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「太田川」

 

          佐 藤 悟 郎

 

 

 新潟県のある都市に、太田川という神が住むという山を源流とする川が流れ、信濃川に合流している。山間から平野に出るあたりの太田川は、水面の幅約十メートル近くある。川底は泥濘が多い。土手に青草が萌え始めるのは、もう四月も過ぎようとするころである。川沿いに猫柳が濡れながら、白い房を見せている。
 そんな日に、石坂憲治君という青年が、久し振りに太田川の土手道を町から川上に向かって歩いた。石坂君が中学生のころ、天気がよいと一人でこの太田川の堤を歩きに来ることがあった。摂津町を通り抜け、しばらく歩いて太田川の橋に出る。橋近くの土手には、老いた桜の木が二本ある。
 その日も、桜の木の下を過去の思い出に耽りながら歩いていた。余り釣り人の姿は見えなかった。この頃になると、土手の雪の下で、枯れたままの草木が乾いて、それを焼くのが楽しい仕事の一つだった。今でも、誰かがやっているのだろう、彼方の土手に煙が立っているのが見えた。黒々と堤も斑になっていた。その下からは、もう青い草木が生い立ち始めている。
 町の住宅も疎らになり太田川も大きく右に曲がり村松方面へと向かっていた。石坂君は、土手下にある町外れの横巻集落を訪れた。小学校以来の友達で横田哲司君に会うためだった。
 通常は、駅前の大通を右に曲がり、十五分くらい歩くと小学校のある摂津町に出る。摂津町の通りは、古めかしい石垣と屋敷が並び、江戸時代の頃の街道で、街道は左に折れて山の方に向かって続いている。昔の街道をしばらく行くと太田川の堤が見え、最初の集落が横巻集落だった。だから石坂君が太田川の堤を歩いて横巻集落へ行ったのは、随分遠回りとなった。

 町中、駅近くに石坂君の家族は住んでいた。石坂君の母は、内職方々若い娘さんに針仕事を教えていた。その若い娘さんが横田哲司君の叔母だったことから、小学校時代から親しくしていた。そんなことから横田君は、この太田川によく釣りに来たものだった。

 横田君の家を訪れるのは、石坂君が大学を卒業して一年経っての五年振りだった。太田川を見たい、横田君と会って魚釣りをしたいと思ったからだった。
 石坂君の歩いている土手下の横巻集落には、昔の街道が走っていた。横田君の家は、集落外れの街道沿いにあった。家は、泥で汚くなっていた。戸を開けて
「ご免ください。ご免ください。」
と言ったが、そんなに広くない家に響いただけで、誰も出てくる様子はなかった。石坂君が、二度目に言ったときにも出てこなかった。石坂君は、裏の垣根の方に行ってみようと歩き始めた。
「はーい。どうも済みません。何か。」
娘さんが、垣根の方から出て来た。裏で畑仕事をしていたらしい。石坂君は、妹の春代さんだとすぐ分かった。春代さんは、訪れた人が誰だか気付かずにいた。昔は、よく話をしたことがあったが、もう五年も会っていないのだから、石坂君は仕方のないことだと思った。もう春代さんは二十歳も過ぎたかなと思った。春代さんは、品は余り良くないが、口が達者だったことを覚えていた。
「哲司君、いるでしょうか。」
「はあ、いますよ。」
何か、春代さんに気のない返事をされたので困った。
「あの、呼んできていただけますか。」
横田哲司君は、仕事着のまま垣根の方から出て来た。当惑して石坂君の顔を見たが、すぐ笑って声を掛けた。春代さんも、哲司君の説明で思い出し、空々しい口振りが、急に賑やかになった。会社勤めの哲司君だったが、閑を見ては畑仕事をするらしかった。

 石坂君は昼御飯を横田君の家でいただき、かねて太田川で釣りをしたかったので、哲司君を誘って外に出た。街道を横切り、土手を駆け上った。いつもセメントの上を歩いている石坂君は、横田君から借りたゴム草履を履いていた。堤の土を踏んだとき、やっと何かに帰った気持ちがした。石坂君は、両手を上に挙げて長袖のセーターを思い切り伸ばし、深呼吸をした。更に、川上に向かって歩き、川の堰まで行った。木切れは、苔蒸していた。音を立てて落ちる水から、清楚な川逃れに石が透けて見えた。川の水は、池の水のように静かである。水が落ちる壺は、白い水が跳ね返り、時折、魚が光るのが見えた。

