となっていた。私は、故あって、倒幕の志士と親しくなり、共に幕府の者と剣を交えた。志士に誘われ、長州へも行ってきた。」

駿輔は、俯いた。過ぎ去った京での出来事を思い返しているようだった。

「思えば、京での思いは、尽きることはない。人に言うことができない、醜さや悲しさが多くあった。倒幕の志士と別れも告げず、江戸の藩屋敷に帰った。殿には、見聞した事実を伝えてある。殿は、会津の松平殿を、ひどく嫌っている様子だった。」

駿輔は、進之助を見詰めた。

「私も、会津の松平殿は、愚かな方だと思っている。幕府に担ぎ出されたにせよ、国の行く末を見詰めることができない、愚かな方である。また、城代家老井原嘉門は、藩の行く末を考えることのできない、愚かな人と分かった。殿が、藩に帰る日は近い。進之助、呉々も準備を怠らないように願いたい。」

駿輔は、そう述べると立ち上がった。縁に出て、庭を見詰めた。

「美しい庭だ。昔と変わりなく、落ち着いている。」

駿輔は、静かに言った。進之助も、彼と並ぶように、縁に立った。

 

 師走も押し迫り、大晦日を迎えた。能登屋の主が、娘の藤と手代を連れて足軽長屋の駿輔の住居を訪れた。

「明日は、正月でございます。お酒と肴を持ってきました。」

能登屋の主は、そう挨拶をした。駿輔は、訪れた三人を部屋に招き入れた。小綺麗に片付けられた部屋には、書物が整然と積み重ねられ、狭い庭が見えた。改めて、手桶に入った酒と重箱が駿輔の前に置かれた。

「もし、よろしければ能登屋の方に足を運んでいただければ良いのですが。」

能登屋の主の言葉に、駿輔は笑顔を見せ、礼をした。

「滅相もない、日頃お世話になっておりますから。藤からも、どうしてもお届けすると言われまして。」

能登屋の主の言葉に、藤は恥ずかしそうに俯いた。

「能登屋殿、お心遣い、有り難く頂戴いたします。」

駿輔は、少し俯き加減で、何か言うのを躊躇している様子だった。

「速水様、何かお話があるのでは。」

駿輔の様子を見て、藤が言った。

「厚かましいことですが、頼るのは能登屋さんしかおりません。」

能登屋の主は、笑顔を見せた。

「何なりとお申し付けください。できる、できないは別の話ですが。」

能登屋の主は、そう言うと、駿輔の言葉を待った。駿輔は、意を決したように言った。

「この長屋の者は、貧しい者が多い。正月位は、酒を振る舞ってやりたいと思ってな。お代は、遅れるが、工面はいたす。」

能登屋の主は、満面に笑みを見せると、大きく頷いた。藤も、俯き何度も頷きを見せていた。

「速水様、夕方には、長屋の全てのところに、

お酒、一升ずつを届けましょう。小頭様からと言うことにいたしましょう。お代なんて、いつでも結構です。」

能登屋の主は、駿輔に約束をした。間もなく、三人は駿輔の住居を後にした。約束通り、夕方になると、町の酒屋から、長屋の者に酒が配られた。そして、長屋の者達が、駿輔にお礼の言葉を、それぞれに述べに訪れるのだった。

  

 正月を迎え、雪の積もった城下は、月明かりで明るい夜だった。駿輔は、居酒屋で酒を飲み、荒れ寺の前を通り長屋に向かっていた。荒れ寺の方が騒がしく感じ、境内に入ると、五人の侍が一人の侍を取り囲んでいた。

「何事だ。殺生は禁じられているはずだ。それも一人を、多勢で取りかかるとは。」

駿輔は、傷付いている一人の前に出て五人の侍に向かい合った。

「邪魔立てをするな。そやつは罪人だ。成敗するのだ。」

駿輔は、その言葉から、堀口藩の者でないと分かった。傷付いた侍を見ると、見覚えのある顔だった。京都で知った、西国の侍だった。

「田村殿だな。すると相手は、幕府の者か。助成いたす。」

駿輔は、刀を抜くと、刀を下げた自然体に構えた。一人が駿輔に斬りかかった。駿輔は相手の刀を払うと、間髪を入れず袈裟懸けから胴を払い、刀を下げた自然体に構えた。

「闇の一刀斎だな。何故、ここにいる。」

駿輔は、更に前に進むと、残りの四人を切り斃した。全てを斬り殺さなければ、後が面倒になると思った。

 駿輔は、傷付いた田村右近の傷口を手拭いで巻き、止血を施した。駿輔は、田村右近を肩にして、助けながら能登屋に向かった。能登屋の主人に、暫くの間匿うように頼んだ。

 

