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「本家の娘」

 

                          佐 藤 悟 郎

 

 

 彼が住んでいる家は、町の郊外の農村地帯の小さな集落にあった。町は河岸段丘に囲まれた盆地で、町の中央に信濃川が流れる緑の豊かなところである。町から西に向かう道を二十分程歩くと彼の集落がある。

 

 彼は町の高等学校を卒業すると、町の中でも一番大きな精密機械の製作工場に勤めた。社会に出て一年も過ぎ、平凡な暮らしをしている男だった。変わっているといえば、学校時代からの癖で本を読むことが好きで、多少物知りだというぐらいである。

 彼の生活に波風の立つことは余りない。集落の人が起きる頃に起き、そして本を読み、食事をして会社に出かける。会社では与えられた仕事を与えられた時間をかけ確実に消化し、寄り道もせず家に帰ってくる。そしてまた本を読み出す。家の者に言われれば、風呂焚きも薪割りもする。夕食の後は、弟と一緒の部屋で本を読み、弟にせがまれれば勉強も教えてやる。そして眠る時間になれば寝つきは早い。このような生活態度は、雨が降ろうが雪になろうが、暑苦しかろうが寒かろうが変わることはなかった。

 

 彼は、煙草が好きだった。それに少しであるが酒も飲んでいた。未成年者の彼は、長男であることから、家の者は誰も咎めもしなかった。正月近くになると彼の家も忙しくなる。彼の家は農家ではない。父は山の木の伐採の仕事をしており、母は近くの機織り工場に働きに出ている。家の側にある畑は家の野菜を賄うもので、母がやっているだけである。妹は高校生、弟は中学生である。姉は隣の集落の農家に嫁づいていた。農村にある彼の家も、農家と同じような正月をするのである。彼にとっての正月は、特別の意味を持つものではなく、心改まるものだとも思っていなかった。

 

 彼の姉が祝言を挙げたのは、一昨年の正月早々である。雪道を進む長い嫁入りの行列に従い、彼は姉が農家に嫁に行くには少々勿体ないと思ったのである。華やかな祝言の宴ではあったが、彼が帰りに見た寒村の雪の広がりと、集落の家や木々、そして山々は変わりもなく、静かで飽き飽きとしたものだった。何もかもが楽しく思われた子供の頃を懐かしく思った。

 

 彼は、生活の楽しみというものを知らなかった。何かを求めようとしても求める物が見えず、何処かに逃れようとしても逃れる場所もないように思えたからである。

「人の心には、元来、何も無いものである。我々は何の変哲もないところに、希望と思われるものを見つけていくべきである。」

東京の大学へ行った友人の言葉を時々思ってみた。彼は何も無いところには、依然として何も無いのだと思った。目出度いはずの姉の祝言でさえ、人間の心に何の教訓も与えはしなかった。姉はこれから子供をつくり育て、家のために働き続けるだけである。それは人生の楽しみや喜びとは、全く異質なものであると思った。

 

 正月を迎えることで彼を喜ばすのは、大晦日と正月三か日が会社の休みとなることである。その時は、少々多めに酒も飲めるし、本も多く読めるからである。姉は年の瀬も迫ると、毎日のように尋ねてくる。多くの米や野菜、御馳走の品々を運んでくるのである。妹は母と一緒に台所仕事やら家の掃除など、よく働いていた。彼は餅を五臼つくだけの仕事しかない。後は、部屋でのんびり本を読んでいるのである。

 

 この大晦日もそうだった。忙しさも一応落ち着いた昼過ぎに、本家の娘が訪れた。本家の家と言っても、遠い昔に分家したものである。本家との交際は、祖父や父母の間でも絶え間のないことを彼は知っていた。本家の娘と彼の妹は同じ年で、幼い頃から仲良しだった。

 本家の娘は、この家の長男である彼の部屋を訪れて挨拶をした。本を読みながら頷き、生返事をする彼の姿を見て、軽やかに階段を下りて行った。そんな彼の態度は、幼い時からの習慣のようなものだった。後は、彼の妹の部屋でお喋りをするだけである。

 

