リンク:TOPpage 新潟梧桐文庫集 新潟の風景 手記・雑記集




「幻と…」

 

                 佐 藤 悟 郎

 

 

 少女の眼差しは、ただ鋭いだけだった。今迄閉じてきた唇は、その瞳が代わりに話しているようだった。

…お父さん、貴方は、とても酷い人!…

父には、そういう風に、娘の瞳が語っているように思われるだけだった。今迄、何千回も、何万回も繰り返した父の言葉

「お父さんが悪いんじゃない。お前が言うほど、お父さんが悪いのじゃない。」

父がそう言うと、いつも娘は、卑しい者を見るように、ちらっと見返すだけだった。憤ったような眦上がりの目が、自分を見つめていると思うと、父は、寂しく、空しい思いが募るばかりだった。

 

 父親は、娘が病気だと思った。実際、そうだったかも知れなかった。母親が死んで以来、娘は黙りこくったままだった。何年も過ぎた、この晩秋だった。

 

 それでも、父親は、娘が生活をして、生き長らえていることに満足しなければならなかった。まだ、娘を立ち返らせる希望があった。娘は、黙りこくっているが、別段狂っている訳でなかった。学校に行っても、先生や生徒すら、娘の唇を開けさせ、話し合った者はいなかった。それでいて、試験の時などは、それなりの勉強をするし、それなりの成績を収めていた。

 

 娘は、精神科医の検診を受けた。娘は、何も欠陥はなく、正常だった。

「あの眼差しは、嫌悪の凝り固まった意識の現れですよ。」

精神科医は、そう付け加えた。意識して作られた強固な壁は、誰にも破れそうもなかった。

 

母親が生きていた頃、二人に捧げた父親の言葉がある。

 

〜 娘と妻に 〜

お前達の名は

そう、京子と淑子

 京子は、私の娘

 淑子は、私の妻

 二人は、私の愛する人

 二人は、微笑みが豊か

 娘は、紅い頬が素敵

 妻は、潤んだ瞳が澄んでいる

 二人の心は、素敵だ

 あなたは、希望の花を私に

 あなたは、幸せの泉を私に

 私は、何者だろう

 愛される果報者

 愛する森の風

 恵み深き神

 愛する人に与えてくれた

 永遠なる、この森よ

 果報者は、楽しい

 目を閉じても、花の薫り

 唇が乾くと、泉の水が

 森の風は、嬉しい

 純白な花と踊り

 青き漣と囁きあう

 ああ、永遠なる幸せよ

 花よ、泉よ

 風と共に愛を誓おう

 愛する人よ

 私の膝に、安らかに

 憩いは、私の心に

 見守ろう、夜明けまで

 輝ける陽

 それを私が招いてやろう

     …最愛なる父…

 

 父と娘は、この晩秋の晴れた日、連れ立って公園を歩いた。娘の理由は、その中にもあった。娘は、母と父を深く愛していた。そして、愛というものを正しく理解していた。

「父は、お母様を愛していなかった。」

娘の日記に書いてある。娘の憤りの理由は、簡単だった。

「京子。お父さんはな、お母さんを愛していたんだよ。」

父は、娘に訴えるように言った。娘は、あの軽蔑の眼差しを投げた。豊かな髪が舞うほどに、激しく首を振って見せた。

「信じておくれ。」

父は、今となって最愛の娘の腕に縋り付こうとして、手を伸ばした。娘は、厳しく払い除けた。そして、秋の公園の木立に、姿を踊らせ走っていった。父は、ただ見つめるだけだった。

 娘が手を触れるごとに、木々の枯れ葉が、一枚、二枚と散っていく。晩秋の日差しが、木立の間に差し込んで、数少ない残りの葉が、所々を色立たせていた。父は、目を細めた。その悲しく、寂しい公園に、娘の心が、何も開いてくれないためかと思った。細めた目に、熱い涙が溢れてくるのだった。

 

 閑散とした木立の下には、晩秋の枯れ草が、山吹色に地を覆っていた。晩秋の日和は、それでも柔らかに、枯れ草や木々の葉に光を注いでいた。それは、乾き切った、明るい公園だった。

 

 小道は、娘の座っているベンチまで続いていた。小道は、枯れ葉に覆われながらも、所々に白い地肌を見せていた。そして、木立のずっと向こうまで走っていた。

 

 娘は、寂しかったのだ。この人生に、これから父と二人で暮らしていかなければと思うと、嫌らしさと母のいない寂しさが、心から離れなかった。幻でも良い、母の姿さえ、そして話してくれたら

