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「戦友の息子」

 

        佐 藤 悟 郎

 

 

 昭和四十年に近い頃、新潟県の魚沼地方の谷間の町にある高等学校の卒業式が、二月も終わろうとする日に行われた。二月の末といっても冬の盛りで、町は雪で埋もれていた。大通りは除雪されていたが、一歩外れると除雪がされていない雪道が多くあった。
 春雄は、高校三年生で卒業式で高校から送り出され、大通りから住宅地の雪道を歩いていた。既に東京の児玉商店という履物店に就職が決まっていた。家に着くと、玄関のシャベルを持ち、玄関先の新雪を取り除いた。家の周りには、まだ一メートルを超える雪が積もっていた。靴を脱いで玄関に上がり、電気のついている居間に入った。
「児玉商店から、現金封筒が届いているよ。上京するための汽車代を送ってきたのだろう。」
母が言った。部屋の片隅の勉強机の上を見ると、現金封筒が置いてある。宛先は、春雄宛になっているが、既に開封されていた。封筒の中には、便箋一枚と現金が入っていた。便箋には、三月三日に上京するようにと書いてあった。春雄は母に、二日に上京すると言った。三月三日と四日は大学入学試験があった。家は母子家庭で貧しく、喩え大学に合格しても、入学することができないことは分かっていた。だが、春雄は、勉強してきた実力というものを知りたかった。せめて大学の試験だけは受けたかった。

 会社からは、上京のための費用が送られてきていた。春雄は、母からの僅かな金を貰い、二日に母に見送られて家を出た。駅の公衆電話から、会社に電話をして、「病気で寝込んでいます。五日には会社に行くようにしたいと思います。」
と連絡をし、会社の承諾を得た。

 彼は、上京して大学の場所を確認した後、上野の映画館を探し歩いた。映画館で一夜を過ごし、そこから受験場所の大学へ行くつもりだった。探し歩いているうちに安宿を見付け、そこに泊まった。三日と四日の二日間、東京大学へ行って入学試験を受けた。そして五日に会社に出社した。

 会社に出社すると、社員教育の印刷物を受け取り、既に終わっている箇所を教えられた。その日は、社員教育の講義、下請け工場の見学が予定されていた。彼は、午後からの見学は省略と言うことで、社員寮へ行って身辺整理をするように言われた。

 社員教育は一週間、午前中午前中に行われた。午後には先輩社員の指導の下、営業の見習いをしていた。十日に社員教養は終わった。
 社員教育が終わると、先輩社員連れられて本格的にデパートまわりとなった。そこで春夫は、外国人客の応対をした。英語で応対する春夫の姿をデパートの社員が見ていた。

 彼は、清水先輩社員に連れられて入った喫茶店で大学受験したことを話した。金がないことから、大学に合格しても入学はできないとも言った。会社で働き、金を貯めて、機会があれば大学の勉強もしたいと話した。
 清水先輩は、春雄が長く会社にいないものと思い、そのことを社長の妻である常務に話した。常務は、社長である夫の吉夫と春雄の処遇について話し合った。
 社長は、春雄が言うように、そんな都合の良いことは許さないと考えていた。結局、将来性がないことから、条件付採用期間中の判断で、不採用との判断をした。

 十七日は、大学の合格発表の日だった。彼は退社してから大学に行って発表を見るつもりだった。丁度、その日、春夫は常務に応接室まで呼ばれ、大学受験について聞かれた。大学に合格したら、どうするつもりなのかと言うことだった。
 春夫は、清水先輩に言ったことが、常務に通じていると思った。合格しても大学へはいかず、会社で働き、金を蓄えて大学へ行くつもりだと答えた。更に、大学を卒業したら会社に戻り働くつもりだと言った。
 その日の午後になって、常務は春夫を連れ出し、一緒にタクシーに乗った。何故か、彼が助手席、後部座席には、常務と娘が乗車していた。

 タクシーは、新聞配達店の前に止まった。
「大学に行くには、新聞配達をして稼ぐのが良いでしょう。下りて、店に行って頼みなさい。」
常務が言った。春夫は会社をクビになるのだと分かった。
「常務さん、分かったけど、大学試験に受かったかどうか確かめてからでいいでしょう。」
常務は、それも筋の通ったことであると思った。
「どこの大学なの。」
「東京大学です。」
常務はと娘は、少し驚いた。娘は少し体が強張った。常務はタクシーを東京大学の正門前に回した。
「向学のため、私たちも行ってみたいわ。」
そう言って三人が下りた。彼は、受験票を取りだして、受検番号を確認していた。常務と娘は、受験票を取りあげ、手にして見つめた。確かに東京大学の受験票だった。理類三の受験票と書かれていた。

 合格者の掲示板を見ると、彼の番号があった。
「すごいわ、合格しているわ。お目出度う。」
娘は、興奮状態だった。春夫は試験発表を確認すると
「常務さん、さっきの新聞配達の店まで送ってくれませんか。」
と言った。すると娘が、常務に向かって
「駄目よ、お母さん、あんなところ連れて行っちゃ駄目よ。」
と激しい口調で言った。常務は少し考えてから
「そうね、今日は、どうあれ、お祝いしなくては。」
そう言って、娘に笑顔を見せた。