 私が行く前に、二人の青年が、そこで釣りをしていた。石坂君は、その青年に、ふと何かを感じた。その笑い方といい、言葉の調子といい、特に彼等のふざけた行動には覚えがあった。
「おい、あれ高田君じゃないか。」
「そうだよ、よく覚えているな。」
私は、昔のことはよく覚えている。高田君は、市会議員の子供で上品で頭のよい子だった。石坂君は、その坊ちゃんらしいところが嫌いなところだった。際限もなくズケズケとやるところ、それに何でもケチを付けることができるのが、腹立たしかったことを覚えている。風の便りで、高田君が京都の大学を卒業したことは知っていた。横田君は、もともと高田君のような少し高慢な男とは縁のない男だった。石坂君も高田君に呼びかける気持ちもなかった。お互い、知らない同志として幾時間か、釣りを味わっていた。
「おい、石坂。」
不意に呼びかけられ、顔を上げた。
「高田だよ。」
石坂君が、釣りに夢中になっている内に、横田君が高田に言ったらしい。石坂君は、初めて気付いたような素振りをして、懐かしそうに高田君を見つめた。

 高田君は、もう一人の連れが谷川君という、やはり小学校の時の同級生であると言った。谷川君の家は、酒造会社を営んでいる。谷川君の父は谷川晋という名前で、長く県会議員をして現在、国会議員だった。谷川君は、大学の附属中学校のため中学校が違っていたが、石坂君は意外と多く、谷川君の家に遊びに行っていた。谷川君の家は大変厳しい家で、父親が谷川君の教育や躾をしていた。他人の子供は、滅多に谷川君の家には入れなかったし、ましてや遊び耽る家でもなかった。
 そんな中で、石坂君は特別扱いのようにされていた。谷川君の家の中で、一緒に遊んだこともしばしばあった。そんな気の合った仲だったが、谷川君が弱々しい感じがあったことから、石坂君の方から相手にしないときもあった。谷川君の家や庭を駆け回り、谷川君の祖母には特に親切にされていた。現在、谷川君と高田君が付き合っているのは、親が政治家という繋がりがあるからなのだろうと、石坂君は思った。
 高田君も谷川君も、初めの内は私のことを知らなくて、思い出させるのに、横田君が説明に随分骨を折ったと言っていた。昔の友達いいと思った。一旦思い出すと、次から次へと思い出す。要らないことまで思い出すのが面白かった。
やがて、谷川君が帰りがけに
「石坂、良かったら、今夜、ご馳走するから来いよ。いいだろう。横田君も一緒に来いよ。夕方の五時頃がいいかな。」
昔の通り、谷川君は石坂君を呼び捨てにしていた。横田君は、すぐ断ったが石坂君は約束をして二人を見送った。

 石坂君は、谷川君の家に行くとなると自然、谷川君の母のことを思い出す。石坂君が、よく谷川君の家を訪れるときは、谷川君の母が若くて美しく、ついジロジロ見てしまうことがしばしばだった。谷川君の母は、却って喜んでくれた。いつも親しみを感じていた。いつか自分も妻を持つとき、こんな人が良いと思った。谷川君の家を訪れて母がいると、いつも石坂君は遊びに耽った。谷川君の母は、二重瞼の細い目の人である。快く上がった眦には、いつも薄化粧がしてあった。側に近寄って、良い香りを嗅ぐときもあった。石坂君が、よく谷川君の母に言ってやったことがあった。
「おばさん、どうして着物を着ないの。うちの母ちゃんは、着物ばかりだ。」
小さい頃の石坂君の目には、谷川君の母が和服を着ている姿を見るのが一番の楽しみだった。父兄参観日の時、谷川君の母が和服姿で来たのを、頻りに振り返って見たのを思い出す。谷川君の母が、いつも微笑んで答えてくれると、心が浮き浮きするのを感じた。石坂君は、その谷川君の母に会うのが楽しみだった。その反面、今日会うのが、恥ずかしいようにも思った。知らず知らずの内に、動悸を感じた。

