「源治の寺」

 

             佐 藤 悟 郎

 

 

 春を迎えて、彼は高校生二年生になった。高校二年生の始業式の日に登校し、玄関に張り出されたクラス替えの表を見詰めた。

「二組か。知らない名前が多いな。」

そう呟いて、西校舎二階の教室に向かった。左手に鞄をぶら下げ、右手をズボンのポケットに突っ込んで、開き放しの教室に入った。壁に張り出された座席表を見て、振り返って机の位置を確かめた。隣の席には、温和しそうな小綺麗な女生徒が座っていた。もう一度座席表を見て、その女生徒の名前が藤田美和と言うことを知った。

二年生になると、進学志望か、それも文化系か理科系か、卒業後の志望別によるクラス替えが行われていた。それまで良く知らない生徒と一緒になった。彼は、卒業後のことを決めていた訳でなかったが、大学進学の理科系のクラスを希望した。彼は、自分の机までゆっくり歩き、美和に一礼し、

「西脇です。よろしく。」

と言うと、鞄を机の上に投げ出すように置いた。椅子に腰掛けると、片肘をついて暫く美和を見詰めていた。美和は、暫く経って、見詰められているのを知って、俯いてしまった。新しいクラスでは、藤田美和という生徒と隣り合わせの席だった。

 

 授業が始まり午前中の最初は、二年生の授業内容に関するオリエンテーションだった。進学クラスと言うことで、三年生の教科書も加えて配布された。担任教師は、世界史担当の男性教師、加藤先生だった。にこやかな顔をする、剣道部を指導する先生だった。授業説明などを話していたが、彼は、鞄の中を探り、諦めたかのようにただ聞いていた。

 美和は、先生の言うことをメモしている。ノートに書きながら、彼が茫然として先生を見詰めている姿を見ていた。

「メモを取らないで、大丈夫なのかしら。聞いただけで、全て覚えている人もいる。そのよぅな人なのだろう。」

美和は、そう思っていた。ところが、先生が

「これから言うことをメモするように。」

と言った。美和は、彼がどうするのか見ていた。彼は、急に慌てたように美和の方を見ると、目がかち合った。彼は、右手を開いて美和の方に突き出した。

「鉛筆、貸してくれないか。」

小声で、彼は言った。美和は、無言で一本の鉛筆を、彼の手の平に載せると、彼は、有り難うというように左手を挙げた。

 

 オリエンテーションの時間が終わった。彼は、美和に向かって椅子の向きを変えた。

「鉛筆有り難う。勉強道具を忘れてしまうなんて、真剣味がない証拠だ。今日、一日貸してくれないか。」

美和は、笑顔を見せて頷いた。

「私、西脇君は、聞くだけで全てを覚える、優等生かと思ったわ。少し安心した。」

「優等生に見えたって。冗談でないよ。中学校の時はガキ大将、今は、ノンポリ学生だよ。ところで、安心したとは、どういう意味なの。」

彼の言葉で、美和は俯いた。不用意に言った言葉だった。

「私、優等生の隣に座るなんて、息苦しくなるの。だから言ったの。」

彼は、美和を見詰め小声で笑った。

「藤田さんは、正直だな。」

美和は、顔を上げると、微笑みを見せた。二人の出会いは、穏やかなものだった。

 

 春日和が続き、高校の中庭や校庭の桜も咲き始めた。彼の登校時間は、早くはなかった。高校から一キロ程離れた自宅から、ゆっくり歩いての登校だった。時々、ふしだらな格好をした生徒と一緒に歩いてもいた。彼の付き合う生徒というのは、見るからに、まともな生徒でなかった。

 彼の授業態度も、端から見ると真剣そうには見えなかった。先生の目を盗んで、辺りを見渡したり、首を回したり、時には俯いて居眠りしているような仕草をしていた。彼は、時々、美和の姿を見ていたが、美和は彼の悪い癖だと思い、気にもならなくなった。彼は、美和が何かを口に入れ、モグモグと頬を動かすのを毎日のように見ていた。そっと机の中から、赤い箱を取り出し、下を見ながら箱の中の丸い茶色の菓子を抓み、口に素早く投げ入れていた。何回も見て、彼は、それがアーモンドチョコレートだと分かった。

「藤田」

と、彼は小さな声を掛け、右手を伸ばした。美和は、拘泥することなく、チョコレート一個を彼の手に載せた。彼は、それを口の中に投げ入れた。甘い滑らかな感触が口に一杯広がった。彼は、美和を見て頷いた。

「中々、美味いな。」

彼は、小さな声で呟くように言った。

彼は中庭を見た。少し赤みを帯びた、桜の花が満開だった。日本史の時間で、日本史の先生は、庭を見ている西脇に気付き、質問を浴びせた。

「西脇、何を見ている。壬申の乱について、概要を説明してみろ。」

彼は、立ち上がると当時の皇位継承や豪族、戦いの経緯などを、要領よく話した後、席に座った。

「お前の説明、満点だ。ところで、お前、何かを口に入れていないか。喋り方が変てこだぞ。」

その先生の言葉で、美和は心配そうに彼を見詰めた。彼は、頬に手を当てると

「先生、右上の奥歯がぐらついているのです。抜けるのでしょうかね。」

と、顔をしかめて言った。先生は、笑いながら言った。

「抜けるか、抜けないかなど知るもんか。次に進むぞ。」

天武天皇の時代のへと授業が進められた。そのことがあってから、彼もチョコレートを鞄の中に忍ばせるようになった。

 

