リンク:TOPpage 新潟梧桐文庫集 新潟の風景 手記・雑記集




「山の野良仕事」

 

                  佐 藤 悟 郎

 

 

 私は、知らない山道に入り、帰る方向を見失ってしまい、悪戯の気持ちで藪の中に入った。その内に、ちゃんとした道に出るだろうと思っていたが、見当外れだった。下って行けば、道に出るはずだと思っていたのである。山というものは、多くは峰伝いに道があることを知らなかった。漸く、下の方で煙が立ち上っているのを見つけた。煙を目掛けて藪を掻き分け、先を急いだ。集落の人だろう、人の話し声が聞こえた。私は、足を止めて傍らの木の枝を折り、その枝を肩にして悠然と口笛を吹きながら歩き始めた。慌てた姿を見せて、集落の人の笑い者になりたくなかった。

 

 藪を抜けたところに畑があった。藪に囲まれた畑で、屏風のような山が、谷の向こうに見えるところだった。畑の片隅で、一人の娘が火を炊き、火には鍋が吊り下げられていた。娘は、詰まらない様子で、木の小枝で火を掻き回したり、地面に何やら描いているようだった。畑で働いている人は、突然現れた私の姿を見ている。私は、恥ずかしくもあり、少し疲れて木の切り株に腰を下ろした。

「母ちゃん、煮てきた。」

火の側にいた娘が立ち上がり、手を振りながら声を上げた。畑仕事をしていた母ともう一人の娘が手を止め、火のある方へと歩いていった。母が、鍋の蓋を取って、中を覗いている。鍋から白い湯気が、青空に向かって上っていった。

 

 火を炊いていたのは、妹娘だった。姉娘と妹娘は、近くの松の幹に隠れるようにして、ひそひそ話をしている様子だった。暫くした後に、姉娘が私の方を指差し、それに従うように妹娘が私の方を見つめた。そして妹娘は、私の方に向かって歩き始めた。顔を上げたり下げたりしながら、二、三歩すると姉娘の方に振り返った。その度に姉娘は、早く歩けと言わんばかりに手を外に振っていた。母は、二人の娘の様子を見て笑っていた。

 

 妹娘は、漸く私と一間程のところまでやって来た。俯きながら、妹娘が言った。

「先生、お母さんがいらっしゃいって。」

妹娘は、そう言うと顔を上げた。私は微笑みを返した。

「どうしても、来てくださいって。」

念を押すように言う妹娘に、私は頷いて見せた。

「君江さんだよね。ここに座らないか。」

私は、招くように右手で右脇を指した。妹娘は、笑顔を見せて頷くと、私の右隣の草の上に腰を下ろし、私に顔を向けた。

「先生、今日は。」

私も頷きながら、言葉を返した。すると君江は、クスクスと笑った。

「姉ちゃんはね、先生の近くまで行ったら「今日は」と言うんだよと言ったの。私、忘れてしまって、言うのが遅れてしまった。」

私は、笑いながら妹娘を見つめた。妹娘の名は君江、姉娘の名は千代だった。君江は中学一年生、千代は中学二年生だった。

「姉ちゃんは、威張りん坊なんだ。先生のところに行って、呼んで来いと言うの。」

私は、君江の話を聞きながら、火の炊いている方を見ていた。千代は、私達に向かって、来るように手招きをしていた。

 

 私と君江が動かないのを見て、千代は母と少し話をした後、私達に向かって小走りにやって来た。私達に近付くに従い、千代の歩調は乱れ、遅くなった。

「先生、今日は。君江、どうしたの。どうして先生をお連れしないの。」

千代は、君江に向かって叱るように言った。

「だって、先生が、ここに座るように言ったんだもの。」

君江は、少し強い口調で言い返し、私に目を向けて同意を求めていた。

「千代さん、君も座ったらどうだ。」

私は、千代に声を掛け、左手で左脇を指して招いた。千代は、頷きを見せた。私の左隣に座ると思っていたが、千代は私の正面に横向きになって腰を下ろした。両足をきちんと揃え、前に投げ出した。

