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「杉の木陰」

 

                          佐 藤 悟 郎

 

 

 彼が結婚をしたのは、昨年の正月だった。それは雪が舞う、美しい冬の季節だった。今年になって、彼の嫁さんとなった千鶴さんから、年賀状やら便りをもらった。彼の名前は年樹で、私と彼とは中学校と高等学校の同級生で、クラブも剣道部で一緒に活動をした、仲の良い友達だった。その当時、母と二人で暮らしている彼が、女性に好意を寄せるというほど、暇のある学生には思えなかった。

 

 彼は、朝早く新聞配達をし、学校の帰りに町の肉屋や酒屋の配達など、アルバイトをしていた。私の目には、彼の生活の中で、彼が眠る時間が殆どないように写った。しかし、今になって思ってみると、町の旧家でもある千鶴さんの家に、彼が配達のためによく出入りしていたと思われる。そして彼が出入りする度に、台所を手伝う千鶴さんと、度々顔を会わせていたことも容易に想像できる。

 

 彼の家は、非常に貧しかった。彼には二人の兄がいたが、遠い地で必死に働いている。彼の母は、子供達の財を貪ることを非常に嫌っていた。彼が高校へ通うのも、彼がアルバイトをして学費を稼ぐということが条件だった。

 彼の住居は、間借りである。母は和裁の上手な人で、日に一枚は軽く縫い上げる人である。古い家柄の千鶴さんの家からも、仕事の依頼があった。千鶴さんの母が、彼の家に訪れることが多く、彼も千鶴さんの母と親しくなっていた。千鶴さんの母が、清潔でさっぱりした人だという印象を抱いていた。千鶴さん自身も、母と連れ立って、彼の家を訪れることがあった。

 

 時折、彼の母から和裁を習う千鶴さんの姿があった。千鶴さんが、彼の姿を見るとき、恋心にも似た恥ずかしさを、度々感じたに違いない。間借といっても、六畳と四畳半の二間しかなかった。四畳半は彼の勉強部屋で、広い部屋は母の仕事場である。冬になると、二つの部屋に火鉢が置かれ、何時も鉄瓶が二つ音を立てていた。狭い部屋なので、炬燵を使わないことにしていた。それでも寒くなると、電気炬燵を備えるが、それは滅多にないことだった。

 

 彼の帰りは、いつも夜の十時近くである。母と一言二言話しをして、狭い部屋で勉強を始める。大方、午前零時頃までである。彼は優秀な学生で、時間を無駄に過ごすようなことはしなかった。彼の母は、六十近い歳になっていた。千鶴さんは、家から迎えが来るまで、彼の母から手習いを受け、一緒に縫い物をしていた。迎えの者が遅くなることも時々あった。彼の母が、和服が好きなことから、千鶴さんも和服姿で訪れるのが常であった。時折、彼の部屋までお茶を運ぶこともある。その時は、語らず喋らずで、ちょっと顔を見合わせるだけだったそうである。

 彼は、貧しい家であることを知っていただけに、お金持ちの千鶴さんの家とは、かけ離れた縁の遠い存在であることを知っていた。彼は、千鶴さんに好意を持っていることを認めていたが、どうにもならないことも知っていた。私も千鶴さんの家が、蒼門と同じように、古い考えの人の集まる家だと思っていた。彼が甘い考えを持つことができないことだろうと思っていた。

 

 彼が高校三年生の正月三日のことである。千鶴さんは、母と二人、連れ立って彼の家を訪れた。彼の母が、彼を大学に進学させないという話を聞いていたからである。進学をさせないのが、お金のためであるのであれば援助したい、是非大学へ進学させてやってくれと、話を持ち掛けてきたのである。

 わざわざ出かけていくことでもなかった。彼の母は、彼が一人で働き、自分で生活をしていくことができれば、進学することを認めるということだった。千鶴さんにしてみれば、そこで細い望みの糸が切れてしまったのだ。彼が、誰にも頼らず、貧しさを乗り越え、大学生活をやり遂げることができることを、容易に推測できたからである。その時の、千鶴さんの帰りの道の足は、さぞ重かったに違いなかったと思う。

