リンク:TOPpage 新潟梧桐文庫集 新潟の風景 手記・雑記集 「河畔の湯治場」
佐 藤 悟 郎
大きな河に面して、河岸段丘の崖が、対岸に見える。夜になると、中秋の月の下に、河岸段丘の峰が、黒々と浮かんでいる。夜が更けて、月が天心にかかるころとなる。西の空の雲は、月明りを受けて銀色に鈍く光り、山の端には、無数の松の木立が影を宿す。
清市は、その大きな河の近くにある、小さな温泉宿で療養生活をしていた。温泉宿は、対岸の河岸段丘の崖と違って、雄大な山の裾野にあった。町から歩いて小一時間、美しい林に囲まれたところである。昔も今も変わらず、一軒しかない温泉宿で、老夫婦二人で細々と営んでいた。
清市は、高校生であるが、学校生活に疲れて軽いノイローゼに陥った。医者に静養を勧められて、この温泉宿に入り、半月になっていた。つい最近、温泉宿の老夫婦の孫娘が、二階の一室に入った。美和子という若い女性だった。清市は、彼女がどうしてこの温泉宿に来たのか、詳しいことは知らなかった。
清市は湯から上がり、脱衣場の格子戸を引き、外の様子を見ながら浴衣を着ていた。秋の涼しい風が袂に吹き抜け、快く肌を撫でていくのを感じていた。 「どうしたのだろう。私は、やはり精神的におかしいのだろうか。そうかもしれない。周りの移り変わり、家の状態が全て嫌だというのは、やはりおかしいんだ。」 松林の幹の間から、川面の水の燦めきが時折見える。そして涼風が、松風の音となって聞こえてくる。清市は、この温泉宿に来るまで、松風や川の瀬音の美しいことを知らなかった。静かな生活の中で、過去の生活がいかに心寂しいものだったかを思った。
清市は、湯殿から渡り廊下を歩き、静かに階段を上った。二階の廊下は南に面し、木戸や障子戸を開けると、対岸の荒々しい景色を望むことができる。清市が二階に上がると、廊下の窓の敷居に腰を掛け、欄干に腕を掛けて外を見ている美和子の姿が目に入った。隣り合った部屋にいるのに、お互いどのような生活をしているのか知らなかった。
清市は、廊下の窓辺に寄って屈託のない美和子の姿を見るのは始めてだった。黒髪は長く、膝の上に一冊の本が置かれていた。落ち着いた目は、はっきりとしており、美しくまた気品のある賢さが窺われた。地味ではあるが、悠然とした姿に思えた。
清市は、静かに美和子の前を通り過ぎようとした。そのとき美和子は、清市に声をかけた。 「綺麗なお月様ですわ。」 突然の美和子の言葉に、清市は面食らい、よく聞き取れなかったのである。 「え…、何ですか。」 清市がそう尋ね返すと、美和子は空を見上げながら再び言った。 「秋の月は、きれいだと思いますわ。」 清市は、美和子の横から欄干に両手を突き、窓の外に首を出して空を仰いだ。 「そうでしょう。」 美和子の問いかけに、清市は返事ができなかった。清市の目には、月が別に美しくもなかったし、ましてや珍しいものでもなかった。
清市は、黙ったまま月を見続けていた。そのうちに清市の目に、月が大きくなったり小さくなったり、暗くなったり驚くほど明るく見えたりしたのである。 「変だな。こんなものかな。おかしな具合に形が変わっていくように見えるんだ。」 清市は、自分の精神の異常さがさせているものと思った。 「そうでしょう。空の月とはそういうものよ。美しいと思わない。」 美和子は、諭すように、また同感を求めるように、清市に言った。清市は、美しいと言う言葉と、おもしろいという言葉が関連があると思った。
一陣の風が松林を揺すった。美和子は、その音に気付いたように、清市に向かって言った。 「体を冷やしてはいけませんわ。湯から上がったばかりでしょう。その手拭い、干して上げます。」 清市がためらっているのを見て、素早く手拭いを取り上げて欄干に干すと、小綺麗に窓の障子戸を閉めた。瀬音が耳新しく聞こえた。
清市が部屋に行こうとすると、美和子は 「入ってらっしゃいよ。」 と言って、清市に目を流した。清市は、頷きを見せ、美和子の後ろに従った。美和子が障子に手をかけると、清一は目を伏せた。女の人の部屋に入って良いものかどうか、ためらいがあったのである。 「どうしたの。」 俯いている清市の顔を窺うように問いかけると、清市は小声で言った。 「入っても良いのですか。」 美和子は、微笑んで頷いた。 「だって、隣同志で、碌に話しもしていないんですもの。貴方が良ければ、今夜は少しお話しがしたいわ。」 何の屈託もなく、はっきり言ってのける美和子の言葉に勇気づけられ、清市は美和子の部屋に入った。 「床が延べてあって悪いけど、少し我慢してね。」 そう言いながら美和子は、火鉢の前に座布団を置いた。