 本家の娘は、東京の女子高等学校に在学中である。娘の兄が東京で事業に成功し、娘に東京の生活をさせるといって連れていったのである。その時、娘は都会の学校生活に憧れ、勇み立って行った。彼は、本家の娘がいずれは東京で永住する人になると思っていた。

 娘は夏休みと冬休みには、決まったように故郷に帰ってくる。そして彼の家を訪れるのである。本家の家は、彼の家から三つも集落を越えたところにあり、大きな屋敷と大きな樫の木がある。彼の家からは、田圃の中の県道を歩いて相当の距離がある。

 彼は本家の娘がこの家に来るとき、お茶目な眼差しをこの家に向け、お下げを宙に舞わせて素っ飛んで来ただろうと思った。いや、今年は雪道の中、スカートをひらひらさせて走ってきたに違いないと思った。彼は、娘がスカート姿だったのを、ちらっと見たのである。

 

 暫くたって、炬燵で本を読んでいる彼の部屋に、妹と本家の娘が座布団をぶら下げて入ってきた。その二人の後ろから、弟が魔法瓶とお菓子、茶道具を両手に塞がるほどに持たされて入ってきた。妹と弟は気分屋である。向こうの部屋が嫌だと思い立つと、この部屋あの部屋と移動するのである。

 弟は、お茶酌みをさせられている。本家の娘は、妹と話をしながらトランプを切っている。彼はといえば、本を読み続けながらも、時折のっそりと片手を炬燵の上に這いずらせて菓子を取り、口に運んでいた。そして無意識のうちにやるのだろう、お茶が注がれる音を聞くと、炬燵板の上で片手を伸ばし、ピアノを弾く手つきに似てコトコトと板を打ち鳴らし、茶碗に近づけ、ついには捕まえるのだ。

「俊ちゃん、トランプする。」

本家の娘が尋ねても、彼は下を向いて本を読んでいるだけである。顔を上げるといえば、お茶を飲むときに少し上げる、それも目は常に下を向いている。

 

彼が黙っているときは、大方「O・K」の返事と同じだった。そして彼にもトランプが配られた。すると妹と弟がケチをつける。

 四人揃うと七並べが普通である。彼は手にあるものを直ぐ出してしまい、隠すことがない。自ずと彼が一番先に負けてしまうのである。そして本を読み続けるのである。

「駄目だよ。兄貴は下手だから面白くないよ。」

弟がそういうと、本家の娘はからかうように弟に言葉を浴びせる。

「いいじゃないの。何回負けるか数えてあげましょう。」

彼は、とにかくカードを手にし、一見して目を本に落とした。

「駄目よ、本なんか見ていちゃ。」

妹が神経質な声で彼に文句をつける。

「七はないよ。」

彼はぽつりと言って、菓子を口に運んだ。

「兄貴が本を読んでいると、カードが丸見えなんだよ。」

弟はつまらなそうに言う。彼も何でもないといった風に応える。

「やり易くていいだろう。」

本家の娘は、子供を扱うように彼に言った。

「良くないわよ、俊ちゃん。こういうゲームは分からないところで面白いんよ。本を私に寄越して。本は没収よ。」

彼は素直に、いつぞや本家の娘が送ってくれた栞を挾んで本を閉じた。そして自分の脇に本を置いた。

「俊ちゃん駄目よ。本は没収よ。私に頂戴。」

本家の娘は、紺のセーラ服の腕を彼の前に突き出し、手を広げていた。彼がその白い手の上に、本を無造作に載せてやると、娘はその本を手前の布団の中に隠した。仕方がないといった風に彼は立ち上がると、机の上の煙草と煙草盆を持ってきて炬燵に入った。

「何時も俺が負けるのは理由があるさ。女の子が二人並ぶとズルするからな。」

彼のその言葉に、妹はすぐヒステリックな声をあげた。

「嘘よ。兄さんが弱いからよ。変なこと言わないでよ。」

本家の娘は、妹を宥めるように、そして彼に向かって言った。

「俊ちゃんが悪いわ。そんなこと言わなくてもいいんじゃない。ゲームは弱い人が負けることになってるんよ。私が場所を変わるわ。」

娘は彼から取り上げた本を片手に、弟と場所を変わり、妹と向かい合うように彼の右隣に座った。

 

