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「金持ちの家の子供」

 

                         佐 藤 悟 郎

 

 

 金持ちの家の子供と貧乏人の家の子供のことが、よく話の中で引き合いに出される。中学生の金持ちの子供は、勉強もしないで遊んでばかりいる。中学校二年生の昌司の家は、大変な金持ちで、郊外で造り酒屋を営んでいる町でも屈指の家柄だった。

 PTAのある度に、昌司の母は機嫌を損ねて帰ってくる。決まって昌司を前にして、一時間ほど小言を言う。昌司は、その時ばかりは神妙になって頷き、その日は一生懸命に机に向かって勉強をするのだった。しかし、翌日になると、遊び回って夕方まで家に帰ってこなかった。昌司が二年生になると、母もくたびれたらしく、PTAに出席もしなくなった。

 昌司は、それなりに他人に関心を持っていた。隣のクラスの級長にも、関心を持っていたのである。貧乏な家の子供であるが、成績にかけては誰にも劣らなかった。昌司は、その級長が、暇さえあれば勉強をし、仕事もするという思いしか持っていなかった。平凡な少年にしか写らなかったのである。昌司が関心を持っていたのは、隣のクラスの夕子という生徒だった。昌司の家にも劣らぬ富豪の家の娘だった。

 

 昌司は、校庭で遊んでいるとき、隣のクラスの夕子の姿を見ることがあった。静かな正しい姿勢、軽く両手を机に上げ、鉛筆を持つ右手は軽やかに運んでいる。時折、本に投げかける美しい瞳、他人から話しかけられて顔を上げ、瞳を輝かせて明るく笑っている。昌司は、そんな夕子の姿を見ていると、感激を覚えるのだった。

 ある日、昌司は、夕子に比べて自分が余りにも馬鹿者に見え、腹立たしくなった。

「夕子の奴、あんなに澄まして…。」

昌司は、花壇の花を数本つかみ取ると、いきなり夕子の机を目がけて投げつけた。放課後になって、昌司は、先生にひどく叱られてしまった。昌司は、どうして間違ったことをしてしまったか、理解することができなかった。

 

 夏祭りが始まると、昌司は、父に連れられて夕子の家を訪れた。夕子の家では、毎年夏祭りになると、町の名士を招き、祝宴を開いていた。宴は、美しい庭に面した大広間で開かれる。庭の石灯籠に火が点され、池には大きな錦鯉が悠々と泳いでいた。庭の中にある社の前には、御輿、鎧などが置かれ、紅白の天幕が張られていた。

 

 昌司は、女中に奥の部屋へ案内された。体裁の良い松の木を見つめ、幾つも廊下の角を曲がり、池の上を通り、ようやく奥の屋敷に着いた。女中が最初に案内した部屋には、夕子の母がいた。一人の女中が付き添っており、祝宴に出る身支度が終えたばかりの様子だった。静かな姿は、夕子と同じだと昌司は思った。昌司は、夕子の母に挨拶をすませると、女中が廊下の端にある部屋へ昌司を案内した。

 

 その部屋に入ると、昌司の目に、勉強をしている静かな夕子の姿が写った。部屋は、落ち着いており、本箱や棚には文庫本が詰まっていた。座り机の夕子の向かいには、隣のクラスの級長が座っており、一緒に勉強をしていた。勉強好きな二人が、向かい合って勉強をしていることに、昌司は別段不思議さを感じなかった。

 

 昌司は、女中にズボンを引っ張られて、初めて座って挨拶をするのだということを知った。女中の横に座って夕子を見た。裕子は、鉛筆を持っている手を休め、昌司の挨拶を待っているかのように俯いていた。

「お嬢様、酒屋のお坊ちゃまをお連れいたしました。」

「ええ、どうもありがとう。」

夕子は、待ちかねたように、鉛筆を机の上に置き、昌司の方に向きを変えた。座布団を外して、両手を前に置いた。

「ようこそいらっしゃいました。」

夕子は、丁寧にお辞儀をした。昌司は、それを見て、慌ててお辞儀を返した。

「さあ、お敷きください。」

昌司は、女中の差し出した座布団に、ぎこちなく座った。昌司にしてみれば、まるでままごとだった。昌司の戸惑った様子を見て、夕子も女中も俯いて笑っていた。級長だけが、ガリガリと鉛筆を走らせて無関心を装っていた。

 

 昌司は、夕子の部屋に長くいることができなかった。父のいる宴会場へ行き、酒屋の息子ということで、酒を飲む羽目になってしまった。少し余計に酒を飲んでしまい、酔いを感じながら席を外し、夕子の部屋へと戻った。部屋は、豆電球だけで暗くなっていた。部屋に戻る途中で、夕子と級長が、祭りに出かけたことを聞いていた。毎日、疲れ果てるまで遊ぶ昌司には、もう眠る時間だった。昌司は、座布団を枕にして部屋の隅で眠ってしまった。