 

 その年の三月十八日、彼のもとに電報が届いた。京都の大学に合格したという通知だった。私と千鶴さんは、彼の家を訪れ電報を待っていた。彼は非常に嬉しそうであった。千鶴さんの家からお祝いの御馳走が届き、彼は祝福された。その時、千鶴さんが帰り際にいった言葉を覚えている。

「叔母さま、叔母さまはずっとここに住んでいらっしゃるでしょう。もし、よかったら私の家、部屋がいっぱい空いています。私の家に住んでいただけませんか。そうすれば、私も一緒に裁縫ができますし、色々お世話もしてあげられますから。」

 彼の母は、嬉しそうに聞きながらも、仙台にいる彼の兄のところに身を寄せると言って、千鶴さんに丁寧に話した。私は、千鶴さんを家まで送ってやったのだが、ずっと俯きながら考え込んでいる様子だった。まだ、雪が多い風景の中で、寂しそうだった。三月の末に、彼は京都へと旅立ち、彼の母親も間借りを引き払い、仙台へと行ってしまった。

 

 長男の私は、町を出ていく訳にもいかず、従業員二百人位の町では大きな工場の旋盤工として勤めた。大半が中学校卒業の従業員の工場で、空しい私の生活が始まった。驚いたことに、千鶴さんも同じ会社の事務員として勤めることになった。小遣い稼ぎのつもりで勤めたのだろうが、会社の方でも大層気を使っているのが分かった。それというのは、千鶴さんの父が、会社の大株主だったからだった。最初の頃の千鶴さんは、真面目に仕事をしていたが、二か月も経たない内に生活が変わり、私を避けて遊ぶようになった。

 会社の工員と、退社する度に一緒に出かけ、夜遅くまで遊んでいるようだった。そんな千鶴さんの話が、毎日のように私の耳に入ってきた。私にとって、千鶴さんは寄り難い人だった。旋盤工が、親しくできるような身分でないと思っていた。千鶴さんの遊び方が、段々とひどくなった。家に男友達を連れ込んで、ドンチャン騒ぎをするようになった。

 

 ある日、私が事務室の中に入っていくと、千鶴さんが事務員と煩いほどお喋りをしているところだった。千鶴さんは、私に気が付くと口を閉じ、納品事務の手続きを待っている私に、お茶を運んできた。千鶴さんは私を見つめ、何か話をしたそうで、私の側を離れずにいた。私は、彼と千鶴さんの間に、心の触れ合いがあったことを感じていた。それが、どの程度で、どの様なものであったかは知らなかった。

「何か、私に用でもあるんですか。」

私が尋ねると、千鶴さんは首を横に振って、静かに自分の机に戻っていった。

 千鶴さんが遊ぶのを止めたのは、その年の夏の頃だった。ひどく毎日が明るく、楽しそうに見えていた。それまで一緒に遊んでいた者達が誘っても、相手にしてくれないと言っており、事務室に行けば明るい千鶴さんの声が聞くことができた。

 

 初秋の頃、会社の慰安旅行があって、山奥の美しい渓流の見える温泉宿に行った時のことである。温泉宿に着くと、皆が渓流に降りて行った。私は、旅館の小綺麗な部屋の窓辺に腰を下ろし、渓谷の景色を見ていた。風呂上がりの浴衣の袂に、初秋の風が心地好く渡っていた。

 人の気配で振り返ってみると、浴衣姿の千鶴さんが部屋に入って来るところだった。

「やあ、千鶴さん。下の渓流に行かなかったのですか。」

私がそう尋ねると、千鶴さんは軽く頷き、半天をまといながら座敷机に座り、お茶を入れ始めた。

「ええ、行きません。貴方に色々とお話、お聞きしたいものですから。」

千鶴さんは、二つ目の茶碗にお茶を注ぎながら、そう答えた。私は千鶴さんに話すようなことは、何もないと思っていた。

「貴方は、年樹さんの友達でしょう。」

千鶴さんの問い掛けに、私は頷いた。無論、彼のことについて、一番良く知っているのは自分であると思っていた。

「年樹さん、今、どこにお住まいになっているか、ご存知ですか。」

「この前の便りでは、京都市内で下宿をしているということです。」

「お住まいの住所、お分かりになります。」

 千鶴さんにそう聞かれて、返答に困ってしまった。

 

