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「山 彦」

 

                 佐 藤 悟 郎

 

 

 夏も盛りのころ、私は涼気を求めて、軽装のまま近くの峠を登った。峠に登ったが、一向に涼しくなかった。峠からは、大きな川が二本合流しているのが見え、遥か南方に日本を縦走する山脈を望むことができた。その山脈は若々しく見え、涼気を感じさせるように、険しく尖っていた。薄青く煙る山々に、心を惹かれた。ふと、その山脈の手前を見ると、こんもりと円い山が見えた。私は、あの山なら涼しそうだし、登り易いだろうと思い、次の休日に行くことにした。

 

 幾時間も汽車に乗って、その山の麓の駅に着いた。山の麓の集落を訪れたが、宿を取るようなところはなかった。その集落を出て、杉の大木を縫って歩き、中腹にある寺の境内で腰を下ろし休んだ。周りが杉で囲まれ、境内の至る所に丈の低い木々や石が快く並んでいた。蝉の音が大きく聞こえ、暑苦しく感じていた。

 

 汗を拭きながら休んでいると、住居の方から住職らしい人がやって来た。

「おうおう、そこじゃ暑苦しいだろう。ついて来なさい。向こうには、庭も池もあるから、少しは涼しいだろう。」

私は、住職に案内され、境内から敷き詰められた砂利を歩きながら、講堂を回って裏手に行った。そこには潅木類の若葉の香りが流れ、水草が浮く池の水面も青く光っていた。竹で作られた背戸を押し開け、杉に囲まれた庭に入ると、手の込んだ池が広がっていた。庭の飛び石を伝って、住職の住居に行った。そこには、一人の娘と住職の妻の二人が、手習いをしているのが見えた。萱葺きの屋根が、ゆったりと池に影を落とし、時折、顔を出す鯉の波紋がその影を歪めていた。

 

 私は、勧められるがまま住居の縁に腰掛け、薄っすらと光が差している池や、その奥の竹の垣根や杉林を見ていた。住職も、私が庭の景色に見入っている姿を見ているようだった。住職の妻が、私の側に来て

「どうぞ、冷たい麦茶でございます。」

そう言って、麦茶の入った茶碗と餅菓子を載せたお盆を、私と住職の間に置いた。

「どうも済みません。」

私が答えると、住職の妻が、静かに私に問いかけました。

「ここに、何をしにいらっしゃったのですか。」

私は、頷きながら

「ここの山に登りたくて、来ました。」

と答えました。住職は、少し怪訝そうに言ったのです。

「ここの山ですか。」

私は、一度下を向いて小笑いを浮かべ、住職の顔を見て言った。

「そうです。遠くの峠から見て、この山だと思ったのです。来て見ると意外と低い山のようですね。でも、山の頂に、雪があるのでしょう。」

私が住職に尋ねると、住職も少し笑いながら答えた。

「土地全体が高いものですから、低く思われるのです。でも、裾野は長いですよ。この山には、余り人が来ませんがね。実は、雪だと思っているのは、岩肌なんです。よく間違えるのです。涼しさがない山と分かると、違う山へ行ってしまいます。」

私は、住職の話しを聞いて、岩肌の山だと知ると気が抜けてしまった。住職の妻が出した茶碗を取り、冷たい麦茶を口にした。

 

 部屋の奥を見ると、住職の娘が、静かに俯いて何かを弾くような手真似をしていた。

「それで、貴方は登るのですか。」

「はい、来たからには登ります。頂上まで。」

「そうですか。貴方は、山が好きなんですね。」
「いいえ、山や海などとは縁が遠いんです。よく人にも言われています。」

「岩が山の頂上まであります。危なくはないのですが、くたびれるばかりですよ。頂上に登ったら、直ぐ降りた方がよいですよ。」

「ええ、どうも有り難うございます。そのようにします。」

私は、住職とそんな話の遣り取りをしながら、茶碗を弄んでいた。本当は山に登りたくなかったが、住職の問いかけに答えている内に、登る羽目になった次第だった。

 

 私は、住職の妻にお礼を言って縁から立った。奥にいた娘も、慌てた様子で私に一礼をした。閑静な住居を出て境内に行くと、暑い日差しが私に浴びせかかってきた。住職は、門まで送ると言って私と並んで歩いた。門までの途中にある大きな杉まで行き、私は木の下に置いていた荷物を持ち上げて背負った。

