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「ある酒屋の娘」

  

          佐 藤 悟 郎

 

 

 東京の程よい街だった。人通りも余りない通りに、酒屋があった。その酒屋の近くの居酒屋から、一人の若い男が出てきた。

「人を小馬鹿にしやがって。余り人のことを嘗めるんじゃない。」

彼は、酔っ払った頭で思った。たかが小娘一人に小言を言われ、心に深く傷ついた自分が情けなかった。娘は酒屋の娘で、小言を言っているのは店員だった。娘は美しい瞳を持ち、髪の長い均整のとれた小奇麗な娘だった。年の瀬も差し迫った寒い日、忘年会ということで店と棟続きの主人の家で、従業員一同を集めて酒を飲んだのだった。

 従業員といっても、十人足らずだった。主人の家の広間で、宴会をするのに事が足りた。心づくしの煮物や、取り寄せの刺身など、美味しい物が多くご馳走として並んだ。酒問屋ということで年の瀬は忙しく、忘年会は比較的暇な日曜日、それも午後八時を過ぎてからの宴会だった。

 主人の娘が美しいということは、従業員の誰もが認めていた。一人娘、そして年頃、全てがキラキラと目に写った。

「私は、貴方達なんかと、結婚はしません。」

従業員達が酔いの回った時の、娘の言葉だった。その言葉は、若い従業員にとって、蔑みの言葉だった。彼も主人の娘に、人知れず恋心を抱いていた。配達が終わって店に戻ると、時々店番をしている娘に声をかけ、返事を聞くのが楽しみの一つだった。それが、娘の言葉に傷つき、店の近くの居酒屋で一人酒を煽る結果となった。

 

 酔い痴れた頭で、彼はアパートに帰った。畳の上でゴロ寝をして、天井を見つめた。

「どうせ俺なんか、単なる従業員なんだ。財産がある訳ではなし、才能がある訳ではない。」

彼は、自分が娘に相応しい何物も持っていないことを知っていた。地方の片田舎から上京し、最初に勤めた会社を理由も良く知らされないうちに首となった。高校を出て間もなくの彼には、職もなく路頭に迷うように、この街にたどり着き、募集広告を見て店に勤めるようになった。主人の娘の美しさは、彼の心の慰めの唯一のものだった。

「どうせなら、この店も辞めちまえ。」

彼は酔った頭でそう思った。翌日起きてみると、そんな考えは吹き飛んでいた。

 

 朝早く、彼が店に出てみると、店のシャッターがまだ下りたままになっていた。不審に思って勝手口から家に入っていくと、多くの人の啜り泣きの音が聞こえた。驚いたことに、主人が急死したのだった。娘は、父親の枕元に寂しそうに、涙を堪えて座っていた。彼は、部屋の中をじっと見つめていた。店の主人の妻、親戚の人々、全ての人が暗い顔をしており、この店に大きな不幸が訪れたと思った。

 葬儀が行われ、彼は、努めて亡くなった主人の妻や娘の身近にいて、雑用に走り回った。告別式も済み、従業員等は店に集められた。

「私の店は、借財を抱えております。」

主人の妻は、そう話を切り出した。

「店を縮小することで、大方の目鼻が付くと思いますが、主人がいた時のような商いは、もうできません。多くの金を出すことはできませんので、皆さんには店を辞めていただきたいのです。当面の後の世話もしてやれず、誠に申し訳ないと思っております。」

亡き主人の妻は、深々と頭を下げた。その話を聞いた彼は、自ら店を辞めることを考えなかった。

 主人の葬儀が終わって、店も再び開いた。彼は、いつものように朝早く店に出て行った。もう倉庫は手放し、酒の蓄えは、店の奥の小さな部屋に移されていた。

「英雄さん。貴方は店を辞めないの。多くの金は出せないし、私達は、親子二人で食っていければ、それでいいのよ。」

女主人となったこの店の亡き主人の妻は、良く彼にそう言って聞かせた。決まって彼は、明るく笑って見せ、黙って働き続けた。

 

