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「山 道」

 

               佐 藤 悟 郎

 

 

 昭和も進み、この山の果てまで道が舗装されるようになった。明日を見つめた乙女も、今はどこかへと消えてしまった。そうだ、この山道を登ったところだ。この道が、未だ白埃のする砂利道だったころ、あの高い山に向かって進めば、秋の葉の色に包まれた峠があった。そこからは、木々の間から見える黄色に濁った大河があった。その大河は盆地の中を流れていた。吹き上げる冷たい風に揺れながら、老いた杉の木が山道を暗くしていた。峠から見下ろす景色は、彩りと光が豊かだった。峠から、さらに小高い丘に向かって、急な坂道が二つに分かれていた。無心に、その坂道から丘に向かって走り続けた。小高い山は、峠から幾らもないところだった。

 

 妹と思っていた玉代が、自分の妹でないことを知ったのは、いつのころだったのだろうか。酒に酔った父が、玉代と見知らぬ人の名を叫んで小言を言っているのを、土間の陰で聞いてしまってからである。その時、母が父のところに駆け寄ってすぐに止めたから、妹に知れなかったと思った。母は、諭すように私に言った。

「玉代に言うんじゃないよ。今のは、冗談なんだから。」

そう言った母も、父も寂しそうだったことを覚えている。

 

 この家に玉代がいる限り、寂しくはなかった。年は二つ下だけれど、いつも愛嬌よく笑顔を見せていた。その清潔さに、妹ではないように感ずることさえあった。小さなこの集落は、戸数も四十にも満たないところだった。四方山に囲まれ、近い町といっても、峠を越えて数里も歩かなければならなかった。この集落の人々は、ほとんど町に出ることはなかった。

 

 初夏と言っても、肌に冷気が感ぜられる頃だった。その日の朝、妹は母に櫛を入れてもらい、結い立てたばかりだった。私は、台所で食べ物を探していた。ガタガタ音を立てたことから、母の声がした。

「何をしてるの。台所には、何もないよ。」

私は、何食わぬ振りをして母の前を通った。そして、またもや忍び足で台所にこっそりと入った。今度は、細心の注意で、腹這いになり戸棚を窺がった。辺りに目を巡らせていくと、柱に凭れている玉代の姿が目に入った。玉代は、細い眉が濃く、黒い大きな瞳をして微笑んでいた。

「玉代、お前知らんか。」

「何をですか。」

首を傾けて、微笑みながら、からかうように玉代は答えた。

「腹が減っているんだ。」

「だったら、ご飯を食べたらどうなの。」

「そうじゃないんだな。」

玉代がからかっていることから、少し大きな声を出した。

「しぃー。」

玉代は、唇に指を当てて、腰を屈めて居間の方を窺がった。そして、私に近寄り、小声で囁いた。

「私、知っているわ。大福餅のあるところ。」

「おい、教えろ。」

玉代は、少し躊躇っていたが、言った。

「兄さん、私の分も上げるわ。だから、私のお願い事聞いて。そう、それなら教えてあげる。」

私は頷いた。玉代は、嬉しそうに大福餅を出した。

「おいしいな。」

大福餅を食べながら、玉代を見返した。快く膨らんだ髪と小さな口元を見つめた。薄っすらと唇に紅がさしていた。

「お前、紅を付けているのか。」

「お兄さん、どうしてそんなことを言うの。」

「おしゃれだな。」

「嫌なお兄さん。今日が初めてよ。」

私が大福餅を食べ終わると、連れ立って私達の部屋に入った。

「お前の願いこととは、何だ。」

私は玉代に聞いた。願い事は、大体適えてやったのだった。

「お兄さん。阿古の渕に連れて行ってください。玉代、まだ行ったことがないの。お父さんがいけないと言うから。」

「どうだ。一つ食え。」

懐に一つ隠し持っていた大福餅を突き出した。私の言葉は粗野だった。玉代は、透き通るような声で、明るく答えるのが取柄だった。

「いただくわ。連れて行ってくださいね。」

「でもな、女の子が行くところじゃないよ。綺麗なところだが、行って帰ってくるまでが難儀だぞ。」

「分かっているわ。でも行きたい。」

「よし、お母さんが良いと言ったらだぞ。それにもう一つ、昼飯を拵えてくれたら、連れて行ってやるぞ。」

私と玉代は、母のところへ行った。理由を言わなかったが、母はいけないと言った。玉代は、その時ばかりはすっかり悲しそうな姿を見せた。じっと頭を動かさず、膝元を見つめ、空ろな目をしていた。いつも母の言うことに従っていた玉代が、そんな寂しそうな姿を見せるのは初めてだった。

