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 「野武士」

 

               佐 藤 悟 郎

 

 戦国の世、野武士集団は全国各地に出没し、山野を駆け巡っていた。野武士集団は、行く手の集落の家々を焼き払い、人を殺し、女を犯し、食物を奪った。野武士の荒れ狂う様は、凄まじい勢いだった。

 垣添秀長は、垣添の領主垣添春永の子として生まれたが、母が父春永に疎んじられ、母遙菜と共に館を追われて流浪の子として育った。母遙菜と一緒に住んでいた集落も、野武士集団に焼かれた。崩れゆく集落、夕暮れの中に、幼い秀長は立っていた。悲しみはなかった。ただ、恐怖だけが秀長の心を捉えていた。

  秀長は、母遙菜と別れ、集落を立ち去り、野武士の来ない険しい山の中に身を隠した。秀長は、ただ誰にも負けないほど強い者になろうと思い、体を鍛え、身は鋼となり、足は鹿のように素早くなった。山の幸を得、川に潜り魚を捉えた。時には里に下りて盗みにも入った。

秀長は、いつしか山野を駆け巡る野武士集団に入った。馬を駆り、力を自由自在に振り回し、その力は他の誰よりも優っていた。野の里、山の里、無抵抗の者を斬り殺すことにも心も動かなくなり、女を奪い連れ去り、酒に酔い痴れ、山の中で悲鳴を上げる女を犯し、そして殺した。野武士であれば、誰もがやっていることだった。

 秀長の力に及ぶ者がなく、野武士は秀長の周りに多く集まった。彼の集団は「狼」と呼ばれ、村人や町の人、他の野武士集団からも恐れられるようになった。「狼」と呼ばれる集団は、三百人にも達し、山の頂に砦を構えるようになった。秀長は大きな集団を維持するため、手下を使い易いように組織し、力を鍛えることを忘れなかった。力さえあれば、恐ろしいものはないことを知っていたからだった。

 

 ある時、高須の国の国主須栗景親の家臣一団が秀長の元を訪れた。秀長と争う目的ではなく、近く隣国との大きな戦いがあるから援助を願いたいとの申し入れだった。戦いに勝てば、秀長に領地を与え安堵するという話だった。

隣国との戦を控え、国主は野武士にも配下になることを誘いかけていたのだった。秀長は、領主の子としての誇りを思い浮かべ、野武士を捨てて国主の下で、侍としての道を選ぶことにした。秀長は、従う者を率い、近隣の野武士を集めながら、国主の地、高須へと向かった。高須の近くの地には、五十人ほどの勢力を持つ「荒熊」という野武士集団があり、その頭領にも秀長は誘いに乗るように働きかけていた。

 野武士集団「荒熊」と落ち合う場所に着いたところ、「荒熊」の野武士達が女御二名を辱めようとしていた。女御は悲しそうな目をして、現れた秀長を見つめた。武士への意志を固めた秀長は、二人の女御を哀れに思い、「荒熊」の頭領を諫めた。秀長と「荒熊」の頭領は争いとなった。秀長は、凄まじい争いの末、「荒熊」の頭領を切り捨ててしまった。

 秀長は、「荒熊」の手下に対し、従う者は共に来るように言い、二人の女御を連れて国主須栗景親の居城、高須城近くまで行った。城下の町に入ると二人の女御と別れ、城へと向かった。秀長の率いる勢力は、およそ三百人に達していた。

 

 隣国、東牧の国との戦いが始まろうとしていた。垣添秀長は、野武士集団を率いて、国主の嫡男須栗宗晴の軍勢に編入され、その中でも先陣となった。秀長の兵は、野武士集団とみなされ、国主須栗景親から試されていることを秀長は承知していた。激しい戦いとなったが、野武士のころ、幾度となく敵、東牧の国の戦を見ており、敵の戦術は知っていた。前面で戦いを進め、主力を横手から押し寄せる戦法だった。それに森や林に部隊を置き、横や背後から攻める戦術も使うということも知っていた。

