リンク:TOPpage 新潟梧桐文庫集 新潟の風景 手記・雑記集 「朝の旅立ち」
佐 藤 悟 郎
私は、教職に就いて、まだ二年であるのに、二度目の異動となった。教壇に立って教えることにも慣れてきた、昨今である。私の住んでいる町は、大きな川が交じり合う海辺の町である。この田舎町の料理店の離れで下宿住まいをしているが、時々実家のことを考える。兄が三人、それぞれ子供がいる。その三人の兄の内、二人までが公務員になっている。亡くなった父が公務員だったせいか、公務員になることに拘泥もなく公務員になった。私はと言えば、公務員が好きでなかった。公務員は転々とする商売であり、空しいことだと思っていた。中途半端な人との付き合い、何の感情も持てない人生が嫌だった。
そんな空虚な心で、この町での日々を送っている。直ぐに親しくなれる人、それが仮初めのものでもよかった。私は夜の町を歩き、水商売の人達と語り合い、罵り合うことで自分を慰めていた。そのような仮初めの舞台に、心底溶け込めそうもなかった。水商売をしている人は大概、教師である私に、心底私を相手にしているのでないことを知っていた。それを知りながら騒ぎ回っている私が、滑稽にも思われた。そうせずにおられない自分を思った時、悲しくて涙が出ることもあった。
幸い、この町に人から隠れて泣くことができるところがあった。広い砂浜、そこには海の昔からの歌が流れている。海辺の雑草の群がりは、私が寝転ぶ床となってくれる。雨が降れば、丘の上に社がある。深い緑に覆われた社で、誰の目からも私を隠してくれる。川の堤や野辺の林も、私を優しく迎えてくれる。
私は二十五歳、過去を思ってみた。公務員の父は多く転勤した。その度ごとに私から友達が去っていった。人との絆が打ち棄てられたが、父を恨むことはできなかった。それは寂しいことだった。打ち拉がれた心を引き摺り、教師を続けることができるのだろうか。心を隠し、教師としての体裁を作っていることに、尚更寂しさを覚えた。
私は、かねてから正直な生活をしたいと思っていた。寂しさからも抜け出したいと思っていた。そのためには結婚し、妻の慰めが必要だと思った。時あるごとに母に話をしたが、母は決してよい顔をしなかった。 「お前は、まだ若いから。」 当然の答えだった。私は、時にはしつこく話したこともあった。兄に叱られ、どうすることもできないと思った。
私はお茶が好きだった。煙草代わりに茶碗を離したことがなかった。この町で一番古めかしい店と言えば、お茶屋なのである。月に何度か、私はその店から安いお茶を買ってくる。その内にお茶屋の主人が、私が教師であることに気付き、店先でお茶を共にすることが多くなった。
学生時代に学生は麻雀に追われていたが、私は囲碁に興味を持ち同好会に入った。そんなことから大概の人と対等に碁が打てる自信があった。ある時、お茶屋の主人が店先で碁盤を前にして考え込んでいた。私はそれが詰め碁で、やったことがある盤面だった。 「先生、分かるかね。」 私が一通りやって見せると、それがまた縁となり毎晩のようにお茶屋の主人との碁打ちが始まった。勝ったり負けたりの繰り返しだった。お茶屋の奥に上がり込んで主人と付き合っている内に、店の店員だと思っていた娘がお茶屋の長女であることが分かった。余りにも質素な身形をしており、物静かなことから主人とは似付かなかった。
