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「河 霧」

 

              佐 藤 悟 郎

 

 

 茶郷川の両岸は、山毛欅の大木で覆われ、日中でも薄暗く感ぜられた。茶郷川は、相当の幅のある川で、木々の葉の間から陽が落ちて、川面はキラキラと輝いていた。細い葉は赤く色付き、時折、葉が静かに川に舞い降りるのが見えた。 昭和の初め頃、この町には二つの学校があった。中学校と高等女学校である。当時、男女の交際は、固く禁じられていた。

 

良一は、茶郷川の岸で釣り糸を垂れていた。夏の夕べの風に当たるのが好きだった。川上の方から流れてくる香りで、土手を見上げると、堤の木陰で二人連れの娘が、しきりに手を振っているのが見えた。

 黄昏に紛れ、二人の白い清楚な服は、朧気に見えた。良一は慌てた。娘達が、女学生らしいことが、それとなく分かったからである。斬髪を許されぬ髪は、長く後ろに小奇麗に束ねられていた。良一には、自分に向かって手を振っているようにしか見えなかった。良一が、じっと娘達を見詰めていると、急に娘達は手を振るのを止めた。そして、何かためらっている様子だった。

 娘達は、それでも時折手を振りながら、近寄ってきた。良一は、娘達の様子が奇妙に思い、振り返った。隣の釣り人が、娘達に向かって手を振っていた。良一は、隣で釣りをしている老人の顔をみて急に恥ずかしくなった。そして俯いて川面を見つめた。深い水の流れの底に、水草が揺れているのが薄っすらと見えた。娘達は、堤から川縁に降りてきた。

 

 隣の川面を見つめると、白く淡い影のようなものが揺れていた。それは、誰かしらの服の影だと思った。波紋にじっと目を向けた。良一の家は、父が他界し、母と二人暮らしだった。特に、親しい友もいなかった。そんなこと思いながら、老人と娘達の話し声を感傷的に聞き、心が揺れるのだった。

 良一は、そっと娘達の方に向かって顔を上げた。黄昏の中、全てが白く、淡く目に写った。淡く色付いた顔、淡く色付いた服、黒い髪、全てが淡く思えた。目と唇は、ことに柔らかく思えた。時が樹のを忘れ見つめていた。一人の娘の姿だけが、脳裏に焼き付いた。美しい沈黙は破れた。

「それ、君、魚がかかっているぞ。」

 良一が見つめていた娘が急に振り向いて、娘は一瞬戸惑った様子だった。良一が、自分の姿を見つめていたからだった。良一は、老人の言葉が自分のものだったことに気付き、慌てて竿を上げた。魚はかかっていなかった。

 娘達が自分を見つめていると思うと、良一は見返す勇気がもうなかった。姿をはっきりと汲み取れぬ、水の流れを見つめ、流れが少し早くなったと思った。黄昏の寂しさ、家の寂しさはもうなかった。淡い幸福のような思いが、空虚な胸の中に満ちていた。何もかも忘れ、水面の波紋を見つめていた。静かに白い影が動いた。良一は、その娘も、水面に写る自分の影を見つめているのではないかと思った。

 

 黄昏が進むと、一人の娘の声しか聞き取れなかった。もう一人の娘は、ひたすら良一の影を見つめているものと思った。顔を上げてみた。やはりその娘はじっと良一の影を見つめていた。心持、首を傾けながら、思慮深げに佇み、瞳は何か虚ろにも思われた。涼風が流れると、娘はその目を上げた。二人はお互い見つめあい、微笑むと水面に目を落とした。二人の姿は静かだった。

 

 その日以来、良一の心は豊かだった。街の中の川を挟んで、東の丘に女学校、西の丘に中学校があった。街中で彼らが擦れ違うときは、わざとそっぽを向いて歩くのが常だった。時々、良一は、娘の姿を探り出そうとしていた。 ある日、良一がいつもより遅く下校したことがあった。もう、西の山影が街に落ち、街には明かりが灯っていた。東の山は、紫にも似た赤色で浮き、輝いていた。空は紅に焼け、町並みは薄青い煙が棚引いていた。久し振りに同級生と遊び、遅くなっての帰りだった。四人の同級生と歩いていたが、遅いことから期待する人の姿のことは、何も考えていなかった。女学校の生徒の姿はなかった。