彼は、住居を転々としており、もう十数回変わっていた。もう、先日の便りの住所は当てにならなかった。

「彼は、転々としているんです。私も今どこにいると聞かれても、はっきりとしたところは分からないんです。何か大切なご用でもあるのですか。」

「大切な用だなんて…」

千鶴さんは、私が何気なく言った言葉を妙に気にし、そして俯いてしまった。

「私の父と母が京都へ行ってくるものですから、住所が分かっていたら、お寄りさせてもらうのがよいと思って。」

 千鶴さんは俯きながら、口に籠った風に言ったのでが、すぐに気を取り直したように顔を上げると

「だって、そうでしょう。知っている方から、京都の案内をして貰えれば、気丈夫なことでしょう。それに、楽しいことですもの。そうでしょう。」

 私は尤もらしく頷いてみせた。渓流に降りていった人達が戻ってくるまで、彼の母や会社のこと、彼の思い出などを話した。千鶴さんは、とても楽しそうに私の話しを聞いている様子だった。

 

 慰安旅行以来、彼と千鶴さんが結婚する近くまで、私は千鶴さんと余り話しはしなかった。この何もなかった年月の間、私の知らないところで、幾多の人々の動きがあったことは確かである。要するに千鶴さんは彼を恋しており、彼を心から求めていたのである。それだからこそ千鶴さんは周囲の障害と闘い、心に葛藤を抱きながら、日々を送っていたのである。だが、依然として、彼との交流は全然なかったようである。

 

 千鶴さんが、彼のことをしきりに私に尋ねるようになってきたのは、一昨年の暮れも迫ったころである。千鶴さんに誘われて、町で一番賑やかな喫茶店へ入った。クリスマスの日、店は若い人の群れで、話し声が賑やかに聞こえていた。一番奥のテーブルに座り、レモンティを飲みながら話しを始めた。

千鶴さんは、正月に行われる家での色々な行事について話した。その後に、彼のことを私に尋ねた。

「貴方は、年樹さんのお友達でしょう。この土地から離れて、もう大部になりますよね。確か、今年の春に大学を卒業したはずですよね。」

「ええ、確か、大学を卒業して、どこかの出版社に勤めたという話しです。」

「年樹さんから、お便りあって。」

「ええ、ありました。会社の独身寮に入っているようです。住所を教えましょうか。」

「いいえ、もういいんです。」

そのときの千鶴さんの声は、弱々しく、寂しそうに聞こえた。

 

以前は、知りたがっていた彼の住所を、諦めたかのように首を横に振っていた。

「何か大切な用でもあるのですか。」

千鶴さんに、そう言って尋ねてみた。千鶴さんは明るく笑ってみせた。

「いやですわ、前にもそう言って、私に尋ねたことがあるでしょう。大切と言えば、とても大切なことなんです。でも、もういいんです。何年も、長い間年樹さんと会っていないでしょう。もしかしたら、今度のお正月に、年樹さんが貴方のところに遊びに来られるのかなと思ったの。」

私は、彼が京都の大学へ行ってから、一度も彼と会ったことがなかった。先日の彼からの便りによれば、千鶴さんが言っていたように、お正月には私の家に遊びにくることが書いてあった。千鶴さんにそのことを話すと、千鶴さんは顔を横に傾け、意味も解しかねるほど深い喜びを浮かべていた。

「年樹さんが来たら、年樹さんを連れて、私の家に遊びに来てくださいね。きっとよ。約束よ。私のお願いだから。」

店を出て、千鶴さんと別れるとき、彼を千鶴さんの家に連れていくことを約束した。軽い足取りで、振り返り手を上げて遠ざかって行く千鶴さんの姿を見送った。

 

