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     「川岸のすみれ草」

                                                 佐 藤 悟 郎

 

 

 東京にある大手出版会社に勤める、幸子の次男青蕗時夫は、田中画伯の家を尋ねた。田中画伯の家は、門構えは良いが、家の中や庭に手が届かないのだろう、荒れていると思った。それは呼び鈴を押し、

「どうぞ」

と短い返事を聞き、前庭を通り、家の中に入っての思いだった。玄関で

「お邪魔します。」

と声をかけると

「どうぞ」

と返事があった。声のした方へと歩いて行くとドアに突き当たり、ドアを引いて開けるとアトリエとなっていた。

「景林出版の営業の青蕗と言います。前任者の笠原に代わって、私が来ることになりました。よろしくお願いします。」

時夫は、テーブルの上に名刺を置いた。

「珍しい苗字だな。そこに座ってくれ。座る前に、あそこにポットとインスタントコーヒーがあるので、出してくれないか。勿論、私と君の分だよ。」

画伯は、チラッと名刺から目をカンバスに向けた。絵は、風景画だった。筆も持たず、ただ見つめているだけだった。

 

 時夫がコーヒーを二つ、テーブルの上に置くと、画伯はテープルに向きを変えて、コーヒーカップを持ち上げて唇に当てた。

「先生、まだ熱いです。」

時夫の言葉で画伯は、ジロッと時夫を見つめ、一口コーヒーを啜った。

「俺は、熱いのが好きなんだ。」

と言って、コーヒーカップをテーブルに置いた。

「珍しい苗字だな。青蕗君、どちらの人なのかな。」

時夫は、自己紹介を求められたと思い、ある程度詳しく話した。

「私が生まれたのは、新潟県長岡市の片田舎の集落にある母の実家です。その集落では、青蕗姓は一軒だけでした。母は一人娘で、小学校の同級生だった父健一を婿として迎えたのです。」

画伯は、コーヒーカップを手にして、口に運んで話を聞いていた。

「父は裁判官でしたが、定年前に退職して東京で弁護士となったのです。そのため母と私と兄の三人は、父と共に東京で暮らすことになったのです。父が六十を過ぎて間もなく病死し、兄が長岡にある銀行に勤めていることから、母と兄は母の実家に戻ったのです。私だけがアパートを借り、東京に残ることになりました。」

そこまで話をすると、話を遮るように画伯が言った。

「君の名前は時夫君、お父さんの名前は、健一君だな。お兄さんとお母さんの名前を聞いていないな。家族の名前を聞くのに、興味があってな。」

時夫は、直ぐに反応するように

「兄は正行、母は幸子と言います。」

と答えた。その返答を聞くと、画伯はコーヒーを煽り飲み、向きを変えてカンバスに向き合った。

 

 その日は寒い日だった。前庭の紅葉も散り、その色も暗いものとなっていた。幸子は、竹箒で枯れ葉を掃き集めていた。乾いた枯れ葉の音を聞きながら、道路の方を見た。そこには濃い茶色のベレー帽を被った男が立っていた。幸子は、ベレー帽から見える髪が白いことから、自分と同じ位の年齢の男だと思った。右手を肩近くに上げて、大きなものを背中に担ぐよう包みの紐を持っていた。

 男は、一礼すると門の中に入り、幸子に向かって歩いてきた。

「幸子さんですね。相変わらず美しいですね。」

と声をかけた。幸子は、訝しそうな目付きをして

「幸子ですけれど、貴方は、誰!」

と、語気を少し強めて答えた。

「田中武彦です。小学校の時、同級生だった田中です。」

名前を聞いて、幸子は眉間に皺を寄せた。男の顔を覗くように見たが、思い出すことができなかった。

「田中さんですか。思い出せないわ。どこに住んでいらっしゃるの。」

「今は、東京の小金井です。小学校の頃は、宮原駅前に住んでいました。」

宮原という地名は、当時の地名で、現在は原野という地名となっていた。小学校の校区では、最も外れの地域だった。駅の名前も、宮原と変わっていた。

 

 幸子は、武彦を家に招き入れた。玄関を入って直ぐの部屋で、来客があると迎える、応接間として使っていた。幸子は、武彦と向かい合って座布団に座ると、電気ポットを引き寄せた。急須に茶葉を入れて茶碗に注いでいた。