 何事もなく、夏休みに近くなった、爽やかな日だった。授業が終わり、各クラスは教室の清掃をする。その清掃も終わった頃、廊下で美和が他のクラスの男子生徒三人に囲まれて何かを言われていた。美和は、青ざめた顔をしている。

「済みませんでした。勘弁してください。」

そんな声が聞こえた。不良グループの生徒達で、通りかかる生徒は、誰も声を掛けようとしなかった。彼は、教室で帰る用意をしていたが、廊下で女生徒が、ざわついているのに気が付いた。廊下に出てみると、教室近くで、美和が男子生徒に囲まれていた。彼は、平然と近付いて

「藤田、どうしたんだ。」

と尋ねながら、男達の中を割って、藤田の前に行った。廊下には、バケツが引っ繰り返り、雑巾が数枚、水の中にあった。

美和は少し震えて、返答ができなかった。彼は、美和が喋れないのが分かり、囲んでいる男子生徒の一人、頭格の桜井に声を掛けた。

「桜井、何かあったのか。藤田が、怯えているぜ。」

そう言いながら、上着のボタンを外している桜井に問い掛けた。話を聞いてみると、雑巾バケツを引っ繰り返し、丁度すれ違っていた三人の足下に引っかかり、びしょ濡れになったと言うことだった。それで洗濯代を弁償してもらいたいと言ったが、美和は、ただ謝るだけで、埒があかないとのことだった。彼は、天井を見上げて、少し考えた後、藤田に言った。

「藤田、どうする。俺に任せるか。」

藤田は、震えながら、頷いた。彼は、振り返って桜井に言った。

「分かった。弁償するようにしよう。一人頭、五百円で良いな。後腐れなしだぞ。藤田は、俺の隣の席に座っている。世話になっているからな。」

彼は、そう言うとポケットから三千円を出し、一人に一千円ずつ手渡した。

「西脇、お前に迷惑を掛けて悪かったな。」

三人の男子生徒は、そう言うと立ち竦んでいる美和にも礼をした。彼は、雑巾を拾うと、廊下を拭き始めた。それを見た桜井等、三人の不良生徒も彼と一緒になって廊下を拭き上げ、立ち去った。

 美和は、彼が金銭で解決したことに不愉快さを感じた。直ぐに、教室に入り椅子に座って、顔を伏せた。彼は、洗面所に行き、汚れた水を捨てて雑巾を洗い、防火用の水としてバケツに水を入れ、教室に戻ってきた。教室に入ると、机に伏せている美和が目に入った。教室の隅に、バケツを置いて、彼は自分の席に座った。

「藤田、これ食べないか。」

そう言って、アーモンドチョコレートの入った箱を脇に置いた。美和は、顔を横に向けて、チョコレートを抓み口に入れた。

「西脇君、平気でいられるの。」

美和は、顔を上げると、責めるように彼に言った。

「藤田、金を遣ったのが気に食わないらしいな。彼等には、彼等の言い分があった。全く無視する訳にはいかない言い分だった。」

彼は、そう言いながら頬杖をして、美和を見詰めた。

「後々の面倒を残さないのが、一番肝心なのさ。皆、桜井をどの程度知っているのか知らないが、ヤクザとの付き合いのある、相当の悪だぜ。桜井は、俺のことも知っている。俺との約束は、絶対に破らない。俺と一緒に、廊下を拭いたのが、何よりの証拠だ。」

そう言うと、彼は鞄を持った。

「桜井が、何か、何でも良いから、言ってきたら、直ぐ俺に教えてくれ。半殺しにしてやるから。それに、今日は、そのチョコレート食べてくれないか。」

そう言うと、彼は、右手を振って教室から出て行った。

 

 それから一週間程過ぎた。美和は、彼が桜井に金を渡したことに、蟠りを抱いていた。昼休みになって、文化系進学クラスの高野弘子から誘われてグラウンドの脇を歩いた。大きな桜の木が緑葉を広げ、日陰を作っていた。弘子は、一年生の時に美和と同じクラスで、音楽を選択した、気の合う女生徒だった。

「この間は、桜井君に絡まれて、大変だった話を聞いたわ。」

弘子は、美和と共に草むらに座ると、そう言った。木漏れ日が、二人の影にチラチラと動いていた。

「私の不注意から起きたことよ。思い出したくないわ。西脇君が、中に入ってくれたわ。」

美和が答えると、待っていたとばかりに弘子が言った。

「西脇君、お金で蹴りをつけたのでしょう。西脇君は、貴女の隣の席で、よくお話をしているようね。西脇君には、注意した方が良いわよ。」

美和は、弘子を見詰めた。弘子は、頷きを見せて、話を続けた。

「西脇君って、余り素行の良い方じゃないのよ。中学生の頃、喧嘩ばかりしていて、嫌われ者だったのよ。付き合っていたのは、不良仲間が多かったわ。喧嘩がズバ抜けて強くて、不良仲間の大将、そう餓鬼大将だったのよ。気を付けた方が良いわよ。」

弘子は、空を見上げて、少し考えて、更に言った。

「この前の日曜日の話、隣の工業高校と喧嘩をした話、知らないでしょう。」

弘子は、知り合いの男子生徒から聞いたと言って、美和に話した。

 