 彼は、大晦日になっても姿を見せなかった。久し振りに来る彼を、私の家の者も、楽しみに待っていたのである。わざわざ、夜具を新しく揃えたほどであった。彼からの年賀状が届いた。彼の年賀状には、簡単に、会社の用があって私のところへ来るのを取り止めた、と添え書きがしてあった。私は気が抜けてしまい、暇に任せて一日中酒を飲み、寝転んで正月を過ごした。私の空しい生活も、彼が来ないということで、一層つまらないものになった。

 

 正月も明けて、四日に年の初めの出勤である。正月に降った雪は積もり、道路は真っ白な雪道となり、狭くなっていた。夕暮れ時になって、早く仕事は終わりとなった。会社を出て雪道を転ばないように歩き、やっとのことで街の通りに出て雁木に入った。そこに、待ち受けていた千鶴さんの姿を認めた。

「家まで送ってください。」

私は、ただつまらない思いを抱きながら、千鶴さんと連れ立って歩いた。彼は、きっとこの町で過ごしたこと、友達のことも忘れてしまったのだと思うと、無性に寂しく、惨めな気持ちになるのだった。隣で一緒に歩いている千鶴さんのことを忘れて、私は彼を疑い始めていたのである。

 

そんな時、急に腕を抓られた。千鶴さんは、大真面目な顔を見せ、私を睨んでいた。

「貴方って嘘つきね。お正月に遊びに来なかったじゃないの。」

「年樹の奴、来なかったんだ。おれ一人で遊びに行くのも変だし…」

それだけ言うと、千鶴さんは納得したように頷いてみせた。彼のことが、急に遠くにある、過去の人間のように思えた。

「年樹の奴、俺のことを忘れたんだよ。この町で過ごしたことも、全部忘れてしまったんだよ。」

私がそう言い終わらないうちに、千鶴さんは急に立ち止まった。冬の雪の舞う夕暮れの中で、振り返ってみると、茫然とした千鶴さんの姿があった。じっと遠くを見つめているように、そして涙を浮かべた瞳はキラッと光っていた。

「そんなに寂しいことは、言わないでください。お願いです。」

私は胸が熱くなるのを感じた。千鶴さんは俯くと、両手で顔を覆ってしまった。そして、ゆっくり歩き出した。彼のために、千鶴さんも私も、余りにも惨めな心になってしまったと思いながら歩いた。そして、私は千鶴さんの深い思いを知った。

 彼がこの町に訪れなかったことを一番寂しく思ったのは、私ではなく、千鶴さんだったと思った。彼の便りを、私に聞くほか手立てがなかった千鶴さんの心、五年もの長い間人知れずに彼を思い、一途に暮らしていたことを初めて知ったのである。

 

 長く、白い塀のある千鶴さんの家が目に入った。塀の中は広い庭があり、豊な木々や草花が整っていた。古く大きな屋敷に近づくと、もう千鶴さんは涙を流していなかった。

「そのうちに年樹さんは、きっと貴方のところに来るわ。その時はきっと、私の家に一緒に遊びに来てください。何時でも、どんな日でも、どんな時間でもいいのよ。」

千鶴さんは、笑顔を作って私に言った。

「約束してくれるわね。」

私は、幾度も頷いてみせた。そう約束してやることが、今の千鶴さんに対して、一番よいことだと思った。千鶴さんは、深く綺麗なお辞儀をすると、蒼門のある家に向かって、雪道を小走りに向かった。蒼門に姿が消えるのを見届け、私は歩き始めた。雪のように、何の混じり気もない、美しいものを見たように思った。千鶴さんこそ、心ある女性と思うとともに、彼に対する猜疑心も消えてゆくのを感じた。

 

 正月の六日になって、千鶴さんが従兄の所へ嫁入りするということを、会社で聞いた。それも小正月の十五日ということで、会社の事務室からも姿を消していた。彼を心から愛しており、身近に感ずるようになった千鶴さんが、私の前から消えていった。

 