 同級生と語り合い、街中から裏通りに行こうとした。その時、道の向かい側を一人の女学生が道を曲がって消えていくのを見た。白い小袖と、紺の袴が目に入った。良一は、期待の女学生に違いないと思った。

 

 翌日、良一は、わざと遅く下校した。時間も同じ頃、一緒に歩く同級生も同じだった。

「おい、向こうから来る女学生、松井と言うんだ。」

同級生の一人が、得意そうに話すのを聞いた。その女学生が、あの娘であることに間違いはなかった。良一は、毎日のように、その同級生と一緒に帰ることにした。娘の名前が、松井佐和子ということも覚えた。娘の家のことも知った。娘の家は、尊大な振りをした家だと言われていた。そんな噂が流れて、街の人が近寄り難い家であることを知った。良一は、一人でも、娘の帰るころに町を歩くことが多くなった。遠回りをしてまでも娘の通る道を選び、擦れ違うごとに深い喜びを感じていた。水面に写った、白い清楚な姿を思い起こし、波紋にも乱れない明確な姿を思い浮かべることができた。

 

 秋の雨の降った日、傘を忘れた良一は、必死に走っていた。いつもの時間に遅れているのだった。夢中に走り、小路への曲がり角まで来て、立ち止まった。曲がり角には、一人の女学生が立っていた。コウモリの下から顔をのぞかせ、走ってきた良一を静かに見守っていた。娘は、暫く良一を見つめていた。頷くように軽く頭を下げると、コウモリの下に顔を隠し、立ち続けた。そして、もう一度良一の姿を見つめてから、ゆっくりと角を曲がって行った。良一は微笑んだ。毎日、すれ違っていれば、娘もきっと気付いてくれると思った。その期待は意外と早く訪れたと思った。雨の中、自分を待っていた娘は、もう自分の名前も知っていると思った。

 

 良一は、日曜の朝早く、河霧のかかる茶郷川の瀬音を楽しむように歩いた。いくらか遠い距離を歩き、茶郷川の堤にたどり着いた。濃い河霧が流れ、時折、河霧の下に川の流れが見えた。娘に初めて遭った辺りを歩いた。鈍く光る川面を見つめた。

「釣りなんかしちゃ、手が汚れますよ。」

静寂を破るように、近くから声が飛んできた。堤に沿った長い生垣、生垣の中の庭は木々が繁っている。

「いいのよ。お父様が起きたら、呼んでくだされば。」

「そうですか。川に落ちないように、お気を付けくださいましね。」

 裏木戸から、白いものが飛び出してきた。良一は、そっとその釣り人が見えるところまで近寄っていった。釣り人の姿は、霧の中に溶けそうな姿だった。袴を穿き、白い小袖姿で豊かな黒髪が見えた。娘は身動きをしなかった。水面の一点に視線を投げているように思われた。河霧の流れる中に、幻のように浮かぶ光景だった。竿の動きなど気にしない娘の姿に清楚さを感じていた。娘は、隣に人がいるかのように、水面にその人の影を求めているかのようだった。

 

 朝霧に霞んでいる娘の姿は静かだった。屋敷の方から娘を呼ぶ声がすると、娘は、急に生きいきとして立ち上がった。秋の露草に濡れながらも、堤を軽々と登った。軽やかな足音を残し、娘は屋敷に飛び込んでいった。娘が立ち去った岸辺は、寂しかった。岸辺に残された竿の先は、無限の霧の世界の中に続いているようだった。

 良一は、草を踏み分け堤を降り、竿の近くに腰を屈めた。水面を見ると、川の深みは淀んでいるように見えた。時折、濃い霧が流れてくる。そっと、隣に目をやってみる。そこには、堤が霧の中に消えていく風景しか見えなかった。再び川面を見つめ、そして顔を上げたが、娘の姿はなかった。