 

「どうして、君は、そんなに勉強をするんだ。」

「当たり前のことでしょう。学生ですもの。」

「じゃ、俺みたいなものは、屑かい。」

「そんなことないわ。だって、遊び盛りなんですもの。」

「じゃぁ、どうして、君は遊ばないんだ。」

「そうねえ、そう、私は、自分の生活を美しいものにしたいと思っているからよ。」

「勉強をすることが、美しいというのか。」

「そうとも思わないわ。貴方だって美しい生活をしていますわ。でも、時によりけりだと思うの。平凡な道が、一番美しいと思うの。」

「君は、平凡を通り越しているよ。」

「そう見える。でも、私は続けるわ。女学校を卒業するまでよ。今、それ以後のことは考えていないけど、それで良いと思うわ。」

「君は一生勉強する気なのか。」

「そういうことでなくってよ。女学校を卒業したら、良いお嫁さんになるために努力するのよ。」

「それも一理あるな。今遊ぶのは間違っているかなあー。」

「下手な考えは、よした方がいいわ。平凡から入って、執念深くやることが良いと思うわ。私が勉強をするのは、自分の生活情緒を高めるためよ。より強く、より美しい生活にしたいと思っているのよ。私だって、笑うでしょう。怒るでしょう。貴方より短い時間だけど、遊びもするわ。後になって自分を振り返り、自分の生活が美しかったと思いたいもの。」

「じゃあ…、俺は何なのだ。そうだろうな。今、振り返ってみても、毎日が重石を背負っているように、苦しい思いがするんだ。」

「あらそう、私は、昌司さんの遊ぶ姿、とても美しいと思っていたわ。遊ぶことを中心として、遅れぬ程度に勉強をしていると思っていたわ。違うの。自分が良いと思ったことを、好きに選べばよいのだと思うわ。自分にとって、何が、美しい生活に導いてくれるかは、好きに選ぶべきよ。」

 

 昌司は、松風の音と鉛筆の走る音で目を覚ました。夕子との語り合いは、夢だった。明かりの方に顔を向けると、電気スタンドの明りの下で勉強をしている夕子の姿が見えた。もう、夜も更けていた。白地に薄い青と赤の花模様の和服を着て、姿勢正しく真剣な眼差しの夕子を見て、昌司は感激すら覚えた。よい香りのする夏布団が、昌司の体の上に掛けられていた。きっと夕子が掛けたのだろうと思うと、夕子がとてつもない尊い女性だと思った。揺るぎない生活態度と、平凡への執念は、非凡にも優るものだと思った。夢の中で夕子が語った生活が、そこにあった。誰にも恥じぬ、悔いを残さない生活だと思った。

 昌司は、二時間ほど夕子の姿を見つめていた。夕子の姿勢は変わらなかった。囁くように聞こえる本を読む声、時折見せる瞳のきらめき、軽やかな鉛筆の走る音、全てが昌司の心深く刻まれていった。今夜、級長と一緒に時間を少し費やし、祭りに出かけたのは、夕子にとって本当に楽しい遊びだったと思った。

 

 突然、夕子の鉛筆を運ぶ音が途絶えたと思うと、夕子が机の上に伏せてしまった。昌司は、動かなくなった夕子を見て心配になり、側に寄って声をかけた。

「おい、どうしたんだよ。」

「ああ、昌司君、眠いの。寝床を敷いてくれないかしら。」

「布団はどこにあるんだ。」

「押し入れよ。上から順に敷いてくれればいいの。」

昌司は、夕子の言うとおりに、机の側に床を敷いた。昌司は、訳もなく快い思いがした。

「布団敷いたから、寝なよ。」

昌司が何回となく声をかけたが、夕子は、深い眠りに陥って起きようとしなかった。昌司は、仕方なしに夕子の母を呼びにいった。夕子の母は、すぐに駆けつけ、夕子を抱き上げて床に入れた。夕子は、一回寝返りを打ち、安らかな顔を見せ、大きな吐息をすると眠り続けた。

「馬鹿だよ、この子は。本当に子供なんだから。お客様に床を敷いてもらうなんて、聞いたこともないわ。」

母は、少し呆れた顔を昌司に見せていた。

「昌司坊っちゃま、本当に御免なさいね。明日は、遊び相手になるように言いますからね。さあ、坊っちゃまは、あちらの部屋になります。」

昌司は、夕子の母の後について歩いた。夏の夜更けの廊下に、涼しい風が通り抜けた。昌司は、この家の生活が、とても美しいものだと感じた。夢の中で夕子が語った美しい生活とは、生き甲斐や人への愛を感ずることのできる生活だと思った。敷いてあげた床の中で、夕子が安らかに眠っていると思うと快さを感じていた。昌司は、自分の生活よりも、夕子の生活の方が遥かに豊かであり、美しいものであることを、はっきりと理解できたのである。そして、人は美しい生活を求め生活をするべきだと思った。