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「或る婦人の旅立ち」
佐 藤 悟 郎
空は暗くなり、大地は灰色に、海は響めきを微かに残し、やがては静まり返る。海岸にある街の断崖の上に広がる小高いところ別荘があちこちにあった。
断崖の縁に立っている人影は寂しく見えるものである。海に面した断崖は、夜が明ければ海鳥の叫び合う声が響き、青と白の縞模様に揺れる海が、眼前にその豊かな姿を見せる。真下に潮騒はどよめき深い景観を見せ、海辺の名残の月見草が空に向かって咲いている。松影はひっそりとしているが、陽が高くなると松の緑が浮かび、草波も柔らかそうに見える。
断崖の上の平地に、一つの苔生した道が続いている。秋風は強く吹き始め、静閑なはずの防風林が揺れている。松林は別荘地へと続き、振り返って見ると遠くに観光地が僅かに見える。続く道は断崖に添って続き、その道から人が踏み分けた道が、松林に幾つか見ることができる。更に、高台には別荘が、彩り豊かに二つ三つ見えるところだった。この世で何もすることがない人々は、果てることのない断崖の渕の道をさまよい、草むらに飛び込み、松林の幹に凭れて、いつもこの荘厳な風景の中に、安らぎと悲しさを求めるのだった。そして目に入る海の広さを見て、また空の荘厳さを見て、何かを感じて勇気を奮い起こすのだ。それは人が自然の中に生きているからだった。そして、自然の中から脱皮することに、何かを得ようとしているからだった。
夕暮れが訪れる。海は、太陽の光を写してキラキラと輝き、島影が点々と光の中に黒く浮かんでいる。港に帰る船影が、広い海で漂っている。松林が紫色に輝き、人々は草むらに腰を下ろして憩う。昔、この辺の人々は労働の終わりに、いつもそうしたと言う。中には正座をして、自分と共に海を見た人の思いに耽るというのだ。松の幹に凭れ、何故かひっそりと目を潤ませる若者もいたとのことである。崖の先端に両手を捧げ、賛辞を詠う人や誓いを立てる人もいたという。
豊かな昔の人々に思いを巡らし、今も時々訪れる人もあるのだろう。天は、このように生きる人と共に歩いている。そして彼等に勇気を与えるのだという。夕暮れが荘厳であると共に寂しいと思われているように、神はそう思う人に勇気を与えるのだ。自然の中で群れをなす者は、それ以上になれない。獣の群れでしかない。心まで獣の群れをなしたとき、人々は天から見捨てられ、再び甦ることができなくなると言われる。一人ひとりが神と結びついていることを知らない人は、人間の名を被った獣でしかないのだ。我々の主は、創造主である神である。自然の荘厳に、何かを感ぜぬ人々は、神の手を信じない、何の情操も持っていない人々なのだ。
この断崖から青碧を望む人々と同じように、時折さまよい歩く人々もいた。彼も街の雑踏から逃れ、気儘に散策を行うことが屡々あった。長い坂道を登ると細々とした道が、松林を抜け断崖へと続いていた。その崖渕をさまよい歩く。朝は、霧の中を、夕べは黄金の光の中をさまよい歩くのだった。誰の姿も見えない、この静かな佇まいに親しみ、街で戯れる人々を悲しく思った。
人々から逃れてきた彼は、黄昏の果てしない海の輝きと燦めき、空の尽きせぬ深さを見つめていた。島影は、いつもより淡く鈍く光っていた。白い一つの道を見つめ、路傍の枯れゆく草を見つめていた。秋も深く、彼は道を遠くまで歩いた。断崖の上に立ち、泡立つ潮騒を聞き、眺め下ろした。白波を見ながら帆影を数え、島影の緑に目を注いだ。その彼方の陽の光には、黄金の燦めきがあった。広く青い海に、陽の光は海の真ん中、断崖に向かって差し込んでいた。水平線上に陽は輝き、空は紅に、雲は朱白染まり流れていた。天空は、深い青色に変わって、星が一つ輝いている。
松林近くの草むらに、一匹の白い犬が駆け回っていた。何を見付けたのか、頻りに回りながら、じゃれているようだった。突然、その犬の鳴き声が絶えたと思うと、その犬は日の沈む方を見ていた。静かに草むらを踏み分けて、断崖の方に向かって歩いた。彼は、白い犬が、真剣に歩いてくる姿を見つめた。犬は比較的大きな犬で、崖渕まで来ると前足を岩に載せて下を覗いた。前足を舌で舐めた後に、陽に向かって異様な野獣の音で吠え立てた。彼は、陽の光を受けて悠然と立つ犬の風体を見つめた。海の響きは一層高鳴り、自然は静かだった。犬は、飽きるまで吠え続けてしまうと、首を竦めて前足を舐めだした。そして彼を暫く見つめ、振り返ると、そのまま松林の中へ消えていった。彼は、白い犬が去ってしまうと、少し寂しさを感じた。
翌朝、白く霧が籠もる松林の中を彼は歩いていた。うっすらと松の幹の影が浮かんでいる。崖渕は見えず、草むらの続きが霧の流れの中に消えていた。遠くから岩を打つ波の音が聞こえる。爽やかな風が、草むらの葉の擦り合うざわめきを醸し出している。草むらを分ける鋭い音がしたかと思うと、突然霧の中から黒い影が浮かんだ。その影は、彼に向かっている。彼は、直ぐに大きい松の幹の陰に隠れた。その影は、昨日の白い犬だった。その白い犬は、彼の隠れている松の前に止まると、前足を踏ん張り、彼に向かって吠え始めた。赤い口を大きく開き、口の中で舌を巻いていた。彼は、その白い犬を見つめていた。
「ロン、ローン」
松林の遠くから、細く澄んだ声が流れてきた。白い犬は、吠えるのを止め、耳をピクピク動かせていた。白い犬は、彼の目を見つめながら、彼の周りをゆっくりと歩いた。
「ロン、ローン」
再び声が聞こえると、白い犬はクルッと向きを変えると、彼の傍から遠退いていった。白い犬の影が霧に隠れようとする頃、暫くその影は立ち止まっている様子だった。そしてゆっくりとその影は消えていった。