 良一は、ふと思った。先ほど、娘がしたことと同じ事をしていると。自分の隣に娘がいないことが、到底信ずることができない思いだった。娘も同じことを考えたに違いないと思った。良一が、そう結論を出すまでに、かなりの時間がかかった。静かに川面を見つめた。白い姿が水面に写っている。明るさも増し、淀んだ水面に、かなりはっきり写っているように思えた。幻を見ていると思った。静かに、水面の影の持ち主を見つめた。そこには娘の幻があった。二人はお互い見つめ合った。柔らかい肌、柔らかい黒髪の光が美しく思えた。二人は、お互いに幻と信じていたのだろうか、天を翔けるがごとく想いを走らせ、互いに瞳を凝らしていた。

 

 娘の気高さが良一の胸に伝わってくる。その激しさも快く受け止めていた。娘の顔が綻んでくると、幸福でならなかった。頬が軽く膨らみ、濃い眉の下の眦は細くなり、唇は滑らかに引き締まった。娘は、微笑んだ顔を崩さずに、良一を見つめていた。そして、体を深く屈め、顔を傾けて一礼した。

 幻ではないのだった。竿を取り上げると、娘は堤を駆け上った。良一は立ち上がり、その白い姿と髪の舞い上がる様を見つめた。堤に上り切ってしまうと、娘は振り返り、深く丁寧なお辞儀をした。良一も深い礼を返した。

 全てが、幻でなかった。良一は、娘の心を知ったように思えた。娘の姿に、高貴さを感ずるとともに、少し自分を卑下しない訳にもいかなかった。茫々たる霧を見つめ、娘の家の豊かさを思うと、富がないことに一抹の寂しさを感ずるのだった。この違いがいずれ、娘との結びつきを引き離してしまうと思うと、怖い思いを抱いた。手の届かぬ木の枝に実があるからといって、手を伸ばして藻掻いているのと同じと思った。まだ、浅い交わりである。未来はこれから作り上げることができる。そう思い、自身を慰めるばかりだった。幸福を感じながら、寂しさも抱いて、良一の姿は霧の彼方に消えていった。その小さく消え行く姿に、希望の影はいかにも小さく見えた。

 

 良一の母は、四十にもなろうとする、若い母だった。夫を亡くして以来、幼い良一を抱え、毎日の暮らしに追われていた。良一は、母の温かい中で過ごしたためか、走り出すようなことはなかった。中学校の成績は上位の方だった。母は、それでも満足しなかった。子供のころから親しかった夫が、家庭の不幸で高等学校へ進学できなかったことを知っていた。それだけに、良一に期待をかけていた。

 夫は、結婚してから苦しい生活の中で、独学の道を歩んだ。それは、家庭のためにも、夫自身のためにも、少しも得にならなかった。そんな夫に比べると、良一はいかにも弱々しく、馬鹿な子供見えた。特に、中学校の終わりの学年になっても、それ以上に向上する兆しがないと確信していた。住み難い世情になって、母の働きは厳しく、子供に気を止めることもできなくなり、子供を単純にしか理解できなくなっていた。

 良一の母は、限界を超えて働かなければならなかった。小さな織物工場では、いかにも収入が無かった。不景気にも煽られ、仕立ての仕事をしなければならなかった。良一の母は、仕立て仕事は上手かった。それだけに、時々、徹夜の仕事をする状態だった。高価な品物は、収入が多いことから、よく扱っていた。それまでの無理が母にもたたり、胸を痛めていていた。夏の疲れがあり、秋になって弱っている母の姿を見るのは、良一にとって辛い思いがした。

 

 中秋の空は焼け、陽は山の彼方に消えていた。黄昏の灯火が淡く、煙に霞んだ町の大木が薄っすらと影を見せていた。いつもの曲がり角に差し掛かったとき、白い姿の女学生は良一を待っていた。良一の姿を認めると、深い礼をした。名残惜しそうに、時折、見返りながら歩く姿を良一は見送った。