「君、大きな荷物を背負って、どうしたのだ。」

住職は、少し驚いたように私を見つめて言った。私は、苦笑いを住職に見せた。

「雪の山だと思ったものですから。」

私が答えると、少し間を置いて住職が言った。

「君、置いて行きなさい。帰りに寄って、取りに来た方がよい。私らは、さっきのところにいるよ。」

住職を見つめると、住職が笑顔を見せて頷いていた。

「どうも有り難うございます。そうしてもらえば本当に助かります。」

私は、一礼をして心から感謝した。

「それが良い。あの山は岩が多いから、こんな重い物を背負ったんでは、疲れるばかりですよ。」

私は、荷物を住職に頼み、その寺を後にした。住職の話だと、往復四時間はかかるとのことだった。午後の三時までには、帰ってきた方がよいと言ってくれた。

 

 杉林の中を歩いていると、前方が明るく見えた。林を抜けると、住職の言ったとおり、岩肌が頂上に向かって続いていた。十二時を少し過ぎており、そこで昼食を取った。再び頂上に向かって歩いたが、岩肌には道らしいものがなかった。ただ転落するような急な山ではなく、恐ろしさはなかった。私は、早く頂上に登り、早く山を下りて帰りたかった。足下を見つめ、無心に登り周囲の景色を見る余裕はなかった。

 

 息を切りながら、一時間程で山頂に着いた。ふと前を見ると、天を突くような高い山が目に飛び込んできた。今にも私に覆い被さるような思いがして、一瞬ギクリとしたのである。その高い山の上の空を見ると、目眩を感ずるのだった。私は、涼気満点だと思った。その反対側を見ると、広々としたなだらかな裾野で、遠くには大きな川の光が見えた。

 

 私は、この山が住職の言うような詰まらない山と思えなかった。深い谷が見当たらないけれど、確かに涼気がある。背後に聳え立つ山の圧迫感なのだろう、転げ落ちてしまう危険さえ感ずる。落ち着いて見れば、何も不安のない頂だった。

 

覆い被りそうな山に向かい、平らな岩があるのに気付いた。座り心地がよいと思い、その岩の上に行き腰を下ろした。腰を下ろして大きな山を見ると、何か光るようなものが見えた。おそらく滝だろうと思った。その岩の上で仰向けになって寝転び、向かいの山の頂を見ると、尚のこと高く見えるのだった。

 

 私は、この山に登るまでの情景を思った。この山の頂上にたどり着くのに酷く疲れたこと、そして住職や妻、その妻の手前で手習いをしている娘の姿をも思った。住職の家族は、いかにも静かなものだと思った。

「頂上に登ったら、直ぐ帰ってくるがいい。」

そんな住職の言葉を思い出し、私は立ち上がった。その平らな岩に立って、向かいの大きな山に向かって大声を上げて叫んだ。

「お〜い」

確かに山彦が返ってきたが、何か心許ない感じがした。どうしたのだろうと思い、もう一度大声で叫んだ。

「お〜い」

やはり何か物足りないものだった。それから数回叫び、注意深く山彦を聴いていた。返ってくる山彦は、少し小さな音であるが柔和な音だった。山彦は、数回返ってくるものだと思っていたが、返ってくるのは一度だけだった。おかしな山彦だと思い、それからも大きな声、小さな声で幾度となく叫んでみた。確実に一回の山彦が返ってきた。

 

 感情を込めて唱歌を歌ってみた。より柔らかく、繊細な唱歌となって返ってきた。不思議な山彦だと思い、知っている唱歌を次から次へと歌った。私の感情に優って、優美な歌となって返ってきた。大きな山の中腹の滝は、輝きを増してくるようだった。歌を歌っていると、その滝の光が輝きを増したり減ったり、大きくなったり小さくなったりするのを感じた。まるで宙を舞いながら、私に向かって歌う天女の姿に見えた。

 

 私は、歌うのに夢中となり、気が付いたのは、山の端が暗くなる頃だった。もう五時は過ぎていただろう。山の暮れは早いことから、急いで帰らなければと思い振り返った。するとどうだろう、広い山の裾野に山の陰が写り、夕陽の当たるところは赤く燃えていた。大地は紫光に輝き、大きな川は朱光を放ち、遙かな雲は紅に染まっていた。私は、その壮大な風景の前で、ただ茫然と立ちすくんだ。