彼は、松林の中をさまよい、冷たい霧の流れの中でコートの襟を立てた。潮騒に誘われるように、濡れた草むらを分けて進んだ。突然、下から吹き上げる風に、崖渕の端に立っていることを知った。恐ろしさの余り、一歩退いた。下を見つめると、霧が渦を巻くように流れ、波打つ音は高鳴り、下の方は青白く鈍く光っていた。
彼が、草むらを分ける音に振り向くと、黒い影が突進してくるのが見えた。彼は落とされまいと、両手を地に着けて、伏して身構えた。白い犬が姿を現し、彼の手前で止まり、睨み合った。白い犬は、ゆっくりと歩き出し、突然と彼に向かって、その上空を飛んできた。彼は、咄嗟に犬の胴体に飛びつき、地に落とした。犬が高く飛んだとき見たものは、地もない遥か下に青白く光る海の広がりだった。その一瞬に、白い犬は鼻を鳴らした悲しい音を響かせた。彼が、白い犬を引き摺り落としたのは、正にその時だった。
暫くの間、彼と白い犬は、身を寄せて地に転がっていた。白い犬は、恐ろしさのために体を縮め、頻りに鼻を鳴らしていた。彼は、白い犬の豊かな毛に頬を寄せ、喜びに似た心持ちだった。暖かい白い犬の毛の中に頬を寄せ、背中や頭に手を回して撫でた。冷たい霧は、目の上を流れている。白い犬は、彼の額を鼻で擦り、舌で舐め回していた。白い犬は、すくと立ち上がった。ゆっくりと草むらに去っていこうとしていた。彼は、頬杖をして白い犬が去っていく姿を見つめていた。
「ロン、ロン、ロン」
その呼ぶ声に向かって、白い犬は一度だけ吠えた。白い霧の中に人の姿が浮かんだ。犬を呼ぶ、柔らかな婦人の声が聞こえた。白い犬は立ち止まって、彼の方に向きを変えた。頭を幾度も振り上げて、「クーン」と鼻を鳴らした。間もなく、白い犬の影は、人影と共に霧の中へと消えていった。
その日から、彼は一人でさまようことはなかった。何処からともなく白い犬が現れて、彼と共に林を駆け巡り、枯れ草の上で憩い、崖渕に立って海を見つめていた。彼は、時折白い犬に食べ物を与えた。躾が行き届いた犬らしく、食べ物を強要することもなく、必ず体を地に着けて食べ物を食べていた。ビスケットを与えることが多く、彼も一緒に食べた。日差しは弱かったけれど、枯れ草の上は温かく、彼は白い犬と一緒に臥すことが多かった。何時しか眠りに陥ることもあった。そんな時、白い犬は彼に体を寄せて温め、四方を見張っていた。彼が帰るときは、茂みに囲まれた街への坂道まで見送るように付いていった。彼は、白い犬の姿が見えなくなるまで振り向いたり、後退りをしながら別れた。
秋の夕暮れにも珍しく、暖かい日だった。街の雑踏から逃れて、夕日に鮮やかに映える松林を歩いていた。松林から、眩しいばかりの断崖の方を見つめた。空は赤く焼け、雲は朱色に輝いていた。夕陽に向かって、崖渕の岩は黒々と見えた。彼は、崖渕に二つの影を見た。婦人と白い犬だった。婦人は、白い犬の首に手を置いていた。暫くすると、婦人は犬を連れて、崖渕伝いに歩き出した。婦人は、夕陽を見つめた後に、松林への小道を歩いた。彼は、松林の木陰から婦人を見つめた。
眦上がりの眉と大きな瞳が見えた。顔立ちの中には、高貴さが漂っている。足は細く伸び、薄緑色のスカートが揺れている。手首は、白い布が襞になっていて暖かそうだった。サンダルを履いている足は、柔らかく赤味を帯びていた。何処かの別荘の持ち主の婦人に違いないと、彼は思った。彼が松林にいるのを知ったのか、白い犬は婦人の側から離れ、落ち葉を蹴散らして彼のところに駆け寄った。婦人は、立ち止まって白い犬の行方を見つめていた。婦人は、白い犬が駆け寄った松の幹から現れた彼を見た。夕陽の淡い光の中に、忽然と現れたように思えた。その淡い光の中で、彼が屈み込んで白い犬の頭を撫でていた。夕陽の中に、黒色の長いコートを靡かせ、白いマフラーが翻っていた。松の落ち葉が地上を隠し、夕陽が落ち葉を一層淡く見せていた。白い犬も、黄昏の光に色付いていた。白い犬は、幹から現れた人に向かって、頻りに尾を振っていた。婦人は、人影のない秋の夕暮れの弱い光の中に、何か寂しいものを見たように思った。婦人は、食べ物を掌に載せ、白い犬に与えている彼を見続けた。彼は、婦人の方に顔を向けて、じっと見つめた。婦人は、彼の眼差しが柔和に思った。彼の乱れた髪の下に光る眼差しが、自分を見つめているように感じた。二人は、風物を見ているように静かに見つめていた。いつもと変わらない風景の中であるが、二人の姿が最も自然に思われた。
夕靄に薄く浮かぶ松林の中を、駆け去って行った白い犬は、暫く彼の行方を見つめた。そして婦人の方に首を回しただけで、婦人の方に行く様子はなかった。婦人は、白い犬に語りかけるように頷いた。白い犬は、彼の後を追って、夕暮れの松林の中へ消えていった。
翌日の夕暮れ時も、婦人は彼の姿を見つめた。晩秋の風に向かって海に目を注ぎ、耳を傾けて何かを考えている様子だった。荘重な夕暮れの中に、彼が何かに向かって親しもうとしているのを感じ、婦人は少し寂しさを感じた。
彼は振り返った。枯れ果てた草原の続きの中に、一人の婦人が自分を見つめているのに気付いた。厳しい冬の訪れが近く、海の波は高鳴り、渡る風は肌を刺すようだった。遠くに続く松並とその前に広がる枯れ野、小さな人影がぽつんと立っている。彼は、清らかなものを見たと思った。必死になってオーバーの襟元を、風に取られまいと押さえつけるのが嫌だった。それでも彼は、断崖に行くことを止めなかった。海からの風は顔に打ち付け、俯いて歩いた。足元の砂が、歩みとともに飛び流れていくのを見るだけだった。時折、枯れ草が飛んでいくのも目に写った。冬の海は、空を映し灰色に広がり、風が緩くなると顔を上げて海を見つめた。白波が方々に立ち上がり、岩影は静かであるが寒く見えた。この厳しい自然の中で、崖渕を白い犬と連れ立って歩いている婦人を見ると心強く思った。この荒涼とした陸と海の続きの中に、人影を見ることができたのは、彼にとって大きな励ましとなった。