 武彦は、背負っていた物を脇に置いて座布団に座った。ショルダーバッグからビニール袋を取り出し、机の上でビニール袋の中から菓子箱を取りだした。

「人形焼きです。幸子さん、好きだったでしょう。」

武彦は、無造作に包装紙を外して菓子箱の蓋を開けると、大きめの人形焼きが十個ほど入っていた。

「え、人形焼きが、私の好物だって。」

「そうだったでしょう。小学生当時は、そうでしたよね。」

確かに子供の頃、東京に出張した父が、いつも買ってきてくれたのを思い出した。二人は、人形焼きを食べながら、小学校当時の先生や同級生の話などをした。

 幸子は、話の内容からして武彦なる人物は、確かに小学校の同級生であると確信した。しかし誰なのか、思い出すことはできなかった。小学生の頃には、同級生が多く遊びに来ており、田中姓の生徒も数人もいた。父や母、それに祖父は優しく、遊びに来た友達をもてなしてくれていた。

 

 暫くすると、武彦は脇に置いた物を取り上げて、テーブルの上に置き風呂敷を解いた。一枚の絵が現れた。

「これ、私が描いたものです。幸子さんに差し上げます。気に入ったら、部屋に飾ってください。」

幸子は、目の前に置かれた絵を見て美しいものだと思ったが、戸惑った。顔を上げて、窺うように武彦を見つめた。

「田中さんは、絵描きさんなの。」

「そう言われるほどの者でないですよ。この絵、幸子さんを思って描いたのです。飾って欲しい。それで満足なんです。」

「お代は、お幾らですの。」

「そんなもの要らないですよ。帰る前に、お庭を見せていただきたいのです。」

武彦は、そう言って風呂敷をたたんでショルダーバッグに入れ、ショルダーバッグを肩にかけると立ち上がった。

 武彦は、部屋の引き戸を開けると、我が家のように廊下を歩き出した。幸子は慌てて、武彦の後を追いかけるように歩いた。

「庭の景色、変わっていませんね。そこの石の脇に、お爺さんの姿が、今にも現れそうですね。」

その言葉に、幸子は頷きを見せた。

「この部屋、幸子さんの部屋ですよね。絵を飾ってください。」

武彦は、そう言いながら、幸子を見つめた。

「はいっ。」

と小さな幸子の声を聞いて、武彦は微笑んだ。その足で武彦は、玄関へ行き靴を履いて、幸子を見つめた。

「突然、お邪魔して済みませんでした。」

そう言って一礼をした。呆気にとられたような幸子の顔を見て、武彦は言った。

「まだ、私を思い出せないようですね。その内に思い出しますよ。少年の頃、貴女に言ったことを思い出してください。約束は守りますよ。私を信頼してください。」

幸子の不安そうな顔を見て、人生への諦めをチラッと感じた。

「小学校も短い間しか、一緒でしかなかったから。校庭の大きな桜の木が懐かしいですよね。幸子さん、元気でいてください。また会えるから。」

武彦は、右手を幸子の前に差し出した。幸子も手を出して握手をした。少し力が入ったかと思うと、スーと手が離れた。武彦は、向きを変えると背を向けて歩き出した。幸子には、何か懐かしさだけが残った。

 

 幸子は夢を見ていたのだろう、自分のうわごとで目を覚ました。

「ヒコちゃん、ヒコちゃん」

幸子のうわごとは、人のあだ名だった。幸子は、部屋の電灯をつけると、武彦から貰い、壁に掛けていた絵を見つめた。その絵を見つめていると、忘れ去った少女時代のことを思い出した。今見た夢は、少女時代の夢だった。目を軽く閉じて、夢を思い返した。

 

 家の門を出て坂を下ると、直ぐに小川が流れている。小学校の友達が、春風と暖かい日差しの中で戯れている。田圃は、一面にレンゲ草で桃色に輝き、揺れている。小川のキラキラ光って流れるのを覗き見ていた。ふと足下を見つめると、大きめのスミレが咲いているのが目に入った。私は、スミレに微笑みかけて、ただ見つめていた。薄紫と白い模様は、何と美しいものかと思った。ふと左に顔を向けると、絵の好きなヒコちゃんが絵を描いているのが見えた。顔を画用紙から外して、ヒコちゃんが私を見た。私は微笑みを返した。