「何の仕事をしていたの。」

私を見上げるように瞳を向けている千代に尋ねた。

「芋掘りと大根掘り。大根は、まだこんなに小さいの。」

屈託のない様子で、両手を小さく開いた。

「そんなに小さいのを採るの。」

千代は、首を横に振りながら

「そうじゃないの。中には大き目の物があるの。それを採るの。」

と答えた。千代は、私から目を反らし、向かいの山に視線を投げた。

「もうじき、父さんが出稼ぎに出るの。それまでの間に、できるだけのことをしなくちゃならない。」

私も向かいの山に視線を投げた。高台にある学校が小さく見える。古めかしい校舎が、赤く色付いた中にひっそりとして見えた。

「先生、お芋を食べない。私が焼いてあげるわ。」

千代は、急に瞳を投げかけて、微笑んで言った。私は、明るく頷いて見せた。

「ここから、集落が見えないね。」

君江が、直ぐにそれに答えた。

「それ、あの辺りよ。あの杉の木の辺りから見下ろせば、集落が見えるよね。姉ちゃん。」

君江が指差した方向は、私が思っていた方向とはまるで違っていた。

「そうか、あんな方向になるのか。迷う訳だよ。」

私は、一人で納得しながら頷きを見せた。

「先生、どうしてこんなところに来たの。」

千代は、不思議そうな顔をして、私に尋ねた。

「天気が良いし、山に登ったんだ。少し藪の中に入ったら、迷ってここに来たんだ。」

千代は、頷きながら私の言葉を聞いていた。

 

 千代は、少し考えた後で、何気ないように私に尋ねた。

「先生、昨日帰らなかったの。」

その問い掛けに、私は冷や水をかけられた思いがした。僻地の学校の先生と言えば、土曜日になるとそそくさと町へ帰ってしまうのだった。生徒達は、学校の先生と言えば、日直の先生以外、この土地にいないと思っていた。生徒達が、先生に馴染めない原因の一つにもなっていた。

「町に帰っても、詰まらんからさ。」

私が千代に答えると、千代は少し寂しそうに言った。

「でも、ここよりも町の方が良いんでしょう。」

千代は、食い入るように私を見つめた。私は、軽く頷くほかなかった。

「洗濯物を持っていって、洗わなくてはならないし。」

私がそう言うと、直ぐに千代は言った。

「洗濯物なら、ここでもできるわ。先生が嫌なら、君江と二人で洗ってあげる。」

私は、千代を見ながら微笑んだ。今度は、君江が言った。

「先生の洗濯物をしてあげれば、先生は町に帰らないんだよね。そうだよね。」

私は仕方なく頷いたが、傍らの枯れ草を弄びながら俯いてしまった。山の子供達のためにも、町に帰ってはならないように思った。

「姉ちゃん、先生の洗濯物をしてあげれば、日曜日は先生のところに遊びに行けるね。」

君江が千代に向かって言った。

「君江、家に来て貰った方が良いよ。」

千代は、君江に調子を合わせるように言った。

「姉ちゃん、他の先生も、洗濯してあげれば、町に帰らんのと違う。」

千代は、首を横に振りながら君江に言った。

「違う、違う。他の先生は、この土地が嫌いなんだ。時間が余れば、テレビを見たり、将棋をしているんだから。秋夫先生は、暇があれば、のこのこ山道を散歩するもの。この土地が好きなんだ。そうでしょう、先生。」

明るい顔で尋ねる千代の言葉に、私は相槌を打った。私は、この土地に長くいる身でないと思うと、少し寂しくなった。

 

 急に、千代は手を上げて、火が炊かれている方に向かって振った。そこには、父親らしい男が、私達の方を見つめていた。

「父ちゃん、畑から上がった。行きましょう。」

千代に促されて、私は切り株から立ったが、行くことを躊躇した。

「迷惑にならないかな。」

千代は、笑みを浮かべながら私を見つめて言った。

「父ちゃんが、連れてきなさいと言ったのよ。先生が一緒じゃないと、面白くないよ。そうだろう、君江。」

千代に言われると、君江は大きく首を縦に振った。そして千代の言葉をなぞらえるように言った。

「そうだよ。先生も一緒じゃないと、面白くないもん。」

姉妹が口を揃えて私を誘い、私は姉妹の真ん中に立って一緒に歩いた。

 

 火を炊いている、大きな松の木の下まで行くと、父親が笑顔で私を迎えた。

「子供達が、いつも世話になっていて、有り難うございます。」

鍋の煮具合をみている母親も、屈んだまま私に声を掛けた。

「本当に娘達は、秋夫先生、秋夫先生と言うんですよ。友達だと思っているんですよ。」

姉妹は、父親と一緒に藪の中の細い道に入って行った。その藪の中には、泉が湧いているとのことだった。母親は、茣蓙を敷き、袋の中から皿や包丁などを取りだした。側には、めぼしい大根や芋の入った籠が置いてあった。

「先生、子供達と一緒に握り飯でも食べてください。」

私は、快く返事を返した。そして、火の側に屈み込んで、木片を火の中に投げ入れた。時々こんなことをしているのだろう。火の周りには、焼けた土が白い色を見せていた。

 