「母さん、どうして駄目なんだ。玉代だって、こんなに行きたがっているのに。いいだろう。」

玉代は、私の顔を見つめ嬉しそうだった。母は、中々良い返事をくれなかった。玉代は、母に向かって両手を丁寧について、頭を深く下げた。母は、涙を浮かべている玉代の顔を見て慌てた。

「行ってきなさい。遅くなるんじゃないよ。」

母は、玉代が涙を浮かべているのを知ると、慌てて承知したのである。玉代は、急に明るく嬉しそうな顔を私に見せ、急いで台所へと駆け込んで行った。

 

 朝の八時過ぎころに家を出た。初夏の日差しを受け、玉代は薄い紺色の袴を身に付け、私の後から小走りに付いてきた。私に追いつくのが精一杯の様子だった。深い山に入り、木々の重なり合う道を抜け、目に鮮やかに映る若葉の灌木の多い広い処に出た。前方には杉の林が見えた。

「疲れたか。」

私は、時折玉代に声をかけた。玉代は、その度に首を横に振って見せた。私は、荒々しく、足早にどんどん先を急いだ。

 深い崖渕を通り、三里ほど山道を歩いたところで、道は急な上り坂となって、山腹の木々の茂みに消えていた。その茂みを通り抜けてしまうと、山の峰の連なりの中に、V字型に割れているところが見え、道は急な坂となってその掘割に続いていた。ようやく私と玉代は、その掘割まで辿り着いた。

 

 谷が深く、大きく広がり、木々の緑が急な勾配となって落ちていた。その遥か下の方にキラキラ輝く水の流れが見えた。殆ど垂直に立つ岩肌が木々の間から覗いていた。

「まあ、綺麗だ。お兄ちゃん、きて良かった。玉代、この景色ずっと、何時までも覚えているわ。」

私は、少し大袈裟に喜ぶ玉代の姿を見て、連れてきて良かったと思った。

「これから渕まで降りるまでが、一番危ないんだ。気をつけるんだぞ。」

玉代の手を取って、ゆっくり降り始めた。渕まで降りてみると、堀割がある処より、よほど川上となっていた。近くの滝の音が、絶え間なく谷に響いていた。そして、山の沢の音も交錯して聞こえくるのだった。この阿古の渕には、四方からの水が集まり、流れが緩くなっており、少し川下には大きな滝があった。

 

 玉代は、本当に嬉しそうに渕を見つめ、谷間の木々の移りを、瞳を上げて見つめていた。握り飯を頬ばりながら、時折叫び声を上げている玉代の姿を見ていると、私の心も楽しく明るくなるのだった。

 

 阿古の渕は広かった。少し休んでから、水の流れに向かって上り始めた。急に渕には足の置く岸辺がなくなり、険しい岩肌が垂直に渕に沈んでいた。渕の所々に、岩が水面に姿を現しているのである。大理石のような美しい岩だった。

「お兄ちゃん、あそこに百合が咲いているわ。欲しいな。」

私は、玉代の指先を見た。

「よし、取ってきてやろう。」

私は、玉代の顔を見返し、飛び石を渡るように一気に向こう岸に渡り、玉代を見て手を振った。やっと岩の足場を辿り、一本の大きな百合を手折った。百合が壊れないように慎重に戻り、玉代にしっかりと握らせた。玉代は百合を受け取り、私を見つめた。

「嬉しいわ。お兄ちゃんありがとう。」

私に愛らしい眼差しを見せ、手をこまねいて首を傾け、百合の花を見て喜んでいた。この渕に来るまで、玉代は、随分と無理をして歩いてきたのを分かっていた。

 