 でも、心配もあった。高田君や谷川君も、始めは私のことを思い出してくれなかった。もしや、谷川君の母も、私のことを忘れているのではあるまいかと思った。この町に、果たして石坂君を思い出してくれる人がいるだろうか、石坂君はいないと思った。十分説明しなければ、誰も思い出さないとも思った。中学校、そして高等学校を卒業する。人は散り散り人間関係などは薄くなっていく。
 特に谷川君は、中学校が附属中学校、高校は東京の私立高校、そして私立大学を卒業している。それでも高校卒業までは、谷川君が家に帰ってくると連絡をくれ遊びには行っていた。石坂君が東京の国立大学に進んでしまうと交際は途切れた。そして五年も過ぎたのである。人間関係なんて薄いもので、心が通っていても、時が過ぎれば麻痺してしまうと思った。

 日が山に傾く頃、石坂君は谷川君の家に向かった。 石坂君が街道を北に下って行くと、谷川君の家の庭の木が見える。その家の道路向かい側には、やはり谷川君の家の蔵が見えた。街道から小道に入った。やがて庭を巡る茶色の塀が、道に沿って続いているのが見える。庭の中から、その塀を越して庭の木々が高々と道の上を覆っていた。若葉を付けた木々は柔らかく、夕日に映えて赤く目に入ってきた。若葉の光も相俟って、白い小道は、その時ばかりは色付いていた。塀と小道の間には、四尺ほどもある小川が流れていた。いつも清らかな流れを作っていた。静かに流れる水面に、谷川君の家の縁石が映っていた。

 石坂君は、とうとう谷川君の家の玄関手前まで来た。小川に渡された石の橋、その中に広い玄関があった。中には、黒い大きな柱と梁が見えた。屋根は、見上げるほど高かった。谷川君の家は、ちっとも変わっていなかった。広い玄関を入り蛍光灯の明かりの下に出た。微かに酒の臭いがした。石坂君は、女中に取り次ぎを願ったが、女中は決まり文句のように、素っ気なく言った。
「満雄様は、おりません。」
本当は、高田君と一緒にいるに違いなかった。うっかり、石坂君が来ることを言わなかったのかも知れないと思った。石坂君は、帰るほかないと思った。谷川君は、軽々しい友だったかと思うと寂しい気がした。
 玄関を出て、小川の橋に出て、石坂君は立ちすくんでしまった。町の方から和服を装った谷川君の母と妹が、話し合いながら一緒に歩い来るのか見えた。二人は、石坂君の姿を見ると、話を止めて立ち止まった。谷川君の母は、昔より幾分老けて見えたが、上品な美しさは変わっていなかった。和服を着こなしている姿が、一層美しく見えた。
 妹の方を見た。今迄どうして妹の由美子さんのことを思い出さなかったのか。妹の姿が、懐かしさを誘った。たった今、門前払いをされて谷川の家を出て行かなければならなかった。谷川君の母も妹も、私のことをもう覚えてはいまいと思った。自分から名乗るのも、おかしいと思った。谷川君の妹の顔は、夕陽を受けているせいか、紅く見えた。美しい女性に会って、私は恥ずかしくなった。私は、夕陽で透き通った庭の木に向かって、空を仰いだ。そして、顔を背けて歩き出した。小川に目を落とし
…誰も、私のことを覚えていないのだ。…
負け犬のように、谷川君の母や妹に背を向けた。小川の清々しい流れが、哀れの響きにさえ感じた。駆け出す音が聞こえた。
「あの、何かご用でしょうか。」
由美子さんの澄んだ声が、石坂君の耳に聞こえた。谷川君の母も近寄ってくるのを感じた。由美子さんの動悸を感じ、石坂君はやっとの思いで振り返った。
「何か、用があったのでしょう。」
「はい、でも、もういいんです。」
「兄なら、家にいるはずですわ。」
谷川君の妹は、石坂君に一歩近寄り、小川に目を落とした。動悸がはっきりと分かり、顔の紅が増していた。石坂君も、小川に目を落とした。
「あの、石坂さんじゃございませんか。」
石坂君は、黙っていた。そして顔が熱くなるのを感じた。
「違うかしら。」
谷川君の妹は、自信なさそうに言った。石坂君は言葉の出しようがなかった。谷川君の妹も、顔を上げて石坂君を見る様子もなかった。
「早く、母と一緒に、いらっしてくださいね。」
暫くして、谷川くんの妹は、そう言って逃げるように家の中へと駆けていった。谷川君の妹の言葉は、清楚な響きを持っていた。良い香りを残していった娘は、母親によく似た娘だった。
「橋の上の貴方の姿を見てびっくりしたの。やはり石坂さんね。あの子も、すっかり驚いたのよ。突然に会えるなんて。」
石坂君は、谷川君の母が終始微笑んでいるのを見て、安心と喜びを感じた。
「石坂さん、今日の貴方は、私の家の皆んなのお客さんよ。さ、行きましょう。」
谷川君の母と並んで、石坂君は再び石橋を渡った。