 厳しい寒さも過ぎ、春が訪れた。店の娘は、店に見切りを付けたかのように、都心にある商社の事務員として勤めた。彼が店に出て、店の掃除をしていると

「お早よう。頑張ってね。」

そう声をかけて、娘は出かけていくのだった。店には、彼の他従業員は誰もいなくなっていた。

 昼食は、女主人の作ったものを食べたが、店に余計な負担をかけまいと思っていた。朝早く起きて、朝食をアパートで作り、食べ終わると部屋の掃除を済ませる、几帳面な生活を送った。店が閉まると、一目散にアパートへ帰った。店が遅く閉まった時は、帰り道の小さな食堂に立ち寄り、こぢんまりとした食事をした。

 アパートは、彼の小さな世界だった。彼は、自分の人生に多くのものを望んではいなかった。生きていく上で、最低限のものがあればよいと思っていた。自分の部屋や環境を、できるだけ清らかなものとすることに努めた。ウィスキーを水で割って飲みながら、アパートの窓から外を眺め、本を読み、詩を書き、絵を描いて、深い眠りに就いた。彼自身、内向的な人生とは思っていなかった。人生をじっと耐えること、そして自分の思うところに進むことを望んでいた。彼は、人生の目的が、「何か」ということを考えたことはなかった。実現することができないような目的を持っても、意味がないと思っていた。

 

 ある日、彼が配達から店に戻ってみると、帳場に役人らしい人の姿が見えた。女主人は、しきりに役人らしい人に頭を下げていた。書類を一つひとつ調べている役人、そしてしまいに、店の帳簿を持っていった。

「金のない店なのに、畜生!」

女主人は、その役人を玄関まで送り出すと、唇を噛み悔しそうに言った。大方、税務署の役人なのだろうと、彼は思った。

「英雄、お前、店の帳簿を作ってくれないか。私には、どうしても駄目なんだ。娘は馬鹿にして、店を構ってくれない。」

彼が、女主人の愚痴を聞いて知ったことは、今まで主人がやってきた帳簿が、色々苦労をして整理したが、申告期限にも間に合わず、役人が来るに及んでしまったということだった。主人の経理の経緯が分からず、多くの税金の支払いが見込まれるということだった。

「奥さん、帳場の仕事は、店でも大切な仕事なんです。私なんかに任せて、心配ではありませんか。」

彼は、女主人に素直に感想を聞いた。

「私は、心配なんかしていません。どっちみち、お前と二人でやっている店なんだから。それに、お前が頭の良い優しい人くらい、お前が黙っていても分かるんだよ。」

女主人は、彼にそう言って微笑んで見せた。

 

 彼は、商業高校を卒業しており、帳簿についてのある程度の知識を持っていた。彼は、店が終わると夜遅くまで、これまでの店の帳簿を調べていた。そんな日が幾日も続いた。

「貴方が、帳場を預かったんだって。店を乗っ取るつもりなの。勝手にさせないから。」

いきなり、娘が帳場にいる彼に怒鳴り込んだ。彼は、娘の姿を見て悲しかった。悲しい目で、前に突っ立っている美しい娘を見上げた。

「別に、私は、帳場を預かっているなんて思ってもおりません。奥様のお手伝いをさせてもらうだけです。どうか、怒らないでください。」

彼は、娘の前で頭を下げ、動かなかった。

「いいでしょう。私は、近い内に結婚をするんだから。その人が来れば、貴方の勝手なんかにさせないわ。」

娘は、吐き捨てるように言葉を浴びせ、奥へと行った。彼の耳に、娘の荒々しい足音、衣擦れの音が聞こえた。それは自分に対する憎しみのように感じていた。娘の美しさに似合わない姿だと思い、悲しく思った。