凍った自然の中に雲は白く、風は全てを凍らせ、海は空虚な響きを鳴らし、婦人と白い犬と彼の影が動いていた。風が緩んだかと思うと突然、彼は近寄ってくる婦人に手を高々と上げて振った。婦人も手を高く上げて応えていた。風が激しくなっても、二人はじっと立ったまま手を上げていた。オーバーが音を立てて翻り、婦人の髪が柔らかに解けていった。婦人は片手を髪に当てらい、彼に向かって手を振っていた。彼は、急いで婦人に近寄った。風は強く冷たかった。
「奥さ〜ん、松林の方に行きましよう。」 彼の声も、風に流されがちだった。 「な〜に。」 彼は、松林の方を指差して、大声を上げた。
「向こうへ行きましよう。」
そう言って彼は、松林の方へ歩き出した。婦人も松林に向かって歩き出した。髪の毛が風に煽られ、宙に舞っていた。背に風を受け、歩調は早かった。白い犬は、彼と婦人の間を走り回っていた。
松林まで来ると、風は和んでいた。彼は松の木に手を掛け、枯れ野を小走りに来る婦人を見つめた。白い犬は、彼の脇に伏していた。婦人は、彼のいる所を見定めると、一目散に走った。苦しそうな息をしながら婦人は、恥ずかしそうに笑顔を見せて言った。
「よくもまあ、私としたことが、こんな身形で走ったものね。」
彼は微笑んでいた。婦人は目を閉じて胸を大きく膨らませ、肩を上下に動かして深く呼吸をした。婦人が目を開くと、彼が白い布を指で抓み、ヒラヒラさせているのが見えた。
「奥さん、これを被ったらどうですか。」 「これを頭にですか。このままでいいですわ。」 「いけませんよ。それじゃ、お化けですよ。」
「だって、貴方のマフラーでしょう。」 「ええ、汚れてはいませんよ。マフラーだけは、上等のを使っておりますから。」
彼は、いつも小風呂敷ほどの広さの白い絹のマフラーを首にかけていた。それを外して、婦人の目の前にぶら下げていた。
「そうじゃないの。貴方が寒いでしょう。」 「いいえ、ちっとも寒くないです。さぁ、早く被ってください。」
彼は白いマフラーを、婦人の目の前に押し付けるように突き出した。婦人は、それを受け取って暫く考えている様子だった。
「悪いけど、私は頭に被りものをするの、好きでないの。」 「じゃ、髪を後ろに束ねて結んであげましょうか。」
「ええ、それが良いわ。リボンにしてくださいね。きっと、良いリボンができるわ。」
婦人は、白いマフラーを彼に手渡すと、クルッと彼に背を向けた。風に戯れている婦人の長い髪が、彼の顔を撫でていた。彼は両手で婦人の髪を分けながら整え、大きな白い蝶々のようにマフラーを結んだ。婦人はコンパクトを取りだし、その様子を見つめていた。
「大きくて、とても良い感じ。とても上手よ。」
彼は、肩越しにコンパクトに写る婦人を見つめ、肩を竦めて見せた。婦人は、ゆっくり二、三歩前に歩いて、コンパクトをオーバーにしまうと彼を見返した。
「私のようなお婆ちゃんが、こんな大きなリボンを付けて、可笑しくないかしら。」 「奥さんお婆ちゃん。とんでもない。黒髪豊かな貴婦人ですよ。」
「誰もいないんですもの。可笑しくないはずね。よかったら、もう少し一緒に散歩してくださらない。」
そう言うと婦人は、再び断崖に向かって歩き始めた。柔らかで大きな白いリボンが揺れていた。婦人の後ろ姿を見つめながら、彼も歩き始めた。荒涼とした枯れ野に、冬の風が吹いている。白い犬は、二人の周りを軽快に回っていた。三つの影は、遠く断崖の上に映っていた。
それから彼と婦人は、連れ立って歩くことが幾度かあった。言葉の少ない歩みは、冬の厳しさのためだったのだろう。クリスマスも近い日の夕暮れ、冬の空は鈍く曇り、風はいよいよ冷たかった。松林を散策した婦人は、一人で松の幹に凭れていた。夕闇が訪れ、全てが色を失い、木立の薄黒い影が眼前に浮かんでいた。頭を垂れて、消えゆく足下を見つめていた。
「奥さん、奥さんですか。」 婦人は黙っていた。彼は、項垂れている婦人に近付き、顔を覗いた。
「奥さん、どうしたんです。こんなに寒いのに、たった一人で。」 「会う早々、失礼ね。」
彼は、婦人が何か怒っているらしいと感じた。子供のように拗ねた姿を見て、微笑んだが言葉に出さなかった。彼は、婦人が自分の軽率さに気付いた上での姿だと思った。
「とても長く待ったのよ。」
間近にいる彼に向かって、ようやく顔を上げた。沈黙に耐えかねた様子だった。彼の微笑んでいる顔に安心したように、婦人は彼の胸に顔を埋めた。
「とっても寒いの。」 婦人は目を閉じて、彼の胸の中で甘い感傷に耽っていたが、ようやく明るい姿で一歩退いた。
「どうしてもっと早く来なかったの。怖かったのよ。」 「クリスマスも近いでしょう。店の方が忙しくてね。」 「店って、どこなの。」
「街の少し外れのクラブです。」 「じゃ、ボーイさんなの。」
「いや違います。ボーイではありません。奥様はもう帰らなくては、送ってあげますから。」 「そんなに気を遣わなくても良いのよ。私は、未亡人だから。」
婦人はそう言うと、頭を低く下げてそっと髪を撫で上げた。何か言いたいことを言い出させず、婦人は彼の前をゆっくり行ったり来たりしていた。
「どうしたのですか。」 彼が声を掛けても、婦人は頷きを見せながら、なおも歩いていた。 「私の名前、まだ知らないでしょう。」
婦人は、自分の歩調に合わせながら、彼の姿を見ずに地に投げ捨てるように言った。彼は黙って頷いていた。 「佐野優子というの。もうお婆ちゃんなの。」