 良一が家に戻り、玄関に入ると部屋の明かりがついていたが、物静かだった。突然、激しい咳の音を聞いて、良一は部屋に飛び込んだ。四畳半の部屋の裁板の上に、母が伏せていた。良一は、急いで部屋の隅に床を延べた。母は、一瞬失神しているようだった。母の顔から、淡い色の布をとった。その布地には、赤い斑点が染み付いていた。

 

 医者が帰った後に、布地を血で汚したのに気付いた母は、力なく彼に言った。

「良一、これを持っていって謝ってきて頂戴。松井様の家から頼まれたの。川沿いの大きな屋敷、知っているでしょう。」

良一は頷いて見せた。

「奥様にお会いして謝るんだよ。そして、後始末をどうすればよいか、聞くんだよ。」

母の言葉には力もなく、哀願するようにも聞こえた。染み抜きを終わり、仕上がった服を、紫色の風呂敷に包み、母は良一に手渡した。

 

 良一は、茶郷川の堤を通り、小路を歩いて松井の屋敷の門を潜った。潅木に導かれるようにして歩き、大きな屋敷の玄関の前に着いた。戸を開けて土間に入ると、上がりの廊下に金色の衝立があった。玄関の中は静かだった。

「御免ください。」

良一は力のない声をかけた。すると、襷をかけた女中が出てきた。女中は、両膝をついて、丁寧なお辞儀をした。

「奥様に会いしたいんです。謝りたいんです。」

女中は、良一が少し慌てているのを見て取った。そして、はっきりと言った。

「貴方様は、どこの、どちら様ですか。」

良一は俯いた。一瞬、どう答えればよいのか分からなかったのだった。

「住吉町の縫い物をやっている、町田フサの息子です。母に言い付けられてきたのです。」

良一が一気に言うと、女中は頷きを見せ、少し待っているように言って姿を消した。間もなく、松井家の女主人が、涼しい目をして彼の前に現れた。怪訝そうに良一の姿をよく見てから、土間にいる彼に言った。

「どうしました。たいそう慌てている様子で。ま、上がりなさい。」

女主人は、良一を応接室に通した。応接室は、洋間造りで、良一は、ソファーに座った女主人に向かって、深々と頭を下げると、母が病気であること、血を吐いたこと、仕立てを頼まれた布地を汚してしまったことを述べ、謝った。

「母は、体が弱っていて、来ることができません。この始末をどうしたらよいか、聞くように言われました。」

良一は、女主人の前に、今にも泣きそうな顔をして立っていた。

「お母さん、動けない程ひどいの。」

女主人は、静かな落ち着いた声で良一に尋ねた。

「ええ、医者に診てもらったんですが、首を横に振っていました。」

女主人は、驚いたように良一を見つめた。

「そんなに悪いの。御爺様にお話したの。」

良一は戸惑った。誰の話をしているのか分からなくなった。良一は、自分に祖父がいると言う話は聞いたことがなかったのだった。

「誰の御爺様なのですか。」

その問いに、女主人は肩を落とし、俯いてしまった。少し考えた後に、静かに言った。

「お母さんに言ってください。仕立ての件は心配しないでいいって。早く元気になるようにと、そう伝えてください。」

女主人は、心配そうな顔を上げると、立ち上がった。

「早く家に帰りなさい。包みは確かに受け取りましたから。お代は、明日、お宅に届けますからね。お母さんを一人にしないようにね。寂しいんだから、お母さんは。」

女主人は、薄っすらと目に涙を浮かべていた。良一は、玄関まで女主人に送られ、玄関を出ようとした。その時、下男を連れて家に帰ってきた娘の佐和子に出会った。良一は、娘に一礼をすると、駆けるようにして松井の家を後にした。

 