 日曜日の午後、晴れた日だった。郊外の天狗山に、桜井を筆頭とする十人の不良生徒と工業高校の不良生徒十人が向かい合った。喧嘩の原因は分からないが、工業高校の生徒が、桜井の仲間を殴ったことにあるらしかった。お互い十人ずつで、決闘することになった。まさに入り乱れての喧嘩になる矢先に、ふらっと彼が姿を現した。何かを、工業高校の生徒や、頭に話をした。話が終わると、いきなり工業高校の生徒が、彼に襲いかかったが、襲いかかった数人が、あっという間に彼に斃された。それを見た工業高校の、不良生徒達は、尻込みをして逃げていった。彼は、桜井等の不良生徒を残し、その場から去って行ったとのことだった。

 

 弘子は、話し終わると、美和を見詰めた。

「西脇君には、今の話、黙っているのよ。何をされるか分からないから。桜井君は、西脇君には頭が上がらないのよ。西脇君は、不良達の黒幕よ。注意した方が良いのよ。」

と弘子は言って、話を切り上げ、立ち上がって校舎に向かった。

 

美和は、弘子が、何故、彼の話をするのか不思議にさえ思った。親切心から言ったのであろうが、その話を聞いて信ずることができなかった。教室に戻ると、珍しく転た寝の様子をしていた彼に声をかけた。

「西脇君、不良だったの。」

彼は、薄目を美和に向けた。美和は、彼が眠っていたのではなく、考え事をしていたと思った。

「いきなり、馬鹿げたことを聞いてくる。誰から聞いたが知らんが、大方、俺と同じ中学校の者だろう。そんな話をするのは、弘子だろう。」

彼の言葉に、美和は頷いた。

「困った女だ。お喋り癖は、まだ直らないのかな。弘子が言った通り、喧嘩だけは、いっぱいことしたよ。学校の者に、後ろ指を指されていたようだ。不良と言われれば、そうなのだろう。」

彼は、頬杖をして、呟くように言った。

「この前の日曜日の、天狗山の出来事も話していたわ。」

美和の言葉に、顔色を変えることもなく、彼は答えた。

「入り乱れての喧嘩と言っただろう。」

美和は、首を横に振った。

「西脇君が、相手を一人で片付けた、そう言っていた。」

彼は、呆れたように、顔を美和に近づけた。

「大袈裟なんだな。そんなことをしたら、俺、退学になるだろう。俺は、喧嘩を止めに行っただけだ。俺が話をし、双方が納得して、何事もなく別れた。それだけさ。」

そう言うと、彼は首に手を回し、閑そうに首を回していた。

「私、西脇君が不良だなんて、信じないわ。とても不良に見えないもの。」

美和は、そう言うと、心の蟠りが消え、微笑みを見せた。

「有り難う。でも、何時までも悪いことをバラ撒く者がいるものだ。人間、高校生にでもなれば、自分の姿や行く末を考えるようになるものだ。何時までも、馬鹿は続けられないよ。」

そう言うと、彼は机の上に、両手を下にして伏せてしまった。美和は、大方、彼が眠りに入ったと思った。美和も、机の上に伏して目を閉じた。中庭から吹いてくる風が、頬に心地よく伝わった。

 

 長いと思った夏休みが終わり、間もなく全国的な模擬試験があった。成績が体育館に張り出された。彼の成績はともかく、美和の成績は上位に位置していた。数日後に、同級生の吉田が、母を殺した挙げ句、家に放火をしたとの担任教師から話があった。

「どのような理由があったのか知らないが、人が人を殺すことがあってはならない。況してや、親を殺すことなど、あってはならない。」

その言葉に、クラスの者は沈黙した。庭を見詰めれば、雨が木々に激しく降り注いでいるのが見えた。翌日になって、事件の原因らしい話が噂となって、彼の耳にも入った。

 吉田は、自分の部屋で勉強していたところ、母が夜食を持ってきたとのことである。無理をしないようにと声をかけたところ、突然、吉田が母に襲いかかり、首を絞めて殺してしまったとのことである。茫然として、部屋に火を着け、自分も死のうとしたが、死にきれず家を出て軒下に佇んでいたとのことだった。先日発表された、模擬試験の成績が芳しくないことを口にしていたとのことだった。

 彼は、確かに勉強は大切だと思ったが、能力以上のことは望むべきでないと思った。能力を高めるには、その方法を模索し、努力をしなければならないと思った。一般的に言われている学習、果たして全ての生徒に適しているのか疑問だと思った。吉田のノートを見たことがあったが、雑駁としたものだった。試験結果に喜怒哀楽を激しく示す吉田を、寂しく思った。

 

 二年生の晩秋ともなれば、本格的な受験勉強をしなければならなかった。特に、受験科目の授業は大切だった。そんな折、美和は盲腸炎で病院に入院し、手術を受ける羽目になった。腹痛を我慢していたため、腹膜炎を併発していた。入院は、二週間程になるとのことだった。

「学校の授業が遅れるわ。」

病院の個室の天井を見ながら呟いた。

「こんな時、友達の誰かが来て、授業のノートを持ってきてくれるものよ。」

美和は、そう思って期待していた。一週間が過ぎ、誰も見舞いに来なかった。退院間近になって、同じクラスの女友達が見舞いにやってきた。果物やらお菓子を持ってきた。

「授業、いっぱい進んだのでしょう。」

女友達三人は、口を揃えて言った。

「気にする程、授業なんか進んでいないよ。病気を治すのが一番よ。勉強なんか、その次のことよ。」

そんなことを言っている友達に、美和は何も言えなかった。

 