 

 山の夜は、何かにつけ物騒と思い、その美しい風景を見ているのを諦め、山を下りることにした。私は急いで山を下りた。杉の林に入った時は、日も暮れ果てていた。月の明かりに助けられ、半ば駆け足で山を下った。

 

 寺に着いたのは八時少し前だった。蝉の暑苦しい声もなく、虫の音が高く響いていた。帰りが遅くなった理由をどう説明しようかと思っていた。信じてくれまいと思いながら、砂利を踏みしめながら講堂の裏へと急いだ。講堂の裏の角を曲がって、住職の住居を見て、やっと安堵した気持ちになった。住居の明かりは、少しばかり池に揺らめいている。庭に通ずる木戸を静かに押し開き、住居の中を覗いた。住職の娘が室の真ん中で、小さな机を前に端正に座り、本を読み鉛筆を走らせていた。私は木戸の中に入り、娘の姿を見つめながら、そっと飛び石伝いに歩いた。これ以上縁に近付くのも変だと思い、立ち止まって娘の姿を見つめた。

 

 娘は、午前中と違って青い清楚な花柄の入った浴衣を着ていた。長い髪を後で束ね、背に垂れていた。仄明るい灯火の下で、机に向かっている娘の姿が美しく思われた。娘が体を揺り動かし、顔を外に向けようとするのを見て、私は咄嗟に池の方を見た。鯉が跳ねたのであろう、池には大きな波紋が広がっていた。

「あら、そこにいらしたの。気が付かなくて済みません。」

娘の問いかけに、私は娘の方に顔を向けた。

「ただいま。遅くなりまして済みません。」

平気を装って、私は頭を下げた。娘は立ち上がると、縁まで出て来た。

「どうぞ、縁にお掛け下さい。直ぐ水をお持ちしますから。」

そう娘は言うと、縁伝いに奥へと消えていった。私は縁に腰掛けたが、直ぐ帰らなければならないと思った。娘は手桶に水を入れて、私の足下に置いた。

「足を、お洗いしましょうか。」

私は、驚いて娘を見つめた。縁から降りて、見上げている娘と視線が合った。

 

 私は慌てて目を反らした。足を洗って中に入るまでもなく、帰ろうと思った。

「あの、もう遅いですから。帰ります。」

娘は、縁の端に置いてある雑巾を取りながら

「あら、今日お帰りですか。」

と言った。丁度住職が現れて私に声を掛けた。

「よう、帰ってきたか。」

娘がそれに合いを打つように言った。

「ええ、今帰ってきたばかりなの。」

住職は、娘の言葉を聞いて間を置かずに

「君、夕食を一緒にして行きなさい。」

と言うと、また娘は合いを打つように言った。

「えぇ、お母さんもそう仰っていたわ。貴方が、山から戻ってくるのを、皆んなで待っていたの。」

私が何も言わない内に、私が夕食を共にすることに決まってしまった。私は、嬉しく思いながら靴の紐を解き、手桶の水で足を洗った。手桶の水は快いほどに温く、この寺の人の心遣いに、心の内で感謝した。娘は、私の側で屈み込んでいて、私が足を洗い終わると雑巾を手渡してくれた。そして私が足を拭き終わると、雑巾を受け取って手桶を持って奥へと消えて行った。

 

 住職は、煙草盆を持ち出し、縁側で胡座をかいて煙草盆を前にして座った。私も住職と並んで座り、煙草を出して火を貰って煙草の味を噛み締めていた。

「君の名前、英雄君というのかね。」

何気なく言った問い掛けに、私は首を横に振った。

「だって、あのリュックに書いてあったよ。」

大方そんなことだろうと思った。リュックには、借りた友人の名前が大きく書いてあったのだった。

「あのリュックは友達のですよ。借りてきたのです。光夫が私の名前です。山下光夫です。」

私は、チラッと住職を見て、池の方に目を移した。

「光夫君か、どうでした山の方は。」

私は、左手で頭を掻き回しながら、

「とても良かったです。少し疲れましたが。」

と苦笑しながら答えた。あの、おかしな山彦が頭から離れなかったのだった。奥から娘の姿が見え、食事の用意ができたことを告げると、奥へ姿を消した。私は住職に、

「さあ、行きましょう。後から山の話でもしてください。」

と促され、立ち上がった。薄暗い廊下を、住職の後に従って歩いた。

 

