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「苦い涙」

 

                佐 藤 悟 郎

 

その公務所に昼休みが訪れると、室の若い娘達は室から出てしまう。結婚した女性が室に残り、食事をする男達にお茶を出す。男達は、いつ仕事が舞い込んでくるか分からず、昼休みと言っても外出はできない。彼は、出かけようとする娘達の一人に声を掛けた。

「戸田さん、ちょっと。」

彼女は、少し他の娘達と話をしてから、彼の直ぐ近くまで来た。髪を緩く波立たせた、美しい顔立ちの女性だった。体そのものが肉感的な、瞳の大きな挑戦的な輝きを持っている。

「戸田さん、今日は付き合ってくれるんだろうね。」

「駄目かも知れない。」

「はっきり言って、どっちなんだ。」

「分からない、後で返事をするわ。」

「今日、君は二十五歳の誕生日なんだ。」

彼女は、笑ってみせると、彼の前から立ち退いて室から出ていった。

 

 彼の勤める公務所は、比較的転勤の多い職場だった。彼が、この地に赴任して、もう四年にもなった。その娘は、彼が赴任した時に既に職場に勤めており、それ以来彼女は身の上について相談するようになった。彼女に色々な問題が起きると、上司との間に彼が立って衝立の役割もしていた。彼は、仕事について、その実務知識や実行力に優れ、誰にも引けを取らなかった。彼の行動や実力は、同僚の誰もが認め、反対することはなかった。

 

 最初、彼はそう意識的でなかったが、次第に彼女のために特別に何かをするようになった。彼女は、彼に対して従順だった。勝ち気なその性格も、彼の前では明るく眩しいものだった。それが最近になって、彼女の従順さが薄くなっていた。

「あの答え方だと、俺と一緒に来るな。」

彼はそう思った。彼女の誕生日の祝いをするつもりで、彼はその方法や資金などを用意していた。

 

 その日は、朝から雪が降り続いていた。それまでに積もった雪の上に重なり、かなりの雪の量となって、夕方になると冷え冷えとする寒さとなった。

「今日は止すことにしますわ。」

帰り際になって、彼女は彼にそう言った。

「どうしたんだい。家まで送ってゆくのに。」

「有り難いんですけれど、朝、車で来たいし、今度の機会によろしく。」

彼は、残念そうな素振りを見せた。仕事を済ませると、彼は拍子抜けをして、そのまま真っ直ぐ下宿へと帰り、夕飯を済ませた。日課となっている二時間の読書を済ませて、窓を開けて外を見た。大きな雪が音もなく降っていた。

「良かったのかも知れない。良い日を選んで、また誘ってみよう。」

彼は、そう思って窓を閉めると、床に入った。彼女の淑女的な面影を抱いて、眠りに陥った。

 

 翌朝、彼が出勤してみると、彼女の車が昨夕のまま駐車場に止まっていた。車の下に、新しい雪が積もっていないことから、彼女が車で帰らなかったことが分かった。職場の娘達の中でも、特に彼は彼女に注目しており、それを室の全ての人に見せつけるように、些細な用件でも彼女を呼び寄せていた。その日も彼は、いつものように振る舞っていた。

「戸田さん、コーヒーくれよ。」

大きな声で彼は言った。いつもだと彼女の返事が聞こえるのだが、その日は返事がなかった。

「おい、持ってきてくれよ。」

暫くしても返事がないので、彼は仕事の手を休め、彼女の席を見た。室の中の全員が彼を見つめているのに、彼は気付いた。

「コーヒーくらい、自分でしなさいよ。」

それが彼女の返事だった。一瞬、彼女がそのような返事をしたことが、彼は信ずることができなかった。室の全員が彼を見つめ、彼を嘲笑っていた。

 