「ヒコちゃん、上手に描いてね。」

私が言うと、ヒコちゃんは頷きを見せると、その姿が段々と消えていく。私は、思わず

「ヒコちゃん、ヒコちゃん」

と声を上げて叫んだ。そして幸子は、夢から目が覚めた。

 

 幸子は目を開けて、絵を見つめた。そこには紛れもなく小川の岸に佇み、微笑んでいる少女が描かれている。少女の足下には、スミレ草が溢れんばかりに描かれている。幸子は、小川の岸にスミレ草が咲いていたことを鮮明に思い出した。絵の印象が、夢となって現れたのでないことは確かだった。

「あの時、確かに絵を描いていた少年がいたわ。誰なんだろう。」

幸子は、そう思いながら絵を見続けた。

 小川の流れの遠くには、小川で魚捕りをしている子供たちの風景がある。ランニング姿で、麦藁帽子を被っている。男の子達が笊を差し入れ、岸にそれを見つめている少女の姿がある。夏の暑い日の一コマである。泥鰌や鮒を捕っていたのを、間近で見ていた自分の姿を思い出した。

 夏の風景の右には、森があり、小さな社が描かれている。社の周囲は、秋の紅葉が見え、その中で子供が三人遊んでいる。縄跳びをしているようである。幸子は、山の中腹にある神社前の広場で、よく近所の子供と縄跳びをしたことを思いだした。

 小川の風景の左側は、雪が少し積もっている庭の景色である。松の雪を払っている老人と、楽しそうに竿を述べている少女の姿があった。

「お爺ちゃんと私だわ。一緒に雪除けをよくしていたわ。」

幸子は、そう呟いた。

 遠くの山は、高い山が雪のある風景、前は秋の山、夏の山、春の山が、ぼんやりと描かれていた。幸子は、見ている絵が自分の幼い頃のことが描かれていると思った。

「ヒコちゃん、誰かしら。」

顔を思い出すことができなかった。

 

 幸子は、眠ることができず、押し入れの奥に仕舞い込んだ箱を取り出した。箱に入っている、雑多な書類から小学校の卒業名簿を取り出した。名簿には、田中武彦の名前を見つけることはできなかった。田中姓は数人いたので、一人ひとり思いを巡らし、繰り返し見つめた。果ては、苗字が変わったのではないかと思い、名簿を幾度も捲ったが心当たりがなかった。

 名簿を膝の上にして、目を閉じて空しさを感じていた。暫くすると、幸子は雑多な書類をひっくり返した。

「茶色の封筒、探さなくちゃ。」

その封筒は、書類の下の方から見つけることができた。その中には、変色も著しい写真が入っていた。誰が写っているのか、判別できないほどだった。幸子は、写真を裏返した。

…左から二番目、田中武彦〜たなかたけひこ〜ヒコちゃん、住所は宮原駅前、二月三日節分に分からないところへ引っ越ししました…

幼い頃に、鉛筆で幸子が書いたものに違いがなかった。幸子の目が急に曇った。汽車で去って行く武彦を、泣きながらホームで汽車を追いかけたのを思い出したからだった。それは遠い昔のことで忘れたというのではなかった。悲しさで、封筒に仕舞い込んで封印するほかなかった。武彦が尋ねてきてくれたのをただ嬉しく思った。

 

 幸子は、押し入れから引き出したものを元通りに仕舞い込んだ。部屋の電気を消して、床に入った。目を閉じると、武彦の生き生きした姿が甦った。

 冬の寒い日、風邪を引いて床に臥していた。午後になって軽い眠りから覚め、庭の方を見つめた。障子のガラス越しに、縁側のガラス戸からの光が眩しかった。庭の木々の枝に雪が積もっているのが見えた。祖父が松の木の雪を、竿を使って落としていた。

「縁側の廊下に、誰かいるわ。」

そして幸子は、縁側で武彦が外に向かってカンバスを構え、庭を見つめ、そして筆でカンバスを撫でていた。少しすると、武彦は振り向いて幸子に頭を下げた。筆を置いて、武彦は幸子の寝床の脇に来て座った。