 秀長は、正面の部隊に楔を打ち込むように部隊を進めた。正面部隊の後方に位置する主力部隊の動きを知るためだった。正面部隊に向かって突き進み、敵の主力部隊が左に移動することが分かった。直ぐに狼煙を上げ、敵の本隊の移動方向を、味方の主力部隊に知らせた。味方の主力部隊は、敵の正面部隊の右翼に突進し、敵の正面部隊は総崩れになった。そこから見えたのは、敵の主力部隊がいない敵の本陣だった。秀長の部隊を先頭に、敵の本陣に襲いかかった。

 隣国、東牧の国の総大将は、馬に乗るや後方に逃げたが、秀長の部隊が追い付くと総大将を取り巻き、覚悟を決めた総大将は自害して果てた。総大将の首級を掲げ、陣形を整え、敵の主力部隊と対峙した。敵との小競り合いは少し続いたが、総大将を失ったのを知ると、敵は敗走を始めた。

 秀長と国主の嫡男須栗宗晴は、整然と部隊を前に推し進め、落ち行く敵に襲いかかった。そして敵の多くの武将は、命を落とした。武将を失った敵の部隊は、散り散りになって山野に逃げていった。

「もういいだろう。大勝利だ、引き上げよう。」

と国主の嫡男須栗宗晴は、秀長に言った。

「いや、一番近くの城を落としておくこと肝心でござる。いずれ勢力を盛り返すかも知れない。」

秀長に言われ、国主の嫡男須栗宗晴は更に軍を進め、隣国の国境に最も近い、白柏城を取り囲んだ。

 

その城の城主白柏行家は、隣国でも有力な武将だった。戦いに敗れ、城に引き返すと生き残った武士を集め、態勢を整えていたが、手負いの多い武士の士気は、極端に低く戦える状態でなかった。

 城主白柏行家は、白装束に装い、門を開き一人城外に出て来た。国主の嫡男須栗宗晴の前で土下座をしたのだった。

「城主の白柏でござる。命に代え、一言お願い申し上げます。」

「申せ。」

国主の嫡男須栗宗晴は、城主白柏行家に戦う意思がないことを読み取った。城主白柏行家は、自分の命と引き換えに、城の中にいる人全ての命乞いをした。

「よし分かった。城を開けよ。」

城主白柏行家の合図で城内から人が出てきた。最初に、武将らしい人に連れられ、城主の妻、姫らしい女、嫡男と思われる子供が出てきた。城主白柏行家に向かって涙を浮かべていた。

 その様子を黙って見ていた垣添秀長は、国主の嫡男須栗宗晴に耳打ちをした。

「城主白柏行家殿や一党を助けてやりなされ。姫と嫡男を人質に貰い受ければよいこと思うが。」

国主の嫡男須栗宗晴は、暫く考えて声を上げた。

「待て、皆の者、城を出て行かなくともよい。白柏殿、お手前の覚悟は分かった。お手前の命、それに城と領地は安堵しよう。」

更に、国主の嫡男須栗宗晴は言った。

「ただし条件がある。以後、白柏殿一党は我が国主須栗景親に忠誠を誓うこと。その証として、ご嫡男と姫を我が国に預け受けること。いかがかな。」

それを聞いた城主白柏行家は、信じられないと思わんばかりに国主の嫡男須栗宗晴に顔を向けると、直ぐにひれ伏した。

「承知つかまりました。以後、須栗景親殿を主家と仰ぎ、違えることなく忠誠をお誓いつかまつります。嫡男と姫を喜んでお預けいたします。」

城主白柏行家は、はっきりと述べた。城主白柏行家は、最善の処遇を得たのは、秀長が国主の嫡男須栗宗晴に意見を述べた結果だと思い、秀長にも大きな恩義を感じていた。

 