 翌朝、荒れ寺の境内から、五人の侍の死体が発見され、城へと運ばれた。丁度、手分けをして田村を追っていた、別の幕府の役人が城を訪れていた。運ばれていた五人の死体の検分が行われ、持ち物から死体は幕府の侍ではないかと思われた。城を訪れていた幕府の役人は、検分に立ち会うことになった。切り口を見て、幕府の役人は顔を曇らせた。

「どれも、一太刀で即死状態だ。袈裟斬り、胴払い、闇の一刀斎にやられたに間違いがない。何故、この城下に現れた。田村右近と合流したのは間違いなかろう。」

田村右近の一行は三人で、二人は始末をし、残ったのは田村右近だけだった。幕府の役人は、田村右近の探索を止め、ひとまず江戸に帰ることになった。

「相手が、闇の一刀斎では、勝ち目がない。田村と一緒であれば、我々の素性は知れている。皆殺しになってしまう。恐ろしい者よ、闇の一刀斎とは。」

そう言い残すと、幕府の役人達は、江戸に向かって出立した。

 

 藩主堀口俊高は、国に帰ってきた。庭を見つめながら、用人に言った。

「速水駿輔を呼べ。話がしたいとな。」

用人は、返事もせず、下を向いたままだった。藩主堀口俊高は、用人を見つめた。

「何故、返事をせぬ。何かあったのか。」

城主の問いに、用人は頭を上げ言った。

「速水殿は、城中には居りませぬ。足軽の小頭となり、足軽長屋に居ります。」

城主は、驚いて眉間に皺を寄せた。直ぐに平静を装い、庭の松を見つめた。

「何か、駿輔に不都合でもあったのか。」

静かな口調で、城主は用人に尋ねた。

「殿は、ご存じなかったのですか。家老井原様は、殿の下知だと言っておりましたが。今となっては、何故なのか分かりませぬ。」

用人は、そう答えるのが精一杯だった。城主は、用人では何も用が足りないと思った。直ぐに家老を呼び、問いただすのも大人気ないと思った。

「そうか、分かった。誰にも分からぬように、駿輔を迎えに行き、私のところまで連れてきてくれ。衣服を整える必要は無いから、早めに連れてきてくれ。」

城主は、用人に言いつけると、用人は城主に一礼し去って行った。

 

城主は、夕暮れになると、部屋に膳を運ばせた。暗くなりかけた頃、庭に駿輔が用人と共に現れた。城主は、用人を下がらせると、駿輔に言った。

「久し振りじゃのう。苦労をかけているようだな。上がれ、上がれ、酒を酌み交わそう。」

駿輔は、着流し姿のまま、庭から城主の前に行った。

「お元気の様子、何よりでございます。」

駿輔は、城主の前に畏まり、型どおりの挨拶をした。

「堅苦しいことは、止めにしてくれ。さ、席について、飲み交わそう。」

城主は、膳を中にして、人払いをして駿輔と向かい合った。

「何故、お主は、足軽となったのか、思い当たる節があるか。」

城主は、駿輔に尋ねた。駿輔は、即座に答えた。

「井原様は、私が煙たかったのだろうと思います。あるいは、疑っていたのではないかと思います。国表に戻り、城内の考えがどうなのか知るため、能なし風情で過ごしました。案の定、城内では腰抜けと囁かれました。」

城主は、駿輔に酒を注ぎ、頷きながら聞いていた。

「井原様は、幕府に傾いております。意を同じくする者を集め、あるいは誘っております。何も言わぬ、私を警戒している様子でした。城内の噂を良いことに、私を腑抜けと称し、足軽として城外に追い払ったと推察されます。」

それを聞き、城主も酒を煽り、駿輔は酒を注いだ。

「井原は、考えが浅い。多くの侍、多くの領民のことを考えないで、血走ったことをしている。井原に従う者は、どのくらいになるのか。」

城主は、核心となることを駿輔に尋ねた。

「無条件で井原殿に従う者は、二十名ほどと思われます。他の者は、殿の意向次第に動く者と考えます。町民は、平穏第一と願っております。領内が戦場となることは、避けなければなりません。」

駿輔は、城内や城下の様子を語った。城主と駿輔は、近い将来起こるであろう事象について、語り合った。

 