彼は黙っていた。婦人の言葉に恥じらいを感じていたが、婦人の寂しさも感じた。彼と共に戦い抜ける寂しさだったかも知れない。婦人は、歩みを止めて彼に言った。
「気高き勇者よ。汝の名は。」 「いと気高き王女様、我が名は、桐野逸夫と申します。お忘れなきよう。」 「騎士、桐野、我が城まで送るよう。」
「分かりました。」
彼と婦人は、この閑散とした夕闇の中で笑い合った。その打ち解けた二人の響きは、松林を抜け、枯れ野を渡り、風に逆らい、潮騒を砕き、広い海にまで木霊するようだった。
婦人は彼と名を交わした。それから毎日のように崖渕の松林で逢い、戯れていた。強い厳しい風の中で、婦人はその年になって初めて、ありきたりの人生に逆らっていた。
クリスマス・イブの前日、婦人は彼がこの二日間はどうしても来ることができないと話すのを聞いた。その日の夕暮れは早く訪れた。広い洋風の庭園らしく、門灯の明かりと洋館から漏れる光が、長い敷石を浮かび上がらせていた。冬の風は鳴っていた。
「本当に誰もいないのよ。雇っている爺と婆がいるだけよ。」
婦人は諦めながらも彼を誘った。門灯の明かりの下で、二人の影は夕闇に浮き立ち、婦人の髪が崩れそうだった。彼のマフラーが、婦人の顔近くで揺れていた。彼は名を交わした日以来、毎日婦人をこの門まで送ってきたのだった。
「店の仕事も、もう始まります。今日は忙しくなりそうですから。」 「でも、お食事くらい、一緒にしてください。いいでしょう。」
二人のオーバーは風に鳴っていた。彼は愛想良く首を横に振って見せた。婦人は、彼の笑顔を見ると、強いて家に引き入れることができなかった。彼には、侵しがたい何かを感じていたからだった。婦人は手を差し出した。別れの握手を交わすと
「じゃ、クリスマスが終わったら、またね。お仕事無理しちゃ駄目ですよ。」
と言った。彼は、今来た道を引き返していった。夕闇に紛れ、彼の姿は直ぐ掻き消えた。松や木々の木立の鳴る中に、去る人の靴の音を聞いていた。白い犬が、彼を追いかけていくのだろう、スーと眼前から消えていった。
婦人は、玄関に向かって歩きながら考えた。今年の秋になって、初めて良い友達を見付けたと思った。夫に先立たれ、その夫との生活には満足していなかった。夫は、ある化粧品会社の社長だった。それだけに交際も広く、婦人と親しく語り合う時間など見付けようとしなかった。婦人は、家に閉じ籠もり勝ちになり、やることと言えば書に親しみ、ピアノの鍵盤を思い切り叩くことしかなかった。夫とは馴れ初めがなく、互いに語り合うこともなく、そのきっかけすら作らずに夫が死んでしまった。夫の財産を全て受け継ぎ、会社の経営の殆どを信頼する実の弟に任せ、夫の残したこの別荘である洋館に、時折訪れて息抜きをするのだった。
婦人の東京の邸宅には長男夫婦と幼い二人の孫、それに長女が住んでいる。長男は婦人の経営する化粧品会社に勤め、長男の妻はピアニストである。長女は黙々と小説の勉強に励んでいる。明日のクリスマス・イブには、東京の家族を呼び寄せて過ごそうと思っていた。三階建ての洋館は、煉瓦造りの蔦で覆われた強固な建物だった。爺と婆に迎えられ、婦人は飾り立てられた居間の食卓に着いた。欧州の国々の人形が飾られた酒棚があり、壁には鹿の頭の剥製や剣などが掛けてある部屋だった。暖炉の火は赤々と燃えていた。その日は冷え込み、婦人は居間のカーテンを引いて、雪が窓を打ち付けているのを見た。珍しことだった。厳冬でも、雪が降らずに終わることの多い土地だった。
食事の後に婦人は、東京に電話をかけた。長男家族は、仕事や育児などで来ることができず、長女が来ることになった。長女は昼頃までには来ると言った。婦人は、小さな明かりをつけて床に入った。燃えるような真紅の枕に頬を当て、半ば開いているカーテン越しに窓の外を見た。今日の彼の振る舞いを、一つひとつ思い返した。彼に会うと子供のようにはしゃぐ自分の姿、その感情が如何なるものかと思った。これまでにない喜びが満ちていた。何の拘泥もない彼の姿、それだけに自分は彼のことを知らないのかもしれない。死んだ夫は拘泥しなかったのではない。全然相手にしてくれなかったのだ。自分は、社長夫人として飾らざるを得なかった。夫と親しくしていると人々に見せなければならなかった。人間は生きている限り、その時々の自分にあった姿を見付け出すと、喜びを感じ幸せである。何の屈託も無しに、彼は反応してくれる。嬉しいことは、彼の反応が自分の思いと重なることだった。
翌朝、この海辺の冬には珍しく青く晴れ渡っていた。婦人は、床から起きて窓辺に寄って見ると、松並の幹の黒さや葉の緑が、一面の銀世界の輝きと共に眩しく差し込んできた。冬の装いの寝室には、婦人の温もりを残す羽布団がベッドの上で乱れていた。死んだ婦人の夫は、婦人のために寝室を豪華な造りと飾りとで埋めたのだった。浮き彫りの入った寝台には天使が舞い、筆記用の机の両端には中世風の婦人の胸像があった。
化粧台、洋服棚、漆塗りの和箪笥、天井の中央には金箔のシャンデリア、壁にはルネッサンス期の絵画を模した官能的な絵、死去した夫の愛の深さだったのだろうか。婦人はそうは思わなかった。結婚した当初、夫は婦人にも相談せず、義務か仕事のように造り上げてしまった。更にこの寝台が、夫と自分の二人だけの憩いの場だったのかも疑っていた。夫が死去して、寝台はともかく布団などの載せ物は全て替えてしまったのだった。
婦人は、娘が来ると他人を見つめるように、繁々と見つめた。連れ立って居間の暖炉の前で椅子に腰掛けながらも、時折信じがたい疑いを抱いた。
「お母様ったら、どうしたの。毎年のクリスマスは家で過ごしていたのに。」