 良一は、家に戻ると女主人の話を母に伝えた。母は、満足そうな顔をすると眠りに陥った。翌朝、母の咳き込む音に、良一は目を覚ました。背中を撫で、紙を集めて横に置いた。良一が朝食の用意を始めようとした頃、誰かが訪れる声がした。玄関に出てみると、松井の女主人が、女中を連れて立っていた。

「お母さんの具合どうなの。上がるわ。それに、朝食を作って持ってきたからね。」

心配そうに女主人は上がり込むと、母の寝ている部屋に入った。

「おフサさん、元気出してよ。」

良一の母が目を開けた折に、女主人はそう言った。一瞬、母は笑顔を見せ、力なく眠りに落ちた。

「良一君、お医者さんを呼んできて。それに御爺様のところにお知らせして。御爺さまのこと、本当に知らないんだね。」

女主人は、そう言うなり黙ってしまった。

「とにかく、お医者さんを呼んで上げてね。」

今にも泣き出しそうな女主人の声に、驚きながら良一は玄関を飛び出した。母が、ただならぬ状態ということを感じたからだった。

 夕方近くになって、松井の女主人は女中を残し、家に帰った。

「今日は持つだろうが、明日は持たないだろう。体が弱り切っている。」

良一と女主人の頭には、医者のそう言った言葉が重々しく残っていた。微かに呼吸をしている母、呼びかけにも返事も動きもなかった。

…母が死ぬ。母が死ねばどうなる。分からない。どうなる。…

良一は、答えの見つからない問答を繰り返していた。

 

 女主人は、松井の家に戻ると、夫に町田の家で起きていることを話した。それに加えて

「町田フサさんは、隣り町の大旦那、藤井家の長女です。身寄りのない町田さんと一緒になることで勘当になったのです。」

と前置きをして

「貴方から、今の窮状を手紙で至急知らせていただきたいのです。看病あるいは最悪のことになった場合、藤井家で預かり知らぬと言うのであれば、この松井家で全てを行うということを伝えていただきたいのです。」

夫に対して、毅然として言った。それは婿として迎え入れた夫としてではなく、人間として正しいことを主張する厳しさだった。夫は、すぐに手紙を認め、夜のうちに下男を使いに走らせた。

 夜遅く、女主人が居間で仮寝をしているとき、佐和子が部屋を訪れた。佐和子は、母に尋ねた。

「昨日の夜、すれ違いで家を出て行った方は、確か町田さんですよね。何をしにいらっしゃったのか、教えていただきたいの。」

母は、驚いて姿勢を正した。

「何故、お前が、町田さんを知っているの。」

娘を見据えた、厳しい言葉付だった。

「女学校でも噂になるほどの秀才ですもの。私だって知っているわ。裏の川で釣りによく来ているわ。」

女主人は、娘の良一に対する知識が浅いとも思われ、安堵するかのように頷いた。

「町田さん、今日、学校を休んだわ。何かあったんでしょう。教えてください。」

女主人は、町田の家の不幸を隠せるものではないと思った。娘に良一の母が、明日にでも亡くなりそうなことを話した。娘は急に青ざめると、泣きながら自分の部屋に走って行った。

 

 翌朝、良一が目を覚ますと、見慣れない老人が、母の枕もとに静かに座っているのが見えた。老人の頬からは、涙が止めどもなく流れていた。老いた右手でゆっくり、静かに母の頬を撫でていた。

「意地張りじゃのう。お前も俺も。こんなになるなんて、情けがないの。」

良一の母は、ただ弱々しく呼吸をしているだけだった。老人の向かいには、松井の女主人が座っていた。午前十時頃になった。

「フサ、しっかりしろ。」

老人が大きな声を出したので、良一も近寄った。母が目を開いている。痩せこけた顔に、目が窪んでいた。求めるように胸元から両手を出すと、何かを求めている様子だった。老人の手と良一の手を、両手で包むと、力を入れて握った。何か言いたげに、口元が動いている。老人は口元に耳を当てた。そして、老人の両目から大粒の涙が流れた。

