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「口 笛」

 

                 佐 藤 悟 郎

 

 

 どこにでもある噂が、この小さな町の寺にも持ち上がった。寺の娘は、まだ中学生だった。夜中に寝付けず目を覚ましていると、どこからか口笛が聞こえてくると言うことだった。娘は、母の指導を受けて、いつも厳しくピアノの練習をしていた。哀愁を帯びた口笛の音は、娘の心に溶け込んでいくのだった。

 

 その口笛の音を聞いてから、娘は毎夜のように目を覚ましているようになった。次第に娘は、美しい口笛の音を、眠らずに待つようになった。待っていると、知らずの内に口笛の哀愁に満ちた音が流れてくる。そして、娘は知らずの内に深い眠りに引きずり込まれてゆくのだった。

 

 こうして娘は、夜遅くまで目を覚ましているため疲れ、毎日のピアノの練習が辛いと感ずるようになった。娘の母は、娘が時々ピアノの鍵盤の上で屈み込んで眠っているのを見て、不審を抱いた。娘が可愛いばかりに娘の母は、夜を徹する覚悟で娘に気付かれないように、隣の部屋に潜んでいた。

 

 真夜中になると、娘の母の耳にも、哀愁を帯びた美しい口笛の音が聞こえてきた。娘の部屋で物音がしたので、娘の母は襖を少し開け、娘の部屋を覗いた。娘の母が見たのは、娘が布団の上にてこんと座り、項垂れて口笛の音を聞いている姿だった。娘の父と母は、娘に口笛の音を聞かないように注意を与えた。娘は、その注意に背くかのように、夜更けになると、その口笛の音を項垂れて聞いていた。

 その寺は、小さな町の外れにあった。由緒ある古い寺で、娘の部屋の庭の向こうの木々の繁みの中に、経蔵があり、その経蔵の隣には、寺の初代上人の苔むした墓塔が天を衝いていた。

 

 娘の父と母は、日増しに痩せ衰えながらも、項垂れて口笛の音に聞き入っている姿に堪えかねた。父と母は、その口笛の主を探し始めた。微かに流れてくるその口笛の音に、主の在り処を突き止めることは容易ではなかった。やっとのことで口笛の音は、経蔵のある木々の繁みの中から流れてくるらしいと言うことを突き止めた。

 ある日、娘は口笛の主に会ってみたいと、父と母に言った。その晩、秋も更けた夜、父と母と娘は、口笛の流れてくる方へと、静かに行った。三人が経蔵の前に行くと、突然口笛の音は止み、林の中を一つの影が、凄まじい速さで横に流れていった。影が流れ去った後には、木の葉が風に吹かれ、静かに揺れているだけだった。

 

 とうとう冬が訪れ、小さな静かな町にも雪が積もった。経蔵の脇の林の中で、影が流れ去って以来、口笛の音は聞こえなくなった。でも娘の心は、哀愁を帯びた口笛の音がこびり付き、夜もろくろく眠れない有様だった。

 

 朝から夕方まで粉雪が舞う、寒い夜だった。娘は、夜更けまでピアノを弾き続けていた。父も母も心配気に、ピアノを弾いている娘を見守っていた。不可解なことが、そのとき起こった。

 

 ピアノの音に合わせるように、あの哀愁を帯びた口笛の音が流れてきた。娘は、ピアノを弾くのを止めるや否や突然走り出し、外に飛び出した。膝の高さ位まで積もっている雪の中を、娘は裸足で走って行った。雲が切れ、月が雪面に光を落としていた。母は、悲しさの余り泣き伏し、父は直ぐ娘の後を追った。

 

 娘は、真っ直ぐ経蔵に向かって走った。娘は、経蔵の側で、雪の中に人の足跡を見つけた。そして娘は立ち止まった。

「どうして貴方はそんなに寂しいのですか。若くて、愛しいお姿なのに、どうしてなのですか。」

父は愕然とした。娘が誰と話しているのか、相手の姿が見えなかったのである。一瞬静かになり、直ぐに娘は歩き出した。

「お待ちになってください。待ってください。」

娘は、哀願するように叫んだ。父は、娘の様子を見て、気が触れたと思った。

 

 娘が追っている先には、人影は何一つなかった。父は、急いで娘に近寄っていった。父の目にも、娘が追っていく先に足跡がはっきりと見えた。しかし、娘が呼びかけている姿は、父の目では見えなかった。娘の父は、異常な恐怖に包まれた。娘が追って行く先には、次々と新しい足跡が現れた。

 

 娘の父は、名状しがたい恐怖が娘に訪れていることを直感した。父は、娘を抑え、叫んだ。

「追うな、追っちゃいけない。口笛は、夜の悪魔なんだ。」

娘の父は、正体不明のものから娘を守るように、見てはならないものが目に入らないように、娘の頭を両腕で抱え、自分の胸に押し当てた。

 娘の父は、娘を抱きながら、足跡の行方を目で追った。しかし、足跡は二間ほど先で止まり、動かなかった。娘の父は、止まっている足跡の空中を見詰めた。

「何かが、私の分からない何かが、私と娘を見詰めている。惨めなことだ。相手が分からなければ、何もできない。」

娘の父は、正体不明の恐怖に対してどうすることもできなかった。腕に抱えた娘は、腕の間から後ろを垣間見て、何故か涙を流しているだけだった。

 

 噂話は、これで終わっている。話の意義は、どこに隠されている訳でもない。ただ私は、この親子の不幸を悼んでいる。人は、正体不明や理解しかねる事実を、決して好まないものだ。それに勝る恐怖はないからであろう。