婦人は驚いた。自分がこのような大きな娘の母親であることに不自然さを感じたのだった。冷静に考えてみれば、自分は母親でしかないと思った。それ以上に考えたところで、落ち着くところがなかった。
「お母様ったら、ここに来て随分長いのね。良い事あって。」 「まあね、良いことと言えば、良いことね。」 「どんなに良いことなの。教えて。」
婦人は娘に向かって、彼との出会いのことは言えなかった。ただ、微笑んで首を振って見せた。彼がおれば、自分の友人として娘に紹介してもよいと思った。彼と実際に会えば、娘も信じてくれるからだった。ただ話しただけでは、娘は悪く考えるに違いないと婦人は思った。
「母さんが長く留守にしているけれど、ピアノの方は大丈夫なの。」
「ええ、そっちの方は大丈夫よ。でもピアノのレッスンが余り進まないのよ。ピアノの先生も、この頃さっぱり来てくれないし、行っても酒ばかり飲んでいるのよ。先生を替えた方が良いと思うわ。」
「駄目よ。飲むけど、あの先生は確かな方よ。」 「でも、先生は、指がもうおかしくなっているんじゃないの。」
「人のことよりも、貴女はどうなの。指はまだ動くの。」 「まだまだよ。下手だからね。まあまあかしら。」
「二・三日ゆっくりしていけるのでしょう。ここにはピアノもあるし。」
「うん、そうだけど、明日は仲間が集まってパーティをやることになっているの。行ってもいいでしょう。」
「どんちゃん騒ぎをするのでしょう。程々にするんですよ。」
婦人はそう言って、娘がパーティに行くことを許した。娘は嬉しそうに小躍りをして見せた。明るく、清潔、朗らかに育った娘を見て、婦人は楽しく思ったが、時折不可解な寂しさを感じた。娘が他人の娘のように思われ、自分は娘の友達であるかのような錯覚に陥った。
夕方になって、婦人と娘はサロンに入った。サロンは、できる限りの光が入るように、窓が大きく切られていた。サロンの壁は、淡い緑の入ったブルーに塗られていた。淡いブルーのカーテン、樫の木の床の落ち着いた光、本棚とピアノ、バイオリンなどの楽器の並ぶ棚、長いソファがあった。数枚の写実的な風景が壁の高い位置に飾られていた。
婦人は、肘掛け椅子に凭れ、ピアノを弾く娘の姿を見つめた。自分の容姿に似ていると思った。顎が丸味を帯びた白さや、頸の長いこと、髪を長くすることに執着していること、頭を無意識に傾け譜面を目で追っていることなどは同じと思った。ピアノの前に、自分が座っている思いだった。
婦人は娘時代の頃、ピアニストになりたいと思っていた。ピアノに写る娘の動きを見つめた。鍵盤を叩いている娘の姿は、昔の自分の姿と変わりがないと婦人は思った。婦人は、大学に入る前の年頃、無心にピアノを弾き、疲れるとピアノに写る自分の姿に見入って、語りかけて暫く憩う、また黙々と鍵盤を叩いたことを思い出した。自分の容姿と変わらない娘は、自分そのもののように思われた。婦人は、娘を見ていると、若き日の自分の姿を思い起こしていた。
婦人は、会社の重役の娘で一人の弟がいた。二人の姉弟は大切に育てられた。婦人は、ピアノを志し、母や父の見守る中で、毎日ピアノを弾き続けた。一流のピアニストの師事を受け、一生懸命に練習を重ねた。音楽大学に入って二年目の秋の日、結婚しなければならないことになった。若き日には、ピアニストになるためには如何なる障害と闘うつもりだった。貧しい音楽家の夫と連れ添い、音楽に生きたいと思っていたのだった。それが幸福だと心に決めていたが、それは不可能な憧憬でしかなかった。自分が知らないうちに周囲が動き出し、自分の主張を通すことは、父母に重大な責任を負わせることになることが分かった。自分の希望を打ち砕いた人々の顔を思った。正月が過ぎて婚礼が盛大に挙行され、全てが終わったと悲しんだことを思い浮かべた。
婦人の弟は、姉が失意のうちに結婚したことを知っていた。姉の側にいたいという思いから、大学を卒業すると姉の夫の経営する化粧品会社に勤めた。そして現在は専務取締役となって、会社の実質的な責任者として経営に携わっている。
婦人は急に顔を赤くした。ピアノに写る影が、彼の顔になっていたのだった。娘がじっと自分を見つめている姿を見て、少し狼狽した。
「お母様、変よ。さっきからボーとして、今度は、急に顔を赤くして。」
婦人は、娘の言葉に何も答えることができなかった。俯いて含み笑いを見せるだけだった。 「きっと、この土地で良いことがあったのね。何よ、ね、お母様。」
「何もないのよ。洋子さんがピアノを弾いている姿を見て、お母さんの昔のことを思い出したのよ。」
「どんなことか当ててみましょうか。お父様のことでしょう。」
「ええ、それもあるわ。それよりも、お母さんがね、ピアニストになろうとピアノを練習していた頃のことよ。無心にピアノを弾いたものよ。どう、貴女、ピアニストにならない。お母さん支援するわ。」
「どうでも良いわ。上手くなったら、なってもいいわ。でも今は、小説を書くことが楽しいの。」
そう答える娘に、ピアニストになる意思がないことを婦人は感じた。自分であれば、命を賭けてやるのにと婦人は思った。
夜も早い内に娘は帰ってしまった。暖炉が燃えさかる居間のテーブルで、老夫婦と共にデコレーションケーキを口にした。いかにも今年のクリスマス・イブは寂しいものだった。娘が東京への帰り際に、一緒に帰らないかとの誘いを断り残った。街では盛んに踊り狂い、賑やかな夜だろうと思うと、婦人はこのイブが寂しく辛く思った。
寝室のシャンデリアに蝋燭を灯させ、金色の光の中で床に身を横たえた。目は覚め切っており、壁の絵を見れば妖しげに裸婦の姿が戯れている。婦人は、二本の指を折った。今日は、このまま眠ってしまえばよいのだと思った。
「でも、まだもう一日あるわ。会いたいわ。」