 彼が煙草を吸い始めると、いつものように妹と弟が咳を始める。そうするとわざと彼は、妹と弟に煙草の煙をふっと吹きかけるのである。彼は左手に扇形にカードを広げ、右手に煙草を挾み、小指と親指でカードを摘んで出していた。

「生意気よね。未成年者のくせに煙草を吸ってさ。」

妹の言葉も聞き慣れているのだろう、彼は反発もしなかった。一般的に煙草が体に良くないということを彼は自覚していた。

「でも、俊ちゃんが煙草好きだなんて、大人らしくて頼もしいわ。今度、外国の煙草をお土産に持ってきてあげる。」

本家の娘の言葉に、彼は微笑んで聞いていた。そして娘を見つめた。娘もちらっと彼を見返しカードを出した。

 

彼は娘を見つめながら、煙草の煙をくねらせていた。彼の番であるのにカードを出さない。本家の娘は、彼のカードを一枚取って並べた。彼は素知らぬ風に、娘をじっと見つめていたのである。

「兄さん、どうして房ちゃんを見つめているのよ。嫌らしいわ。」

妹のヒステリックな言葉、そして弟の言葉が続く。

「兄貴、怪しいな。」

弟の言葉で慌てたのは彼でなく、本家の娘だった。本家の娘は、一瞬俯いたのである。彼は、何でもないという風だった。

「房ちゃんの襟元が少し寒そうだからね。そうだろう。」

彼はそう言ってから、弟に半天を持ってくるように言い付けた。弟が半天を娘に渡すと、娘は彼にお礼を言って、肩から半天を纏った。

「なかなか可愛らしいじゃないか。その白いマフラー。」

彼にからかわれて、本家の娘は嬉しげな素振りを見せていた。子供が大人にじゃれている様子に似ていた。

 

 その日のゲームは、始まって以来の彼の勝ち振りだった。その原因が多分に本家の娘にあった。ままごとをするように楽しげにお茶を注いでやったり、煙草の火をつけてやったりするとき、娘は彼のカードを見て、彼の都合のよいようにして、ゲームを楽しんでいたのだ。そんなことまで彼は知らなかったのである。

 本家の娘は、彼の家で軽く夕食を取って帰っていった。家に帰ってからも食事をする様子だった。帰り際に、二年参りを一緒に行きたいから待っているようにと、彼の家の者に告げて帰った。

 

 彼は、大晦日の夜、テレビを楽しんでいる家族をつまらないと思い、一升瓶をぶら下げて自分の部屋に行き、酒を肴に本を読んでいた。彼は、家の者と一緒に、町の大きな神社へ行くつもりは毛頭なかった。

 本家の者達が来ると、階下は人のお喋りで賑やかになった。妹と娘が似たような柄の入った和服に羽織を引っ掛け、彼の部屋まで誘いにやってきた。毎年のように、彼は無下に二年参りに行くことを断った。二人は尚も彼を強く誘った。

「じぁ、このドテラ姿で行こうか。おまえ達が引き立って良かろう。」

彼のその言葉のすぐ後に、妹の神経質で興奮した声が返ってきた。

「駄目よ、しゃんとした格好しなければ、絶対に連れていかないからね。」

妹はそっぽを向いた。

「いいわよ、それで上等よ。だから早く一緒に行きましょう。」

本家の娘は屈み込んで、笑顔を見せながら愛嬌よく彼に声をかけた。結局、母が三人の中に入って、彼が村の八幡様を詣でることで話をまとめてしまった。話が決まるともう彼は本に目を落としていた。

「俊ちゃん、行ってくるわ。」

本家の娘はそう言って、手綺麗に一升瓶を傾けてコップに酒を注ぎ、一番最後に彼の部屋を出ていった。彼は本を読みながら、ラジオのスイッチを入れ除夜の鐘の音を聞いていた。

 

 彼が漸く腰を上げたのは、もう町へ繰り出した人がちらほら帰ってくる時間だった。澄みきった星影が空に瞬き、夜の雪の世界が幻想的に広がっていた。そして、遠くの集落の家々に灯が赤く輝いていた。杉の木が鬱蒼と繁る村の八幡様は静かだった。