「さっちゃんと一緒に、絵を描けたらいいな。」

「駄目よ、自信がないから。それに根気もないのよ、無理よ。」

幸子は、布団の中で身体を武彦の方に向け、武彦を見上げて言った。

「自信、根気、そんなもの、要らない。一緒に描いていれば、教えてあげられるから。きっと楽しくなるよ。」

そして武彦は、目をそむけて考え込んだ後に言った。

「さっちゃん、いつでも、どんな時でもいい、絵を描きに私のところに来てね。」

そう言って、幸子の目の前に右手を差し出した。幸子は頷きながら、床の中から手を出して握手をした。

「遅くなったから、もう帰る。早く風邪を治して、元気になってね。」

武彦は、そう言って部屋から出て、カンバスと絵の具箱を片付けて抱え、障子のガラス越しに小さく手を振って見せて帰って行った。それから三日経って風邪も治り、登校すると武彦の姿がなかった。翌日、遠くへ引っ越しすることを友達に聞き、頭を震わせながら駅に向かったのを思い出した。

 

 朝、早くに床を抜け出し、朝食の用意をした。最近は、長男正行の嫁玲子が食事を作っていた。幸子は、玲子からの声があって、部屋から出て食卓に着いていた。夫健一が死んでしまい、長男夫婦に養われていることを思うと、勝手な行動も遠慮勝ちになった。家にいることが多く、自分の部屋に籠もって新聞や本を読むようになった。

「お母さん、どうしたの。お部屋にいらっしゃればいいのに。」

寝間着姿で、嫁が少し慌てた様子で台所に姿を見せた。

「いいのよ。玲子さん、働いているのでしょう。」

そう言うと、幸子は手を緩めることもなく、野菜サラダを作っていた。

 幸子は、武彦の姿を思うと、老け込む訳にはいかないと思った。何かをしなければならない、自ら活動しなければならないと思った。小説を書く、絵画を描く、あるいは何か楽器を覚えなければならないと思った。新たな生き甲斐を見つけ、真剣に向かい合い、生き生きと進まなければならないと思った。

 家族揃って朝食を済ませ、長男夫婦を送り出し、孫を学校に送り出した。部屋に入って、姿見と向かい合った。明るい服を、あれこれと着てみた。少し派手な服を身に纏うと、笑顔を浮かべて鏡を覗き込んだ。そして恥ずかしさを捨てることを心に決め込んだ。

 武彦の出現が、自分の生き様を変えたのを感じていた。武彦が生きており、尋ねてきてくれたことに感謝をした。連れ合いが死んだとしても、自分の人生が終わった訳ではない。溌剌と行動し堂々と生きることこそ、新しい生き様だと思った。

 

 

 暑い夏が訪れ、お盆になって次男の時夫が帰ってきた。幸子は、居間で寛いでいる時夫に、西瓜を持っていった。

「お前、絵を扱っている会社に勤めているんだよね。」

何気なく、幸子は言った。時夫は、西瓜にかぶりつきながら頷いた。

「私の部屋に、絵を飾ったのよ。私気に入っているのよ。後から見てくれない。」

幸子が言うと、分かったと言わんばかりに、幾度も軽く頷きを見せた。

 夕方近くになって、裏山の墓地に墓参りを済ませ、居間で夕食となった。海の物、山の物、ふんだんな野菜など、ご馳走が並んでいた。正行と時夫は、酒を飲み始めた。幸子もコップを長男の前に突きだした。

「お父さんの代わりよ、一杯位いいだろう。」

「お母さん、最近変わったよね。若々しくなったよ。」

正行は、嬉しそうに笑顔を見せながら、コップに清酒を注いだ。時夫は、思い出したように、幸子に向かって言った。

「お母さんの部屋に行ってくる。価値ある絵なのか見てくる。酔っ払ってしまうと、全てが屑に見えるから。」

時夫は、席を立って幸子に向かって、任せろと言わんばかりに親指を立てて振った。足取りも軽く、居間から出て行った。

 