国主の嫡男須栗宗晴は、垣添秀長を第一に従え、城主白柏の嫡男と姫、その側女を連れて凱旋の途についた。高須の城に戻り、秀長は国主須栗景親の前に召された。

「我が国が勝利した。お主の働き、見事と聞いている。約束どおり、お前に一国を与えよう。辺境の地であるかも知れないが、自由にするがよい。」

秀長への恩賞は、国主の地、高須から遠く離れた辺境の地だった。そして以前荒らし回った地で、秀長が生まれた領地と隣り合わせでもあった。隣の領地は、少ない侍を抱える秀長の異母弟である垣添光長が領主となっていた。元々高須の国に従っていたが、異母弟の垣添光長は高須の国主須栗景親には従わず、北にある北荘の国と連絡を取っていた。

秀長は、国主須栗景親の決めた領地安堵に不満はなかった。武士として認められ、領地を得ることができた。それだけで良かった。

「今日から、俺は領主だ。お前達は、家人、侍だ。もう野武士ではない。」

秀長は大勢の郎党を率い、新しい領地へと向かった。荒らし回るためでなく、治めに行くのだった。

 

 秀長は、山裾の広い土地を開き、濠を巡らし、中に侍館を造った。家来をその館に集め、よく統制した。秀長は、家来に必要な訓練をしなければならなかった。六人の側近を重臣として選び、五人に百人ずつの侍を分け与えた。残る一人は、諸橋道義で筆頭家老と位置付け、その五人の統括に当たらせた。百人の中から更に十人を選び、それぞれに十名の侍を与えた。三個の集団に一名の責任者を置いた。

  秀長は郎党の組織を固める一方、土地を調査し、領内に住む人々の調査をした。侍の戦闘技術を絶えず磨き、軍馬や兵糧を蓄える方策を練った。秀長は石垣を重ね、濠を深くし、守りの堅い館を構えた。

 秀長は、領民に対する税を定め、それ以上の物を取ることはなかった。領民は、誰一人不平を言う者はなかった。侍達は、野武士になる前の貧しかった生活を思い出し、侍となって領民を苦しめるようなことはできなかった。兵を更に募り、兵を使って土地を拓いて豊にし、領地は安定していった。兵は、三千人にも達し、その国の有力な兵を有する領主となっていた。

 国主須栗景親は、秀長の堅実な政を見て、人質の白柏行家の嫡男白柏高家を秀長に預けた。秀長は、白柏高家と接見し、磨けば立派な武将となると思った。

 

 秀長は館を造り、領内が落ち着くと、母遙菜を迎え入れた。異母弟垣添光長の地は北垣添、秀長の地は南垣添と呼ばれた。北垣添の領主の異母弟垣添光長は、傲慢不遜な人間で、家臣からの信頼も薄かった。間もなく、北垣添は家臣の寝返りによって崩壊した。異母弟の垣添光長は母の生家へと逃れていった。北垣添の家臣は、彼の下に走り忠誠を誓って彼の家臣となった。北荘の国では、北垣添の領地が元々高須の国の領地であったこと、垣添秀長と戦を交える無謀さから、何も動きは起こさなかった。

 

秀長は、国主須栗景親の直参御家人本多嘉門から、謀反の動きがあると讒訴された。国主須栗景親も、秀長の勢力や戦闘能力に危惧を抱いていた。秀長は、帯刀も許されず国主須栗景親の招きを受けていた。周りの部屋には、刀を抜き払った武士が待ち構えていた。秀長に従う者は、十数人の家臣だけだった。国主須栗景親は秀長を謀殺しようと考えていた。

 秀長を謀殺しようとするのを知った、国主の嫡男須栗宗晴は、二人のいるところに赴き父景親を諫めた。国主須栗景親は、秀長を讒訴した御家人本多嘉門を呼び寄せようとしたが、出奔した後だった。国主須栗景親は自分の過ちに気付き、秀長に対して素直に詫びを述べた。秀長が高須の城を出た後、暫く経って国主須栗景親は、嫡男宗晴に言った。

「城内で失敗したことを考え、垣添が国へ帰る姿を見たら殺すように、下村仁左衛門に命じた。」

と悔いるように言ったが、時は既に遅かったように思われた。

 