お茶屋に通い続け、私の心は和んできた。そんな中で、布団に入るとふと考えることもあった。 「幾ら親しくなっても、二年もすれば別れることになるだろう。お茶屋の主人の語り草の一つになるのだろう。」 心の隅に、そんな思いを抱いていたが、お茶屋の主人との囲碁が興じて夜を明かし、居床寝をすることも度々あった。居床寝をして眠りから覚めると、必ずと言ってよい程頭に枕、体に布団が掛けられていた。囲碁に興じていると主人の妻や娘が、お菓子とお茶を運んできて、暫く局面を見ている。私は、主人の妻や娘とも気軽に話をするようになった。娘は長い黒髪で並の器量であるが、機知に富んだ明るく健康的な人だった。 「店にいる時とは、随分違いますね。」 碁を打ちながら娘に言うと 「父ちゃんが、店にいる時だけは私の煩い口を塞ぎなさい、と言うの。」 娘は父を睨むように、騒々しく言った。娘が去った後、主人は 「あの娘は、姉弟で一番頭が良かったのだが、大学に入れなかったんだ。自分は行きたいと言っていたが、女の賢さにも限度があると思ったからやらなかった。婿だけは、最上の男を選ぶつもりだけど。」 主人は、碁を打ちながらボソボソとそんなことを言っていた。翌日、私は学校の古い資料を調べた。お茶屋の主人の言うとおり、その娘は抜群の成績の生徒だった。
それから程ない日、下宿で夕食を済ませて物理の勉強を済ませ、お茶屋へ出掛けていった。途中菓子屋に寄り最中を買って、お茶屋に着いて娘に渡した。私が座敷に行きかけると、娘が店の戸を閉める音が聞こえた。 主人は庭の見える座敷にどっしりと胡座をかいて、碁盤を食い入るように見つめていた。碁を置いてある盤面と左手に持っている本とを、交互に目を走らせていた。私の姿を見て囲碁を始めた。ああだこうだと言いながら、二局が終わると主人が言った。 「今夜は、もう止めよう。あれの誕生日に付き合わないと。」 主人は、そう言って縁側に出た。主人が手招きをしたので、私も縁側に出てみた。小高い松や灌木の茂み、澄んだ水の池と築山のある見事な庭である。主人は、築山の横にある室の明かりを指差し 「あの部屋は離れになっております。何か催し物とか子供達の習い事などに使う部屋です。一寸した書斎もあるんです。」 と言った。そして九時までに娘の誕生祝いに離れまで行かなくてはならないと付け加えた。
もう九時も過ぎていたが、主人が離れに行かないのは、私がいるからだと思った。私は暇の言葉をかけた。 「そうですか。じゃ明日またお手合わせに来てください。」 主人は店先まで私を見送ってくれた。私は寝るのにはまだ早いことから、丘の社へ行った。月明かりに浮かぶ町の家並みを見つめた。大きな川の河口では、波立っているのが見えた。川面は静かで明るく輝き、海上には漁り火が揺れている。
何故か悲しい思いだった。満たされることのない欲望のためなのだろうか。静かな丘の上で孤独だった。涙が流れ落ちるような感傷が襲った。心底溶け込むことができないこの町である。故郷もなく流浪の旅を続ける私の運命だと思った。
私は丘から下りると、街中の飲み屋をかけずり回った。懐の金、いや借金まで作ってベロベロになるまで酒を飲んでしまった。水商売の女に、私の寂しさは多少慰められた。翌日は、とても学校で教壇に立つことができず、下痢と称して休んだ。酒のため、体調が思わしくなく、朝と昼の食事を取らず眠り続けた。夕食を済ませてから、床に入ってゆっくり考えた。一部の結論は早かった。お茶屋の主人と私は囲碁仲間である。お茶屋の娘とは何の関係もないと結論付けた。
私は夏休みになるまで、お茶屋へ遊びに行かなかった。お茶は三度程買いに行ったが、店の娘は商売の話ばかりだった。主人と言えば 「どうかしたのですか。さっぱり来なくなりましたね。今夜、一局やりましょう。」 と言ってくれた。私は 「学期末で忙しくてね。それに読む本が山積みになってるんです。」 と、できるだけ物柔らかに言って断った。