 正月の十日も過ぎ、十三日の夜遅くのことだった。私は連日の残業で疲れ、眠っていた。午後十一時過ぎころ、玄関で母の声がするのに、ふと目を覚ました。そして次ぎの瞬間、着るものも纏わず、私は跳ね起き、階段を駆け降りて玄関へ行った。肩の雪を手で払っている男は、それはまさしく彼だった。私は何も言わずに、無理矢理、彼の腕を捕まえて私の部屋に引っ張り込んだ。炬燵を拵え、向かい合って炬燵に入り、繁々と彼の顔を見つめた。この男が、何故、今まで来なかったのだろうと思った。

「おい、お前、どうしてそんなにジロジロ見つめるんだ。そんなに俺が珍しいのか。」

私は、千鶴さんのことを思うと、彼の神経を疑っていたのだ。

「おい、よせよ、何か話せよ。」

私は、彼の態度から、以前の彼と同じく、明けっぴろであることに安心をした。

「随分、待っていたんだぜ。」

「お前がかい。この町に来れば、お前のところしか来れないじゃないか。俺としては、よく手紙を出した方だぜ。」

私は、千鶴さんのことを言い出せなかった。彼は、千鶴さんのことを思い出せないだろうと思ったからである。

「そうさ、お前のアホ面が、早く見たかったのさ。」

 私はそう言って、彼と二人で高笑いをした。彼は、何のためか一週間の休暇をとって遊びに来たと言っていた。彼は、私の母が運んでくれた食事を済ませると、私の隣の床に横になった。彼は疲れているのだろう、電灯を消すと、息遣いも荒いのが分かった。

 

私は眠れなかった。千鶴さんのことを思うと、彼にどうしても尋ねなければならないと思った。

「お前、千鶴さんを知っているか。」

 私は、できるだけ落ち着いた声で、語りかけるように彼に尋ねた。

「知っているさ。良い人だし、世話にもなったから。」

 彼の答えは簡単であり、あまり関心を持っていないような言葉だった。

「それが、どうかしたのか。」

 少し間を置いて、彼は私に尋ねた。

「何でもないだけど、正月に千鶴さん、お前が来たら、お前を連れて遊びに来るようにと何回も言っていたんだ。お前が正月に来なかっただろう、そうしたら、今度は何時でも、どんな時間でもいいから、連れてきてくれないかと言っていたんだ。」

 彼は、私の言葉を聞くと、急に楽しそうに、私に言ったのだ。

「じゃあ、今夜、これから二人で行くか。あの人は良い人だし、きっと楽しいことになるよ。」

 私には、彼の言葉が、冗談で答えているように思えた。とても、真面目に受け取っていない感じがしたのである。

「もう駄目さ。明後日、十五日に嫁入りするんだ。」

 私が何でもない風に言うと、彼からは何も返事が返ってこなかった。

 

暫く静かになり、彼の寝返りの打つ音が聞こえた。私に背を向けたのである。

「お婿さんって、俺の知っている人か…」

 彼の寂しげな、弱々しい声がした。その声を聞いて、私の心は急に寒く、そして震えていくのを感じた。彼が、千鶴さんを、真剣に思い続けていたことを確信したからである。

「知らないだろう。千鶴さんの従兄の、保久という人だよ。」

 答える私の声も、何か、心許ないものとなってしまった。

「俺は、知っているさ。山本の人だ。二年先輩の人で、良い人だよ。」

 彼は、深く溜め息をつくと

「じゃあ、あの道を通るな。大きな杉のある道なんだ。」

 彼は呟くように言うと、もう何も言わなかった。彼の寂しそうな言葉を聞いて、私は眠ることができなくなってしまった。千鶴さんの思いと、彼の思いが重なり合っていたからである。静かな夜に、彼の啜り泣く音が聞こえた。今となっては、私の力ではどうすることもできなかった。

 

 翌日、私は軽い眠りしかできず、眠たいのを我慢して会社に出かけた。仕事が終り、急いで家に帰ってみると、彼は床に入って眠っていた。泣き腫らした目が痛々しく見えた。私は、先に夕食をとって二階の自分の部屋に戻ると、彼は外出の支度を整えていた。