 八幡様の社に、ほのぼのと蝋燭が数本ともり揺れていた。彼が杉の木立を通り抜け、社の前に見たのは本家の娘だった。帯の結びが快く膨れ、お下げがその明るい布地に垂れ、祈りを捧げていた。彼はその姿を見て、本家の娘がこの上ない清楚な少女と思った。彼は娘に近寄り、小さな声で名前を呼んだ。娘からの返事はなく、真剣に合掌をして願いをかけていた。

 彼は、目を閉じ合掌をしている娘の横顔を見ながら、賽銭を投げた。彼は何ということはない。鈴の房を振り、ポンポンと手をはたき、短い黙祷と合掌を捧げるだけだった。

 

 彼が簡単にお参りを済ませても、娘は頭を低く垂れ、祈り続けていた。瞼の柔らかい影は真剣でいじらしく見えたが、娘の姿に、どこかよそよそしさを感じた。彼は、言葉をかけずに社の前から立ち去った。杉木立の参道を時折振り返り、仄めく社の明りの中に、娘の姿が心に深く染み入るほど、美しい姿に映るのを感じた。

 彼は家に戻り、自分の部屋の炬燵に入ると寝転んだ。八幡様で手を合わせ祈っている本家の娘の姿が、妙に目にちらついた。純粋な娘心の祈りが、どんなものなのか気にかかったのである。本も読まず天井を見つめ、娘のことを考えていた。

…本家の娘は、昔からあんな風だったのだろうか。信仰心があんなに厚かったのだろうか。八幡様は遊び場だった。それだからこそ信ずることができるのだろうか…

目を閉じて娘の祈っている姿を美しく思い起こした。

…まだ娘の家の者達が、村にも帰ってきていないのに、どうして娘が八幡様にいるのだろうか。どうして、あんなにも長い願い事をしているのだろう。一体本家の娘に何があったのだろうか。…

彼の脳裏に、娘に対する疑問が色々と渦巻いていた。娘の東京での生活を思った。活発で清々しく、今年は少し色気付いている。東京では、男友達もいるに違いない。金持ちで男前、それに立派な才能の持ち主が、娘にとても似合いそうだと思った。

「房ちゃんの器量の良さ、賢さから言って、当たり前だろうな。」

彼は小さな声で呟いた。

 

 彼は、本家の娘が彼を慕って願い事をしているのかとも思ってみた。兄妹のように親しすぎる間柄では、似合わないことだと思った。それ以上に、この農村に娘が暮らしていくことは、相応しくないと思った。何の刺激もない農村の生活、勇ましく耐えていくだけのつまらない人生である。東京の生活に、或る程度慣れた娘は、農村の生活など決して望むはずはない。そう思うと彼は笑ってしまった。

「君なんか、時として、余りにも小さな殻の中に満足している。それでいて、一方それに耐えていけないのだ。もう子供じゃないのだ。良く考えて、何かを探さなければいけないのだ。そして人生を前進させなければならないのだ。」

大学へ進んだ友達の、最近の便りの言葉を思い出した。彼には、一体何を見出だせば良いのかと考えた。彼は、障子の隙間から漏れる朝の光を受けて、目を覚ました。夜考えたことが自分に関係のない、何と遠く、何とたわいのないものだと感じた。平凡なる者は平凡に耐え、この農村で生きていく他ないのだと思った。

 

 夕方になると、彼は父に連れられて親類縁者の家を訪ねることになった。彼は、読みかけの本をオーバーのポケットに忍ばせて出かけた。彼は四月を迎えれば二十歳となる。彼を珍しがってか、それとも彼の成人を祝ってか、回る家ごとに、彼は酒を勧められた。

 子供達が夢を見ている頃に、彼とその父は本家を訪れた。彼は酒を飲み過ぎ気分が悪いと言って、酒の席に着かず、炉端で上体を揺らせ、座っていた。大人達は、彼のその姿を見て笑っていた。罵声が、彼の耳に大きく響いてくる。彼は、我に返ろうとして、オーバーから読みかけの本を出し見つめたが、文字を余り読み取ることができなかった。ただそうしていることが、彼に安心感を与えた。