 病院を退院して、父母の強引とも言える勧めで、三日間自宅療養のため学校を休んだ。学校に登校し、教務室で担任教師に挨拶をして、教室に入った。

「顔色、余り良くないぜ。大丈夫か。」

彼の言葉に、彼を見ながら美和は頷いた。美和が席に座って、机の中を見たが、何も入っていなかった。

「誰かから貰ったかも知らないけど、休んでいる間の授業のノートの写しだ。要らなかったら捨てても良いよ。」

そう言って、彼は少し厚めのノートの写しを美和に投げるように渡した。美和は受け取って、直ぐにノートのコピーを捲った。コピーは、科目毎に分かれ、見易く丁寧な字で書かれていた。一見して、復習したのであろう、注釈も記載されたものだった。美和は、彼に顔を向け、軽くお辞儀をすると

「西脇君、有り難う。助かるわ。入院中、ずっと心配していたの。本当に、有り難う。」

と言って、微笑みを見せた。

「喜んでもらえれば、それで良いよ。分からないところがあったら、聞いてくれ。」

彼は、そう言ってから、席を立って教室から出て行った。

 

 彼が、ノートの写しを美和に渡したことが、冬休みも過ぎた、ある日にもあった。その日は前日の夜、雪が多く降った。彼は、新雪を踏みながら登校した。早めに家を出たので、遅刻はしなかった。教室に入ると、電車で通っている美和の姿がなかった。おそらく電車が遅れているのだろうと思った。そして授業が始まった。

 美和は、一時限目の授業が終わった頃、教室に入ってきた。

「電車、遅れたのか。」

彼が声を掛けると、美和は頷きを見せて、席に座った。

「一時限目のノートのコピーを取ってくる。数学の先生、遅れてくる生徒に配慮がないんだな。」

彼は、そう言って教室から出て行った。教務室のコピー機を借りてコピーをし、教室に戻ってきた。ノートのコピーを美和に渡しながら

「分かり難かったら、聞いてくれ。言葉で説明するから。」

と言った。美和は、彼のノートのコピーに目を通した。

「有り難う。前にも同じことを言ったわね。素敵なノートなのね。とても分かりやすく書いてあるわ。」

美和は、彼にお礼を言った。ノートには、病気明けに貰った時と同じように、要点と注釈が書かれ、分かりやすいものだった。

 

高校三年生になったが、座席は変わることはなかった。初夏のある日、彼は、美和の家を訪問してよいか尋ねた。美和は、微笑みを浮かべて承諾した。

「何時、来るつもりなの。」

美和は、彼を見ながら尋ねた。

「まだ決めていない。」

彼がそう答えると、当然のように言った。

「来るのは構わないの。でも来る時は教えて。都合を合わせるから。」

彼は、頷き、何気なく言った。

「片貝には、知り合いに、桃源寺というお寺の住職、浅原さんがいる。挨拶方々、藤田さんの家にも寄ることにする。」

と彼は言った。

「浅原承胤さんのところですね。村の人は、源治の寺と言っています。」

美和は、そう答えた。

 

 藤田美和の家は、街から二時間程歩いたところにあった。農村を二つ程抜けた、小綺麗な片貝という小さな村だった。街から電車が通っていたが、彼は散歩がてら歩いた。行くことも知らせず、天候が良いことから思い立ち、突然訪問するつもりだった。

 予め、住宅地図で美和の家の場所を調べ、ゆっくり歩いた。片貝に着いたのは、昼過ぎになった。美和の家の前に立った。白壁の塀に囲まれ、大きな木々が見える、随分大きな屋敷だった。彼は片貝の町を歩き、小さな食堂を見付けると、入って昼食を取った。

 午後になって、美和の家を訪ねると、美和は、丁度出かけるところだった。

「ご免なさい。これから町のホールで、お琴の演奏会があるの。」

連れの女性三人と一緒に出かけていった。都合も聞かず、突然訪問した結果だと思った。それにしても、美和が琴を奏でるなどとは、学校で知り得ぬことだった。

 

 演奏会が終わるのは、夕方になると言うことだった。彼は、桃源寺に寄って浅原と会った後に電車で帰ることにした。桃源寺に行くと、浅原は珍しそうに迎えてくれた。浅原は、尺八の師範で、彼も通っている町の尺八の山本先生の門弟だった。

「今日は、町のホールで演奏会があるのではないですか。」

玄関を上がって、居間に行く廊下を歩きながら、彼は浅原に言った。

「今日の演奏会は、町のお琴の中島先生が主催するもので、お琴だけの演奏です。入場整理券が届いていますが。一緒に行きますか。」

浅原は、彼の顔を見ながら答えた。彼は頷いた。居間に入り、演奏会の開演時間を見計らい、出かけることとした。開け放たれた居間の縁から、お寺らしい落ち着いた庭が見えた。浅原の妻が出すお茶を飲みながら、彼は浅原に尋ねた。

「通りの白壁のある、藤田さんの娘、美和さんもお琴を弾くようですが。お琴の方、長くやっているのですか。高校の同級生で、隣の席なものですから。」

浅原は、妻の方を見て、微笑んだ。浅原の妻が答えた。

「お琴は、小学生の頃から習っていたようですよ。嗜みとして習っているものです。それなりの弾き手となっているようです。そうですか、美和さんと同級生で、隣の席同士ですか。上品で、器量よしの娘さんですわ。」

浅原の妻は、更に言った。

「藤田さんの家は、旧家で資産家の家柄ですわ。この町にある越路製菓を経営しています。お父さんが社長をしていますが、美和さんのお兄さんも越路製菓に入っております。ゆくゆくは、お兄さんが継ぐものと思います。」