 明るい部屋に入ると、ご馳走が並んでいる長方形のテーブルが目に入った。

「お膳も出しませんで、済みません。粗末なものですがお召し上がりください。」

住職の妻は、屈託のない笑顔見せて言った。

「ご迷惑をお掛けして済みません。遠慮なくご馳走になります。」

私は頭を下げ、軽く言った。娘に言われ、住職の隣に腰掛けた。部屋は整理されており、土間続きとなっていた。竈も見え、その横には風呂場もあるらしかった。娘は、私の向かいに座った。食べ始めて暫くして住職は

「お母さん、この方は英雄君じやなくて、光夫君、山下光夫君だって。英雄君は友達だって。」

と、妻に向かって言った。妻は、大きく頷きながら

「そうなんですか。リュックに大きく英雄さんと書いてあるでしょう。そうですか、光夫さんですか。」

私は、住職の妻に顔を上げて頷いて見せた。娘が、横やりに言った。

「私の家は、青木と言うの。私は圭子、お母さんはヨシ、父は静雲と言うの。父は、今時珍しい名前よね。」

住職は、薄ら笑みを浮かべて

「珍しくはないよね。」

と私に向かって言うので、困ってしまった。

「困ったな。」

と言うと、住職の妻が笑い出し、それに釣られて皆んなで笑ってしまった。

 

 私は、家のことや学校のこと、住んでいる土地のことなどを話した。お寺の人は、相槌を打ち、この集落のことやお寺のことについて話してくれたのである。屈託のない話をしている内に、この家に溶け込み落ち着き始めた。だが、心の片隅で、食事の後に帰らなければならないと思うと気懸かりだった。娘は、隣の県の遠い高校で寄宿舎生活をしており、夏休みで帰っているのだと言った。また長男もいて、東京に出ているとのことだった。話に興じ、食事は長くなった。

「光夫君、今日は泊まっていきなさい。山の話をして貰いたいし。」

私は、即座に答える訳にもいかず、改まって言った。

「よろしいでしょうか。」

娘は、私を見つめた。

「良いですとも。父もそう言っているのだし、泊まりなさいよ。」

娘にそう言われて、心の片隅にあった不安が吹っ飛んで、晴々として微笑んだ。娘は、私の顔を見て微笑んでいた。

「あんなに大きなリュックサックを持ってきたんですもの、家の人だって今日帰ったら、「お前、体の具合が悪いんじゃないか。」なんて言われますよ。そうでしよう。」

と、娘にからかうように言われ、私は顔が火照り二度と娘を見返す力もなくなった。

 

 住職は、一杯お茶を啜り飲むと、もう一杯熱いお茶を注いで、それを持って席を離れ、縁のある部屋の方に消えていった。私は、ゆっくりお茶を飲んでいた。少し渋いお茶には、飲まずにいられない舌触りがあった。テーブルは、綺麗に片付けられて、真ん中にお盆があり、お盆には茶壺と伏せられた茶碗があった。その隣には六角形の敷台に薬缶が載せてあった。

 娘とその母は、土間に降りて立ち働いていた。土間は、明るく隅々まで見え、井戸水を汲み上げるモーターの音が小さく聞こえた。一段落したらしく、娘とその母は、それぞれの手拭いで手を拭きながら土間から上がり、テーブルに落ち着いた。茶碗をとってお茶を注いでいた。

「今日は、山にお登りになって、お疲れでしょう。少し休んだら、お風呂に入りなさい。私達が入りましたから、汚いかも知れませんが、お風呂は疲れに薬ですから。」

住職の妻は、お茶を注ぎながら思いついたように言った。

「はい、有り難く貰います。でも、山は不思議な山ですね。」

私の言葉を聞いた娘が、頷きながら

「え、そう思いますか。父もそう言うのです。どこが不思議なのかと思い、私も幾度も登ってみたのですが、何も分からなかったわ。」

と言った。私は住職が、不思議な山と言っているのが、何のことか知りたかった。山に登って何も感じなかった娘に、山彦の話をしたら笑われると思い黙っていた。

 