 彼が頭を上げると、廊下の間口に、女主人が心配そうに立っているのが見えた。彼は、明るく笑って見せた。女主人は、安心したように頷きを見せ、微笑を返すと奥へと消えていった。そしてその日も、彼は遅くまで帳簿の整理をやった。

 

 ある日、彼は女主人に帳簿を整理した結果を説明した。

「今の状態を続けていっても、収入は多くあると思います。ただ、浪費だけは慎むことが必要です。そうすれば、蓄えができ、店も奥様にも、保障と安心感を齎すことになるでしょう。」

女主人は、つぶさに帳簿を調べ、彼の言ったことを確かめた。顔を上げて、女主人は微笑を浮かべた。

 毎日、彼は店の軽四輪車を運転し、配達に精を出していた。女主人を店から外に出さないようにとの配慮からだった。女主人を、いつも店の帳場に置き、彼が店の外を動き回るようにしていた。店頭は明るく、お客が入り易いように改装した。案の定、通る人に信用も伝わり、気軽に訪れる人も多くなった。

 一年もすると、店は多くの利益を上げ、裕福になり始めた。娘は、彼の誠実さを認め、優しい態度を示した。彼は、店から多くの物を求めようともせず、質素な生活に満足していた。

 

 夏の暑い日、彼は母からの手紙を受け取った。父が事故で倒れたという便りだった。彼の故郷では、兄が家を守っていた。彼は、父を見舞うため、故郷に帰った。店を休んだのは、三日間だった。四日目の朝には、店に顔を出した。

「随分長かったわ。寂しくなるものね。」

女主人は、彼の顔を見ると苦笑いを浮かべて言った。

「お母さんは、貴方が帰って来ないのではないかと、随分心配していたのよ。」

娘は、女主人と彼をからかうように言うと、ステップを踏んで店から出て行った。その娘の様子を見て、女主人は黙り込んでしまった。彼が故郷に帰った三日間、娘は会社を休み、家の中で恐怖に耐えるように、怯えながら過ごしていたのを思った。

 

 それは秋の日の土曜日の午後だった。娘は、会社の親しい青年と一緒に連れ立って、日展の絵画展示会場を訪れた。林の繁みに囲まれた、気候も温暖な中で、恋人同士のように寄り添って歩いた。娘は、青年に柔らかな優しい瞳を投げかけた。少し冷える展示会場、娘の心はそぞろだった。

 そんな中で娘は、優秀作品の一つに目を止めた。風景画だった。印象的なその絵画には、人の永遠の美しい心を感じた。森影、その静かな中に息づく若い男女の群れ、いかにも牧歌的な風景だった。

「こんな絵、部屋に飾って置きたいわ。」

娘は、微笑んだ顔を青年に向けて言った。

「中々良くできた絵だ。でも、少し古臭い絵だよね。今は、抽象画でなければ。」

そう青年は答えた。娘は、その答えが面白くなかった。その絵を描いた画家の名前が、彼と同じ名前であることを印象強く覚えた。その日、娘は夜遅くまで青年と遊んだ。

 

 月末で、彼は遅くまで店に残り、帳場の仕事をしていた。そんな時に、娘は酒に少し酔って帰って来た。彼は、娘に声をかけ、すぐ帳簿に顔を落とした。

「貴方と同じ名前なのに、えらく違う人がいるもんですね。」

娘は、彼の前に立ち止まって、少し蔑んだ言葉を投げた。彼は顔を上げると、娘から酒の強い臭いを感じた。

「お嬢さん、デートでしたか。お母さんが、心配しておりましたよ。」

娘は、彼の右脇に座ると、頭を彼に寄せて帳簿を見つめた。

「お酒の方、いつものよりきつかったようですね。」

彼が、娘に話しかけると、娘は少し口を尖らせて、口笛を吹く真似をした。

「今の彼、私、気に入ってるのよ。」

彼は、明るく頷いて見せた。娘は立ち上がると

「飲み直しましょう。終わったら言ってね。」

そう言って、娘は奥へと消えて行った。入れ替わりに女主人が顔を出した。

「今日、あれは気分が良さそうなの。貴方と一緒に飲みたいんですって。来てくださいね。」

三十分ほどして、彼は帳簿の整理を済ませると、奥の部屋へ行った。遅いとばかり、娘は頬杖をして待っていた。

 