夏休みに入っても、母のところへは行きにくかった。兄夫婦の姿を思うと堅苦しく、行く気にもなれなかった。下宿にいるほかなく、毎日小説を読み耽っていた。読むのに飽きてしまうと、散歩に出た。知らずの内にお茶屋の店先に来てしまい、苦笑するばかりだった。仕方なく店に入ると、主人は帳場で一人碁を打っていた。私を見上げると、主人は幸福そうな顔を見せ、手招きをした。
夏休みの間、日中お茶屋を訪れることが多くなった。娘は、店員と同じように仕事をしており、お茶屋お菓子を用意するのは決まって主人だった。ある日、私が五局とも全て勝ってしまった。主人は気分を悪くしたらしく、帰り際に 「先生、今晩は是非来てくださいよ。勉強だなんて言っちゃ、困りますよ。」 と強い口調で言った。それを見て娘は声を上げて笑った。
仕方なく、私は夕食を済ませ、早めにお茶屋を訪れた。私が帳場から座敷に上がろうとすると、店の戸を閉める音がした。主人は、座敷で碁盤の前で腕を組み、目を閉じていた。私が声を掛けると、目を開いた。 「いや、待ちましたぞ。今夜は徹夜してもよろしいですな。」 主人の眼差しは真剣そのものだった。私は微笑み、頷きながら主人の前で胡座をかいた。主人の妻と娘は脇に座って碁を見つめていた。少し時間をおいて、娘はお茶とお菓子を運んできた。
勝ったり負けたりで時を過ごした。夜も十時過ぎとなり、妻はその場からいなくなったが、娘は脇に座って碁を見つめていた。碁を知っているらしかった。その頃になるとお茶は酒に変わり、頃合いを見て娘がコップに冷や酒を注いでいた。何気なく、娘が私に言った。 「私の誕生日に姿を見せてくれなかったんですね。ウィスキーを用意して待っていたのに。勉強があるからと、父に断ったそうですね。」 私は黙って聞いていた。ただ碁に夢中になっている素振りを見せるだけだった。主人は、娘の言葉を戯れ言と聞いている様子だった。しかし私は、娘の言った言葉を考えない訳にいかなかった。
娘の誕生日に、主人は私を誘ってくれなかった。娘の言葉を伝えてくれなかった。何かの手違いがあって、私に伝わらなかったのだろう。私は娘の心遣いを嬉しく受け止めるべきだと思った。だが、局番が進み酒の酔いが体に溢れてくると、娘の誕生日の件について考えない訳にいかなくなった。
娘は、私に愛想だけで言ったのだろうか。そうでないとすれば、娘の誕生日の誘いを私に言わなかったのは、主人の意思からだと思った。何か、お茶屋では私についての思惑が流れていると思った。長居はできないと思い 「ご主人、今日はもう疲れ果てました。止めましょう。」 と言って、碁盤から目を離し主人を見つめた。主人は碁盤を見つめており、娘に目を移した。眠いのだろう、娘は虚ろな目で私を見つめていた。私が見ているのを感じたらしく、娘ははっとして一瞬厳しい眼差しとなった。主人は、盤上見つめブツブツ呟いている。 「お父さん、先生は辞めましょうと言ってるのよ。」 娘の声で、主人は不満そうな顔を上げたが、直ぐ微笑んで 「じゃあ、碁抜きで飲み明かしましょう。」 と言い、娘に目配せをした。娘は徳利を持ち上げ、私のコップに注ごうとした。私は手を横に振って 「明日は、夏休み中の登校日です。そんなに飲んでいられません。帰ります。」 と、語気を強くして言った。すると娘は 「登校日と言っても、授業がないのでしょう。もう少し召し上がって、ここで泊まって、朝になったらここから学校へ行っても良いのでしょう。明日の朝、遅れないように起こしますわ。」 と頷きながら言い、主人もそれに賛成していた。