 幕府と薩長を中心とした朝廷との戦は、既に鳥羽、伏見で勃発していた。戦いは、朝廷側の勝利である。これからは、江戸に向かっての戦いとなるだろう。戦いの結果は、整然とした軍事力を持った朝廷側に勝算がある。幕府には、大獄などの失政があり、幕府側に寄る大名は、そう多くはない。多くの大名は、推移を見つめるだけで、いずれかに荷担する行動には出ない。

 堀口藩は、どう動かなければならないか、話し合った。基本的には、傍観する態度を取ること。ただ、朝廷側は、会津藩と庄内藩を力で攻めるだろう。余りにも、朝廷側の侍を、多く殺した怨念がある。戦いが具体的になったら、態度を明らかにして適切な行動を考える。必要なことを話し終えると、城主は腰元を中に入れた。その中に、能登屋の藤の姿もあった。

 

 藩に戻ったばかりの藩主堀口俊高は、鳥羽・伏見の戦いで勝利した新政府から、京都の守護のため派兵を命ずる知らせを受けた。藩主堀口俊高は、即刻、重臣窪田正直を将とし、藩兵三百名を派遣した。藩主堀口俊高は、京都に赴く窪田正直以下の藩士を見送った。同席した城代家老井原嘉門は、見送った後に藩主堀口俊高の後を追った。

 藩主堀口俊高の前に、平伏した後、城代家老井原嘉門は言った。

「何故の派兵でござる。薩長の命に従ってはなりませぬ。幕府には、恩がございます。弓を引くようなこと、あってはなりませぬ。」

城代家老井原嘉門は、日頃、温厚な藩主堀口俊高の顔が、怒ったように厳しい顔付きになったのに気付いた。

「言うことは、それだけか。下がれ、聞きたくない。それに速水駿輔を、元の勘定役に戻すこと。勘定役の筆頭に据えるのだ。私に断りもなく、足軽にするとは、何事だ。井原、お前の話は、聞きたくない。下がれ。」

藩主堀口俊高は、怒鳴り付けるように言った。

 

駿輔は、藩主堀口俊高の下知を受け取った。足軽長屋の者達と、明るい言葉で別れ、元の屋敷に向かった。屋敷に着くと、高頭進之助が出迎えた。庭や家の中は、意外と整然としていた。それは、高頭進之助の配慮で、進之助や用人が庭の手入れ、家の空気の入れ換えなどをしていたからだった。

下男を呼び戻そうと、使いを出したが、重い病に罹り、来ることができなかった。それを知った能登屋の主は、暫くの間、能登屋の奉公人が、駿輔の身の回りの世話をすることになった。

 

駿輔が屋敷に戻って、十日程が経った昼前に、能登屋の主が、藤と田村右近を連れて、駿輔の屋敷に訪れた。田村右近は、屋敷前まで籠に乗り、そこから松葉杖をつき、足を引き摺るように姿を見せた。

「能登屋殿に、そう迷惑もかけられぬ。速水殿の屋敷であれば、気が休まる。傷が癒えるまで、居候をさせていただく。」

と言った。駿輔は、田村右近を人目に付かない、離れをあてがうこととし、離れを案内した。離れと言っても、母屋から屋根の付いた廊下で結ばれていた。

そんなところに、お里が両親を連れて尋ねてきた。お里の父親は、深いお辞儀をして、恭しく言った。

「速水様、その節は大変お世話になりました。どうか、この親子を下働きに使ってください。」

駿輔は、心当たりを探していたところだった。

「願ってもないことだ。でも、家の方はどうする。田畑もあるだろうし。」

すると、お里が笑顔で答えた。

「兄ちゃん夫婦が、ちゃんとすると言っていた。速水様のところへ行け、と言っている。」

駿輔は、大きく頷いた。田舎の家が忙しいときは、遠慮しないで、手伝いに行くようにと約束した上で、下働きとして居て貰うように頼んだ。母屋の横手にある、下男部屋をあてがうこととした。

 

 藤は、駿輔の屋敷が、整っていくのを見た。駿輔の信望が厚く、側に居る人が羨ましいと思った。藤は、母屋の座敷に戻り、手伝いに来ていた能登屋の奉公人の出す、お茶と御菓子を見詰めた。

「駿輔様、藤は、この屋敷に住みとうございます。私を、迎えてくださいますか。」

藤は、駿輔を見詰めた。駿輔も、藤を見詰めた。能登屋の主は、驚いて藤に目をやった。藤は、駿輔に向かって、両手をついて頭を下げた。駿輔は、能登屋の主に目を投げた。能登屋の主も、駿輔に両手をついて頭を下げた。それを見て、駿輔は言った。