 

 大人達一同は村の有力者で、県議会議員の家に押しかけることで話がまとまり、口々に勝手なことを、声を張り上げて騒々しく本家の家を出ていった。罵声、わめき声、けたたましい足音、彼にはそれらの雑音が家を倒すほどに大きく聞こえた。

 彼も腰を上げ、大人達の方へ歩いた。彼の父と本家の祖母、それに本家の親父が彼を遮った。大人達は、大方県議会議員の家に押しかけ談判めいたことをわめき散らし、酒に酔い潰され、明日の昼過ぎまでは帰って来ないことは、はっきりしていた。本家の親父は、出かけに祖母に大声で声をかけた。

「お姥ちゃん、俊坊の奴、本を読んでいる位だから、うんと酒を飲ませてやりな。それに房子を起こしたがいい。」

彼は、酔いに任せ調子づいていた。

「ようし、ぶっ倒れるまで飲むぞ。まだまだ飲める、一升ぐらいは軽い。」

彼の大法螺に大人達一同は、どっと笑い本家の家を立ち去った。

 

 本家の家に残ったのは、彼と本家の女達と子供達だった。本家の嫁は、彼の前に一升瓶と茶碗、それに酒の肴を置き、座敷の後始末を始めた。大人達が立ち去るのを待ちかねたように、本家の娘が奥から彼の脇にやってきた。

「俊ちゃん、そんなに酔っ払っちゃって大丈夫なの。」

微笑みながら、それでも心配そうに軽く彼の肩を叩いた。赤々と燃える囲炉裏の火の光と熱を受け、彼は虚ろであった。二人の様子を、娘の祖母は楽しげに見つめていた。

 娘は、兄嫁の仕事を手伝いながら、時折、彼に一升瓶を傾け茶碗に酒を注いでいた。荒れた座敷の後始末が終わると、兄嫁は祖母に会釈をして、子供達が寝ている奥へと行ってしまった。兄嫁は疲れ果てた様子だった。

 

 本家の娘は、兄嫁を見送ると、またそそくさと彼の脇に座った。娘は屈み込んで、彼の赤くなった顔を心配そうに見つめた。

「俊ちゃん大丈夫。目がとろんとしているわ。体も揺れているし。」

彼は、娘の言うことが何も聞こえなかったのだろう。左手に酒の入った茶碗、右手に箸を持ち、胡座をかいた体は絶えず左右に揺れていた。

「大丈夫なことはないだろう。潰れるまで飲むんだから。」

彼は笑いとも、呻きとも、クシャミともつかない音で応えていた。

「本当に潰れるまで飲むの。」

娘が、そう小さな声で尋ねると、彼はぶっきらぼうに答えた。

「そうだよ、お婆ちゃんいいだろう。潰れても。」

彼はそう言うと、茶碗を煽り、娘の手前に茶碗を差し出した。酔い痴れている彼の顔を怪訝な目で見つめながら、娘は一升瓶を傾けた。注いでいる先から酒がこぼれていく。戸惑いながら炉端を拭いている娘の耳に、祖母の言葉が聞こえた。

「俊坊、潰れてもいいんだよ。お正月は、たんとお酒を飲むもんだよ。俊坊ももう二十歳だもの。」

本家の娘は、炉端を拭く手を休め、顔を上げて祖母の顔を見つめた。囲炉裏火の向かいの祖母は微笑んで、目を細くし、愉しい気に彼を見つめていた。そしてその目を娘に向けて頷きを見せていた。祖母の明るい表情を見て、娘の心も急に明るくなった。こぼれた酒を拭き終わると、娘は一升瓶を取り上げた。

「俊ちゃん、茶碗を出して。いっぱい注いでやるから。後のことは心配しないで、とっくりと潰れて頂戴。」

彼は、もう潰れかかっている。上体は揺れながら、娘の前に茶碗を差し出す。娘は、微笑んで手際よく酒を注いでいた。

 