「おい、千鶴さんの家へ行ってこよう。話しがあるんだ。俺の、一生の大事な話しなんだ。どうなっても構わない、とにかく話しだけしてきたいんだ。」

「大事な話というのは、千鶴さんと結婚したいということなんだろう。」

「そうだ。俺、考えたんだ。どうしても千鶴さんを放したくない。」

「少し落ち着けよ。嫁入りするのは、明日なんだぜ。放しっぱなしにしたのは、お前の方じゃないか。千鶴さんだって、家の人だって大迷惑だろう。」

 彼は、私の言葉で少し静かになったが、千鶴さんの家に行く決心を変えなかった。私も覚悟を決めた。できるだけ彼の弁護をしょうと思った。

 

 雪道を、二人で黙々と歩いた。千鶴さんの家の近くまで行くと、蒼門に祝いのためか提灯が掲げてあった。桜の紋の提灯が重々しく光を放っていた。

「おい、行くのは止そう。」

 冬の夜に浮かぶ寒い月は、冷たい光を放っていた。少し立ち止まり、彼は千鶴さんの家を見ていた。そして間もなく、千鶴さんの家に背を向け歩き出した。私は、彼の後姿を見つめた。何故か、耐え切れないほどの寂しさと、悲しさを感じた。私は、彼と並び、軽く肩を叩いた。彼は、悲愴な顔を私に向け、首を横に振っていた。二人の雪を踏みしきる音が聞こえた。

「どうして行かないんだ。後悔するぞ。」

 私は、彼を見つめながら尋ねた。彼は、諦めたように、少し苦笑いを浮かべていた。

「行けば、千鶴さんが困るだけだ。明日、嫁入りの行列を、あの杉の陰で見送ることにした。そうすれば、諦められるだろう。」

 私には、答える言葉がなかった。冬の月明りの中を、二人で無言のまま歩き続けた。その夜、私も彼も眠ることができなかった。明け方に、軽い眠りについたのも束の間、朝食もとらず、私と彼は床の中で、千鶴さんの嫁入りの時間を待っていた。嫁入り行列の出発の時間が、午前十時過ぎになることを私は聞いていた。彼は、長い間、千鶴さんの家の蒼門をくぐることを楽しみにしていた。そして昨日の夜は、その蒼門の近くから逃れるように立ち去ってきたのだった。

 

 その嫁入りの日は、空は曇り、ちらちらと雪が舞っていた。私と彼は大きな杉の幹の陰に身を隠した。二人が身を隠すのに十分なほど大きな木だった。

「この道は、山本の集落まで続いているんだ。この大きな杉の木は、この道の神木なんだ。この道を、必ず通るはずだ。千鶴さんは、古風な姿が似合う人なんだ。花嫁衣装なんて、とっても似合う人なんだ。」

 誰に語りかける訳でもない、その彼の言葉は、優しかった。弱々しく、空虚な彼の言葉を聞いていると、寂しさだけが心に迫る。長い時間が過ぎ、良家の娘の嫁入り行列が見えた。彼の優しい眼差しは、手を引かれている花嫁に注がれていた。

「よく知っていたんだ。千鶴さんは、お茶目で、子供ぽいところがあるんだ。近所の子供とここまで来て、よく遊んでいたんだ。」

 彼の、あくまでも弱々しい、そして優しげな言葉に、心の病が訪れはしまいかと思った。

「年樹、大丈夫か。」

 彼は、笑顔を見せた。花嫁が大杉に近づいてきた。そして、花嫁が顔を上げ、大杉を見ているのが分かった。綿帽子の中の千鶴さんの顔がのぞいた。

「千鶴さんだ…。久し振りなのに…。」

 そう呟くと、彼は大杉に体を委ね、両手で顔を覆ってしまった。私は、目の裏が熱くなってくるのを感じた。微かな、彼の啜り泣きさえ聞こえたのである。

 

 千鶴さんが丁度杉の大木の前を通るころ、彼は力が尽きたように、雪の上に尻をついてしまった。私も、彼に寄り添うように、腰を下ろした。そして行列の足音が、静かになった。どうしたのかを見る訳にはいかなかった。間もなく、千鶴さんの声が聞こえてきたのである。