 帰りは、道すがら色々と話をしながらゆっくりと歩こうと思った。だから、早目に出発をしなければならないと思い、玉代に帰ることを促した。上り口に向かって連れ添って歩いた。

「ああ、百合か。」

誰が流したのか、緩い流れに百合が浮かんでいた。玉代は、じっと見つめながら歩いていた。百合は、渕まで来ると浮かんだままで流れそうもなかった。妹は、岸辺に歩み寄った。その百合を見つめ、屈み込んでしまった。私も、その百合を見つめていたが、その後に妹の姿を見た時、思わず後退りをしそうになった。何とよそよそしい姿なのだろう。その鋭い姿は、私の脳裏を貫いた。玉代の姿は、憂いと寂しさの姿だった。私は、その時尋ねてみた。

「玉代、どうかしたのか。急に。」

「兄さんが…」

聞き取れないような声で呟いた。

「俺が、どうかしたのか。」

妹は、もう黙りこくってしまい、いくら私が、何かしたのかと尋ねても答えてくれなかった。問い詰めるほどに、妹はよそよそしく、潤んだ瞳で見返すばかりだった。今朝、母の前で泣いたことなど、何もかも理解することができなかった。その潤んだ瞳は、甘美な情景で私の胸を一瞬横切った。そう感じたことを馬鹿ばかしく思うと、妹の素振りが腹立たしく思えてならなかった。

 

 腹立ち紛れに、私は一人で急いで上り口まで急いで歩いた。直ぐ、妹も後を追いかけてきた。それを構わず、険しい道を登っていった。時折振り返って見ると、妹が坂道から落ちまいと、必死になって私を追いかけているのが分かった。危なげな妹の姿に、妹のところまで戻り、手を差し伸べた。

「お兄様、有難う。」

明らかに他人に対する言葉使いのように思われた。腹立たしくはあったが、妹一人でその坂を登り切ることは難しく、手をそのまま貸していた。坂道を登り切り、安全なところまで来ると、私は手を離し、足早に黙々と歩き始めた。それでも私は妹が気がかりだった。妹の小走る音に注意深く耳を傾けた。石もある山道、草もある山道、道は妹にとって安全だと思ったけれど、一方が深い谷になっている。もしや石や草に躓いて谷にでも落ちてしまったらと、心配で振り返っても見た。妹は、安全だと分かると、また足早になった。いつまでたっても、妹の小走る音は止まなかった。振り返るごとに、妹はそこで歩みを止め、微笑を浮かべ、顔を伏せてしまうのだった。

…まるで他人じゃないか。待ってくれと言ってくれればよいものを、何だか他人みたいだ…

そう思うと、腹立たしいというより、悲しくもなった。家に帰って、妹が私より随分後から、それも息を切らしながら帰ってきた。私は、ひどく母に叱られてしまった。でも、家の中では暫くの間、妹は妹らしく、私に甘えてくれたので腹立たしさも収まった。

 

 父が、酒に酔い潰れて言った言葉を聞いてからというものは、玉代を妹として見ることができなくなってしまった。東京から、下男風の男がやって来た。男は、二日後に、玉代を東京の実の父母のところに連れて行くと言った。私の父とは母は、下男風の男に、大層気を遣っていた。そして、下男風の男は、二日間、私から玉代を取り上げてしまった。

 

 そして別れる日に、玉代と私、下男風の男と私の父母、共に連れ立ち無言の歩みを続けていた。この町へと続く山道は、いかにも遥か遠く、寂しい道に思えた。そして、昨夜のことを思い出した。

 

 私が床に就こうと、布団を出している時だった。突然、妹が部屋に飛び込んできたのだった。遠くに去ってしまう玉代に対して、もう腹立たしさはなくなっていた。何か、物悲しい思いで一杯だった。