 近くにいた受験生が合格したのだろう、親子で抱き合って喜んでいた。
「君、居残っているところを見ると、君も合格したんだろう。」
そう春夫に、声をかけてくる。春夫は、苦笑いをしながら
「合格しけれど、入学金もない。親に黙って受験したんだ。入学できるかどうか、分からないよ。」
と答えた。その受験生は、裕福な家の子供なのだろう
「君、入学金くらい、貸してやるよ。」
そう春夫に言って、父に顔を向けた。受験生の父は、笑顔を見せながら春夫に名刺を渡した。

 常務は、春夫を自宅に連れて行った。社長は、常務を物陰に連れていって尋ねた。
「どうして連れてきたんだ。」
「あの子、大学って、東京大学なのよ。どうも医学部に進むコースだというのよ。」
「何だって、そんな子が、どうしてうちの会社なんかに来たんだ。」
「そんなこと知らないわ。お祝い位してあげなくちゃ。そのとき聞けばいいでしょう。」
 社長の家族は、常務である妻、それに娘と長男の二人の子供、合わせて四人家族だった。娘は、高校二年生、長男は中学三年生だった。
「どうして、君のような優秀な子が、うちの会社に来ることになったのだ。」
社長は、春夫に単刀直入に尋ねた。春夫は
「草履屋と言えば、小さな家庭的な店だと思ったのです。大学に合格しても、ある程度勤めができるし、大学にも通えると思ったのです。」
と答えた。春夫は、父が亡くなる前に、困ったことがあったら東京の児玉商店の社長さんを頼れ、と言っていたことは話さなかった。

 娘は、優秀な春雄を微笑んで接していた。日一日と進むたびに、その思いは高くなっていった。
 東京にも桜が咲き、児玉の家族は、春雄を加えて、上野へ花見に出かけた。娘は、頻繁に春雄に寄り添っていた。娘は、四月になれば高校三年生になり、大学入学試験勉強も激しさを増すことになるのを知っていた。娘は、大学を卒業し、春雄と共に歩くことさえ夢見ていた。
 弟の常夫も、高校に入学することになっていた。もう大学受験のことを口走っている。姉も弟も、春雄に勉強を教わることを望んでいた。
 児玉商店の社長児玉吉夫は、春雄を大学卒業するまで面倒をみることはできないと思っていた。
「誰か、頼れる人はいないのか。」
社長の一言で春雄は、吉夫の心を知った。絆が深くならないうちに、児玉の家を出なければならないと思った。

 三月も終わり近くになった。大学の入学金を納めなければならなかった。児玉の家に頼む訳にもいかなかった。合格者発表の日に、受け取った三輪良平の名刺を見つめていた。三輪病院の理事長となっていた。
 春雄は思った。入学したところで、住むところがあるのか、毎月の生活費、学費をどうするのかと思った。母は内職での稼ぎも多くなく、働いて母に仕送りをしなければならないが、その金はどうするのかも考えた。それらを考えると、所詮、大学に入ることは無理なのだと思った。

 春雄は、とにかく大学へ行って、良い方法がないか聞いてみることにした。門前払いされれば、三輪良平に相談をするつもりだった。
 春雄は、応接室に通され、事務担当者と向かい合った。
「父が死んで、とにかく貧しくなったのです。入学金を支払う金がないのです。住むところ、生活費、学費もない。母への仕送りもしなければならないのです。でも、勉強がしたいのです。」
担当者は、合格者名簿を開いて見つめ、顔を上げて春雄を見つめ直した。
「ちょっと待ってください。」
そう言って、名簿を携えて応接室から出て行った。暫くすると、五十を越えた教授風の男が入ってきた。
「話は聞いた。でも、君が言うような、そう都合のよい話しは通用しない。ただ、希が全くない訳ではない。明日、午後一時に、もう一度来てくれるか。」
と言われた。春雄は、それを聞くと椅子から立って、俯いて部屋から出ようとした。春雄の背後から
「ちょっと、君」
と男の声がした。春雄が振り返ると、その男は春雄に歩み寄ってきた。
「君、飯を食っていないな。これで食べたらいい。」
そういって、彼に千円札を手渡した。彼は、深々とお辞儀をすると、その男は春雄の肩に手をかけて
「君、負けるなよ。這い上がれ。頑張るんだ。」
と言って、春雄を励ました。