 時夫は、中々居間に戻ってこなかった。ようやく戻ってきた時、時夫の顔は強張って、少し引きつっていた。

「どうしたんだ。そんな顔して。」

兄の正行が言った。

「お母さん、あの絵本物だよ。田中画伯の出世作品だよ。」

幸子は、何でもないという顔をして

「田中画伯って、誰なの。武彦さんではないのでしょう。」

と言った。

「お母さん、田中画伯を知っているの。」

時夫は、立ったまま幸子に言った。幸子は、時夫が座るのを待った。

「そう、武彦さん、画家だったのね。」

幸子は、時夫を見つめながら落ち着いて話した。

「武彦さん、小学校の頃の友達よ。昨年の秋、突然尋ねてきて、あの絵を頂いたのよ。」

時夫は、それを聞いて驚き、呆然とした。

「幾らで買ったの。」

「お金は要らないと言っていたわ。私のために描いた絵なんだって。私、あの絵を見ていると、少女時代を懐かしく、明るく思い出すわ。」

時夫は、田中画伯が風景を中心とする画家で、母の部屋にある絵は特異な絵であることを知っていた。昨年まで、アトリエの壁に掛けてあったが、いつの間にか消えていた。おそらく高値で、名のある人に売り払ったと思っていたのだった。

 

 

 明日、時夫が東京に帰るという夜になって、幸子は慌ただしく荷造りをした。荷造りが終わると、正行と時夫が居間で酒を飲んでいるところに顔を出した。幸子もコップを正行の前に差し出した。正行は、酒を注いでから幸子の顔を見た。明るく、少し浮かれているように見えた。幸子は、少し酒を口にすると、時夫に言った。

「明日、時夫と一緒に東京に行くから、よろしくね。」

時夫は、幸子の突然の言葉に驚きを見せた。

「何だよ、急に。俺のアパートは、あばら屋だよ。母さんが泊まるところなんか、ありゃしないよ。」

時夫は、右手を顔の前にして横に振った。

「何も、お前のところへ行くんじゃないよ。武彦さんのところへ行くのよ。案内してくれるね。」

時夫は、俯いて少し考えた。仕事上の繋がりが良くなると思った。お礼でも言って、幸子は直ぐに帰るものと思っていた。

「ああ、分かったよ。何か、土産でも持っていった方がいいよ。」

「土産の心配は要らないよ。笹団子が好きだったんだから。」

幸子は小首を傾け、楽しそうに笑った。そして正行に向かって言った。

「正行、私がいなくても大丈夫か。子供の世話の心配もあるが、私は行くよ。生まれ変わったつもりなんだ。」

正行は、頷きながら答えた。

「子供と言ったって、もう大きくなっているし、朝、少し早く送り出せばいいことだ。玲子は、今までも、そうやっていたよ。

幸子は、二人の返事を聞くと、コップの酒を煽り飲んで部屋から出ていった。出際に

「時夫、心配要らないから、頼むよ。」

と、念を押すように言った。

 

 東京の小金井駅に降り立ったのは、夕方近くになった。幸子は、荷物の入った車付きのバッグを引き摺り、駅前のバス乗り場へ時夫と並んで歩いていた。時夫は、バスに乗っても画伯の家近くのバス停留場から、相当歩かなければならないと言った。

「その方が良いよ。武彦さんの家の付近のことが分かるから。タクシーには乗らないよ。」

そう答える幸子の気持ちを変えることはできなかった。都営バスに乗り、林が目立つバス停留所に降りた。そこから二十分ほど歩いて、田中画伯の家に辿り着いた。幸子は、呼び鈴を押すと、返事も待たないで玄関の中に入って靴を脱いだ。