 翌朝、彼が目を覚まして見たのは、見知らぬ障子の明りだった。冬鳥の囀りと羽ばたきが聞こえた。急に頭痛が彼を襲った。激しい頭痛の中に、人が抜けた床があるのを見た。昨夜の記憶を辿ってみたが、思い出せなかった。ただ本家の娘が、自分の顔を覗き込んでいたのを、茫々とした記憶の中に残っていた。

 彼は、頭を抱えながら寝返りをうつと、頭の痛みの中に鮮烈な光景が目に写った。東の明りを受け、彼の目先、隣の床から顔を出している本家の娘が、彼を見つめているのだった。彼は見つめた。娘は顔色を変えることもなく、美しい眼差しを彼に投げかけていた。優しく純潔な潤んだ眼差しだった。そこにある娘は、お茶目な娘ではなかった。娘の唇はうごめき、熱ぼったい瞳は彼の心を緊張させていた。

 娘は、少しずつ布団の中に顔を埋め、間もなく全てを布団に沈めた。身動ぎもせず、静かに呼吸をしている、布団の動きが彼の目に映った。彼の脳裏に甘い感傷が走った。手の届くところに、欲しいと思う美しい人がいる。手に入れることが一瞬可能であるかのように思った。

その時である、夢を裂くような祖母の声が障子越しに聞こえた。

「房、房子、起きなさい。」

娘は、二つ返事をしたかと思うと、掛け蒲団を跳ね除けた。寝間着に綿入りの半天を引っ掛けると、彼に明るい微笑みを見せて目礼をし、部屋を出ていった。彼は、娘が抜け出して乱れた床を見つめていた。娘の温もりを感じながら再び眠りに落ちていった。

 

 彼は、昼近くになって目を覚ました。丹前姿のまま、平気を装って囲炉裏の側まで行き腰を下ろした。まだ、本家の男達は帰ってきていなかった。軽い食事をとり、服を着替えた。彼が本家の家を出るとき、娘は大きな樫の木のある門まで添うように歩き、彼を見送った。別れ際に、娘は彼の読みかけの本を手渡した。彼は、娘に頷きを見せ、娘は彼の前で顔を赤らめ俯いてしまった。

 彼は、帰りの道を歩きながら、本家の娘のことを思った。彼は、娘が自分に対し強い好意を示していることを、初めて感じていた。雪道を駆けるお茶目な女の子ではなく、誰かに思いを寄せる美しい女性の姿だった。それが、確かに彼に向いていることを感ずると、甘い感傷が心に流れ、彼は目の裏が熱くなるのを感じていた。

 

 翌日になって、突然、本家の娘は東京に帰ると言って、彼の家に立ち寄った。彼と妹、それに弟の三人で駅まで見送ることになった。駅までの道すがら、娘と妹はお喋りをしていた。弟は、娘の荷物を持っていた。彼は、一番後ろを歩いた。娘も彼も、お互いに言葉をかけることができなかった。娘が列車に乗る間際に、彼の妹が愛想良く言葉をかけた。

「ねえ、今度来る時、兄に外国の煙草を買ってきて頂戴。」

彼の妹の冗談めいた言葉に、娘は微笑みを見せて頷いていた。そして娘は、彼の瞳を覗いた。

「近い内にまた帰ってきて下さい。遊びに来てください。」

本家の娘は、彼に言葉をかけようと唇を少し震わせていたが、ゆっくり頷くだけで列車に乗り込んでしまった。

 

 急行列車は、ゆっくりと発車をした。彼の妹と弟はしきりに手を振っていた。娘は、微笑んでいるだけだった。二人の後ろで彼が手を振っているのを娘が気づくと、娘は立ち上がり、彼に向かって激しく手を振った。妹と弟は娘の手を振るのを見て、一層激しく手を振ったのだった。

 彼は、本家の娘が乗った上野行きの列車を、小さくなるまで見送っていた。

「時として、己の人生を深く見つめ、異様な姿に変革する勇気が必要である。」

友達の言葉が、彼の脳裏を駆け巡っている。線路は雪壁の中に真っ直ぐ続いていた。娘が何を思い、急に故郷を発っていったのか、彼は静かに思った。そして、田舎町の雪の冷たい白さの中に、それでも明るく温かいものを感じていた。