婦人は、そう呟いた。羽布団を胸に当て、両腕で抱きしめた。やるせない気持ちが何であるか、婦人は知っていた。自分の娘時代が、遠い昔に過ぎ去ったことも知っていた。
「今日という日、貴方がこの家にいたなら、この上なく幸せ。」
婦人は目を閉じた。ピンク色の椅子に腰掛け、寝台の傍で自分を見下ろしている彼の姿を思い浮かべた。目を閉じている安らぎは束の間だった。目を開ければ、ピンクの椅子は机の前にあり、彼の姿はなかった。
急に婦人は、ベッドから抜け出した。夜着にガウンを纏うと、寝室を出た。婦人が居間に入ると、老夫婦がテレビを見ているところだった。婦人の目には、老夫婦が楽しそうに、幸せそうに見えた。
「済まないけれど、私、これから街に出てきますから、車を呼んでおいてください。」 「これからですか、もう遅いですよ。」
「いいのよ、心配しなくても。今頃、街は賑やかでしょう。良かったら、貴方達も一緒に来たら。」
「いいえ、私らは、ここでこうやって二人でいるのがいいです。」 「帰りが少し遅くなるかも知れません。泊まってこないつもりよ。」
「じゃ、早速車の手配をいたします。」 婦人は、直ぐに寝室へ戻った。
思い立つと、期待が胸一杯に膨らんだ。髪を掻き上げながら、鏡の前でそっと自分の顔を見た。髪を後ろに高く結い上げ、夜着を脱いで自分の体の具合を見た。洋箪笥から純白のドレスを取った。後から入ってきた老婆に言った。
「どう、これ、クラブに行くのよ。」 「ようございますとも。奥様は、いつも若い体でいらっしゃいますから。」
婦人は、終始瞳を凝らし、自分の装いを見つめていた。子供のようにはしゃぎながら、白いロングの手袋をし、薄青色のバッグを携えてみた。結局、ピンクのバッグに落ち着いた。どう見ても三十過ぎたばかりの婦人の姿に見えた。着膨れのないように、薄茶色のミンクのガウンを着て、その洋館を出て行った。街行く人は、この街の人か、近隣の町の人だった。何か行事があると、この街に人が集まってくる。このクリスマス・イブには、ジャズや流行歌が街のあちらこちらから聞こえてくる。車道や歩道には、飲み歩く人々が多く見えた。酔い痴れてふらついている者、酔い潰れで道路に寝転んでいる者、どこで手に入れたのか仮面やトンガリ帽子を着けて闊歩する者など様々な姿も多く見られた。
婦人は一軒の大きなクラブの前でタクシー止め、タクシーを待たせたままにしてタクシーを降りた。クラブのドアを開けて一歩足を踏み入れると、ドラムの音がけたたましく響いていた。そのクラブは若い人達が、狂うように踊る場だった。ドラムとギターの調子に合わせ、凄まじい足音と怒声が聞こえた。婦人の姿に気付いた若い女性店員が、直ぐに近付いてきた。
「あの、済みません。今日と明日は、ハイティーン・オンリーなのですが。」 「いえ、人を探しに来たのですが。」
「こんなに大勢いるもんですもの、見つかりませんわ。」 「桐野さんという方、このクラブで働いていないでしょうか。」
若い女性店員は知らない様子だった。他の店員を呼び集めて、「桐野」と頻りに問い合わせていた。 「聞いたことあるけど、この店でないようよ。」
「男の人でしょう。」 婦人は、更に言った。 「どこのクラブにいますか。いつも白いマフラーをした人です。ボーイさんではないと言っていました。」
婦人の問いに、店の人には皆目見当が付かなかった。そのクラブの女性支配人と思われる人が現れ、話を聞いて微笑んで言った。
「馬鹿ね、あんた達、酔っ払っているんじゃないの。マーガレットの逸ちゃんよ。いつも噂をしているのに、肝心の時忘れてしまうんだから。」
「マーガレットというクラブですね。マダム、どうも有り難う。これで若い方に振る舞ってあげてください。」
婦人は、お礼を言うと、心ばかりのお金を女性支配人に手渡した。若い店員達は、口々に 「逸ちゃんって、桐野という名字なの。」
と、初めて聞いたように驚いていた。
婦人は、待たせておいたタクシーに乗り、マーガレットというクラブの前で降りた。マーガレットのドアの前に立つと、婦人は得体の知れない期待で満ち溢れた。クラブの中からは、ダンシング・ソングが聞こえてきた。落ち着いた雰囲気のクラブだと思った。店の中に入ると、真ん中に広いフロアがあり、踊る人で溢れていた。
そのクラブには二階もあり、その手摺りに沿って下のフロアを見下ろせる場所もあった。店内の植木は程よく配置され、クリスマス・ツリーや室内には、彩りの電球が飾り付けられていた。仮装している人が踊っており、その奥に音楽を奏でているバンドが見えた。婦人は、カウンターに寄り尋ねた。
「桐野さんは、どこにいらっしゃるのでしょうか。」 「お客さんの名前は控えておりませんので、分かりかねます。」
「いえ、このクラブで働いている桐野さんという方のことです。」 「ああ、逸ちゃんのことですか。バンドでピアノを弾いている人ですよ。」
婦人は、ピアノを弾いている人と聞いて、何か快さを感じた。婦人は二階に上がり、ピアノを弾く人が一番よく見える席に座った。
婦人は、ピアノを弾いている彼を見つめ、心安まる思いがした。彼は、いつもと変わらない質素な姿だった。そしてピアノを弾く姿自体が、抒情を含んだ音楽そのもののように思った。ピアノの音は、他の楽器や騒音のために聞き取れなかったが、ピアノに向かっている姿勢から、彼が相当ピアノに親しんでいると思った。彼は、時折顔を伏して考えたり、また踊る人達にも目を配っていた。
彼がピアノを弾いているということは、限りない喜びだった。そのピアノを弾いている姿に、若い頃憧れ幻想したピアニストの姿を思い浮かべた。
「花束、要りませんか。」