「お父様を、許してあげなさい。」

母の妖精が、透き通った声で言ってくれたら、娘の心も和らいだかも知れなかった。

 しかし、いつも訪れるのは、高慢な妖精でしかなかった。

「お母様は、不幸だったのよ。あんなに固い、愛の言葉を残しておきながら、死の床にすら来てくれなかった。お母様の不幸のためにも、お父様は、苦しまなければならない。」

娘の高慢な妖精は、いつもそう語ってくれるのだった。

 

 娘は、きつい顔をして、足下を見つめていた。その傾けた耳に、軽快な口笛が聞こえた。

…タンタタター タンタタター タンタタタン タタ タンタン…

娘には、耳障りな口笛だった。口笛を吹いていたのは、娘と同じくらいの年の男の子だった。少年は、娘の手前で立ち止まった。

 

 少年は、ひどく嬉しそうに話した。とても嬉しかったのだろう。そして、人に語りかけたかったのだろう。それが、どのような人であっても、人でさえあれば、聞いてくれる人でさえあれば良かった。

「私の母さんが、帰ってくるのです。こんな形をして恥ずかしいけれど、母さんが帰ってくるのが、とても嬉しいのです。私を生んでくれた母さん。もうじき、この道を駆けてきて、「保夫かい」と言ってくれるんです。もうじき来るんですよ。優しい母さんが来るのです。我慢ができないほど、嬉しいのです。」

娘は、黙っていた。素知らぬ顔して、娘も優しかった母の顔を思い浮かべた。しかし、すぐその母の面影は消えてしまった。あの、嘘を言った父の顔が、悪魔の微笑みを浮かべてやって来るのだった。

「ここに来るまで、この枯れ葉に話しかけてきたのです。今度は、貴方に話さなくては。私の母さんは、心が優しく、正しい方です。誠実そのものなのですよ。」

少年は、そう言いながら、娘の隣に腰を下ろし、語り続けた。

「本当は、私の父さんは、母さんのことを愛していたんですよ。去年は、ちょっぴり寂しいことがあったのです。祖父と祖母が相次いで死んでしまったのです。父さんは、帰って来てもらえるなら、母さんに帰ってきて欲しいって、私に向かって言ってくれたのです。それまで、母さんは、里に帰っていたのです。あのひどいお爺ちゃんとお婆ちゃんが、母さんを家に置いてくれなかったのです。あれからもう六年になるかな、私が十歳の時だったから。私はね、父さんに知られないように、こっそり母さんに手紙を出したのです。お母さんは、とっても嬉しいと返事を私にくれてね。今日の良き日、実は、父と母の結婚記念日、なのです。どうしても、二時までに、このベンチに来ているからと言ってね。母さんがいるときは、よく一緒に散歩に来たものです。父の喜ぶ顔が目に浮かぶ。母と父がいれば、また、三人になる。楽しくなるのです。優しい父と母、私はその中で幸せに過ごすのです。また、楽しい、素晴らしい日々がやってくるのですよ。きっとね。」

娘の耳に、少年が、何やら父と母のことを話しているのが聞こえた。娘の頑固な心は、呟いていた。

「分かっているわ。父さんの悲しみ。でも、許せない。私の前で、お父さんは言ったではありませんか。

『京子、お父さんは、お前の愛するお母様が、とても好きなんだよ。お前が愛している以上にな。』

そして、あの優しい詩を作ってくださったではありませんか。それを誇らしげに詠ってくれたではありませんか。それなのに、お母様の最後の愛は、裏切られた。最も大切な愛の記を示してもくれなかった。

許せない、私の、この誠実な祈りが、損なわれたのをどうしてくれて。」

「そう、お父様、私の唇を開かせるためには、たった一つの方法しかないのよ。もう一度、私の最愛のお母様を連れて、私の前に来ることよ。そしたらね、私は、この誠実さがはっきりと、お父様を祝福してあげますわ。そしてね、お母様を連れてきてくださったことに、感謝して接吻をしてあげますわ。そしてね、今迄の意地悪のこと、本当に、お詫びを言いますわ。良い子になるわ。もっと。でも、お母さんは、帰ってこないわ。」

 