住職の妻は、奥の方に行った。私は、娘と学校のことについて色々と話し合った。先生や友達のことだった。暫くして住職の妻が

「これ、お風呂からお上がりになったら、お着替えください。丈は合うと思います。」

私は一礼をして、土間に降りて板伝いに風呂場へ行った。娘も、その母も残りの仕事にかかっているようだった。

 

 風呂から上がって浴衣に着替え、片手にシャツやズボンを持って土間から上がると、テーブルに住職の妻がいた。もうポンプのモーターの音もせず、静まったところとなっていた。風呂の火も消したようだった。

「よく入れましたか。」

住職の妻の問いかけに、私は「はい」と言って頷いた。住職の妻に言われるがまま、後に付いていった。寝室に案内された。床も延べてあり、薄暗い部屋の隅には、私のリュックサックが置いてあった。私は座ってシャツやズボンを丁寧にたたんで、リュックサックの脇に置いた。私は住職の妻に

「あの、お話に行っても良いでしょうか。」

と尋ねた。住職の妻は嬉しそうに

「それは有り難いですわ。こんな山の中では、話の種も尽きて退屈しています。徹夜しても良いんですよ。」

と言ってくれた。

 

住職の妻と話しながら、廊下伝いに縁のある部屋に行くと、丁度住職が新聞を置きながら、詰まらなそうに外に目を投げたところだった。

「きっと、お父さんも閑なんですよ。」

住職の妻は、そう言ってから住職に

「お父さん、光夫さんが来ましたよ。」

と告げた。住職は首を回して私を見つめた。

「お邪魔します。」

私は、一礼してから住職の横に胡座をかいて座った。娘にも挨拶をしようと思って室の中で振り返ってみたが、机に向かっていた。緊張した目付きで、手にも力が入っている様子だった。柔和な姿であるが、何かよそよそしくも思われた。私は、娘に言葉も掛けず、池の方に目を移した。

私のそんな様子を見ていたのか、住職の妻は娘に向かって

「圭子、灯籠に火を灯してくださいよ。」

と言うと住職も、大きく頷き

「うん、そうだ、それが良い。」

と言い、私を見ながら灯籠を指差し

「灯籠に火を入れると、池が浮かんで見えてね。」

と言って目を細めた。娘は蝋燭を持って、縁の端で跪き、自分の下駄を揃えて軽く縁に手をついて下駄を履き、歩き出した。

「おい、マッチ持ったか。ほれ、これを取りな。」

住職は、そう言って娘が構えた両手に向かってマッチ箱を投げつけた。マッチ箱を受け取ると、娘は小走りで中の島の灯籠に向かった。

 

 灯籠に火が灯されると、池の水が浮き立ち波紋がほんのりと揺らめいた光を放っていた。住職の妻は、後でお茶を入れていた。

「どうでした。山は岩ばかりだっただろう。」

「そうですね。危なくはなかったのですが、岩が本当に多いですね。頂上まで。」

「そうなんだよ。くたびれるばかりなんだよ。」

娘は、涼風を受けながら髪を撫で上げ、ゆっくりと縁に向かって歩いてきた。

「あの後にある山、高い山ですね。見上げると落ちそうな気がして、不安を感じます。」

私の言葉を住職は軽く聞き流しながら、煙草を出し

「どうかね、一服やらんかね。」

と私に煙草を勧めた。私は煙草を受け取り、火を点けた。目を池の方に向けると、娘が立ち止まって私を見つめているのに気付き、直ぐ住職に目を移した。娘は縁に近付き、誰となく言った。

「その浴衣、兄のものです。でも、よく似合いますわ。」

私は、恥じらいで頭を掻いた。

 

娘は、私の前の縁に腰掛け、父に向かって言った。

「お父さんは、いつぞや言ったことがあります。あの山は、不思議な山だと言ったでしょう。光夫さんもそう言うのよ。」

娘の言葉を聞くと住職は、話に乗り気になったらしく、私の方に振り向いた。

「どんな風に、不思議だったのですか。」

私は、山彦のことは言いかねた。住職に返事をしなければならないと思った。言い訳がましく言った。

「つまりですね、山は岩で暑苦しいはずなのに、頂上にいると涼しい感じがするんです。山の後と前の景色が違うからでしょうね。」

すると、娘は私をチラッと見て、クスクス笑いながら

「私が、お父様に言ったようなことだわ。その次には、きっと、景色が美しいというのでしょう。」

と私をからかうように言った。私は言い当てられたと思うと、何も言えなかった。

「そうです。あの大きな川の方向を見ると、実に美しいです。」

私は、そう言い足しただけで話すのを止めてしまった。

 