 国主須栗景親の誤解が解けると、直ちに垣添秀長は数名の家人と共に領地に向かった。峠越えの道は、大木が茂り鬱蒼として、暗かった。突如として、数十名の頭巾を被った武士が姿を見せ、秀長の一行を取り囲んだ。秀長は、その様子から国主の手の者だと思った。恐らく、国主の命令が変更されたのを知らないのだと思った。更に、妙なことに森影から十数名の野武士風の者が現れた。

「垣添殿とお見受けした。助太刀いたそう。」

頭と思われる者が、秀長に声をかけた。直ぐさま、その者は首を回して他の野武士風の者に合図をすると、身ごなし軽く秀長の家人の前に出て身構え、頭巾姿の武士達と対峙した。双方の者が、刀に手をかけようとしたときだった。蹄の音が聞こえ、何か叫ぶ声が聞こえた。

「待てー、待てー、争ってはならぬ。」

そんな叫ぶ声か聞こえると、間もなく疾走する馬の姿が見えた。馬上には、国主須栗景親の嫡男宗晴の姿があった。

「仁左衛門、争ってはならぬ。我が父の誤りぞ。退け。」

国主須栗景親の嫡男宗晴は、馬から下りると、頭巾姿の武士達の頭の前に行った。二言三言話をすると、頭と思われる者は下村仁左衛門であり、頭巾を脱いだ。

「垣添殿、誤りといえど、誠に済まぬことをした。」

仁左衛門は、秀長の前に進むと、深々と頭を下げた。

「主命とあれば、仕方なかろう。でも、お互い良かった。」

秀長は、そう言った。仁左衛門は、須栗の家人の中でも抜きん出た太刀の使い手だった。争いが起きれば、秀長の一行もただで済まなかっただろうと思った。

 国主の嫡男須栗宗晴は、仁左衛門以下の家人を連れて、高須へと向かって立ち去った。それを見送ると、秀長は野武士風の頭領とも思われる者に言った。

「危ないところ、助太刀頂き、かたじけなかった。お見受けしたところ、野武士ではござらんな。」

頭領と思われる者は、他の者に目配せをすると、秀長の前に跪いた。

「私は、雲影小十郎と申します。世に言われる影の頭をしております。諸国を流れてきました。垣添殿に、お使い適いませんでしょうか。」

秀長は、流れの影の者が現れ、使ってくれとの申し出を聞いた。影の者は、世の中の動きを見るのに、優れた力を持っている。我が身に取り込もうとするのは、我が身を取り巻く情勢に切羽詰まったものがあると思った。

「影の者か。拙者がどのような者か、承知の上のことだと思うが。考えの浅い者であるが、よろしく願いたい。」

秀長が雲影に言うと

「誠にありがとうございます。私ら一党、これからは垣添様を主と仰ぎ、如何なる時も主命に従います。」

と雲影が答え、一党が立ち上がると、一党に向かい右手を使って、素早く指示をした。一党は、直ぐさま散り散りとなって姿を消し、雲影だけが残り、秀長に従い垣添の領地に向かって行った。

 

 領地に戻った秀長は、讒訴をした御家人の正体は何者なのか考えていた。主家の信頼を得て、何もせずに出奔したとは思えなかった。おそらくは何か策謀が終わり、姿を眩ましたと考えるのが当然と思われた。秀長は、雲影を呼び寄せ、二人切りで話を切り出した。

「雲影、腹を割って話がある。この度の讒訴の件、出奔した本多殿の仕業と思われる。何故の讒訴なのか、おそらくは何れの国からの誘いがあったと思う。この秀長のことだけでなく、他にも企みをしていたのではないかと思うが。」

雲影は、秀長を見つめた。秀長は軽く頷きを見せ、雲影を見つめていた。雲影は、秀長の目の光の中に、自分への信頼を感じ取った。

「恐らく、垣添様が心配している通りと思っております。近い内に、大きな戦いが起こるのではないか、それを探らせております。敵に内通する者が生まれ、国主の須栗様への謀反も考えられます。」