「能登屋殿、藤殿、頭を上げなされ。」

能登屋の主と藤は、頭を下げたままだった。駿輔は、二人を見詰めて言った。

「藤殿が、私の伴侶としてこられれば、この上もなく嬉しく、喜んでお迎えいたします。」

その駿輔の言葉を聞くと、藤は顔を上げて駿輔を見詰めた。駿輔は、藤に向かって丁寧に頭を下げ

「良き者となるように、心掛けます。よろしくお願いします。」

と言った。駿輔が顔を上げると、優しく微笑んでいる藤の顔が見えた。能登屋の主が、畏まって、顔を上げると、駿輔と藤が見つめ合っているのが見えた。

 

 藤は、駿輔の案内で、屋敷を見て回った。藤の指図で、昼食が用意された。田村右近の賄いは、お里が務めた。午後になって、高頭進之助が訪れた。駿輔は、田村右近を、進之助に紹介した。

「長州藩士、田村右近殿だ。幕府の者の手にかかり、傷を負っている。京に赴いたとき、大変世話になった人だ。殿には、話を通してある。田村殿の話は、他言無用だ。」

田村右近は、床で足を投げ出して、上体を前にして挨拶をした。

「拙者は、高頭進之助と申します。田村右近様のお名前は、聞いております。倒幕の志士、その中の中心的な人と聞いております。私は、速水駿輔殿を、兄と思って慕っております。以後、お見知りおきください。」

進之助は、そう言うと、両手をついて丁寧に挨拶をした。

「まさしく、精悍な面構えをしている。速水殿も、頼もしい友を持っている。時代は、大きく変わっていく。共に携え、進もうではないか。よろしくお願い申す。」

その重厚な声を聞き、進之助は再び、深く頭を下げた。

 

 駿輔と藤は、藩主堀口俊高のもとを訪れた。そこには奥方の八重がおり、寛いでいた。駿輔と藤は、藩主堀口俊高と奥方に、丁寧に挨拶をした。藩主堀口俊高は、二人が揃って顔を見せたのを、物珍しそうに見詰めた。

「殿、速水駿輔は、腰元の藤殿を妻に迎えたいと思います。どうかお許しを頂きたく、お願いに上がりました。」

駿輔が口上を述べると、駿輔と藤は、深くお辞儀をした。

「駿輔、この俊高、承知した。八重、似合いの夫婦だよ、のう。」

奥方の八重も、目を細めて微笑んでいた。

「藤、駿輔には、色々と難儀をかけている。これからも、大難儀をかけるだろう。頼むぞ。」

藩主堀口俊高は、藤にそう言った。駿輔と藤は、平伏した。そして駿輔が

「お許しを頂き、誠に有り難き、幸せにございます。藤共々、一層、殿のために尽くす所存でございます。」

と礼を述べた。藩主堀口俊高は、大きく頷いて、喜びを隠そうとしなかった。

 

 城代家老井原嘉門は、藩主堀口俊高の事前の承諾もなく、会津との同盟を約束し、幕府の侍を城内に入れていた。それに対し、藩主堀口俊高は快く思っていなかった。正式に同盟を結ぶには、会津と堀口藩の藩主が、直接会見して決める必要があった。藩主堀口俊高は、会津に出向くことを嫌った。

 会津藩は、藩境に兵を進めた。藩主堀口俊高を、会津まで足を運ばせるためだった。会津藩の勢力を無視することができず、藩主堀口俊高は、困り果てていた。駿輔を呼び、打開策を求めた。駿輔は、考えた末、妙案を述べた。

「殿、次のようにしてはいかがと思います。藩民の力を借りるのです。殿は、会津に籠で向かいます。途中、藩民が待ち受け、殿が会津に行くのを引き留めます。夥しい藩民が相手であれば、行くことは適いますまい。」

藩主堀口俊高は、暫く考え、言った。

「夥しい程の藩民が動くだろうか。井原嘉門は、突破することを選ぶだろう。」

駿輔は、自信ありげに頷いた。

「藩民は、戦いの場となるのを避けたいと思っております。出立の日と時間が分かれば、藩民を集めることは、そう難しいことではありません。藩民には、それぞれ竹槍や鎌などを持たせましょう。」

駿輔は、更に言った。

「会津は、新政府軍の標的となっていることを承知しております。手段を選ばず、戦の準備をしているはずです。殿が会津に赴けば、幽閉される虞が、十分考えられます。殿が藩に止まり、藩民を奮い立たせる方法ともなります。」