私は、若い娘のいる家に泊まることは、禍を起こすと思った。生徒指導でどうしてもやっていかなければならないことがあると言い張り、下宿に帰ることにした。帰り際、玄関まで送ってくれた娘が 「今度の日曜日、店は休みです。新潟の街まで連れて行ってください。」 と言った。無碍に断ることもできず、ひとまず頷いて私は立ち去った。日曜日が近くなるにつれて、私の心に不安が大きくなってきた。この狭い町で、教師である自分とお茶屋の娘が付き合っている。そんな噂が広まったらどうなるのか不安があった。お茶屋の娘からの音沙汰もなかった。
土曜日になってお茶屋に行った。お茶を買うと装い日中に行ったが、娘の特別な反応はなかった。 「随分早くお茶がなくなったのね。」 愛想良く言った切りで、明日の日曜のことなど気にしている様子はなかった。私は帳場に行って、主人と二言三言話した。主人は、最近私が碁の相手をしてくれないことを残念だと繰り返し言っていた。主人は娘に目配せをしながら 「娘も頻りに先生が来ないと心配していたんだ。あの言い分だと、わしの碁友達を自分の友達と勘違いしているらしい。」 と言っていた。店先に黒塗りの乗用車が止まるのが、帳場から見えた。
間もなく娘の明るく朗らかな声と若い男の奔放な話し声が聞こえた。私は声の聞こえる方に目を向けた。主人は 「藤井の若旦那が来ているんですよ。分かるでしょう。中学校の前の大きな屋敷、大旦那は昔この村の村長だったんですよ。弁護士なんです。若旦那も大学の法科を卒業して、行く行くは大旦那の跡を継ぐんでしょう。家の長男と小学校時代から一緒で、良く姿を見せるんですよ。」 主人の言葉は明らかに丁寧で、他の者とは区別しているようだった。 「少し華奢で、我が儘なところがあるんですよ。あんな自動車を乗り回して。」 娘が店の中で朗らかな声で話しているのを聞きながら、私は店を出た。長女は出際に、その若旦那との話を中断して 「このお茶、新茶です。今日、一番先にお飲みになってください。」 と言ってくれた。私は、精一杯の微笑みと小さな頷きを見せて、その店から立ち去った。
私は、丘の社を通り抜け真っ直ぐ海辺に向かって歩いた。浜辺に着くと、絶え間ない海の波の音を聞いていた。何も心を寄せるところがないこの町だと思った。ここはお茶屋の娘の町だと思った。その娘に私は好意を寄せている。それは恋心だと思った。どうすることもできない想いでもあった。
私は下宿に帰り、小説を読み始めた。小説を読みながら、私は何かを期待していた。お茶屋の娘が、明日の約束について何かを言ってくるものだと思っていた。夕方になっても、何も音沙汰がなかった。私の下宿しているところは、料理屋の離れの二階で見晴らしの良いところだった。夕暮れの海の彼方に赤い夕陽が、薄雲の中に大きい姿を見せていた。私は机に両肘をついて、景色を見つめていた。
私は昼過ぎに買ってきたお茶を取り出した。お茶を飲もうと思い包装紙を取ってみると、その裏に黒いマジックで書かれた涼しい文字があった。 「明日の午前十時に、古町十字路でお待ちしております。 桂子」 私は心安まる思いで包装紙を机の上に広げ、暫く眺めていた。期待が満たされたためなのだろう、海の夕暮れが美しく窓に腰掛けて見つめた。浜辺や河口が暗くなり、上空は澄んだブルーと変わっていた。
翌日の日曜日、私は早めに出掛け古町の喫茶店に寄り時間を潰していた。古町は、日曜日で混雑していた。丁度十時にその喫茶店を出て、人混みの中を縫うように足早に古町十字路まで行った。十字路の四つの角を見たけれど、お茶屋の娘の姿はなかった。人混みの中に紛れているのかも知れないと思い、四つの角を順番に回り、周辺を探した。お茶の娘らしい姿を見付けることができなかった。私は急に悲しく寂しい気持ちとなった。急な衝撃に狼狽えたけれど、街の人混みが隠してくれた。デパートの角にあるベンチに、私はだらしなく腰を下ろした。