住職は、詰まらなそうな顔した。私は、住職が実に失礼な人だと思った。娘は、私の気持ちを察したらしく

「私も、父に同じようなことを言ったのよ。そうしたら詰まらない顔をするの。」

と言った。その娘の言葉は、緊張しかけた私の心をほぐしてくれた。私は娘の好意を感じ、思い切って山彦のことを言ってみようと思った。

「お嬢さん、山に登った時、山の頂上で大声でも出してみませんでしたか。」

娘は、首を横に振った。

「お嬢さんだって。圭子と言ってください。私が頂上に行った時は、疲れ果てて大声を出すなんてこと考えませんでしたわ。大体、ここの山は、大声を出したくなるようなロマンチックな山でないでしょう。」

私は、その時住職の緊張した面持ちを見た。住職が求めている不思議な山というのは、大方、山彦のことだと分かった。

 

 娘は、私の話に乗ってきた。私は、娘を相手に、話そうと思った。

「光夫さんは、怒鳴ったのでしょう。」

娘は、何とか私から探り出そうと真剣な眼差しで見上げた。私も平気を装って見返して言った。

「そう、怒鳴ったんだ。後の大きな山に向かって、怒鳴ったんだ。山彦は確かにあった。でも馬鹿ばかしいんだ。」

娘の瞳を見つめたが、山彦の話を一気にすることができなかった。

「どうして、馬鹿ばかしいのです。」

娘は、合いを打つように私に尋ねた。

「そう、返事があるだけの山彦、いや、私が一回怒鳴ると成る程「お〜い」と山彦が返ってくる。山彦であれば、二回、三回と木霊して帰ってくるものだと思っていましたが、いつまで待っても返ってこなかったんです。」

説得するように私が言っても、娘はニヤニヤするだけだった。

「嘘でしょう。そんなことがある筈がないでしょう。」

娘は、私の話を信じなかった。住職は静かに私と娘の遣り取りを聞いている様子だった。

「本当ですよ。歌を歌ってみました。すると一回だけは、とてもよく跳ね返って聞こえてくる。私の歌より、ずーと美しく聞こえてくる。」

娘は笑っている。所詮信じてもらえない話だと思い、それはそれで良いと思った。

 

 それまで黙って聞いていた住職が、娘に向かって言った。

「いゃ、そうらしいのだ。」

住職の言葉に、力が入っていた。

「じゃ、お父様も試してみたの。」

信じられないという顔つきで、娘は父に向かって言った。

「いや、私は何回もやったけれど、そんなことはなかった。」

娘は、住職の矛盾した言い草に笑って

「お坊さんの癖に、嘘つきね。」

と軽い口振りで言った。住職は改まって

「圭子、私も信じたくなかったが、私の父から山彦の話を聞いているんだよ。不思議な山彦に気付いた人がいたら、話して上げなさいと言われたんだよ。」

娘も、父の改まった言い方に、何も言い返すことができなかった。

 

 そして住職は語り始めた。

 

「そう、話は私の曾祖父の若い頃と聞いているから、幕末の頃だと思う。その頃、この山の村には幾らも家がなかった。村に住む人は、山菜や稗、粟などを食べていたという。ある時、この寺に一人の虚無僧が舞い込んできたという。何でも、京都の虚無僧寺で尺八の手ほどきを受け、世の中の貧しさを慰めようと全国行脚を思い立ったという。ひどく尺八の稽古を重ね、旅立った。京都から中山道の村々を歩き、陸奥を回って越後に入ったという。越後に入って、病に伏してしまったけれど村人に助けられた。夏になってその村の山の峠に登って、この山を見つけたらしく、この寺を訪れたとのことだった。」

 

「村の人々は、珍しいお客に野菜やら山菜やら、どこから手に入れたのか米まで用意して、この寺まで送ってくれた。その僧は、大変感謝をして夜を徹して尺八の音を寺中に響かせたのだ。私の曾祖父は、その時の音色が生涯耳から離れないほど素晴らしいものだったと言っている。その僧の尺八の音を聞いている者は、その場を立ち去る者も、手を叩いて褒める者もいなかったという。その音色は、人々に喜びを与え、時には哀しみを、そして怒りを与えた。全ての人に、人間としての情の移り変わりを感じさせ、最後に互いに和する心を与えた。それ以来、この村には何の不祥事も起こらなくなったという。」