駿輔の提言に対し、藩主堀口俊高は俯いた。暫くして、顔を上げた。

「駿輔、そちの言う通りにしよう。出立の時などは、知らせる。よろしく頼む。」

藩主堀口俊高は、駿輔に言うと、少し晴れやかな顔となった。

 

五月に入り、朝廷軍は江戸城を無血開城した。会津藩から、藩主堀口俊高を招来する要求が強く行われた。五月の中頃になって、藩主堀口俊高は、会津に向かうため、渋々籠に乗り、堀口城を出発した。行列に随行する者は、家老井原嘉門が選んだ三十人程の行列だった。

折しも雨が降っていた。城を出て、一時間程進んだところに、八幡という集落があった。山間に近い、竹林が広がっている集落だった。集落に近くなったところまで進むと、その集落から、ぞろぞろと人影が、雨で霞んだ中に現れた。家老井原嘉門は、行列を止め、様子を窺った。人影は、行列を取り囲むように迫ってきた。見れば、笠を被り、蓑を着けていた。百姓風情、町人風情、武士のように思われる者、それぞれが竹槍と鎌、鉈などを手にしていた。

藩主堀口俊高は、籠の中から外の様子を見た。夥しい程の藩民が集まっていた。

「これでは、先に進めないだろう。それにしても、これだけの藩民を集めるとは、駿輔は、たいした者だ。」

藩主堀口俊高は、少し笑いながら、声を落とした。

 城代家老井原嘉門は、先頭を歩いてくる男に言った。

「私は、城代じゃ。これは何の真似だ。」

先頭を歩くのは、年寄りだった。右手に竹槍を持ち、城代家老井原嘉門の前で立ち止まった。

「私は、島潟の庄屋、佐久間甚左右衛門だ。堀口藩の領地で戦になるのは御免蒙る。会津と一緒になれば、この地は戦場となる。殿は、会津に行ってはならない。城へ引き返すのだ。藩民、全ての思いだ。城へ引き返すのだ。」

家老井原嘉門は、刀を抜いて追い払う構えを見せた。

「道を開けろ。邪魔立てすると、斬り殺すぞ。」

藩民は、一斉に城代家老井原嘉門に対して竹槍を構えた。

「藩民に刀を向けるなんて、そんな城代なんか、城代なんかではない。殺してしまえ。」

そんな大声が、中程からあがった。それに呼応するように、藩民の声が湧き上がった。そして、竹槍を構えた藩民が一歩近付いた。城代家老井原嘉門は、刀を投げ捨てた。待てと言わんばかりに、両手を前に出し。

「分かった。城へ引き返す。皆に、引くように言ってくれ。」

城代家老井原嘉門は、籠の側まで行き、藩主堀口俊高に、城へ引き返す旨言った。行列は、向きを変えて城へと引き返した。

 城代家老井原嘉門は、六月に入って、中頃と終わり頃の二度、藩主堀口俊高が会津に向かうのを進言し、行列を整え、城を出立した。二度とも、夥しい藩民によって阻止された。藩主堀口俊高は、会津に向かうことを断念した。藩主堀口俊高は、心ならずも喜んでいた。

 

 城代家老井原嘉門は、藩主の会津行きが、藩民によって阻止されたことから、夜陰に紛れて、歩いて藩主を連れ出すことを企らんだ。 城代家老井原嘉門は、会津の十人の侍を連れて、城主の部屋に入ってきた。

「殿、会津へ行ってもらいたい。会津藩士がお供をする。」

会津藩士の上席の者と思われる者が、目配せをすると会津藩士全てが立ち上がった。

「堀内殿、お連れ申す。同道願いたい。」

と言いながら、城主に向かって進んできた。城主は、駿輔に目配せをし、側近の侍二人を呼び寄せた。側近の一人は高頭進之助で、城主の前に立ち身構えた。

 

 駿輔は、立ち上がると会津藩士の前に立ちはだかった。

「殿は、行かぬ。断りもなく上がるなど、無礼であろう。早々に立ち去れ。立ち去らぬとあれば、この一刀斎がお相手いたそう。」

会津藩の上席の者が、刀を抜いて駿輔に斬りかかった。駿輔は、太刀を払うと凄まじい早さで袈裟懸けに続いて胴払いをすると、右手に刀を提げた自然体になっていた。上席の者は、血を吹き上げて崩れ斃れた。会津藩士は、怯み退いた。

「あの無構え、闇の一刀斎だ。何故、ここに居る。」

闇の一刀斎は、京都で幕府側の侍を多く斬り殺し、朝廷側の志士を助けていた。二年ほどすると、京から姿を消したが、その凄まじい剣裁きは幕府側の侍に恐怖を与えていた。幕府側、特に会津藩士には知れ渡っていた。