彼は、浅原の妻の話を、合いを打つように頷きながら聞いていた。

 

 演奏会の時間まで小一時間の頃、美和が桃源寺にやって来た。急ぎの用件があるらしかった。美和は、居間に通された。

「あら、西脇君、お邪魔しているの。悪い時に来ちゃった。」

そう言った後に、美和は彼の隣に座った。浅原の妻は、お茶を美和に勧めた。

「中島先生が、浅原先生をお呼びしてきなさいと言うことでした。どうしても「春の海」の演奏をしたいということで、尺八の方をお願いしたいのです。」

美和は、浅原に用件を告げ、顔を彼に向けた。

「西脇君には迷惑と思いますが、浅原先生をお借りします。よかったら、演奏会を聴きに来たらどう。」

美和は、そう言うと、浅原を見詰め返事を待った。浅原は、彼の顔を見た。彼は、頭に手を置いて頷いた。

「中島先生にお伝えしてください。西脇師範と一緒にお伺いします。支度を調えたら、行きますので、演奏は最後ということでお願いします。」

美和は、一瞬浅原が何を言っているのか理解できなかった。少し考えて、不思議そうに彼を見つめた。

「西脇君、尺八の師範なの。」

彼は、美和に、照れながら笑って見せた。

「さっき、家を出る時に一緒にいた人が、貴方を、どこかで見かけた人だ、と言っていました。そう言うことだったの。」

美和は、嬉しそうな素振りを見せた。

「一緒に演奏できるね。西脇君。」

そう言い残すと、美和は席を外し、急いで町のホールへ戻って行った。

 

彼は、浅原から手持ちの六寸管を借り、一回浅原と稽古をした。二人は譜面を見ることもなく、音の乱れもなく吹き上げた。彼は、余分な羽織と袴を借りて着付け、浅原の後に従い、町のホールへ出向いた。美和が待ち受けたように、出迎えて控え室に案内した。中島先生が姿を見せた。

「「春の海」は最後とします。まだ時間がありますので、良かったら客席でも、幕裏でも構いませんので、聞いてください。」

そう言った。彼と浅原は、紋付き、袴姿のまま客席に座った。

 

 美和は「夕顔」を演奏することになっていた。その演奏の一つ置いて前の「松風」の演奏が終わり、演奏した人達は、控え室に入ってきた。美和は、自分の演奏曲の譜面を見ながら、指の運びのお復習いをしていた。

「客席に、浅原さんと一緒に、西脇師範の姿が見えましたね。年若いのに、とてもお上手ですよね。以前、尺八の本曲を聞きましたわ。とても美しくて、寂しい曲でした。」

美和は、彼のことを褒めそやす言葉を聞いた。彼が奏でる、尺八の本曲を聴いてみたいと思った。

 

 華やかに、「春の海」の演奏が終わり、演奏会の曲が全て終わると、美和は彼に言った。

「ねえ、西脇君、皆が貴方を褒めていたわ。私に、尺八の本曲を聴かせてくれる。」

彼は、美和を見つめて、頷いた。

「吹いてもいいけど、どこで吹くの。」

彼の問いかけに、美和は即座に答えた。

「私の家で良いでしょう。今日、私の家に来たのと違うの。」

彼は、少し考えた。六寸管で本曲は好ましくないと思った。

「じゃ、一旦浅原さんのところに戻ろう。」

彼は、美和にそう言って、浅原を見詰めた。浅原は、彼の意図が分かったようだった。

「長い竹が要るな。近くだから、私が持ってきて届けよう。西脇君は、藤田さんの家で待っていてくれれば良いから。」

浅原が言うと、美和が二人に向かって言った。

「尺八なら、私の家にもあるわ。古い尺八だけど、祖父が時々手入れをしているわ。祖父は吹く真似事をするけど、曲にならない。でも、よい尺八だと言っていたわ。」

それを聞いて、彼と浅原は、無碍に断る訳にも行かなかった。調律のできていない尺八であれば、その時は浅原のところに尺八を取りに行くことにし、ひとまず彼は美和と一緒に、美和の家に向かった。浅原は、勤めがあると言って、桃源寺へ帰った。

 

 彼は、美和の家の門をくぐった。灌木や木々が目に入った。

「素晴らしい屋敷ですね。庭も手入れされているし、建物も落ち着いている。」

彼は、美和に素直な感想を述べた。

「そう、私は毎日見ているので、余り新鮮さを感じないの。」

二人は、並んで玄関に入った。彼は、脱いだ草履を揃えて脇に寄せた。その仕草を、美和はじっと見詰めていた。

「西脇君って、意外と礼儀正しいのね。」

彼は、首を横に振って見せた。

「今の時間、祖父と祖母がいるだけです。母は、隣町へ出かけています。祖父のところへ行きましょう。そこに尺八もあるはずですから。」

二人は、広い廊下を歩き、屋敷の奥の部屋へと歩いて行った。祖父の部屋の障子戸は開いていた。廊下との敷居の前で、二人は立ち止まり

「お爺ちゃん、お邪魔します。」

と美和が言った。美和の祖父と祖母は、和装姿で並んでいる二人を、驚いた様子で見詰めた。彼は、袴の裾を払って、廊下で正座をして、老夫婦に正対した後、両手をついてお辞儀をした。