窓が北向きにあって、その下に座り机があった。机の前に床が延べてあった。机の上には、少し厚い本が十冊ほど積まれていた。火鉢に火が入れてあり、清市は、手を暖めながら部屋の中を見渡した。美和子は、本を机の上に置くと、清市と向かい合って座った。心持ち、火鉢の縁に手を置いて、首を傾け一礼をした。 「私は、美和子と言います。ここの宿の老夫婦の孫娘です。年は二十歳、今、胸を悪くしてここで療養しているの。」 美和子は、自己紹介を済ませると、清市の番とばかり待っていた。 「私は、清市と言います。この町の高校生です。」 清市は、この宿に世話になっている理由を話したくはなかった。 「そう、どうしてここにお泊まりになっているの。」 そうまで言われ、答えなくてはと思った。 「はい、精神が疲れていると言われています。医者がノイローゼだと言って、ここを紹介してくれたんです。」 清市は、驚きの表情を見せない美和子に、心休まるものを感じた。 「そうですか。私は、胸の方はだいぶ良くなったの。ただ、本を読み過ぎたり、勉強をし過ぎたりすると、疲れが残るの。」 これがノイローゼの清市と体の弱い美和子の、二人の会話の始まりだった。
それから日を重ねるに従い、同じ屋根の下ということもあって、話し合うことも多くなった。ある日の朝、美和子のところに、吉川という大学生が訪れた。清市は、朝から本を読んでいた。美和子は、三人で話しがしたいからと言って、清市を呼んだ。清市は、美和子の部屋に入ると、火鉢の側にいき、吉川に丁寧に挨拶をした。
清市は、吉川という大学生が好青年であると感じた。陰険なところは少しも見られず、清楚な人物と思った。吉川は、清市に気軽に話しかける。相当な知識を持っており、答えるのが煩わしいと思うほどだった。 「失礼ですが、吉川さんはどちらの大学ですか。」 吉川と美和子は目を交わした。 「美和子さんと一緒の大学です。」 清市は、美和子を見つめた。 「吉川さん、まだ言ってないんです。」 吉川が笑いながら言う大学の名前を聞いて、清市は多少興奮をしたのである。自分の志望する大学だったからである。 「吉川さんも、美和子さんも、将来きっと学者になるんでしょうね。」 吉川は、首を横に振り、笑いながら言った。 「学者志望の人は多いけれど、私は民間に入って頑張るつもりです。」 美和子は、食い入るように清市を見つめ 「私は、体が弱いから、普通の家庭の主婦になりますわ。」 と答えた。清市は、意外さを感じた。その大学に入った人は、学者以外に相応しくないと思ったからである。 「君が後輩として入ってくるのを、楽しみに待っているよ。」 吉川は、清市に励ましにも似た明るい声をかけた。
秋の爽やかに晴れた日だった。清市と美和子は、二人で川の岸に降りていった。美和子は、川に入って行く清市の姿をじっと見つめていた。清市は、時々美和子に向かって両手を上げ叫んでいた。澄んだ川の水、その底に緑や白、赤など色とりどりの石が見えていた。
昼の陽射しを受け、美和子は気持ちが良かった。吉川が帰って、何日かは過ぎていた。美和子は、ズボンを捲り上げ、川の浅瀬ではしゃいでいる清市を見て、羨ましいと思った。 …もう、あんなに良くなっている。元気で朗らかになっている。私は勉強がしたい。清市さんのような、丈夫な体が欲しい。… 美和子は、思い付いたように急に着物の裾を捲り上げ、下駄を脱いだかと思うと岸の砂場を走り出した。美和子にとって、走ることは最近ないことだった。秋風を切り、青空を仰ぎ、長い黒髪を宙に踊らせていた。体は思い通りに動き、病気であることを忘れていた。