 暫くして、姉妹と父親が連れ立って戻り、私とその家族は、鍋を囲んだ。私の右隣に千代、左隣に君江が座った。姉妹二人ともお下げ髪で、千代は白色、君江は赤色のリボンをしていた。楽々と伸ばした千代の足をみて、母親は言った。

「千代、足を洗ってきなさい。汚れているじゃないか。」

千代は肩を窄めて、私に一瞬目を流すと立ち上がった。

「洗ってくるわ。母さんの櫛も借りていくわ。」

千代は、母親の白い被り物を外し、櫛を取り上げた。母親の髪は、豊で良く梳かされていた。この辺では珍しく、身形の整った女性だった。千代は、少し辺りを見渡し、私に言った。

「先生、下駄を貸してくださらない。」

少し大人びた物の言い方をして、私が返事をしないうちに、下駄を履いていた。

「これ、草履を履いていきなさい。」

母親は、ゴム草履を千代に投げ出した。

「いいよ。転ばないわ。」

千代は、小走りに藪の方に向かった。

「済みませんね。草履を履いていけばいいのに。」

そう言う母親に、私は構わないと答えた。私は、心の中で、言い知れぬ愉快さを感じた。

 

 君江は、長靴を履いていたためだろう、足は汚れていなかった。ただ、右足の中指を包帯で巻いているのが見えた。

「どうしたの。包帯なんかして。」

君江は、肩を窄めて笑っていた。

「昨日、漬け物石を持って、落としてしまったんですよ。この子は不器用なんです。」

母親は、笑いながら言った。石を落として、中指を怪我するなんて、まんざら不器用でもないと思った。

「先生は、町に帰らなかったんですか。」

父親が改まって、私に尋ねた。私は、娘達に話したような返事はできないと思った。

「ええ、特に晴れた日には、帰りたくないんです。」

私が静かに答えると、君江が知ったか振りで、高い声で言葉を継いだ。

「そうよ。秋夫先生は、散歩をするの。きっと、この土地が好きなんだ。」

父親は、代用教員である私が、何れ早い内に、この土地を去ることを知っていた。私は、年の瀬に、この土地を去らなければならなかった。

「先生は、道に迷って、ここに来てしまったんだって。」

君江は、口を尖らせて父親に言った。父親は、君江を見て、大きく頷いた。

「先生、初めての山は、危ないですよ。これから歩く時は、私の子供達を連れて行ってください。この辺の山のことは、良く知っていますから。」

父親の言葉は、親切味のあるものだった。

「そうですね。今度は、一緒に歩くことにします。迷ってばかりいては大変ですから。」

私の言葉が終わると直ぐに、君江は目を大きくした。

「先生、本当なの。一緒に散歩できるの。」

そう言う、君江に頷いて見せた。

 

 いつの間にか、千代が戻っていた。

「どうしたの。君江、はしゃいで。」

君江は、姉を見上げて嬉しそうに言った。

「お姉ちゃん、今度、先生が散歩するとき、私もお姉ちゃんも連れて行くって。違うわ。私達が、先生を案内するのよ。」

私は、千代の姿を見つめ、驚いた。先程までの感じと違って、大人びた清楚な姿に変わっていたからだった。お下げ髪を解いて、長い豊かな髪が、太陽の光を受けて輝いていた。千代を見つめていたのは、私だけでなかった。父親も、母親も、そして君江も黙って見つめた。千代は、微笑んだ瞳を私に見せ、垢抜けをした両足を投げ出し、私の隣に腰を下ろした。

「どうしたの。皆んな黙って。ね、お母さん、櫛を返すわ。ありがとう。」

母親は、千代を見つめながら、無言で櫛を受け取った。

「姉ちゃん、どうしたの。めかし込んで。」

千代は、君江の言葉を聞いても、平然としていた。千代は、間近で私に瞳を向け、微笑んでいた。私は、言葉がなかった。

「千代は、十五になるし、増せてきたんだ。」

母親は、千代をからかうように言った。千代は、恥じらいで顔を赤くした。それでも、私から瞳を反らそうとしなかった。

「腹が空いたわ。食べましょう。」

母親が明るく言うと、それまでの静かさは消え、賑やかになった。秋の採りたての茸の味噌汁の香りが漂った。千代は、お椀を口元に持っていき、小声で私に言った。

「先生、本当に、散歩に連れて行ってくれるの。」

私が頷くと、笑顔を見せ、汁を啜りだした。両親も、明るい顔で、私を見ていた。この秋晴れの中で、教師として集落の人達と過ごすのは、快いものだった。遠く青空を仰ぎ、白い雲が一つ流れていくのが目に入った。