 会津藩士は、藩主堀口俊高を連れて行くことを断念し、駿輔に斬り殺された藩士を担いで、立ち去って行った。城代家老井原嘉門は、静かに藩主を見つめていた。

「殿、会津は雄藩でござる。官軍ごときの手には落ちますまい。道を誤ってはなりませぬ。会津に行って、松平殿と会っていただきたい。」

城代家老井原嘉門が、平伏して言った。

「井原、お手前の意見は分かった。暫く考えよう。」

藩主堀口俊高は、更に付け加えるように、家老井原嘉門に言った。

「ここにおる速水駿輔を、家老職にする。井原に申しつける。呉々も、粗略に扱ってはならぬ。命に違えれば、容赦はせぬ。よいな。」

藩主堀口俊高の言葉は、厳しいものがあった。それは、家老井原嘉門を城代として扱わない意味でもあった。

 

 藩主堀口俊高は、京都へ藩兵を派遣してはいたが、現段階で会津を全く無視する訳にもいかなかった。会津や庄内の藩兵が、藩境に陣を構え、威圧していたからだった。領民を考えない、会津藩主とは同盟を組みたくなかった。

「家老井原殿を将にして、兵を会津側のために遣わしましょう。敵を防ぐために、街道を固めると言うことで良いのではないかと思います。会津と離れたところで良いと思います。」

駿輔は、藩主堀口俊高に進言した。

「いずれ、朝廷軍は、東の方から北上し、会津に向かっております。藩境の、会津や庄内の兵も減っております。いずれは、姿もなくなると思います。」

城主は、駿輔の進言に耳を傾けた。

「分かった。家老井原嘉門に兵二百を与え、加茂に陣を設けさせよう。情勢が変わり次第、高頭進之助を派遣し、家老井原嘉門をお役ご免とすれば、勝手に動くだろう。余計な血を見ないで済むことになろう。そうだな。」

藩主堀口俊高は駿輔に言った。

「御意でございます。藩の事情につきましては、朝廷軍と話し合う機会があれば、納得いくように申し上げます。我が藩は、朝廷のために京都に兵を派遣しております。心強いことです。京都の窪田正直にも、その旨伝え、朝廷側の理解を得るようにしましょう。」

駿輔は、藩主堀口俊高が進言を理解しているのを確認、更に助言した。それを聞いて、藩主堀口俊高の顔は、明るくなった。

 

 錦の御旗を先頭に、官軍が領内に入った。藩主堀口俊高は、城内に家来を集めたが、戦わなかった。官軍は、城を明け渡すように要求した。それまで、藩主が態度を明らかにしなかったためだった。話し合いをすることに決まり、官軍の軍監岩村精一郎と家老速水駿輔が、町外れの洞厳寺に入った。

「戦いはしないが、城を明け渡すことができない。どういうお考えか。」

官軍の軍監岩村は、速水に言った。

「これ以後、我が家来も、貴軍に従わせたい。戦いが終わるまで、城は必要でござる。」

速水は、そう返答した。

「恭順の意向は分かった。でも余りにも、都合の良い話ではないか。」

官軍の大将は、訝った顔を見せた。駿輔は、軍監岩村は知らない者だと思った。田村右近と面会させれば、知己があるかも知れないと思った。

「長州の田村右近殿を知らぬか。」

「知らんな、それがどうした。聞きたいのは、城を明け渡すかどうかだ。」

駿輔は、軍監岩村が不遜な態度をとり続け、話にならないと思った。

「城を明け渡すとは、重大なことだ。城内で相談いたす。」

軍監岩村は、そっぽを向いて言った。

「そうか、お主はそれだけの立場でしかないのか。待つのは、明後日の正午までだ。返答がなければ、軍を進める。」

駿輔は、有り難そうに頭を下げた。実り無い会談は終わった。

 

 駿輔は、城に戻り藩主堀口俊高に報告した。藩主堀口俊高は、部屋の天井を見上げた。顔を下ろすと、駿輔に相談した。

「軍監の岩村、聞いたことのない者だな。どうする。」

駿輔は、藩主堀口俊高の目を見ながら、頷いてから言った。

「話の分からぬ人だった。城を明け渡すことはございますまい。戦もしたくはないですが、陣構えをしなければならないと思います。」

藩主堀口俊高は、田村右近の意見も聞きたいと言った。暫くすると、田村右近が姿を見せた。事の子細を駿輔が説明し、田村右近の意見を聞いた。

「城の明け渡しを求めるという話は、軍議でも採用されていなかった。おそらく、岩村の戯言だろう。軍議に背く話をしたのであれば、戦っても差し支えない。俺の名前を知らないといったのであれば、全く駿輔殿を軽んじたのであろう。この地の参謀は、山縣有朋だ。山縣が知れば、カンカンになるだろう。」