秀長は、雲影が同じ考えを持っていると思った。

「敵は、恐らく東牧の国であろう。この国の豊かな海を欲しいと思っているし、昔年の恨みを抱いているはずだ。」

秀長が呟くように、雲影に言った。雲影も頷きながら

「私も、左様に思っております。東牧の国にも探りを入れております。ただ、東牧の国の一国では、戦いにはなりますまい。何処の国と与するものと思われます。」

そんな時だった。足音も立てず、庭に忍び寄る雲影の手下が侍っていた。雲影は、庭の方に目を遣ると、手下に問うた。

「何か、分かったか。」

その雲影の手下は、秀長に目を遣り、戸惑っている様子だった。秀長は、音も立てずに屋敷に入ってきた雲影の手下に驚いた。秀長は、落ち着き払って言った。

「遠慮は要らん。申せ。」

雲影の手下は、再び雲影の方を見て、頷いているのを確かめた。

「大綱殿に、不穏な動きがあります。大綱城に手勢を集めており、出陣は早いと思われます。取り急ぎの知らせです。」

雲影の手下は、それだけ言うと音もなく姿を消した。秀長は、その知らせを聞いて

「何と言うことだ。大綱殿が、謀反など、考えられぬ。」

と吐き捨てるように言うと、俯き考え込んでしまった。大綱は代々、須栗を主家と仰ぎ、須栗の重臣だった。兵力は二千を下らないだろう。呼応する領主がいるかどうか、全く分からない状態である。東牧の国の軍勢の動きも気になった。秀長は、急いで書面を認めると、家人を五人呼び寄せて、書面を国主須栗景親の元に届けるように命じた。

「垣添様、動きますか。使いの者が、間に合えばよいが。」

雲影が、秀長に言った。秀長は、沈痛な面持ちで雲影に言った。

「全軍を率いて、殿のところに駆けつける。大方、大殿達が別館にいるのを見越しての戦いとなるだろう。他の武将達の動き、東牧の国の動きが心にかかる。雲影、そちらの方は、よろしく頼むぞ。」

雲影は、秀長に一礼すると、何れかへと姿を消した。

 

 秀長は、手勢を集め、差し当たり参集した兵二千を引き連れ、垣添の地を出発した。残りは、二番侍大将井出庄道に任せての取り急ぎの出陣だった。夜を徹しての行軍で、高須の城を望む丘に辿り着いた。大綱の旗が棚引き、高須の城の包囲を始めようとしていた。秀長は、大綱の軍勢の左手から兵を進め、大綱の軍勢の前面に兵を進めた。高須の城の門は閉ざされており、城垣には兵の姿が多く見られた。大方、知らせが間に合ったものと秀長は思った。城門の前を固め、大綱の軍勢と対峙した。城門が開き、中から国主の嫡男須栗宗晴が姿を見せた。

「垣添殿、かたじけない。知らせを聞いて兵を集めたが、別館の方まで手が回らず、膠着状態じゃ。館への道は、大綱の兵が固めている。館には、父景親、妹の佐代、白柏の浪姫がおる。」

国主の嫡男須栗宗晴の言葉に、秀長は短く問うた。

「別館には、守りの手勢は如何ほどか。」

「下村仁左衛門が率いる、手勢三百程だ。」

国主の嫡男須栗宗晴のその言葉を聞くなり、秀長は騎馬軍団三百騎を集め、秀長が率いて別館の方に向かった。高須城の前には国主の嫡男須栗宗晴の下、垣添の第一侍大将諸橋道義に指揮を任せた。白柏の嫡男白柏高家には、秀長との同道を許さなかった。遠く、別館の方には煙が立ち上っており、一刻の猶予もないように思われた。

 

 秀長は、立ち塞がる大綱の兵を蹴散らし、別館に騎馬軍団を進めた。別館からは炎が上がり、激しい戦となっていた。秀長が別館近くまで行くと、国主須栗の集団が大綱の兵に取り囲まれるように戦っているのが見えた。秀長は、大綱の兵の一角を切り崩し、須栗の兵の集団を護り囲むようにして、大綱の兵と対峙した。