その声に婦人は振り返った。年もゆかぬ少女が、頬を赤くして花束を抱えていた。婦人と目が合ったのだろう、少女は愛想良く微笑んだ。
「ちょっと、こっちへ来て。」 婦人は少女を手招きして、そばに来た少女の肩を軽く叩いた。
「ピアノを弾いている人がいるでしょう。あの人のピアノの上に花束を置いてきてくれたら、買って上げるわ。」 「置いてくる花束、二つでもいいでしょう。」
婦人は、微笑んで頷いた。少女はバスケットから二つしか残っていない花束を取り出すと、バスケットをテーブルに置いて駆けて行った。
婦人は、興奮するのを抑えて、少女の姿を追った。少女は軽やかに階段を駆け下り、フロアでダンスをする人の中を、花束を高々と掲げ進んでいった。婦人は頼もしい使いを送ったと思った。
少女は、グランドピアノの隅に花束を置いて、彼と何か話をしている様子だった。そして少女は、婦人の方に向かって指差した。
少女が指さすところに、彼は婦人の姿を認めた。婦人は、彼に向かって右手を小さく掲げて振っていた。彼はピアノを弾きながら、少女に言った。
「あのご婦人に、シャンパンとケーキを届けるように店の人に頼んでちょうだい。勿論、君の好きなジュースとお菓子も忘れないでね。」
少女は分かったと頷き、ピアノから離れ、小走りでホールから出ていった。調理場に近いところにいた店の人に
「桐野小父さんから頼まれたの。ホールのMの十番席のご婦人に上等のシャンパンとお菓子を届けてくれと頼まれたの。お願いします。私の分のアップルジュースとシフォンケーキも一緒に届けてください。お支払いは、桐野おじさんがするの。」
少女は、そう言って注文を済ませると、花籠を置いていた婦人のテーブルに戻った。 「お嬢さん、お花届けていただいてありがとう。」
婦人は微笑んで優しく言った。 「お客様、私ここに座っていいですか。」 そう言う少女に向かって、婦人は頷きを見せ答えた。
「良いですよ、お話し相手になってくれる。それに私をお客さんと言わないで、小母さんと呼んでね。」
少女はコックリと頷き、婦人の左わきの椅子に腰を下ろした。少女は婦人の顔を覗くように見つめ
「小母様、桐野小父さんから、小母さんにシャンパンとお菓子を届けるように言われたの。このテーブルに持ってくるように頼んできたわ。私にはジュースとケーキなの。」
と言った。間もなくウエイトレスがテーブルに注文された飲み物とお菓子を並べた。ウエイトレスは婦人にシャンパンの栓を抜くのを訪ね、小奇麗に栓を抜いて婦人のグラスに注いで、軽く会釈をして席を離れた。
「お嬢さん、何時も花を売っているの。」 婦人はグラスのシャンパンを一口飲みこんだ後に、少女に尋ねた。少女は
「そんなことないわ。今日はクリスマスイヴでしょう。テーブルに花を飾る人がいるの。父に誘われて店に来たら、店の人に頼まれたの。」
と答えた。婦人は一度頷いた後に 「お父さんは、店の方なの。」 と尋ねた。少女は首を横に振って、舞台の方を指さした。
「ピアノを弾いている桐野小父さんの脇で、バイオリンを弾いているのが私のお父さんです。母は違うお店でピアノを弾いているわ。」
そう言って、何の屈託もなく顔を下に向けシフォンケーキを少し口に入れ、ジュースを飲んでいた。婦人は、少女が何の拘泥もない動作を見つめていた。
「お母さん、ピアニストなの。」 婦人は少女に尋ねた。少女は大きく頷くと、
「そうよ、音楽大学でピアノをやっていたの。今は、桐野小父さんの指導を受けているわ。私も桐野小父さんからピアノを教わっているの。桐野小父さん、ピアノがとても上手なの。」
と言った。そして少女は俯いてしまった。何か悲しそうに見えた。婦人は心配そうに 「何か、心配事でもあるの。」
と、少女に尋ねた。悲しそうな顔を上げて、少女は婦人を見つめた。そして少女は言った。
「あのね、桐野小父さんはいなくなるの。フランスへ行くことになっているの。もう、ピアノを教えてもらえないの。」
婦人は少女の言葉を内心驚いたが、優しく少女に言った。
「そう、桐野小父さんがいなくなるの。でも、お嬢ちゃんにはママがいるでしょう。一生懸命ママからピアノを教えてもらったらいいわ。ママも喜ぶわよ。」
婦人がの優しい声で、少女の表情が明るくなった。 「私のママも、ピアノ上手なの。何時も優しく教えてくれるわ。」
そう言って、少女は軽やかに下を向いてケーキを食べ始めた。
婦人は、シャンパンを口にして彼のことを考えた。少女の話からすると、彼が相当な実力のあるピアニストであること、近くフランスへ行くことになることが分かった。婦人は、彼こそ憧れを抱いた人物だと感じた。少女の言ったフランスへ旅立つことは、胸にしまいこんでおくことが良いと思った。
夜中の零時になると、舞台での音楽は消えた。それでも客は帰ることはなかった。間もなくすると婦人のテーブルにバイオリンケースと紙袋を下げた少女の父が現れた。
「娘がお世話になり、有難うございました。桐野さんが後から来ますので、待っていてください。」
婦人にそう言って頭を下げた。少女は、椅子から立ち上がり父の紙袋を受け取ると 「小母様ありがとうございました。」
と丁寧にお辞儀をして、二人は連れ立って帰っていった。 少し経つと、ワインを下げてやってくる彼の姿が婦人の目に映った。
「メリー・クリスマス。ようこそおいでになりましたね。」
そう言って彼は婦人の向かいの椅子に腰かけた。彼に従うようにウエイトレスが空の皿とグラス、それにフライドチキンとフライドポテトを盛りつけた皿を二人の間に並べた。
「赤ワインを如何ですか。私はこれが好きなんです。」
そう言って、ワインを勧める彼を婦人は目を輝かせて見つめた。二人は、見つめ合いながらワインを飲み、フライドポテトを抓まんでいた。するとピアノが音を出し始めた。