田村は、そう言って少し笑っていた。

 

回答の日の朝、駿輔が指揮を執って、陣を張った。昼頃になって、官軍の軍勢の姿が見えた。数少なくなった会津の兵も、戦陣に加わると申し出たが、当藩だけで十分だと断った。田村右近も駿輔の側にいた。田村は、進軍してくる官軍の態勢を見て言った。

「まるで、丸腰の猪だ。戦い方を知らないようだ。」

駿輔は、官軍の左翼に展開させた部隊に、狼煙で合図した。轟音を発して、大砲が一発撃たれ、官軍の近くで炸裂した。官軍は、左翼部隊を展開させようとした時、駿輔のいる本隊の大砲が一発発射され、官軍の正面近くで炸裂した。官軍の兵の動きが完全に止まった。暫くすると、官軍は退却を始めた。

「退却か。賢い選択だな。でも、退却のやり方も拙いな。」

田村右近はそう言った。官軍の姿が見えなくなると、斥候隊を散らし、駿輔は兵を引き上げた。会津の者は、官軍を退却させたことに、小躍りして喜んでいた。

 

 翌日になって、官軍から会談の申し込みがあった。使者は、参謀の山縣有朋からの書状を持参した。書状には、田村右近も同道いただきたいと記してあった。会談場所は、洞厳寺で官軍は山縣と岩村が席に着いた。

「速水殿、この度は誠に失礼した。岩村には、厳しく言って聞かせた。」

岩村は、小さくなって俯いていた。山縣に促され、駿輔と田村に頭を下げた。

「先日の会談、その辺の家老と同じと思い、軽んじて扱い申した。田村殿がこの辺にいるはずはないと思い、知らぬと申し上げた。城の明け渡しの件は、脅かしのつもりだった。不敬千万の言動、心から恥じている。」

岩村は、恥を忍んで二人に謝罪した。

「昨日、戦いにならなくて良かった。速水殿と田村殿が率いる軍と戦えば、結果は知れたものだ。皆殺しになるところだった。退却してきたところに、私が督府陣に着き、話を問いただしたところ分かった次第だ。速水殿の申し出のとおり、決着するように総督府に報告する。それまで、待っていてくれぬか。こちらの軍は進めない。」

山縣は、そう話を進めた。駿輔は、気懸かりなことがあると言った。

「どうも、会津が煩わしくてならん。会津攻めは、官軍と一緒になるが、それまでの間、ふらふらとした態度を取ることにしている。官軍が、我が領土に入って合流した時に、受け入れて態度を明らかにする。会津と庄内が藩境に兵を進め、うろうろしている。」

山縣は、駿輔の申し出を素直に受け止めた。官軍の兵は、総督府からの回答あり次第、出発させて合流させることに合意した。

 

山縣は、急使を総督府に、堀口藩との会談結果の承諾と田村右近が生還したことを報告した。総督府からは、会談内容は全て了承し、田村右近を軍監とするように返信があった。更に、駿輔に対して、京都で助力を受けたことの感謝の言葉が添えてあった。

藩主堀口俊高は、藩の重役を集め、決断を伝えた。

「私は、新政府軍と手を組む。必要があれば、新政府軍を城内にも入れ、兵も与える。」

その決断に基づき、幕府及び奥州同盟各藩の侍、併せて五十人を追い払った。筆頭家老の井原嘉門を免職として、領地没収とした。井原嘉門は、かねてからの同志を集め、共に会津に赴いた。その数は、僅か二十人ほどだった。

 

 田村右近の率いる新政府軍は、新潟を占拠しなければならなかった。新潟には、米沢藩家老色部長門が新潟奉行として率いる奥州同盟軍が支配してた。海路から黒田了介の率いる新政府軍が、堀口藩領内に上陸し、田村右近の率いる軍と合流し、信濃川を挟んで奥州同盟軍と対峙した。