「下村殿、加勢に参った。大殿はご無事か。」

秀長は、下村仁左衛門に声をかけた。下村仁左衛門は、後ろを指差した。そこには太刀を持っている国主須栗景親の姿があった。別館の煙が立ち籠め、その煙の中から騎馬に乗っている大綱の領主大綱信輝の姿が現れた。

「大綱殿、何を血迷われたか。この垣添が成敗いたす。」

秀長は、隣の家人から槍を受け取り、大綱信輝と向かい合った。大綱信輝は、太刀を上段に構えると、秀長を目掛けて突進してきた。秀長は、狙い定めたように槍を大綱信輝の頸筋に投げつけた。槍は大綱信輝の首を貫き、大綱信輝は騎馬からもんどり打って落ちた。

「大綱信輝殿を討ち取った。皆の者は、引きあげよ。」

秀長は、大太刀を抜いて、大綱の軍勢に向かって大声を上げた。大綱信輝の屍を取り戻そうと、大綱の兵が向かってきたが、秀長の騎馬軍団に蹴散らされた。大綱の兵は、散り散りとなって姿を消していった。秀長は、大太刀を収め、大綱信輝の首から槍を引き抜くと、右手で大綱信輝の顔を覆い、その目を閉じた。大綱信輝の首級を挙げることなく、屍に右手で手向けると、屍を木の板に載せ、付近にあった大綱の旗に墨で南無阿弥陀仏と書いて体を覆った。

 

 別館は焼け落ち、秀長を先頭に、須栗の家人を囲むように騎馬軍団が取り巻いて、高須の城に向かって、ゆっくりと進んで行った。後方には、大綱信輝の屍が運ばれた。秀長は、周囲の気配を逐次確認させ進めた。遮る大綱の兵の姿はなく、高須の城門へと近付いた。大綱の兵と高須城の門前に残した一番侍大将諸橋道義の兵は、向かい合ったままだった。秀長の兵は、二番大将井出庄道の率いる兵が加わり、大綱の兵に比べ多くなっていた。それを見た秀長は、五十騎程の者を率いて、大綱の軍勢の中央に進み出た。そこには、大綱の嫡男大綱家輝の姿が馬上に見えた。

「大綱の家輝殿とお見受け申す。我は、大殿の家臣、垣添の領主の垣添秀長と申す。大綱殿は、大殿に背き、別館を襲った。それ故、拙者が成敗つかまつった。大綱殿亡き今、戦いは無用と存ずる。早々に兵を引き揚げてはいかがかな。」

秀長は、大綱の嫡男家輝に向かって言った。大綱の嫡男家輝は答えた。

「戦をしても、勝ち負けは見えている。退けば、追って来るであろう。追ってこなくても、何れは厳しい沙汰があるだろう。大綱の家が、どの様になっても構わぬが、家臣が哀れでならぬ。父の無謀さを、留めることができなかったのが口惜しい。」

秀長は、これに答えるかのように言った。

「後は、追いはせぬ。この垣添が約束する。これからのことは、大殿が決めることだ。先ずは、大綱殿、父君の屍を弔うのが先であろう。」

秀長は、左手を高く上げ、大綱信輝の屍を載せた板を持ってくるように言った。大綱信輝の屍が運ばれ、大綱の嫡男家輝の前に置かれた。家輝は、馬から下りると、「南無阿弥陀仏」と書かれた大綱の旗を見詰めた。大綱の旗を捲り、父大綱信輝の屍を見つめた。そして合掌をして、頭を垂れ、涙を流した。家輝は、立ち上がると、家人に屍の板を運ぶように目配せをした。その後、秀長に向かって深々と礼をして言った。

「垣添殿、丁重な父の屍の扱い、お礼を申し上げる。首級も取らず、弔いをしていただき、有り難く、言葉もござらん。」

大綱家輝は、垣添秀長の顔を確かめるように見上げ、再び深く一礼をすると、兵に向かって引きあげの合図をした。大綱家輝は、父信輝の屍の先に立ち、歩き始めた。次々と、大綱の軍勢は、静かに消えていった。