 石坂君は小学生のころの思い出が脳裏を掠めた。谷川君の家や庭を駆け巡っていたころ、谷川君の妹は石坂君の後を追いかけまわしていた。かくれんぼをしたり、庭の木に登ったりしていた。
 かくれんぼをして、中々谷川君の妹が見つからないことがあった。二階の小さな部屋の押し入れて寝ているところを見つけ、ぐっすり眠っていることから石坂君が背負って運んで連れてきたこともあった。
 お婆ちゃんの部屋に行くときは、何時も妹を連れて行った。お婆ちゃんは、二人を代わるがわる見つめて、いつも微笑んで見ていた。石坂君は、それがかけがいのない思い出のように思った。
 石橋の下の清い水は、石坂君が行ったことがない程遠い山間の太田川の渓流から流れてくるとのことである。

 谷川君と高田君、石坂君の三人が、書斎とも思える谷川君の部屋でビールを飲み始めて、幾らも経たないうちに谷川君の家が少し慌ただしくなる音が聞こえた。谷川君は、
「父が東京から帰ってきたのだろう。突然帰ってくることが良くあるんだ。」
と言って、高田君にビールを注いだ。高田君は、司法試験に受かり裁判官になる道を選んだと言い、注がれたコップ一杯のビールを一気に飲み干すと、
「今夜の夜行で、京都の宿舎に戻る予定だ。」
と言って、席を外して部屋から出て行った。部屋の外で谷川君の父に挨拶をしている声が聞こえた。

 高田君が帰っていくと、谷川君が急に胸襟を開いたように
「高田がいると、つい緊張してしまうんだな。言葉の端々に気を付けないと、反撃するような言葉が返ってくる。話しづらいよな。」
と言った。石坂君は、肩を窄めて
「小さいころから培ってきた性格だ。仕方ないよな。裁判官になれば、少しは良くなるさ。」
と答えた。そんな時である、女中と谷川君の妹が部屋に入ってきた。谷川君の妹が、
「父に、石坂さんが来ているっと言ったら、石坂さんに会いたい。一緒に飲みたい。そう言うの。座敷の方に行きましょう。」
と言った。東京では、県人会で谷川君の父が国会議員として顔を見せており、盃を交わすことが良くあった。
 谷川君と石坂君は、それぞれビールの入ったコップと抓みの入った皿を持って席を立った。残った酒の肴などは女中が盆に入れて三人の後を歩き、座敷に入っていった。
 座卓にそれぞれ座り終えると、石坂君が谷川君の父に向かって
「東京では、色々お世話になりました。」
と言った。谷川君の父は、笑顔で石坂君の挨拶を聴き終わると。
「今夜は、石坂君のお祝いをしよう。」
と言った。谷川君は勿論、谷川君の母、妹は一瞬驚きの表情で石坂君の顔を見つめた。谷川君の父は
「皆には話さなかった。もう知っているかと思ったからだ。自分から敢えて言わない、それが石坂君の良いところだ。」
そして話を続けた。
「菅沼秘書から連絡があった。今日の午前中に弁護士会の方から発表があり、石坂君がこの区域の弁護士になることが決定したとのことである。そうだろう、石坂君。」
谷川君の父は、念を押すように石坂君に言った。
「はい、その通りです。午前中に弁護士会に行き、挨拶を済ませてきました。」
石坂君は、そう言って皆に頭を下げた。すると谷川君の妹が、最初に手を叩き
「石坂さん、おめでとう。とても嬉しい。」
と言った。谷川君の父は、皆の拍手を抑えるように両手を広げて
「試験成績は、最優等で、大いに将来が期待されるとのことでした。」
谷川君の父の言葉が終わると、居合わせた者が笑顔で拍手を送るのだった。