「お母さん、この杉の木は、この道の守り神様なんでしょう。よく、この木の後ろに隠れて遊んだことがあるわ。たった一度だけ、この杉の陰で手紙を読んだことがあるの。とっても大切な手紙なの。」

「千鶴、お止しなさい。さあ、早く行きましょう。」

「見て、お母さん。足跡があるわ。杉の木の後ろに、誰かいるのよ。」

「何を言ってるの。これは、ずっと時間が経っているものよ。この町に年樹さんが来ていると思っているの。」

 私は、千鶴さんが、まだ彼を諦めていないのではないかと思えた。だから、何時でも、どんな時でも遊びにくるように言っていたのだとも思った。ここに彼がいることを、千鶴さんに知らせなければならないと思った。今知らせなければ、二人とも惨めな一生になると思ったからである。

「どなたか、その杉の木の後ろにいらっしゃいますか。」

 千鶴さんの、問いかける声が聞こえた。彼は、ただ頷いているだけだった。そして、小さな雪玉を握り、木の陰から静かに転がした。

 

雪玉は、傾斜を千鶴さんのいる方へと転がっていったに違いない。

「お母さん、雪の玉が転がってきたわ。木の影に誰かいるんだわ。」

 一言二言、千鶴さんの母は、娘に向かって小言を言っていた。杉の木の陰に誰かがいるはずはないし、こんなところで戸惑っていては、相手に迷惑がかかる。早く行かなければならないと言っていた。しかし、千鶴さんは、承知しなかった。千鶴さんの母の、腹立たしそうな声が聞こえた。

「杉の木の後ろに、誰かいるのなら、出てらっしゃい。」

 私は、どうなってもよいと思った。ただ、彼がいることを千鶴さんに知らせるべきだと思った。そして、私は立ち上がり、杉の陰から出て花嫁を見つめた。花嫁行列の人々が、唖然として私を見つめていた。私は、恥ずかしくはなかった。私は、ただ悲しむ友人を思い、杉の木から、一歩一歩、花嫁に向かい歩いていった。

 

私が中途まで下りていくと、千鶴さんは瞳を輝かせ、問いかけてきた。

「年樹さんはいるの。どこにいるの。」

 私は、ゆっくり手を上げて、大きな杉の木を指差した。

「杉の木の後ろで、泣いているよ…」

 千鶴さんは、いきなり綿帽子を脱ぎ捨てると、杉の木に目がけて花嫁姿で、雪の中に飛び込んだ。

「泣かないで、年樹さん、千鶴が、いま行くから、泣いちゃ駄目よ…」

 千鶴さんは、勇ましい女性だった。花嫁衣装のため、足をとられて転んだ。しかし、四つん這いになって駆け上り、杉の陰にたどり着いたのである。

 千鶴さんの両親も、花嫁行列の供の人々も、唖然と千鶴さんの姿を見ていたのである。千鶴さんの姿が、杉の木の陰に隠れたとき、両親の顔には戸惑いこそあれ、少しも不機嫌な様子はなかった。嫁入りという大事に起きた大事件に対し、千鶴さんの両親が、別に慌てて取り乱しもせず、冷静であることに、私は不思議さを感じた。それはやはり、千鶴さんの、深い思いがさせたことなのだろうと思った。千鶴さんが、彼に抱き上げられ、杉の木の陰から姿を現わした。私は、ただ嬉しいと思うだけだった。

 

 千鶴さんは、その夜、母に付き添われて、花嫁姿のまま町の旅館で過ごした。一睡もできなかったということである。ただ喜びだけが込み上げ、熱い涙となって、頬を濡らし続けたということだった。彼の母と兄が、千鶴さんの父からの電報を携え、急遽この町に訪れたのは、翌日の朝、早くだった。そして、その日の夕刻に、彼と千鶴さんの結婚式が挙行されたのである。勿論、その席に私も出たことはいうまでもない。

今年の正月になっても、千鶴さんの事を思うと、色々と分からないことが多いと思いながら過ごしている。千鶴さんと彼との間にあった絆が、私が測ることもできないほど強かったのだろうと思うし、千鶴さんが彼に寄せた思いが、いかに強く、周りの人を引き付けていたことも、確かであったと思っている。