「どうしたんだ。まだ寝ないのか。」

「はい、東京の人が眠っている間に来たの。」

「さあ、おかけなさい。」

座布団を勧めた。玉代は、暫く居座った。

「明日は、東京に行くのか。」

「はい、有難うございました。色々と。」

妹と思っていた玉代が、急に他人だと分かり、何も言うことはなかった。ただ、黙って見据えていた。少し経って尋ねた。

「阿古の谷で、玉代は泣いていたね。どうしてだ。」

「兄さんが…、兄さんが、この家にいるからよ。東京へ帰ること、迷ってしまったの。」

「玉代は、前から私と兄妹でないことを知っていたのか。」

「ええ、ずっと前から。三年も前かしら、兄さんがいない時、やはりあの人が来て、教えてくれたの。」

「兄さんには、玉代を引き止める力が無かったんだね。」

玉代は、甘い顔を見せていたが、急に瞳が潤んだ。私には、どうすることもできなかったが、泣かせることだけはいけないと思った。そっと玉代を抱え起こし、部屋まで連れて行った。

 

 町への古い山道を歩きながら、私は考えていた。昨夜の玉代の涙といい、阿古の谷での涙と言い、確かに妹という立場の涙ではなかったと思った。昨夜、私の胸の中で、夜が明けるまで泣かせていたなら、玉代は自分の決意を翻したと思った。何故か、私にはそれができなかった。

 

 父母と下男風の男が、先に連れ立って歩いていた。玉代は、ただ俯いて歩いていた。東京から遥かに遠いこの地から去れば、再び玉代に会うことはできないと思った。町と大きな川を見下ろす、杉の木の多い峠に辿り着いた。町と川が小さく光って見えた。

「玉代、私はここからは付いていかないよ。」

玉代は頷いた。玉代は、私の顔を見ながら耐えかねたように言った。

「お兄様、お兄様はいつまでたっても、お兄様よ。」

「いや違う。私は、もう玉代の兄ではないんだよ。」

「いやよ、お兄様よ。そうでしよう。お兄様でなかったらなんなの…。お兄様の口からはっきり言って。玉代の心を決めるから。」

それは他の人が聞いていたら、分かりかねるやり取りだった。東京には、玉代を迎えてくれる豊かな家も、尊い父母もいる。私の心で、玉代の心を変えさせるのは、いかにも不憫だと思った。

「そう、玉代、お前の言うとおりだよ。長い間一緒に過ごしてきたのだ。お前は私の妹だよ。忘れずにな。いつまでも、俺はおまえの兄さんだよ。玉代、俺には言うことができないんだよ。お前のためにも、東京で待っている人のためにも、どうしても言えないんだよ。」

玉代は、口が篭った風に

「済みません」

と言ったようだった。それも、両手で顔を覆って泣いてしまったのか、はっきりと聞き取れなかった。下男風の男が戻ってきて、玉代の肩に手をかけて、早く行くように促していた。

「お兄様、もっと、もっとお話がしたいの。心の隅々までよ。便りをきっといたします。この峠、きっと忘れません。お兄様、さようなら。」

昨夜泣き腫らした涙が、また新たな涙となって頬に伝わっていた。私は、山道の真中で茫然と立っていた。玉代は、振り返り振り返り別れを惜しむように歩いていた。曲がりくねった、大きな杉のある山道、妹の姿は容赦なく直ぐに消えてしまった。

 

 茫然と心が乱れ、幾時が過ぎただろうか、ふと我に返った。茫然としていた時、玉代との楽しい日々のことが、夢のごとく脳裏を通り過ぎていった。峠の山道からそれた小道を駆け上り、一番高いところに登った。

「お〜い、お〜い、玉代」

私は、そう叫んだ。その声は虚空にこだまし、玉代からの声は返ってこなかった。

「もう駄目か。もう手の届かない人となったのか。」

私は、恥ずかしさも忘れ、地に伏せて泣いてしまった。赤い土に、痛むほど体と顔を撫で付けていた。

 

 そう、もうあれから四十年も過ぎている。町への古い山道は舗装され、大きな杉も残り少ない峠となってしまった。あれ以来、玉代からの便りは来なかった。勿論、故人となった父母も、私も一度も会ったことはなかった。もう、白髪混じりの年になったが、年甲斐もなく、毎日のようにこの峠に登り、遥か彼方の空を見つめていた。そして、時折涙が流れた。