この街を通る人々の姿は、単に平面的に動き回る動物にしか過ぎなかった。若い人や子供達の動く様子は、私と関係のない動く絵でしかなかった。全てが、一瞬にして平面の世界に変わってしまった。私は、ただじっと足元を見つめていた。お茶屋の娘が声を掛けてくれるのを待っていた。必ず来ると信じていたが、私に少し疑念が生まれてきた。お茶屋の娘は来るには来るだろうが、私に会いに来るだけの目的ではない。そんな疑念は、大きな哀しみを招いた。小一時間程ベンチに座って待っていたが、私はそこから立ち去った。
海岸に出て青い海を望み、耐え切れない怒りにも似た哀しみを噛み締めた。そして当て処もなく海岸線の松林の中を歩き回った。 「来ているかも知れない。」 幾度もそんな思いが心によぎった。私は、ただ松林を歩き回り、時々空を仰いだ。 「今、行って会ったところで、私には話しかける余裕はない。何もなかったものとして、過ぎていけばよい。」 私は海の眺望の良いレストランで、海を見つめながら昼食を取った。
午後も遅くなって古町に戻り、当てもなく歩いた。人混みは依然として激しく、私は古町十字路の一角にある本屋に入った。店の二階に上がり、文庫本に目を投げた。冷房の効いているこの本屋は、新潟の街に来るとよく立ち寄る店の一つである。通りに面した硝子窓の前に棚があり、文庫本がずらりと並んでいた。その中から一つの詩集を取り出し、ページをめくり流し読みをしていた。
ふと、私は目を窓の外に向けた。斜向かいのデパートの角のベンチ、午前中私が座っていたところに若い女性が座っていた。下を向いた、項垂れた姿だった。私は、その若い女性がお茶屋の娘ではないかと思った。でも、そのベンチは歩き疲れた若者の格好な休み場所であることも知っていた。私は、再び詩集に目を落とした。ベンチに座っている女性を思いつつ、半時間程詩集を読んでいた。そしてデパートの前のベンチに目を向け、項垂れたままの若い女性を見つめた。私の胸に、急に迫る感情が湧いた。 「あの女性は、お茶屋の娘だ。」 姿から、それは確実だと思った。私は、午前中お茶屋の娘を待っていた時のことを思った。その時抱いた疑いが、音を立てて崩れていくのを感じた。
悲しみと後悔の思いが流れ、自分への怒りともなった。私が現れるのを、じっと待っている娘の気持ちを思った。項垂れている姿は、もう限度を超える程待ち続けたに違いなかった。待ち続けている間、私への疑念と期待が交錯しているのだろう。店員に声をかけられ、私は慌てて店を出た。デパートの前のベンチのある角の斜向かいに、私は立った。ベンチに座っているのは、確かにお茶屋の娘だった。薄水色のワンピースで、ハンドバッグを両膝の上に載せていた。私は、斜向かいの角に立ち続けた。娘が私の姿を見付けてくれるかも知れないと思ったからだった。
娘の俯いた姿は、少しも変わらなかった。私は、交差点を横切って、娘の掛けているベンチに向かって急いで歩いた。娘の姿を見つめながら、娘の前をゆっくりと歩いた。娘は、俯いたまま、何も気付かない様子だった。私は、娘を残して帰ることはできないと思った。何度も、娘の前を行ったり来たり、歩いた。そして私は、娘の前に立ち止まり、娘を見下ろした。娘は、ゆっくりと顔を上げて、私を見つめた。そのふっくらとした白い顔に、戸惑いの鋭い目が見えた。唇を小刻みに震わせたかと思うと、頭を大きく振って俯いてしまった。