 束の間の時が流れた。娘と少年の二人には、長い時の流れでもあった。娘はひどい憤りのために、少年にはひどい嬉しさのために。

「お母さん、遅いな。このベンチのあるところ、忘れて迷っているのかな。きっと、そうだ。ほれ、私の耳に、足音が聞こえるもの。貴方にも聞こえるでしょう。」

娘は、ただ黙って俯いていた。傾けた頭は、何かを考えているようだった。

「きっと、聞こえるよね。嬉しいな。」

娘は、心の中で反駁していた。

「そんなもの、聞こえるものですか。」

娘は、ふと少年が、母の遅いのにも関わらず、何もかも信じ切って、快く、自分を励ましているのが、心に響いた。

「そう、聞こえるようだわ。懐かしい、お母様の足音が。ゆっくり、たしかに、近付いてくる足音。」

娘は、耳を澄ました。目を凝らした。細い木立の間に、母の姿を探した。晴れた日差しの中に、足音を尋ねた。

「見える訳がないじゃないの。聞こえる訳がないじゃないの。お母様は、幾ら探してもいらっしゃらないのよ。」

娘は、諦めもつかなかった。頭を垂れて、黙り続けるほかなかった。晩秋の時の流れは早かった。段々、陽が山の端へと走っていった。

 

 晩秋の夕暮れ時の景色は、美しかった。木の枝の間に広がる、紅に染まった西の空が、目に写った。そして、どこへ急ぐのか、ほとんど紅の空に溶け入りそうな筋雲が、斜めに流れていた。骨々とした木の影が、大地に侘びしく落ちていた。

 少年は、今迄、疑うことなく、清らかな心で信頼していたのだ。黙りこくったまま、じっと耐えていた。娘は、少年の心の中に、何かを見た。今迄、夕空に宿る木立を見上げていた少年は、一言洩らした。

「実に遅い。やっぱり嘘を言ったのか。情けない母だ。約束を守ってくれないなんて。この大切な約束を。ひどい母だ。本当にひどい。」

諦めたように、少年は、頭を垂れた。夕日が侘びしく差していた。それは、少年の最後の言葉だったかも知れなかった。そう、生涯最後の。少年は、掌にあれほど大切にしていた、枯れ葉を握り潰した。揉み擦られていくように、枯れ葉は、少年の手の中で粉々になっていった。

 

 娘は、その激しい物音に驚き、少年に目を向けた。少年の右手には、バラバラに揉み潰された枯れ葉が小さくなった。右手を少し掲げ、ボロボロに砕かれた枯れ葉を、少しずつ地べたに落としていた。

 少年は、落ち行く一切れひと切れをじっと見つめていた。それらが落ちていくごとに、少年の顔は、何かを忘れていくように、段々虚ろになっていった。時折、苦笑も浮かべていた。それは、それから何かを嘲笑する笑いにも変わっていった。

 娘は、ふと、あの日の心を思った。

「父が、きっと来る。」

その心が崩れてしまった時、この少年のように、父の信頼を全て忘れてしまった。娘は、その少年の姿を見つめていた。少年の姿が、寂しく、悲しく、また悲痛に思えた。少年は、全てを落とした。娘は、悲しい心で、少年の最後を見届けた。最後の一欠片が舞い落ちた跡を、娘は虚ろに目を流した。

 

 娘は、その時、はっとした。小道の木立に、人影が動いたからだった。

「あの人じゃない。」

娘は、弱々しく言った。自分では、力強く言ったつもりだった。少年は、娘の指差した方を、ちらっと見ただけだった。

「そうなのでしょう。」

少年は、怒っているかのようだった。それは、一瞬見せただけだった。それから、地べたを見ながら、頷くだけだった。

「保夫」

少年の母が、少年を呼びながら駆けてきた。少年は、立ち上がろうともしなかった。そればかりでなかった。落ち葉を拾い、それを細かくむしって、楽しそうにしていた。少年の母は、首を垂れている少年が、その姿の弱々しさが、自分を迎える我が子ではないように思った。少年の母は、少し離れたところで立ち止まり、少年を凝視した。

「保夫でしょう。」

何も返事はなかった。少年の母は、心配そうに恐る恐るベンチに近付いた。

「お母さんが来たのよ。行ってあげないの。」

と、娘は言った。少年は、枯れ葉を楽しんでいる。その顔に、そして耳には、何も聞こえない様子だった。娘は、少年の母が、物怖じするように近付く姿を見て、何故か遣り切れなかった。娘は、立ち上がり、少年の前で屈み込んだ。少年は、相変わらず枯れ葉をむしって、バラバラにしてヒラヒラと地面に落としていた。そして、また新しい枯れ葉を拾い上げた。娘は、憎むべき戯れと強く感じ、枯れ葉を少年の指先から抓み取った。取り上げられても、何も気にすることなく、少年は足下に重なっている枯れ葉を一枚拾い上げた。娘は、我を忘れ、掌で少年の手を叩いた。そして、少年の手から枯れ葉は飛んでいった。少年は、ただ不満そうに娘の顔を見上げるばかりだった。