 

 私は、住職の話を静かに聞きながら、中の島の灯籠の明かりを見つめていた。娘も、少し俯き加減で聞いている様子だった。

 

「その僧は翌日、山に登った。尺八を持って、晴れた日に登った。ところが僧は、中々山から下りてこなかった。村の人も心配して登ろうとしたところ、その様子を見ていた私の曾祖父が、僧は山の上で修行しているので邪魔立てをするな、と村の人達を説いたという。しかし、七日経っても山から下りてこないことから、村の一人がこっそり様子を見に山を登ることになった。様子を見に行った者は、山の頂上に行かない内に、尺八の音色が聞こえてきた。それがよそよそしい音色であったが、修行の邪魔をしまいと姿を見ずに戻って、村人に告げたという。十日も経つと、村人は気が気ではなく数人で山の頂上に行った。行ってみると、山を下りようと藻掻いている僧を見つけ、直ぐ寺に運び込んだそうだ。僧はやつれ果て、骨の節々が顕わになっていたという。」

 

 涼風が小気味よく流れてきた。話している住職は、中の島の灯籠を緊張した面持ちで見つめていた。娘は、いつの間にか私の斜め向かいに静かに座っていた。両手を重ねて膝の上に置き、少し屈み込んで目を伏せて聞いていた。また涼風が通ると、娘は乱れた前髪を撫で上げた。私を一瞬見つめたが、また伏し目にして静かに父の話に耳を傾けていた。

 

「運び込まれた日、僧は私の曾祖父を側に呼び、山の上であったことを話した。それによると、僧が山に登り、山頂に着いたのは夕方だった。山から見た美しい景色を眺め、月が出てくるのが何とも言えず、長居をしてしまった。僧は、山の美しさに余韻を与えようと考え、平らな岩場に座り、大きな山の滝に向かい尺八を吹いたという。山の滝は月の光に白く映え、僧は尺八の音色でその美しさが増すと思っていた。」

 

「僧は、暫く尺八を吹いていると、自分が吹いているのと同じ曲が、向こうの山の滝の辺りから聞こえてきた。その音色は、自分の音色に優っていたという。僧は、それが山彦だと分からなかった。自分より優った音色が、一筋の曲の流れにと聞こえたからだった。僧は、きっと滝のあるところで、自分の下手な尺八の曲を諫めている者がいると勘違いした。僧は、その曲を吹き終わると、深く首を垂れて、今まで自分に優る吹き手がいると思わなかったことを深く恥じたという。」

 

「僧は、己の自惚れを払い除け、心を澄まして尺八を取り上げて、吹き始めたという。幾度も繰り返して吹き、返ってくる音色を聞いて、自分の足りないところを深く掘り下げて、上手く吹けるようになったという。しかし一層上手く吹いても、返ってくる音色は、それにも優っており、尽きることがなかった。他の曲についても幾度も吹き、多くを学んだという。そんなことを繰り返し、七日ほど過ぎたころ、学んでも、学んでも切りがないことに気が付いたという。そして山を下りようとした時、自分の体が疲れ果て、帰ることができなかった。」

 

「僧は、力を込めて、助けを呼ぶために声を上げた。その声は頼りない声として跳ね返ってきた。僧は、その時に気が付いた。跳ね返ってきた声は、紛れもなく山彦で一回しか返ってこないと。山から聞こえた尺八の音色が山彦だったことに気付くと、急に憤りを感じたそうだ。山彦より上手に吹くと心に決めて、それから二日も頑張ってみたが無駄ということが分かった。僧は、知らない間に自惚れが慢心となっていること、山彦に比べいかにも小さな人間であることを知り、恥じらいを感じたとのことだった。そして急に、山の頂上にいることが恐ろしくなって、その場から逃げようと必死になった。僧は側にいる私の曾祖父にしみじみと言った。あの山は生きている。きっと、どこかに耳があり、その耳は千里の音を聞き分けることができる。そして高慢な人間を、容赦なく笑うのだ。真摯に学ぶ者には、それとなく真実を教えるのだと言っていたそうだ。」