「初めまして、吉川の西脇です。よろしくお願いします。」

彼が顔を上げると、美和は、彼の堅苦しい挨拶を見て、苦笑しながら部屋に入り、祖父と祖母の前に座った。

「西脇君は、高校の同級生で、私の隣の席に座っているの。尺八の師範で、今日の演奏会吹いてもらったの。」

美和は、祖父母に彼を紹介していた。それと分かったのか、祖母は彼に声を掛けた。

「さぁ、中に入ってください。しっかりしたご挨拶をいただきまして。」

祖母の声を聞いて、彼は改めて一礼をして、部屋に入って美和の隣に座った。

「お爺ちゃん、尺八出してくれない。西脇君に、尺八の本曲というもの、吹いてもらうの。私、本曲なんて聴いたこともないし、お爺ちゃん良いでしょう。」

美和の祖父は、嬉しそうに言った。

「それは、それは、願ってもないことです。是非お聞かせ願います。」

そう言うと、美和の祖父は、床の間に置いてある錦袋を持って、彼の前に出した。彼は袋の紐を解いて、尺八を取り出した。

「庭の障子戸も開けましょう。その尺八は、源治の寺の先々代の住職からいただいたものです。」

彼は、尺八を見詰めた。蘭畝の尺八で、姿形が整い、かなり吹き込まれ、調律に狂いはないと思った。

「尺八本曲は、元来、虚無僧が吹くものが多く、仏教の色彩が強いものです。」

そう言った彼の言葉を、飲み込むように美和は聞いた。

「では、「奥州薩慈」という曲です。」

彼は、静かに、そして激しく感情豊かに奏でた。

 

 彼は、曲を吹き終わると、静かに尺八を膝の上に置いた。

「西脇君、どうして尺八を吹くようになったの。何か、寂しい音に聞こえました。」

美和は、彼に尋ねた。

「まだ小学生の頃、好きだった祖父が亡くなりました。葬儀場での野辺送りの時、「手向」という曲が流れていたのです。妙に心に響いたのです。」

そう言いながら、彼は美和の方に向きを変えて、座り直した。

「当時は、何という曲なのか分かりませんでしたが。それから幾日も経たない時に、ラジオを聞いていたら、横山先生の同じ曲が流れてきたのです。」

恥ずかしそうに、彼は俯いて言った。

「懐かしくもあり、心の奥まで澄んだ音色が響きました。尺八を習いたいと親に言いましたが、幼いから無理だと言われました。毎日のように親にお願いしました。結局、山本先生のところに通うようになったのです。」

美和は、彼の話を聞いていた。自分が、単に嗜みとして母に言われ、お琴を習っているのとは違うと思っていた。

「尺八を吹く人は、数が少ないです。日本古来の音楽が、人々から忘れられようとしております。何とかしなければならないと考えています。」

美和は、彼の言葉から、彼が日本の音楽への強い愛着を感じた。

 

 彼は、美和の祖父から桃源寺が、何故「源治の寺」と言われているのかを聞いた。それは戦国時代、戦いに無情を感じた武士が、戦場となった片貝の地で、僧門に入ったとのことだった。佐伯佐馬介源治という侍だった。ある時、落ち武者の集団が村を襲い、寺に逃げ込んだ村人を救うために、落ち武者の多くを斃したが、その時の傷が元で体が不自由となり、自ら寺の奥に穴を掘り、その中に入って最期を遂げたとのことだった。その気高き猛将だった侍の最後が、近在の侍達に知れ渡り、この村を荒らす者はいなくなった。それ以後、桃源寺を村の人が「源治の寺」と呼ぶようになったとのこと。源治という人は、尺八の上手な吹き手で、時々寺から笛の音が流れ、村人を慰めたとのことである。

 

 夏の暑い日が続き、夏休み近くになった。昼休み時間に、美和は教科書を読んでいる。バスケットをして遊んできたのだろう、彼はタオルで汗を拭きながら教室に戻ってきた。両手で頬杖をして、美和は彼を見ていた。

「昼休みに、そんなに汗をかいて、午後の授業に差し支えないの。」

彼は、何でも無いという風に、左手を振って見せた。美和は、彼が特に成績が優れている生徒でもないことを知っていた。クラスの優等生は、昼休み時間を惜しんで勉強をしている。席に座って、午後の授業の教科書を取り出していた。美和は、彼に向かって身を乗り出し、小さな声で彼に尋ねた。

「原澤さんは、どのような人なの。一緒の中学校だったでしょう。静かで、成績も良いでしょう。こっそり教えてね。」

彼は、少し驚いて美和を見詰めた。直ぐに納得したように、頷いた。

「ああ、いい男だよ。気があるのか。」

彼が普通の声でそう言うと、美和は口に人差し指を当てて、声を落とすようにとの仕草をした。

「そんなことは言ってないでしょう。」

美和は、少し顔を赤らめて、そっぽを向いた。彼は、授業が終わり、帰り際に手紙を手渡した。手紙の内容は

原澤は、町の原澤医院の長男で、成績は抜群である。中学校時代は生徒会長も務め、統率力もあり、皆から尊敬されていた人物である。将来は、家業を継ぐ意志を持っており、大学は医学部専攻である。音楽を愛し、書道では優れた能力を持っている。現在、交際している女性はいない。もっと知りたいことがあれば、言ってくれ。…

というものだった。原澤を最も優れた生徒で、将来嘱望される男である内容だった。

 