 

 その日の夜、須栗の城では、酒が振る舞われた。垣添の二番侍大将の井出庄道の兵は、直ちに垣添の領地に向かった。一番侍大将の諸橋道義の率いる兵は、一晩居残り、翌日秀長と共に、垣添に帰ることになった。秀長は、白柏行家の嫡男白柏高家と共に、国主須栗景親に招かれた。その席には、国主須栗景親、嫡男宗晴、佐代姫、それに白柏の浪姫の姿があった。

 秀長と白柏高家が、部屋に入って一礼をして、膳に着いた。国主須栗景親が、秀長に対して礼を述べ、侍女の注ぐ酒で祝杯を挙げた。白柏高家は、姉浪姫の無事を喜び、秀長は戦のことは避けて、垣添の領地の話などをしていた。席は、上座に景親と宗晴が並び、その向かいの下座に秀長と白柏高家、秀長の左隣に佐代姫、高家の右隣に浪姫が、それぞれ少し間をおいての設えだった。佐代姫は、頻りに秀長の顔を見つめていた。兄の須栗宗晴が、それに気付き、佐代姫に声をかけた。

「佐代は、余程、垣添殿が気に入ったのかな。垣添殿ばかり見つめている。」

佐代姫は、少し目を伏せた後に、落ち着き払って言った。

「いえ、佐代は垣添殿にお聞きしたいことがあって、見つめていたのじゃ。」

そう言うと、佐代姫は秀長の方に向かって座り直して、秀長に尋ねるように言った。

「垣添様は、狼殿ではござりませぬか。そのお顔、額の傷、間違いございませんでしょう。」

一同は、佐代姫が突拍子のないことを言うのを笑った。秀長は、佐代姫を見つめた。

「あの時の女性、佐代姫様でしたか。どこかでお見受けしたと思っておりましたが、思い出すことができませんで、これは失礼しました。」

秀長は、頭に手をやり照れくさく思った。見れば、侍女の一人が一緒にいた女性と気が付き、軽く頭を下げた。侍女は、微笑んで秀長にお辞儀を返した。

「佐代は、狼殿のお姿を忘れたことはございません。恋しくさえ思っております。偽りではございませぬ。垣添様のお名前は、よくお聞きしておりました。まさか、狼殿とは思いもしませんでした。お会いできて、本当に嬉しい気持ちです。」

そう言うと、佐代姫は秀長の近くに寄り、侍女から酒器を受け取り、秀長の杯に注いだ。佐代姫は、秀長の顔を見つめて微笑み、その場所から動こうとはしなかった。

 佐代姫の父、国主の須栗景親は、男勝りの佐代姫が、人が変わったように女らしく秀長に接しているのを見た。秀長と佐代姫の出会いの話を聞きながら、隣国、南陵の国主の家との縁談話を思った。佐代姫が気乗りでない訳も、初めて分かった。佐代姫が求めている者が分かった以上、話を進めることは難しいと思った。その相手が、垣添の領主となれば、遜色のない話だとも思った。そう思うと、国主須栗景親は急に明るく、愉快にもなった。時折、窺うように見つめる佐代姫に、景親は幾度も頷きを見せていた。

 

 翌日の別れ際、秀長は、国主須栗景親と嫡男宗晴に

「東牧の国の動きが、気になります。兵が必要にもなります。できたら、大綱の家の取り扱い、寛大にして恩をかけた方がよろしいと思います。」

と進言をした。国主須栗景親は

「大綱の方は、嫡男の家輝の様子を見ながら決めていく。心配するな。本多が出奔した後、東牧の国の動きは気になっている。どこの国と与するつもりなのか。それに、白柏の行家殿も困ることになるだろう。」