 

「僧は、それでも三日間は生きていたが、村人の見守る中で亡くなったという。曾祖父は、僧が何故亡くなったか、その訳を信ずることができなかったので、僧の話を村の人に黙っていたという。曾祖父は、僧の話を聞いて山の頂上に登り、色々な音や声を出して試したが、山彦はいつまでも響き、何の変哲もない山彦だったという。それで、僧の話を寺の跡継ぎの祖父だけに話し、他の人に言わないように口止めをしたという。僧のことは、後世まで伝えなければならないと思い、この寺の跡継ぎに話し継がれていたんだ。僧と同じような不思議な山彦のことを口にする人には、僧の話をするように言われていたんだ。」

 

「この話をしたのは、僧が亡くなって以来、光夫君が初めてのことだ。そうそう、その僧の遺体は荼毘に付され、遺骨を二つに分けて、一つは京都の虚無僧寺へ村人が納めに行ったとのこと。もう一つは、あそこの灯籠の下に埋葬してある。泊のお客さんがある時には、供養と思ってこの部屋に招き、灯籠に蝋燭を灯すことになっているんだ。」

 

 住職の話は、静かに終わった。中の島の灯籠の明かりは、ほんのりと池を浮かび立たせている。時折、木々を渡る風の音と共に、蝋燭の灯りが揺れている。住職は、感慨深げに灯籠を見つめていた。娘も、俯き加減の姿を見せ、父の話をなぞっている様子だった。話の余韻を引き摺り、漸く住職の家族と私の四人が灯籠を見つめた。風もないのに灯籠の蝋燭が、「フッ」と消えていった。私達は、今にも中の島に何かが現れるのではないかと、異様な感じを抱いた。静かさだけが流れ、夏の虫のすだく音さえ、静かに寂しく聞こえるのだった。

 

 翌日、私は住職が語った僧の姿が心に残り、後ろ髪を引かれる思いで寺を後にした。住職の家族は、揃って山門まで見送ってくれた。娘は、別れ際に

「光夫さん、またお会いできるのでしょう。昨夜の父の話、私にとって、少し衝撃がありました。作り話にしては上手くできております。光夫さんの意見をお聞きしたいと思っております。」

と言った。私は、答えを手紙に書いて送ると約束をして別れた。住職の話は、生涯忘れることはないだろうと思った。家に帰り、記憶が薄れない内にと、娘に手紙を書いた。その手紙の内容を紹介して、話を閉じさせていただきたい。

 

…思いがけなく、楽しく過ごさせていただき、心から感謝をしております。貴女にお会いしたのも偶然なのでしょう。そうでないのかも知れません。将来のことは分かりませんが、ただ、ごく親しい間柄になったと思っております。お父さんのお話について、記憶が新たな内に、簡単な感想を送ります。

 当たり前の答えですが、僧の言ったように、山は生きていると思います。人間が、自然より優れていると慢心してしまえば、人間の力はそれが限界となるでしょう。自然は、人間の心以上に多様な感情を備えていると思うからです。僧は、山彦であることに気付かなかった方が幸せだったと思います。

 ただ、今考えると、僧の聞いたのは山彦ではないと思っております。山彦は、幾度も響き返ってくるものです。私も僧と同じ経験をしたのですが、そこには真実が隠されています。私は、後の大きな山の滝の輝きが天女のような姿になったのを見ています。貴女は信じないでしょうが、僧も何かしらの姿、音を司る天の人の姿を見たのだと思います。それを信ずることができず、言わなかったものと思います。天は自然を司り、天の人達は優れております。

その時刻、その場所、滝の流れなどの条件が重なったものと思います。不条理の世界を人間は信じようとしません。人間が不条理を信ずるようになるには、これからも長い年月が必要だと思います。貴女に笑われるかも知れませんが、私が山頂で経験したことです。いずれにしても、僧は、越えることのできない厄介なことに遭遇したのです。

貴女ですから、私が経験したことに基づいて書きました。誇張するところはありませんが、信ずるかどうかは貴女次第だと思っております。貴女にとって、身近なことであり、厭わしい内容であるかも知れませんが、ご容赦願いたいと思います。一層、勉学に励まれ、洋々たる人生を歩かれんことを祈っております。…