 夏休みも終わる頃、美和は西脇の家を訪ねた。彼の部屋に入ると、和室の落ち着いた部屋なのに驚いた。部屋の縁近くに、尺八の譜面台が置かれ、尺八が置かれていた。

「部屋を綺麗にしているのね。ここから見える庭は、落ち着いた見事な庭ですね。」

美和は、壁際にある黒色の木製の本棚を見詰めた。お揃いの本棚が四つ程並んでいた。

「立派な本棚ですね。それに本が多いですわ。見ても良いですか。」

美和は、本棚の前に立ち、左から右、そして上から下へと見詰めていた。彼は、部屋の真ん中に立ったまま言った。

「この部屋、祖父が使っていた部屋なんだ。落ち着いた部屋なので、私が使うようになった。本も祖父が集めた本が多い。読みたい本があれば、あげますよ。俺は、全部読んでしまった。」

美和は、頷いて聞きながら、本棚の本が文学と歴史関係の専門書が多いのに気付いた。彼がそれを読み、理解しているに違いないと思うと、彼が尊い人のように思えた。

 

 間もなく、彼の母がジュースとお菓子を、お盆に載せて持ってきた。畳の上に、お盆を置いた。

「藤田、私の母です。」

彼は、美和に母を紹介した後に、藤田を母に紹介した。

「片貝の藤田美和さんです。学校では、隣の席で世話になっているんだ。藤田さんの家は、越路製菓を経営しているんだ。」

彼の母は、微笑んで頷きながら聞いていた。彼が言い終わると、優しい声で言った。

「そうですか。片貝の「染藤」様のお嬢様ですか。お爺様、お婆様、お元気ですか。」

美和は、彼の母が自分の家の屋号を言い、祖父達のことを聞いているのに驚きを感じた。

「お母さん、私の家の屋号を知っているなんて。祖父達を知っているのですか。」

美和は、驚きの表情を見せて、彼の母に尋ねた。

「貴女のお爺様と、亡くなった私の父とは、高校の先生と生徒の関係よ。貴女のお爺様は、教え子だったの。卒業した後、馬が合ったのでしょうね。よく遊びにいらっしゃって、この部屋で酒を飲み交わしていたものです。」

彼の母は、そう言った。美和に一礼すると

「お構いできませんけど、ゆっくりしていってくださいね。」

と言って、立ち上がり、部屋から出て行った。美和は、彼の顔を見詰めた。

「西脇君のお母様、素敵な方なのね。西脇君、いっぱい迷惑掛けたのでしょう。」

彼は、苦笑いを浮かべ、庭の方を眺めた。庭に揚羽蝶が舞い降りた。

「迷惑は掛けたけれど、母は、大して気にも止めていなかった。」

そう言って、お盆のジュースを手に取って一口飲んだ。

 

 夏休みも終わり、涼風の吹く秋となった。彼は、校舎から出て空を見上げると、西の空が、焼けるような紅に染まっていた。校門に向かって歩いていると、美和が追いかけてきた。

「西脇君、私の家に来て尺八吹いてくれる。今度の日曜日、先祖の供養があるの。親戚の人が集まるの。祖父は、貴方のことを西脇先生のお坊ちゃまというのよ。西脇君の尺八のことをよく話しているの。是非聞きたいと言っていたの。」

彼は、前に立って息を弾ませている美和を見詰めた。別に断る理由もなかった。

「家の人が、そう言っているのであれば、承知したよ。藤田の頼みであれば、断る訳にもいかないよ。」

そう言った。校門まで並んで歩き、そこで別れた。美和は、彼に向かって大きく手を振っていた。

 

当日、彼は羽織袴姿で、美和の家に姿を見せた。美和の家の者は、その姿を見て驚いた。彼は、仏前に座り、一礼をして線香を手向けた。おもむろに仏前から席を外し、振り向いて美和を探した。奥の方で、美和が手を振っていた。彼が美和の側まで行くと

「形相な格好で来たので、みんなが驚いているわ。その姿で、電車で来たの。」

と美和が顔を寄せ、小さな声で言った。

「そうだよ。ここで着替えるのも面倒だからね。時々、こんな姿をして、演奏会場に行くんだ。」

彼は苦笑いをして頭を掻きながら答えた。尤も、羽織袴姿の人も数人見えた。彼は、下座に正座をしてお辞儀をすると、皆に向かって言った。

「今日、尺八を吹きます、西脇と申します。よろしくお願いします。儀礼の席で尺八を吹く時は、正装で吹きます。正装は、羽織袴となります。堅苦しく見えますが、気にしないでください。」

彼は、そう挨拶を済ませ、美和の後ろについて、一先ず会場から姿を消した。

 

 広間で、藤田家の先祖の供養が始まった。桃源寺の住職、浅原の読経が終わると、彼が尺八を奏でた。浅原が曲の由来を説明し、彼が尺八を吹いた。吹いた曲は本曲三曲、全てが仏教にまつわるものだった。彼は、出番が終わると、奥の部屋に通された。美和を相手に、一緒に御馳走を食べ、たわいのない話をした。

「ところで、原澤はどうだった。二人で会ったのだろう。」

彼は突然言った。

「何故、原澤君のことを聞くの。西脇君、気になるの。」

美和は、笑顔を見せながら尋ねた。

「いや、気になる程ではないが、少し心配していたものだから。」

彼は、原澤の能力と努力を尊敬していたが、自分と心馴染むものでないと感じていた。神経質な上、高慢な言葉に満ちている男だった。

「原澤君とは、一度だけデートをしたわ。貴方の教えてくれた通りの人だったけれど、私の心に感じなかったの。」

美和は、原澤に最初に言われたことは、上着に糸屑が付いている、とのことだった。勉強方法を聞いて、効果的でないとケチをつけ、食べ物を聞いて、健康的でない等と言われたらしかった。

