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「端午の日の手紙」

 

                佐 藤 悟 郎

 

 

 私は、この端午の節句に、久し振りに汽車に乗っていた。懐かしい景色、林の緑が、明るい日差し中に目に写った。汽車は、故郷の山の中腹を走っていた。車窓から、緑の木々が繁る岸がある大きな川が、変わらない姿を見せていた。故郷の駅が近くなって、私は席を立った。故郷の町の中央にある丘、緑の林が小道を覆う美しい丘に向かおうとしていた。

 

 私の目には、その丘しか見えなかった。真昼時だった。その丘だけが忽然と輝き、他は何も見えなかったのだった。期待するものが、そこにあったからである。私は知っている。その期待が、鏡に映る景色のように、明確な期待でないことを。曇りガラスに僅かに映る、不安定な期待だった。

 

 故郷の町は、すり鉢の様な盆地の中にあった。町の中央に「く」の字形に曲がって流れる大きな川があった。その川に裾を広げる丘があり、緑豊かな丘だった。松林で覆われ、頂は多くの桜の木がある公園となっていた。昔、町の富豪の持ち山で、今では公共の場となっていた。松の木の合間に、山吹やつつじなどが茂る、贅沢な丘だった。

 

 その丘の中腹に、人知れない美しい場所があるのを知っていた。石垣と潅木に囲まれ、端午のこの日は、美しいたたずまいの所である。山吹の香りが漂う、富豪の先祖の立派な墓地である。赤茶けた道と石垣の白さ、咲き乱れる花、そして背後の松林、富豪の先祖の墓は黒柵の中にあった。黒曜石の墓、華やかな墓地である。

 

 駅は、町外れの山の中腹、高いところにあった。駅の出口に立つと、正面にその緑の丘が目に飛び込んできた。私は、これからそこまで行かなければならなかった。東京に比べ、極端に活気がない町並みと感じた。その活気の無さが、無性も無いほど郷愁を感じさせるのだった。

 

 端午の節句の川は、あくまでも美しかった。川を望むように、新しくできた喫茶店があった。私は、その喫茶店に入り、椅子に腰掛けて考えた。これから訪れる丘での期待についてだった。その期待は、曇ガラスに写る幻のようなものだった。喫茶店から見る川は、輝いていた。期待を確かめる時間が迫っていた。

 

 店に入ってきた男女二人連れは、いずれも知っている。二人が私を見たので、軽く会釈を返したが、二人は返礼もせず外を見つめた。女性は、かってガリ勉の美しい少女だった。私に好意があったのか、ひっきりなしに私に好意の言葉を並べ立てたのを思い出した。今、一緒に連れ立ってきた男に対して、その頃は嫌味のあることを言っていたのだ。

 

 私は、その女性が嫌いだった訳ではない。却って、楽しく過ごしたことの方が多かった。遠足に行けば握り飯を分け合い、写生は並んで描き、川では一緒に泳ぎ、少女の家にはよく招かれたのだった。それらの行動は、他の人に噂され、羨ましがられることが多かった。その少女は、今、喫茶店の中に私に気付かずにいる。私は、軽薄な女性だったと思った。

 

 私の目に、その女性と入れ替わるように、もう一人の少女の顔が見えた。遠足で、崖渕の百合の花を欲しそうに見ていた、瞳が美しく輝いている少女だった。写生では、私が最も好きな花の絵を書いている。私は、一度もその少女と話したことがなかった。その少女と面会できるか、曇ガラスに写る幻のような期待だった。私は、喫茶店を出て緑の丘に向かった。

 

 私は、緑の丘の入口に立った。余り来たことはなかったが、東京に住んでいると何故か、松林の花の咲き乱れる富豪の墓地を思い出すことがある。赤い土の道を、一歩一歩踏みしめて、丘を巡った。私の心は、不安で満ちていた。期待が外れることは、恐ろしい程不安だった。私は急いだ。もう時間である。林を突っ切って曲がると、山吹やツツジが端午の日差しを受けて明るい色を見せ、その香りが漂っていた。

 

 墓地は、静かだった。墓地の中を隅々まで探したが、私の期待するものは見当たらなかった。私は、期待が外れたことを知ると、後悔の念が訪れた。

「なんて馬鹿な事をしたのだろう。」

見上げると、松の葉を通して降り注ぐ光が眩しかった。石段に座り、それでもなお顔を伏し、期待が現実となることを祈った。

 

 私は、瞳の美しい少女に手紙を出した。苦しみ抜いて、それが一番良い方法だと思ったからだつた。ガラスの中に写る影のように、その手紙の命は儚いものだった。手紙を出したのは、一昨日だ。少女は、まだその手紙を手にしていないのだ。私はそう思うと、今日の昼頃には手紙が少女の手に届くはずだと思った。夕方まで待っておれば、少女が来るはずだと思った。

 

 その少女とは、言葉すら交わしたことがなかった。そんな少女に、その頃見せた私の姿は、一体どのような姿だったのだろう。ただの高慢な、他の少女と遊んでいた少年だったではないか。その少女は慎ましかった。瞳は美しく、時折見せる笑顔、遠くから何もかも見守っているだけの少女だった。真実の理性を持ったその少女が、私をどのような目で見ていたのだろうか。おそらく、高慢な男としか見ていなかっただろう。そんな私の、どこを信ずるのだろうか。

 