 彼は、室の全員から向けられた憎悪を感じた。今まで知らなかった感情が自分を取り巻き、それは危機的な感情でもあった。彼は立ち上がり、茶道具のあるテーブルへと向かった。歩きながら、部屋の一人ひとりを見つめた。彼に見つめられた者は、一人ひとり目を下に落としていった。

 

 彼は、彼女の隣に座った。自分で入れたコーヒーを口にしていた。いつも語りかけてくる彼女は、振り向こうともしなかった。平静を装い、いつものように軽やかに彼は言った。

「昨日は、車で帰らなかったのかね。」

彼女は、暫く無言だった。意を決したように、彼女は彼と向かい合った。彼は、微笑んだ。

「私はね、昨日誕生日だったの。この室の皆さんに祝ってもらったの。酒をいっぱいご馳走になって、まだ頭が痛むのよ。」

彼女の言葉は、反抗的だった。彼は、彼女の話を聞いて、頭から血の気が引いていくのを感じた。先程の彼女の態度や室の者達の嘲笑する意味が分かってきたのだった。

「何故、私も一緒にしてくれなかったの。」

「そんなこと、私が知るもんですか。」

彼は、室の中を見渡した。誰もが、彼と彼女の遣り取りを見守っていた。遠くから課長の声がした。

「君、戸田さんを誘っていたんだってな。悪いことをした。君は、私達と性が合わないんで、君のためと思い遠慮してもらったんだ。勘弁しろよ。」

彼は、課長の言葉に、気持ちの遣り場がない程の屈辱を感じた。課長に対する日頃の自分の態度への反発がやってきたと思った。彼は、課長の幼稚で愚劣な行為を心の中で罵った。彼は、彼女に皮肉ぽく言った。

「へえ、君が課長等の招待をね。私の招待なんか、詰まらん過ぎたのか。」

彼女は、彼を睨みならが言った。

「それ、どういうことなの。変なことを言わないでよ。私は、多くの人から、それも同じ室の人じゃないの、祝ってもらった方が嬉しいわよ。貴方の誘いも嬉しかったけど。」

声高く言う彼女に、彼はひどく真面目な顔をして言った。

「そういう時こそ、何故、私に付き合ってくれなかったのだ。」

「それ、どういうことなの。岸さん、頭が狂ったのと違う。私は、貴方にそんなことを言われる筋合いは、少しもないことよ。」

彼女は、席を立つと部屋を出て行った。彼も、少し軽率な言葉を恥じた。そして、彼は彼女を含めた室の人達の敵対的な感情を強く感じた。

 

 彼は、コーヒー茶碗を持って自分の席に戻った。もう誰とも話したくなかった。彼は、完全に孤立した立場になったのは、課長が造り上げたものだと思った。大方、課長という立場と機会を捉えて、常日頃反抗的な行動、勝手な行動を封じ込めるためにしたのだろうと思った。彼は、もうどうなっても良いと思った。彼女を失ってしまえば、課長とも争うことはないと思った。彼は、席に着いてからも暫く考えた。

「彼女は、私の申し出を断ってまで、他の者と行動することは絶対にないはずだ。」

その思いは、確信に満ちた考えだった。それが突然音を立てて崩れてしまった。

「何故、こんなことになってしまったのか。」

机の上の書類に目を落としながら思った。そして彼女を変えたのは、室全体の意思の力だと思った。その力に彼女は屈してしまったと思った。彼女は、もう彼を受け入れる力がないだろう。そう思うと彼は、言いようもない屈辱を感じたのだった。

 

 退庁時間となった。彼は、彼女に密かに言った。

「車庫の前で待っていてくれ。私も直ぐ行くから。」

彼女は頷いたが、その表情は暗かった。彼は、彼女の心が自分から離れていくのを感じ、心に不安が広がった。彼女は、机の上を片付けると、そそくさと室から出て行った。

 彼は、自分の席に戻り、机の上の整理を始めた。散らかった書類をかき集め、箱の中に押し込めて書類ロッカーの中に入れた。彼には珍しく、帰りがけに課長や室の者に

「お先に失礼します。」

と挨拶を済ませ、室を出て行った。課長も、室の誰もが彼に返答をしなかった。彼は、室全体の敵意を感じたが、どうすることもできなかった。

 