「誰が弾いているの。少し音が飛んでいるように聞こえるわ。」 少し驚いたように婦人は彼に尋ねた。
「ええ、私たちの演奏が終わると、お客さんが飛び入りで弾くんですよ。佐野さんも弾いてみませんか。」 婦人は、突然の彼の問いかけに戸惑った。
「私が、ですか。人前で弾けるようなものではないわ。」 婦人が自信なさそうに言うと、それを遮るように彼は右手の指を立てて振りながら
「私は、貴女を知る以前から、貴女の別荘から流れてくるピアノを聴いていました。とても落ち着いた美しい演奏でした。時間のある時には、貴女の別荘の向かいの木陰で聴いていました。そして貴女を別荘に送ったとき、ピアノを弾いていたのは貴女だと分かったのです。」
婦人は、少しはにかんで言った。 「でも、あなたが弾いていたのはシャンソンやジャズでしたわ。私はクラシックしか弾けないのよ。」
「そんなこと気にすることなんかないのです。今弾いている曲、ベートーヴェンのソナタでしょう。構わないのです。」
「貴女の演奏をここで聴きたいと思います。その後に、私もクラシックを弾きましょう。」 そう彼は言って、話をまとめてしまった。
二人は、ピアノが空いたのを確認して舞台に降りた。そして婦人はモーツアルトを弾いた。客席から大きな拍手が沸き起こった。初めて人前でピアノを弾いた婦人は、大きな拍手を受けたのに大きな喜びを感じた。
彼はショパンの「別れの曲」を弾いた。弾き終わると一瞬ホールは静まり返った。そして大きな拍手を受けた。
席に戻ると彼は、フランスに行く話を始めた。年明けだった予定より早く、明日フランスに向けて旅立つと言った。婦人は驚いて顔を見せたが、すぐに微笑みを見せた。婦人は、
「フランスに着いたら、お手紙をくださいね。お住まいを知りたいの。」
と言って、テーブルにあるクリスマスカードの裏に東京と別荘の住所を書き込んで彼に渡した。
彼はフランスの友人から誘いがあった。フランスでも同じように音楽サロンやホテル、レストラン等でピアノを弾く仕事があり、食べるには困らないとのことだった。
そのフランスの友人から電話があり、とにかく忙しく、手が足りないからすぐ来てくれと言われ、予定を変更したのだと話した。婦人は笑顔で彼を見つめた。そして嬉しそうに言った。
「貴方が弾いた、ショパンのエチュード第三番、私へのメッセージだったのね。でも、私は貴方のピアノを聴きたいの。貴方のピアノが好きなの。とても幸せを感ずるの。」
婦人は少し恥じらいで俯いた。そこには赤ワインの入ったグラスが目に映った。婦人はそのグラスを右手で持つと、彼に向かってグラスを掲げ一気に飲み込んだ。飲み終わると、彼を見つめて言った。
「フランスでの生活、素晴らしいわ。私フランスまで追いかけていって良いかしら。」
彼は婦人の言葉に驚きの目を投げかけた。彼は婦人の目に誠実な光を認めた。 「ええ、大歓迎です。とても素晴らしいことです。楽しみにして待っています。」
彼は、そう答えた。婦人は、満足そうに笑みを浮かべると、赤ワインを煽った。
婦人は、翌日昼近くになって目を覚ました。少しワインの酔いが残っていたが、窓から差す明かりが心地よく感じた。寝室から出ると着替えを済ませ、老夫婦に
「これから東京に帰るわ。お正月、東京で過ごしますから。貴方達も、ゆっくりしてね。楽しいお正月を迎えてください。」
婦人は、そう言って手荷物をまとめタクシーに乗り込み別荘を後にした。
東京に戻ると、家に長男の妻と二人の孫の姿があった。長男は、婦人の経営する会社の専務取締役として働いていた。夕方になると長男が自宅に戻り、夕食を共にした。
「百合子さん、一寸お聞きしたいのですが。」 とピアニストでもある長男の妻に話しかけた。長男の妻は「はい」と頷きを見せた。
「桐野逸夫さんという人知っている。ピアノを弾く方よ。」 長男の妻は少し驚いた顔を見せながら答えた。
「音楽大学のピアノの教授でした。お母さん知っているのですか。何処かでお会いしたのですか。」 婦人は、納得したように頷き
「別荘のある街で、ピアノを弾いていたわ。」 詳しいことは言わなかったが、長男の妻は
「桐野教授は、素晴らしい演奏家でした。でも十年程前に、教授を辞めました。多くの人にピアノの素晴らしさを広めたい。そう言って忽然と姿を消したのです。あちこちから情報は入りましたが、転々としていて、どこにいるのか分からなくなったのです。独身教授で、学生らの憧れでした。」
長男の妻は、手短に答えた。 「白いマフラーをして、演奏していたわよ。心に残るほどの素晴らしい演奏でした。」
婦人は、感謝の意味を込めて答え、椅子から立ち上がり婦人の部屋の方に向かって歩いていった。その後姿を見た長男と妻は、眩しいほどの凛々しさを感じた。
婦人は、部屋に入ってコーヒーを沸かし、ソファに腰を落としコーヒーを口にした。コーヒーの強い香りが、婦人の心に興奮を巻き起こした。
「これからのことを考えよう。夢ではなく実現するように。人に憚ることなく、心豊かに、想いを馳せるように。」
そう決意すると、心から喜びが湧いてくるのを感ずるのだった。 ベッドに身を横たえ、これからのことを考えた。
「彼から手紙を受け取ったら、できるだけ早くフランスに行くことにしよう。フランスには、支店があり信頼する日本語に堪能なフランス人を支店長としているので心配はない。会社のことは弟と長男に、全てを任せることにしよう。家族には、フランスで彼と一緒に暮らすことになるかもしれないと告げよう。」
そんなことを考えながら婦人は、幸福感に包まれながら安らかな眠りに陥った。
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