水際で静々と足を水の中にいれた。二人は、病から解放され、秋の日の下で明るく喜び合っていた。 「清市さん、ちょっと。」 美和子は、太陽に目を当てたとき、急に眩暈を感じたのである。頭が茫々とし、清市の肩に体を凭れた。 「少し頭が痛いの。」 清市は、慌てて背中に手を回し、岸に行こうとした。水の流れを横切り、美和子の着物の裾は、水に洗われ濡れている。引き摺るように足を運び、ようやく岸にたどり着いた。そこから下駄の置いてあるところまで歩いた。美和子の苦しみが激しくなっていく様子だった。 「美和子さん、背負って上げますから。ほらこの下駄を持ってください。」 清市は、無理に下駄を拾いあげ、美和子に渡すと背を向けて屈み込んだ。 「それは、いけませんわ。」 見上げる清市に微笑みを見せたが、その顔にすぐ苦渋の色が現れた。 「誰も見ていません。さあ早く。」 美和子は、苦しいのか、倒れ込むように清市の背中に凭れかかった。 「清市さん。済みません。」 耳元で美和子の細々と息をつくような声が聞こえた。清市は、それだけで良かった。 「いいんですよ。気をしっかりするんですよ。」 清市は、軽々と美和子を背負うと、小走りで宿に向かった。美和子は、顔を少し歪め、苦しみを堪えていた。 「清市さん歩いて。走ると苦しい。」 その声で、清市はゆっくりと揺れないように歩いた。
夜に入って熱も下がり、心配が去った。清市と美和子は、見つめ合っていた。美和子は、川岸ではしゃぎ合ったことを、とても楽しかったと言っていた。 「清市さん。おんぶさせて御免なさい。それに裾も濡れていたし、冷たかったでしょう。私って、とても体が弱いのね。貴方の健康な体が羨ましい。」 清市は、その言葉を清楚な気持ちで聞くことができた。 「今日は、私が思っていることを話してあげるわ。良く聞いてね。」 美和子は、優しく微笑みながら話し始めた。 「今日の清市さん、とても美しく見えたの。訳もなく、一緒にはしゃぎたくなるほど、清市さんが美しく思えたわ。」 「清市さん、怒らないでね。今まで清市さんを見ていて、考えていたの。どうしてここにいる人なのかと。」 「私が感じたことは、清市さんに、今まで余裕というものが、なかったんじゃないかと思ったの。人間には、余裕が大切なんです。でも、余裕というものは、簡単に手に入るものではないのです。」 「清市さんには、学生という立場があります。勉強をしなければならないのです。本当の余裕というのは、物事の最高の立場に立ったとき、初めて生まれるものと、私は思っているわ。」 「普通、余裕と言われているもの、あれは自分の目的に向かって歩いているとき、現在より一歩後退した時に、生まれるものだと思っています。仮初の、名ばかりの余裕というものです。そんな仮初の余裕が多ければ、人は決して前には進めません。前に進むどころか、後退するのです。」 「清市さん、高校生は、受験勉強に背を向けることはできないのです。それをクリアしなければ、意味がなくなってしまうのです。受験勉強に憂いがなくなって、初めて余裕と言うものが生まれるのです。」 「若いとき、他にすべき事があるように思ったりするのは事実ですし、正しい人間の在り方と思います。しかし、自分の人生に筋道があるような場合、忠実にその筋道を歩くより仕方がないんです。たとえ、その道筋が正しくないとしても、その道を歩かなければ、正しい道にたどり着くことができないのです。清市さん、分かった。」 最後に、美和子は清市の名前を力強く言った。
清市は、美和子の言っていることが正しいと思ったし、素直に受け入れることができた。そして自分の精神的な病が、美和子の言った筋道から大きく反れたためであることを認めていた。 「美和子さん、有り難う。」 清市は、明るい顔を見せ、美和子の額の手拭いを取り上げた。 「清市さん、今が出発点よ。順序よく、筋道に戻ること。筋道に入ったら、その道に上手に乗っていくこと。腹を立てないで、足元を良く見つめていくの。その道筋を歩けば、誰かが待っているわ。きっと…誰かが。」 清市は、冷たい水で濡らした手拭いを、美和子の額に載せた。美和子は、何か言いたそうに唇を少し動かした。それも言わず、布団の中からそっと白い手を出した。 「清市さん、私の手を握ってください。私が眠るまで、お願い。きっと良い夢を見ることができると思うわ。」 美和子は、暫く清市の手を握っていた。そして目を閉じ、段々と手の力が抜け、思い出したように強く握り締めた。そして何時の間にか、清市の手は、美和子の両手に包まれていた。
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