 私は思った。少女が、今でも私を信ずるとすれば、私にとってかけがえのない女性であると。私には、その確信がいくらかあった。それは、少女が私に瞳を向ける時、必ずと言ってよいほど、豊かな微笑みを浮かべていたからだった。

 

 日も暮れてきたが、少女は現れない。私は、少女が来ないと思った。少女は、私をそれ程良い少年だと思っていなかったのだろう。来るとすれば、当時から絶対的に私に想いを寄せていたということになる。そんなことがあり得るはずがなかった。

 

 私は、学校を卒業して東京で暮らしていた。そんな孤独の中で、私が愛する女性は、いつも陰から美しい瞳を見せてくれる女性だと思った。私は、真実を手紙に書き、その女性に送った。それで良いと思った。その思いが通じなくても、これから私が、陰から温かく見つめる者になればよいと思った。墓地の石段に腰を下ろしたまま、私が送った手紙を思い浮かべた。

 

 

 愛しい清子様へ

 

 突然の手紙、さぞ驚いたことでしょう。近頃、私は悪い夢を見るのです。貴女が、誰かに抱かれ、幸せそうに私に目を向けるのです。朝、起きると私の胸の動悸が激しく、泣き濡れていたことに、何となく寂しさを感ずるのです。

 

 自惚れと思われるかも知れませんが、貴女が私に好意的な瞳を向けていることに気付いておりました。私は、貴女のその好意を迎え入れたい気持ちです。私の心に入れるのは、貴女だけです。幸せになりましょう。私は、貴女を幸せにするだけの心も地位も、全てあります。

 

 これは、私の勝手な思い込みなのかも知れませんね。貴女は、手紙を読みながら、私の顔を思い出せずに苦笑いをしているのかもしれません。私は、貴女に何一つ言葉もかけませんでしたし、好意的な態度も示さなかったのですから。でも、心の片隅に私の名前を覚えているなら、そこから糸を手繰り寄せ、私のことを思い出してください。そして、私の今の心を理解して欲しいのです。私は、私だけの幸せのために、貴女が欲しいのです。

 

 遠足の時でした。私が崖の百合の花を取っていた時、貴女は欲しそうに見えました。私も、あげたいと思っていたのですが、他の少女にあげてしまったのです。貴女の目に、私が軽薄に写ったことでしょう。私のことを思い出しても、過ぎ去った人でしかないのでしょうか。

 

 私は、そう心配しておりません。今でも貴女は、きっと私を想っていると思っているからです。それは、現在も私が貴女を真剣に想っているからです。少なくとも、この手紙を不作法だとか不誠実だと思わないでしょう。何故なら、貴女は心の優しい人だからです。

 

 貴女に言葉をかけなかったのですが、豊かな貴女の瞳を、私は好きなほど深く見つめていました。この事実を、貴女は知っているでしょう。私は、ずっと貴女に恋され、愛されていた。私も貴女を恋し、愛していました。私は、故郷を離れ、このことに気付いたのです。我慢ができなくなったのです。でも、私が貴女に好意を示すのが、遅すぎたかも知れません。貴女にとって、私は無用な人間なのかも知れません。

 

 無用な男からの手紙でも、貴女は笑わないで、真剣に、誠実に読んでくれるでしょう。それは貴女が、心優しく、真心を持っておられるからです。こんな鈍い私でも、貴女を求めて、さ迷い歩いたことがあります。

 

 冬も近い夜、貴女の住んでいる集落へ行ったことがあるのです。もしかしたら貴女に会えるかも知れないと思っていました。でも会えなかった。軒下から家の中を覗いて、貴女に似た人を見ただけでした。目が合っても、その人は直ぐ目を反らしました。もし貴女だったら、外に出て来てくれたでしょう。私は、軒下から遠のき、川岸に降りていきました。川面に映る寒月を見つめて、何と詰まらない思いをしたのです。

 

 私は端午の節句に、あの緑の丘の墓地へ行っております。午後三時頃に、そこで貴女が来るのを待っております。私は、何時までも消えない愛を捧げます。貴女が私に無関心であってもです。

 

 貴女が、端午の日差しをいっぱい浴び、その美しい瞳を輝かせながら来るように思えてなりません。ただ、私を嫌っているなら、どうか来ないでください。辛いことですが、会うことなく、貴女を夢の中の少女の姿として、生涯胸に抱いて生きていたいと思っております。

 

 心より誠実に

                         西野 京太郎

 

 

 私が出した手紙の内容を思い出した。気が付いてみると、辺りはもう暗くなっていた。丘の上の街灯の明かりが、林を通してこの墓地まで届いていた。灌木の花が、美しく花を開き、香りが漂っていた。私は、少女が私に対して特別な感情を持っていないと感じた。それが当然のように思われた。少女の気を惹くようなことをした訳でもなかった。それ以上に、少女の美しさや賢さを、優れた男性が見逃すはずがないと思った。

 

 期待を持ってこの丘に来た私が、滑稽に思われた。明日にでもなれば、大して広くない町のこと、私が少女に手紙を出したことが噂となって広まっているだろう。私は、空を見上げて呟いた。

「もう、故郷に来られないな。恥ずかしくて、町の人の顔すら見ることもできないな。」

そう思うと、追い立てられるように、その墓地から歩き始めた。人生の空しさを感じながら、町中を駅に向かって歩いた。そして目の裏が熱くなるのを感じた。

 

 

 





  

 

 

 

 

 

 

 

 

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