 駿輔は、高頭進之助を伴い、信濃川を渡った。色部長門を説得に行くためだった。色部長門は、駿輔を丁重に迎えた。

「速水殿、時の趨勢は知っている。残念であるが、越えることのできない壁が、私にはある。米沢藩と新潟の町に思いを馳せるだけだ。」

色部長門は、寂しそうに、そして静かに駿輔に向かって言った。駿輔は、色部長門には、他に選ぶ道はないと思った。無言で、別れの杯を交わした。

 駿輔は、新潟の町から戻ると、田村右近の陣屋を訪ねた。

「色部殿は、優れた御仁だ。時代の流れを知っておられる。負け戦を承知して、指揮に当たっておられる。心中を察するに、余りあるものがある。」

駿輔は、田村右近に言った。更に、

「できたら色部殿を生かしてくれぬか。」

俯いて、力無く言った。駿輔は、戦いの中で、不可能に近いことを知っていた。田村右近も、明確に答えることができなかった。

 

 信濃川を挟んでの対峙は、一週間程に及んだ。双方とも、散発的に大砲を撃っていた。新政府軍は堀口藩を含め約三千の兵、奥州同盟軍は約二千五百の兵だった。駿輔は、上流の庄屋に命じ、舟を集めさせた。新政府軍は、新潟の町から離れた上流で、信濃川を渡った。駿輔は、堀口城に戻り、城に詰めた。

 田村右近は、新潟の町に向けて軍を進めた。新潟の町に近くなった地で、軍を止めて陣を張った。陣を張った、翌朝、奥州同盟軍が、少人数で突如攻撃を仕掛けてきた。新政府軍は、これを蹴散らした。間もなく奥州同盟軍が、総攻撃に転ずると思っていた。四方に斥候を走らせ、奥州同盟軍の動静を探らせた。

 

田村右近は、朝の戦いの跡を見て回った。戦場から外れた畑の中に、若い侍が、血まみれになって胡座をかいて腰を下ろしている姿が目に入った。胡座の中に頭程の大きさの血に染まった白布を抱えていた。側近の者は銃を構え、田村右近は、若い侍の側まで行った。

「抱いている物、首級と見受けた。どなたの首級だ。」

「色部様でございます。お渡しすることはできませぬ。」

「色部殿。何故、先陣におられたのだ。」

「先陣ではございませぬ。朝方の戦いは、全軍での戦いでした。」

「合点がいかぬ。多くの侍がいたのではないか。何故、出向いての戦いなのだ。」

「色部様は、各藩の侍を帰しました。残った米沢藩の半数の侍も帰しました。何故か、私には分かりませぬ。新潟の町から離れたところで戦うと言われておりました。」

田村右近は、若い侍の言葉を聞いた。戦いが長かろうが、いずれ勝ち目のない戦であることを知り、多くの侍が異境の地で果てることに忍びがたかったのだと思った。また、戦火で、新潟の町が焼け、人々が悲惨な状態に陥るのを避けるために出向いての戦いだったとも思った。

「速水殿が言っていたように、色部殿は優れた御仁と思われる。何故、命を粗末にされた。犬死にではないか。」

田村右近は、心の中で呟いた。畑中の道を向かってくる僧侶の姿があった。僧侶は、若い侍の前で跪き、手を合わせて

「南無阿弥陀仏」

と幾度も唱えていた。僧侶は、若い侍に、首級が色部長門であることを確かめた。立ち上がると、田村右近と向かい合った。

「私は、新潟の光林寺の僧侶でございます。色部長門様を、寺で弔いたいと思います。この若者と共に、光林寺へ戻りたいと思います。どうか、お許しを頂きますように。」

田村右近は、光林寺が奥州同盟軍の本陣であることを知っていた。

「分かった。供養、よろしく頼みます。」

田村右近は、僧侶に深々と頭を下げた。

 

 田村右近は、去って行く僧侶と若い侍を見送り、合掌を捧げた。陣に向かい、歩きながら色部長門の死を考えた。

「いずれ新しい政府が実権を握る。奥州同盟の各藩には、厳しい処分があるだろう。米沢はどうだろう。国家老の責任とするだろう。戦いが大きく、激しくなれば、藩主にも責任が及ぶだろう。色部殿は、米沢藩の人柱となったのか。」

田村右近は、立場のある者の責任と悲しさを思った。

 

 新潟の町には、黒田了介の率いる軍を残し、田村右近は新政府軍を率いて堀口城に入り、一週間ほど城内に留まった。駿輔は、軍監田村右近に遠慮して、兵に加わらなかった。ただ、親友の高頭進之助を隊長に、三百人の藩士を官軍の兵として派遣することとした。一週間の間、新しい武器の習熟、訓練をさせた。主に軍の先鋒に位置して戦うことになった。

 意気揚々として、堀口藩を先頭にして、朝廷軍は会津に向かって出発した。