 良一の母は、それからすぐに昏睡状態に陥り、昼近くになって呼吸を止めた。永遠に帰らない母を見つめ、良一は最後の力を振り絞って握った母の手を忘れまいと思った。

 

 一日中、遺体は家に置かれ、翌日になって町田の家の菩提寺に移され、葬儀が行われた。町田の家は縁戚はなく、藤井家と松井家の旦那衆が集まる葬儀だった。集まる人も限られた、小人数の立派な葬儀だった。

 昔、隆盛を極めたのだろう、大きな町田家の墓に、良一の母の骨は入れられた。良一は葬儀で、初めて母の枕元にいた老人が、母の父であり、自分の祖父であることを知った。そして、母の兄と妹とそれらの子等も知った。みんな豊な姿をしていた。何故、母や町田の家が貧しく、悲しかったのかは知らなかった。今更、知りたいとも思わなかった。

 初七日の壇払いの折、彼は祖父の前に座っていた。今後の良一の身の振り方についてだった。

「お金のことなら心配いらん。これからお前の住む家と、中学校を出たらどうしたいかを聞きたい。藤井の家に来るなら、それでもよいし、東京の高等学校へ行きたいなら、それでもよい。遠慮はいらん。」

良一は、祖父の帰る日まで待っていただきたいと答えた。彼は考えた。町田の家を継ぎたいこと、東京で勉強をしたいこと、その後のことは東京で考えようと決めたのである。

 

 良一は、一人で自炊生活を始めた。苦労は多かったが、冬を迎え、中学校の卒業時期を迎えた。東京の高等学校の試験も受かり、家の整理も終わった。一人暮らしの中で、下校途中に会う松井の娘に会うことは、心の励みにもなっていた。

 東京へ向かうため、良一は駅に向かった。茶郷川の堤を朝早く歩いた。松井家の裏木戸の前に、娘が立っていた。雪で一面白くなった道を、良一は娘に一礼して通り過ぎようとした。娘は彼を呼び止めた。

「これ母が作ってくれたの。汽車の中で食べてください。これは、私からの手紙です。汽車の中で読んでください。」

娘はそう言って、小包を渡すと、片手を振り、笑顔を見せて彼を見送った。彼は救われた思いがした。笑顔を返して、駅へと向かっていった。

 

 彼は、上野行きの汽車の一等席に乗った。娘からの飯を食べた。飯は数えると四食分もあった。高等学校の寮に入るまで、十分あると思った。少し落ち着いてから、娘からの手紙を読んだ。

 

…良一さんだけが読む手紙です。最初に、私の意見をはっきりと書きます。私の人生の全てを、貴方に差し上げます。だから、貴方の人生も全て私にください。…

 

そんな書き出しで始まっている。少し長い手紙だったけれど、読んでいるうちに良一の心は明るくなった。大人しそうだった美しい娘が、急に明るい笑顔の美しい娘となっていくのを感じた。

 

…東京でお会いできますわ。東京は、誰にも遠慮なんかいらないところと聞いております。近々、お会いするのを楽しみにしています。健康に気をつけること、ただそれだけがお願いです。…

 

こんな調子で手紙は終わっている。要するに明るい恋文なのであるが、中身は具体的なものだった。

 松井の娘は、一人娘で家を継がなければならないと言っている。良一が好きになり、夫となるべき男性は、良一以外に考えられない。田舎に帰ってくるかどうか怪しい良一を、田舎で一人寂しく待っている女にはなりたくない。他の女に取られでもしたら大変なことになる。考えた末に、娘も東京の女学校に入ることにした。その辺の両親に対する説得を面白く書いてある。住居は、松井家の東京の店を使うことにしている。土曜日には、彼の高等学校の門付近をうろついて待っている。珍しい物を見たり、食べたりしょう。卒業後も、東京にいたければ、東京にいることにしよう。

 良一にはお構いなしの手紙だった。貧しさと悲しみの中に、精一杯の明るい手紙をくれた娘に、良一は心から感謝をし、その娘と将来夫婦になるだろうと、朧気ながら感じ取った。