 娘は、少し酒を飲むと部屋から出て行き、厚紙と濃い鉛筆を持って戻ってきた。

「私の姿を描いてよ。」

娘は、そう言って彼に厚紙と鉛筆を手渡した。彼は、言われるままに、娘の顔立ちや姿勢を見ながら描き終えた。

「こんな物でよいでしょうか。」

彼は、デッサンを娘の方に差し出した。

「貴方って、本当に純なのね。」

娘は、小馬鹿にした口振りで、彼の描いた絵を受け取った。そしてその絵に目を落とすと、娘の顔色は見るみるうちに変わった。

「貴方だったの。絵画館の絵は。」

彼は、不思議そうに娘の顔を見つめた。

「絵画館の絵って、何ですか。私の絵がありましたか。」

彼の問いに、娘は戸惑いながら答えた。

「ええ、ありましたわ。「林の中の散歩道」という題でした。貴方と同じ名前でした。間違いないのでしょう。」

彼は、急に俯いた。肩を大きく揺らし、泣いていたのだった。

 

 その翌日から、娘は会社へ出勤はしなかった。会社を辞めたいと母に言った。娘は、帳場に座り、店の中をこまめに動くようになった。彼は、一生懸命に配達をしている。娘は、彼の画才が付近の人々に知れることを恐れていた。その間に、彼の心を捉えたいと思った。それまでの出来事を全て捨て去り、ただ彼の心が欲しいと思った。

 一か月も経たないときだった。彼は、女主人と娘に言った。

「私、店を辞めさせていただきたい。」

女主人と娘が心配していたことが、現実となった。彼は、都内の有名な画家から、内弟子にならないかと誘いがあった。

「この店は、貴方のものです。絵を描き続けることも自由です。何も辞めなくたっていいんではないのですか。辞めないでください。」

娘は、彼が店のために働かなくてもいい、絵を描き続けていてもよい、店を辞めないで欲しいと懇願した。彼は、絵の勉強がしたい、是非、先生の師事を受けたいと言った。

「この店は、貴方がいなくなれば終わりになるわ。」

娘はそう言うと、悲しそうな顔をして黙ってしまった。彼は、翌日まで考えさせて欲しいと言った。

 

 翌日、彼は早く店に出て、店の中の掃除をしていた。それをみて娘は、涙を浮かべた。女主人は、娘を奥に呼んだ。

「お前、結婚する気があるのかい。」

女主人は、娘に厳しい口調で言った。

「お前にその気がないなら、英雄をこの店に止めておく訳は、何もないんだよ。分かっているの。」

女主人の言葉に、娘は頷いた。

 その日から、彼は黙って一生懸命に働いていた。相変わらず、娘のもとに多くの男性が訪れた。彼は、黙って見過ごしていた。その数が多ければ多いほど、彼は娘の純粋さを疑わざるを得なかった。そして冬が明けるとともに、彼はその店を去って行った。

 

…君も、母も、美しい人だ。

 私は、いつまでも去り難く、冬を越してしまった。

 さようなら。さようなら。…

 

 彼は、女主人と娘に短い言葉を残し、忽然と世の中から姿を消してしまった。 彼の姿は、故郷にも師事を仰いだ人の元にもなかった。翌年も、彼の絵はどこにも現れなかった。彼が去ってから、娘は意固地な程に固い人間となった。店を徹底して切り回し、父の時代よりも大きいものとなった。人手を使い、役所にも出入りし、割烹を開いて数件の店を持つようになった。特に、酒屋の隣の割烹は高級な店として近郷近在に轟くようになった。