私は、そのお茶屋の娘の姿を見て、言葉すら出なかった。もう随分私を待ち続けたに違いなかった。私が娘を待つ間、ベンチで考えたように、娘も色々と考えただろう。私は、娘の隣に座り俯いた。娘は、もう私の心に包むことができない人になったと思った。お互い、思いは同じであっても、結び合うことができなくなってしまった。言いたいことを、言えなくなってしまった。暫くして、娘は立ち上がった。私は、その様子を見ていたが、娘は私に顔を向けてくれなかった。娘の姿は、繁華街の人混みの中に、ちらちら見せながら、波間に消えていくように去っていった。私は、心の中の大切なものを失ったと思った。
翌日から、私は外に出かけるのも嫌になった。料理店の二階の戸を開け放ち、外を見てはまた本に目を落としていた。私の頭の中は、賢そうなお茶屋の長女が、また私を想っているのではないか、そんな思いが駆け巡っていた。
中学校の夏休みも終わりに近い日に、ふと母のところへ行きたくなった。下宿の叔母さんに、夜までには帰ってくることと、お茶を買ってきていただきたいことを伝え、朝の早い新潟行きのバスに飛び乗った。新潟駅から鈍行列車で二時間、長岡駅に着いた。駅から歩いて、信濃川の堤防まで行き、川下に向かって歩いた。解放された空気を胸一杯に吸い込んだ。私は、親父が公務員で住居を転々とした思いがある。土地が変われば、それまでいた土地の思い出も、足早に遠退いていくことを知っていた。緑の草の上で、仰向けに寝転んだ。お茶屋の娘を思い浮かべた。賢そうに微笑んだ顔を思い浮かべることは、容易なことだった。
昼過ぎに家に入るなり、ビールを一本空け、軽く食事を取った。食事が終わると、裁縫をしている母の横で、体を横たえた。 「いい話があるんだけど、お前嫁を貰うかい。」 手も休めず、そう言う母の言葉に、私は驚いた。 「俺がかい。この若い俺に、一体誰が来てくれるんだ。」 私が笑いながら言うと、母は手を休めて 「ほれ、私の実家の隣、三次郎の娘だよ。あの娘なら器量も良いし、働き者だし、のめしこきのお前には一番良いと思っているよ。」 母もにっこりしながら言った。そう言えば、今迄母の実家に遊びに行くと、何処で聞いたのか知らないけれど、必ずと言ってよい程私の前に姿を見せる。決まって、私の従妹のところに遊びに来たと言う。近くの川まで泳ぎに行くとき、従妹が来ないのに、その娘は私についてくるのだった。バラバラに脱ぎ捨てた着物や草履は、川から上がってくると、ちゃんと娘が揃えてくれていた。
色白で大きな目、黒髪豊かな娘である。器量の良いことに関しては、私は認めている。母は、話を続けた。 「お盆に帰ったとき、三次郎の母親が来てな、頻りにお前のことを聞くんだ。変に思って、訳を聞くと、娘に縁談があっても中々承知しないと言うんだ。どうも、お前を好いていて、お前の返事を聞くまでは、他の縁談なんか承知しないと言うんだ。お前、女に好かれて一緒になれば、一生幸せに、楽に暮らせるよ。」 母は、私の方に身を乗り出して、話してくれた。私は、思わず 「俺、結婚なんて考えてないよ。」 と答えた。母は、少し心配そうに 「お前、新潟で女ができたんじゃないか。嫌だよ。得体の知れない女なんか見付けちゃ。まあ、来年の正月までに考えておいてくれよ。」 と言うと、また裁縫を始めた。思いもつかない縁談の話だったが、母がまだ言い足りなそうだった。私は、暫く狸寝入りを始めることにした。
異動の発表があり、私の名前も新聞に載った。希望していた、長岡地区の学校への異動だった。卒業式も終わり、学校での生徒や保護者への挨拶も、壇上から済ませた。学校は、春休みに入っていたが、学校に行った。机の中の整理やロッカー、宿直室など、それまで立ち寄った場所を訪れた。忘れ物がないかどうか確かめること、過ごした学校を脳裏に収めるためだった。
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