「見た目よりも、かなり神経質な人に感じたわ。息が詰まりそうな程だったわ。少しも楽しくなかったの。その場で、交際を続けるのをお断りしました。そしたら、原澤君は笑い飛ばしていたのよ。」

美和の屈託のない答えに、彼は俯いて笑っていた。

「何故、笑うの。何が可笑しいの。」

彼は、ゆっくり顔を上げて、首を回してから言った。

「言うのを忘れていたんだ。原澤は、俺たちとは次元の違う世界の人と言うこと。」

彼の言葉に、美和も同じ思いだった。

「本当に、原澤君は、別世界の人だわ。」

美和がそう言うと、二人は笑いこけた。

 藤田家の先祖の供養が終わると、彼は折り詰めをいただき、美和に駅まで見送りを受けて、彼は帰った。帰り際に、美和の祖父が玄関で、

「この御菓子、お母さんが好きな菓子です。お母さんに渡してください。お父さん、お母さんに、呉々もよろしくお伝えください。」

と言って、菓子詰めの箱をいただいた。彼は、何故か、心楽しい気分だった。

 

 新年を迎え、卒業の年を迎えた。教室では、ホームルームの時間で、卒業でのクラスの謝恩会の出し物が話題になった。

「西脇君は、尺八の師範よ。演奏して貰ったら良いわ。」

教室内は、美和の提案にざわついた。担任の加藤先生が、疑いながら言った。

「西脇、今の話本当か。本当であれば、私からも、是非ともお願いするよ。」

彼は、美和の顔を見た。何故か、美和は嬉しそうな顔をしていた。

「先生、分かりました。クラスの代表と言うことで、吹くことにします。ただ、演奏曲は、「春の海」としたいと思います。藤田は、お琴が上手です。二人で、謝恩会で演奏します。」

彼は、そう答えると、美和に笑顔を見せた。

「藤田、それで良いな。お前が言い出したんだから、良いに決まっているよな。」

美和は、俯くと、軽く頷いた。同級生の前で演奏することは、恥ずかしい気持ちもあったが、良い思い出になると思った。

 

 時は、早く過ぎていった。卒業式が終わり、謝恩会で彼と美和は演奏した。演奏したのは、予定通りの「春の海」だった。物珍しい演奏に、大きな拍手が起きた。アンコールを求める拍手だった。彼は、その拍手に応えるように言った。

「尺八本曲に「虚空」という曲があります。それを吹きます。」

彼は、琴の前に座っている美和に一礼をし、静かに尺八を持ち上げた。済んだ鋭い尺八の音が、体育館に響き渡った。彼の演奏が終わると、静まりかえった会場から、一層大きな拍手が湧き起きた。彼と美和は、先生や生徒、それに来賓に丁寧にお辞儀をし、舞台から姿を消した。

 

 謝恩会も終わり、生徒は教室に戻った。担任の加藤先生は、教壇に立ち、最後の言葉を述べた。

「君達、卒業、お目出とう。この高校から巣立ち、君達の前には、前途洋々たる人生が待っている。勇気と知恵を大切に、積極果敢な歩みを期待している。たゆまない努力が、一層夢を大きくするだろう。」

そう言って、一礼をした。誰かが拍手をすると、全員の拍手となった。拍手の中を、加藤先生は教室から出て行った。教室の中では、生徒それぞれが、別れの言葉を交わし、教室を後にしていった。彼は、美和と向かい合った。美和は、彼を見詰めた。

「美和、お別れだね。楽しかったよ。有り難う。また会える日を楽しみにしているよ。」

彼が、美和に別れを言うと、美和は尋ねた。

「西脇君は、これから、どうするの。」

美和の言葉は、力なく、少し震えていた。

「尺八の勉強をするさ。東京には、尺八の先生がいる。山本先生からも、紹介をいただいている。」

彼は、静かに答えた。

「お弟子さんになるの。東京の先生は、誰なの。」

美和は、心配そうに言った。

「青木先生への紹介をいただいている。でも、全般的なことを勉強したいと思っている。邦楽の勉強のできる大学に行きたいと思っている。青木先生も顔を見せているようだ。将来の不安があるけれど、一生懸命に勉強するさ。将来のこと、考えずに頑張ってみるさ。」

彼の言葉を聞いて、美和は俯いた。邦楽を学ぶ大学は、東京芸術大学しかないのを知っていた。プロの先生の子弟が、多く入学しており、彼が合格するのは困難だと思った。

「美和は、これから、どうする。」

そう聞かれて、美和は少し慌てた。肩をすくめて、微笑みを彼に返した。

「大学に行くつもり。国立大学、それに東京の私立大学を受験するわ。」

彼は、少し微笑みを見せ、頷いた。そして右手を美和の前に差し出した。二人は、握手をすると、美和は恥ずかしそうに俯いた。

 彼と美和は、他の卒業生より遅くなって校門を出た。お互い手を振り、別れた。美和は、駅への曲がり角まで行くと、振り返った。美和の目に、彼が立ち止まって見送る姿が目に入った。美和は、大きく手を振った。彼も、ゆっくり、大きく手を振っていた。二人は、手を下ろして、遠く離れて、暫く向かい合ったままだった。電車の時間があり、美和は深く一礼すると向きを変えて、駅に向かって歩き始めた。甘い悲しみを感じ、涙が溢れ、頬を伝っているのを感じた。