「お母様がいらっしゃったのよ。立って、手を取ってあげないの。」

少年の耳は、何も感じなかった。ただ、また落ち葉を拾ってちぎっていた。

「馬鹿、そんなことでどうするの。」

もう一度、娘は、少年の手を払った。少年の手の落ち葉は、地面に落ちた。少年は、口を曲げて娘を見上げた。だが、それだけだった。そして、また首を垂れて、手頃な枯れ葉を探していた。

「しっかりするのよ。」

娘は、訴えるように、少年の肩を激しく揺すった。しかし、娘の手は、それと同じように激しく払い除けられた。娘は、よろめいた。そして自ら、跪いて、力なく手を地に落とした。何故か、少年の頑固のためか、熱い涙が浮かんでいた。全てが、哀れに思われた。

「貴方のような人、いけない人よ。可哀想じゃないの。お母様が、そうよ、お父様もよ。きっと寂しがっているわよ。泣いてしまうわよ。」

籠もり勝ちの言葉を、娘は、口から漏らした。そして、よろよろと立ち上がった。少年は、何がどうあれ、尽きせぬ楽しみの如く、枯れ葉をちぎっていた。

「保夫、どうしたの。」

少年の母が、真剣な眼差しで、少年の顔を窺った。娘は、急に恐怖を感じた。さっきまで喜びに満ちた少年が、余生を終えた枯れ葉に鋭い裂け目を入れるほか、気の抜けた人になっているのだ。

「いや、嫌いよ。大嫌いよ。」

娘は、精一杯その言葉を少年にぶつけた。そして、涙を流しながら、木立の間を夢中で駆けた。

 

 少年と少年の母の姿が、どこにも見えないところまで走った。ぐっと涙を堪えて、振り返ってみた。ただ、夕暮れのそよぎが、木立の枝に見えるばかりだった。頭を低くして、娘は目を閉じた。自分の母が、微笑みを浮かべて現れた。

「お母様、お父様が悪いのでしょう。そうなのでしょう。」

母は、微笑んでいるだけで、何も答えてくれなかった。娘は、再び瞼の裏が熱くなるのを感じた。そして、母の豊かな心が生き生きと心に伝わってくるようだった。娘には、母が最愛の人だった。その母と、閉じた目の幻を、手でまさぐろうとしていた。それは、空しいものなのに。

 

 娘の手は動いた。母をまさぐっていた。娘の手は、母を真剣に求めていた。それは、哀れな姿だった。夕闇の迫る中で、幻を体で尋ねているのだった。

「お母様、どこにいらっしゃるの。ね、ね。どこにいらっしゃるの。」

閉じた目から、一筋、一筋と涙が流れ出した。晩秋の夕風が、娘の周りで戯れていた。そして、髪が舞い始めた。

 

 とうとう、その当てのない不確かな足は、木の根に躓いてしまった。よろめいた。それでも娘の手は、母の体を求めていた。枯れ草と枯れ葉の集まっているところに、娘は倒れた。枯れ草と枯れ葉は、娘の頬に母と同じ温みと柔らかさを与えた。母なる大地に、娘は頬を寄せて、喉を鳴らし泣いていた。

 

 ふと、目を開ければ、晩秋の早い夕闇が訪れ、微かに煙が立ち上り、公園の遠くの木立は、深遠の中に消えていた。娘は、母の幻を恋い慕うように、目を閉じた。

「お母様、どこに、どこにいるの。」

幻の中の母に尋ねた。母は、ただ微笑んでいるだけだった。冷たい風が、娘を気付かせた。何も答えない母に、呟いた。

「どこにもいらっしゃらないのね。どこにも。」

じっと母を見つめて、呟くように繰り返した。

「どこにも」

もう殆ど、口の言葉でなかった。

「どこにも。どこにも。」

母は、微笑んでいた。そして静かに首を横に振った。

「貴方の心の中におりますよ。貴方のお父様の心の中にもね。」

娘は、震えた声で呟いた。

「お父様の心の中にも、お母様はおいでになるの。」

幻の母は、微笑んで頷いた。いつものように、娘を諭すように頷いた。

 

 夕闇には、風の遠音のように、娘の名を呼ぶ声が流れていた。

「お父様の心の中にも、おいでになるのね。」

「お母様、本当に、本当なのね。お父様が、可哀想。」

何故かしら、娘の心は、豊かな満ちた心になった。それがまた、心済まない悲しみもあった。夕闇は深くなっていく。

「京子〜」

「お母様、お父様よ。お父様が呼んでいるわ。」

娘は、素早く立ち上がった。そして、精一杯走り出した。

「お父様〜」

「京子〜」

「おとうさま〜」

晩秋の夕暮れは、その景色の優しさに似て、この公園の木立に、この二人の美しい声で満ち溢れていた。