「武彦さん、お邪魔します。」

幸子は、荷物を引き摺りながら廊下を歩き始めた。

「ああ、どうぞ。」

と田中画伯の返事があった。その時は、もう幸子はアトリエのドアを開いていた。時夫は、遠慮もなくドカドカと入っていく幸子を唖然と見つめ、その後を追うしかなかった。

「ヒコちゃん、来たわよ。」

背を向けている田中画伯に声をかけ、テーブル近くまで歩いた。屈み込んで、荷物から包みを取り出して、テーブルに上げた。

「笹団子よ。まだ好きだよね。」

「さっちゃん、私を思い出したな。」

そう言いながら、田中画伯はカンバスからテーブルに向きを変えた。

「そのカンバスの台を使いな。笹団子、好きなんだよな。」

左手を述べて、幸子に椅子に座るように示した。そして時夫を見ると

「君、お茶を出してくれないか。コーヒーじゃないよ、お茶、番茶だよ。」

と言った。お茶が入るまでの間幸子は、荷物の中からスケッチブックを三冊ほど出した。

「ヒコちゃんのこと思い出してから、描き始めたのよ。下手だけど、絵を描くって良いことよね。」

武彦は、満面に笑みを浮かべて、スケッチブックを受け取った。一枚一枚、丁寧に見つめていた。

「色使いが明るくって、さっちゃんらしい絵だよ。」

田中画伯は、幸子を見つめて言った。

お茶がテーブルに置かれ、笹団子が器に盛られた。武彦は幸子のスケッチブックを纏めて、カンバス台に載せた。笹団子の笹を剥き、半分程口に入れて、モグモグと噛んだ。

「久し振りだな。とっても美味しい。」

左肘をテーブルにつき、手の平に頬を載せていた。

「見たところ、碌な食事もしていないようだね。近くに店があったよね。何か買ってきて、夕食にしましょう。」

そう言うと、幸子はアトリエから出て行った。

 

 美味しそうに食事をしている武彦を見て、幸子は微笑んだ。後片付けをして、三人はテーブルを囲んでコーヒーを飲んでいた。

「お母さん、もう遅いよ。先生の邪魔にもなるし、帰ろうよ。」

そう言う時夫に、幸子は不思議そうな目を投げた。

「時夫、お母さんは帰らないよ。ヒコちゃんと一緒に絵を描くのよ。お弟子さんなんだから。」

屈託のない幸子の返事に、時夫は戸惑った。武彦の顔を窺うように時夫が見ると、田中画伯は笑っている。

「君も良かったら、この家に住まないか。会社が遠くなるが。」

時夫は、武彦の言葉に言葉を失い、俯いてしまった。

「ヒコちゃんが、折角言ってくれるんだから、そうしなさいよ。」

幸子は、時夫の肩を軽く叩いた。時夫は、幸子の顔を見た。若々しく、そして魅力溢れ、輝いているように見えた。

 

 アトリエの窓やベランダ近くに放置されている絵や箱などを移動すると、外の明るい日差しが入ってきた。自然の光の中で、幸子と武彦はカンバスに向かうようになった。武彦は、外からの光に有り難さを感じた。

 時夫は、アパートの荷物を持ち込み、朝早く出勤していく。晴れた日など、幸子と武彦は、スケッチブックを携えて郊外に出かけ、写生することが多くなった。お互いの絵に干渉することなく、それぞれが描いている。絵の構図などで困れば、幸子は武彦に尋ねた。

 少ない時を見つけては、幸子は家の中の部屋の整理や掃除をした。庭の手入れもして、花も植えた。

 

 時夫は、武彦の絵が、以前とは異なって明るくなっていくのを感じていた。それは取りも直さず、人々が好む絵となっていると思った。

「芸術的にも優れ、明るい。売れる絵になっている。」

時夫は、二人がいない時に、絵を写真に収め会社に持っていった。会社でも、評判が上がるばかりだった。
「画伯の絵の隣の絵、誰が描いた絵だ。明るくて、鮮やかだ。画伯に、弟子なんかいたのか。」

時夫に向かって、編集長が言った。

「その絵、私の母が描いたものです。日も浅いんです。まだまだ絵になっていません。」

そう時夫が答えると、編集長は不思議そうな顔をして時夫を見つめた。

「君のお母さん、幾つなの。」

「画伯と同じ年です。小学校の同級生と言ってましたから。」

編集長は頷きを見せると、急に納得したように言った。

「画伯の出世作、「川岸のスミレ草」、描かれている少女は、君の母だったのか。」

編集長の、その言葉を聞いて、時夫はハッとした。あの明るい作品は、確かに母の少女時代の姿だったに違いないと思った。

 それから間もなくだった。少し年がいった上品な婦人が、川岸のスミレに微笑みかけている、武彦の絵が発表された。展覧会で特別出品として掲出され、大きな評判を得た。

 風景画主体だった武彦は、幸子を配置することが多くなった。自然の中に息づく、人間の美しさを讃える絵でもあった。