 粉雪が舞い、冷たい風が彼の頬に当たった。新しい雪が積もっている、庁舎裏の車庫へ彼は行った。雪の明かりで辺りは見えたが、誰の気配もない静かなところだった。彼の心に不安が横切った。

「人の気配がない。彼女もいない。」

彼は、車庫の前で立ちすくんだ。車庫の前の新雪を見たが、足跡らしいものが見えない。気を取り直して車庫の奥を注意深く見つめた。そこには、人影はなかった。彼は、注意深く辺りを見つめた。

 雪が吹きかかる冷たさに、彼は次第に我に帰っていった。彼の心には、怒りと憎しみが燃え上がっていた。そして目の裏が熱くなるのを感じた。彼は車庫の暗がりに入った。小一時間、ただ身動きもせずに、怒りと憎しみの中に、それでも僅かな情熱と期待を抱き、待ち続けた。

 

 彼の頬には、熱い涙が幾筋ともなく光っていた。

「どうして私は、こんなことになったのか。」

そう思いながら、彼はようやく歩き始めた。彼は、俯きながらひたすら歩いた。人通りのない裏小路を選び、涙を拭くこともなく、とぼとぼと歩いた。涙を拭くことを忘れていたのだった。彼女に対して怒りと憎しみを抱き、悲しく、そして寂しい思いが込み上げてくるのだった。

 彼は思った。夕方、誘ったことを後悔した。昨日の彼女の誕生日の態度が、彼に対する全てだと思った。その現実を知ろうともせず、信じようともせず、夕方、彼女を誘った自分を寂しく思った。

「糸が切れたのだ。理由は分からないけれど。もう、それを知る必要もないだろう。」

彼はそう呟いた。糸が切れたことは事実だし、糸を結ぶことは不可能だと思った。誰かが結ぼうとしても、糸の一方が彼であり、もう一方が彼女であることはあり得ないと思った。

 

 数日が過ぎた。彼にとって、毎日の生活が辛かった。特に職場にいる時、精神的な圧迫が大きく疲れるものだった。彼は、仕事が終わると、そそくさと帰った。その日も雪が降っていた。彼はあれ以来、室の者達に馴染むように気を遣っていた。課長も、彼に好意的になっている。帰りの挨拶に返事を返すし、室の一部の者も同じように返事を返すようになっていた。

 彼は、更衣室で着替えると、雪が舞う中を、首を縮めて歩いた。庁舎の門を出ると、彼女の姿が見えた。彼は、俯くと彼女の前を通り過ぎた。

「どうしたの。最近、元気がないのね。」

彼は、一瞬立ち止まった。辺りを見つめ、驚いたように彼女の目を見つめた。

「有り難う。明日になれば、元気が出るさ。」

彼は、力なく笑って見せた。そして、俯くと歩き出した。

「どうしたの。私を誘ってくれないの。私と付き合ってくれないの。」

彼女は、彼と一緒に歩くようにして問いかけた。彼は、黙って歩き続けた。彼女は、彼の後を追った。そして、たまりかねたように彼の前に出て立ち塞がった。彼の目に涙が浮かんでいるのが見えた。

「私は、帰りたいんだ。どいてくれ。」

その時、彼女は、彼の目の中に哀れみを見た。彼女に対するものであり、彼自身に対するものだった。彼は、彼女の脇をすり抜けるように通り過ぎていった。

 彼女は、彼の寂しそうな後ろ姿を見つめ、熱い涙が溢れてくるのを感じた。遊びや戯れでなく、自分が心から彼を愛していることを感じた。そして愛を失ってしまったことを知った。止めどもない涙が、彼の姿を覆い隠していくのだった。