 翌日、午後一時に、春雄が大学の応接室を尋ねると、昨日の担当者と、紳士風の二人が応接室で待っていた。昨日の教授風の男の姿はなかった。担当者は、
「丹羽教授は、用があって出かけている。教授の意向は聞いている。」
と言った。少し間を置いて、紳士風の二人の男の一人が言った。
「貴方は、この大学で勉強したいというのですね。」
春雄が頷くと、男は話を続けた。
「貴方の希望は、適えましょう。但し、条件があります。大学を卒業したら、医師として、私の病院に来ていただくという条件です。」
彼は、頷いたが、黙っていた。生活費や母への仕送りなど、言いづらかったのだった。
「勿論、学費、生活費などの心配は無用です。」
その上に、
「言いづらいのですが、貴方のお母様への仕送りも、多少なりともさせていただきます。」
彼は、それまで聞くと、紳士風の二人に頭を下げ、
「お願いします。」
と答えた。二人を見つめ、春雄は
「やっと道が開けた思いです。ありがとうございます。」
と、再度頭を下げた。そのように、春雄が承諾の意思を示すと、紳士風の男は言った。
「ただ、大学在学中の、勉強の出来栄えを、大学から教えていただくことを、承知していただけますね。成績結果如何によっては、支援は打ち切りとなります。」
春雄は、それも承諾した。
「丹羽教授からの推挙があってのことです。このことは、他言無用に願います。」
春雄は、熱い思いが込み上げて、目が潤んできたのだった。紳士風の男は、物柔らかい口調で、
「余り窮屈に考えないでください。防衛大学では、給料をもらいながら勉強しているのですから。私らの病院でも、優秀な医師を獲得することは、とても有意義なことなんです。大いに期待しております。」
と言った。紳士風の二人は、それぞれ名刺を春雄に手渡した。
「住まいは、どこになるのですか。大学の寮は空いていないとのことですが。決まったら連絡をお願いします。入学金は、今日納入いたします。これは、当座の生活費です。」
そう言って、現金の入った封筒を春雄に手渡した。

 その日の朝、社長は春夫が就職した際の書類を見ていた。最後に戸籍謄本を見た。彼の父親の名前を見た時、心が騒いだ。
 社長は会社から飛び出してタクシーを拾い、上野駅に着いた。汽車に乗って社長は、春夫の母のところに行った。そして大学に合格したことを知らせた。大学受験を知らなかった母は、戸惑いを見せていた。社長は、帰り際に彼の父の位牌を拝んだ。位牌の脇の写真を見つめた。まさしく戦友だった。生死を共にくぐり抜け、辛い思い出があった。社長は、涙を浮かべていた。
 不安そうな顔をした彼の母が言った。
「夫が亡くなる前、困ったことがあったら、社長さんを頼りなさい、と言ったのです。そんなことがあって、あれは社長さんの店に就職したのです。」
社長は、春夫の母の言葉を重く受け取った。

 社長は、帰りの汽車の中で、戦友の妻が言った言葉が脳裏を駆け巡った。そして神山上等兵との逃避行を思い返していた。インパール作戦と言われる戦場に赴き、日本陸軍は壊滅状態に陥った。隊の殆どの者が斃れていった。長い時間地に伏せ、死人の真似をして過ごした。夜になって、起き上がってみると、戦友の神山上等兵が、倒れている兵士の一人ひとりの体を抱き起こしているのが見えた。息絶えている者に両手を合わせていた。
 神山上等兵は、私が生きているのを知ると、夜陰に紛れて谷間に私を連れて行った。
「これからどうなるか分からないが、生き延びていこう。」
と言った。谷間に潜んで歩き、やっと村が見えた。村で衣服と食料を盗み、軍服を石にくるんで池に投げ捨てた。
 大きな川に出て、筏を組み、川を下り河口近くの捕虜収容所に出頭した。そこで、収容所の別々な場所に収容されたのだった。
 九死に一生を得て、現在の自分があることを強く感じた。そして腹を決めたのである。
「神山の息子が、口にこそ出さなかったが、私を頼ってきたのだ。迎えるのは、私の義務だ。」
そう児玉吉夫は思った。そう決断すると、吉夫は心が落ち着き眠りに陥った。

 児玉吉夫は、夜になって家に戻った。家では、家族が居間で揃っていたが、静かだった。
「どうしたんだ、そんなに沈んだ顔をして。」
妻や子供たちの目は、自分に向けられている。
「春雄君は、どこかに行ったのか。」
妻がそれに答えた。
「夕方、住むところを探してくると言って出て行ったわ。まだ帰ってこないの。心配しているの。」
と社長を責めるがごとく言った。
 社長は、気がかりなことがあって春夫の家に行ってきた。そして春夫が生死を共にした戦友の息子であることが分かったことを話した。
「春夫君が望むなら、この家で一緒に暮らすことに決めた。皆、それでも構わないだろう。」
社長が言い終わると、家族の皆が明るくなった。
 しばらく経って、春夫が帰ってきた。居間に入ると、皆が春夫の顔を見つめた。春夫は頭を掻きながら
「大学の寮は、いっぱいで入れないので、探しに行ってきたけど適当なところはなかった。適当なところが見つかるまで、お世話になります。」
すると娘が手を叩いた。そして児玉家のみんなが手を叩いて春夫を迎えるのだった。