と、秀長に言った。秀長は、思い付いたように国主須栗景親に言った。

「預かり受けている、白柏の嫡男白柏高家に兵三百を与え、白柏の旗を持たせ、武将として戦に連れて行くこととしたい。かなりの器量を持っている武将と見ている。」

国主須栗景親は、承知したとの言葉を贈った。見送りに駆けつけた佐代姫は、国主須栗景親の前で、秀長に言った。

「佐代は、昨晩考えました。近い内に、垣添様の館に行くつもりです。」

秀長は、佐代姫に笑顔を見せて頭を下げると、馬に跨り兵を率いて垣添の領地へと向かった。

 

 秀長は、垣添の館に戻って五日目の朝、白柏の嫡男高家と重臣を集めた。白柏の嫡男高家を前に招き、兵三百を与え侍大将にする旨、申し渡した。

「白柏高家殿には、この高須の国に来られ、随分と難儀をかけた。今後は、白柏の旗の下、この垣添に力を貸して頂きたい。」

秀長は、白柏の嫡男高家に、白柏の身分を戻した。そして、傍に置いていた黄色地に黒く染め抜いた、白柏の家紋「三つ柏」の旗を手渡した。

「今後、家の家紋は勿論、戦の時は「三つ柏」の旗を使うがよい。」

更に、秀長は白柏高家を伴い、庭に面した戸を開けた。そこには、三百の兵が跪いていた。秀長は、その兵達に声高々と言った。

「そち達は、これより白柏城主白柏行家殿の嫡男、白柏高家殿の配下である。末永く白柏殿に、寄り添い尽くせ。」

そう秀長が言った後、白柏の嫡男白柏高家は、秀長に礼を述べ、配下となった兵に言った。

「終生、垣添の殿を主と思い、最善を尽くす所存である。常に鍛練を重ね、勇猛果敢に進む故、更に心を強固にして、我と共にあるように。よろしく申しつける。」

そう述べると、兵の一人ひとりを見つめた。精悍な兵を見つめ、白柏の嫡男白柏高家は、秀長に心から感謝をしていた。

 

 謀反を起こした大綱信輝の葬儀も終わり、国主の須栗景親は、大綱の嫡男家輝を高須の城に召した。大綱の嫡男家輝は、死罪を覚悟していた。国主須栗景親は問うた。

「大綱殿の嫡男大綱家輝殿、覚悟はできていると思うが、その前に伺いたい。」

大綱の嫡男家輝は、平伏したまま

「如何様なことでも。」

と答えた。国主須栗景親は、家輝の顔を上げさせた。

「この度の謀反、誰か手引きをした者があろうか。知っていることを申せ。」

と、国主須栗景親が問うた。一礼をして大綱の嫡男家輝は

「今年になって、頻繁に家人の本多殿が参りました。兵を挙げる十日程前になって、父信輝から、兵を挙げて高須を攻める話がありました。兵を挙げ、時を同じくして東牧の国も兵を繰り出すという話でした。本多殿が中に立ち、密約の書状も私に見せたのです。」

国主須栗景親は、頷いて聞いておりました。大綱の嫡男家輝は更に

「私は、父信輝に、東牧の国一国では高須の国の相手とならないと申し、思い止まるように申し上げました。父信輝は、東牧の国は南陵の国と手を握り、高須の国を攻めると言ったのです。挙兵は、十日後である旨、東牧の国も南陵の国も兵を進めるとのことでした。その日は、大殿が別館におられるので、父信輝が五百の兵で奇襲する。残りの千五百の兵は、私が城攻めをするということを言い渡されたのです。」

そこで大綱の嫡男家輝は、俯き話が途切れた。涙を流している様子だった。目に涙を浮かべ、再び家輝は国主須栗景親を見つめた。

「私は、父信輝を諫め、捕らえれば良かったのです。それもできず、高須の城の門前まで進みましたが、戦えば家臣が全て犬死にする。そう思うと戦うことはできなかったのです。大綱家は、滅びる覚悟です。家臣だけは、よしなに願いたい。」

大綱の嫡男家輝は、言い終えると平伏した。大綱の城に残した奥方や子供等には、死を以て償うように言い渡してきたのだった。

「南陵の国か。そうか南陵の国だったのか。」

大綱の嫡男家輝の話を聞いて国主須栗景親は、天井を仰ぎ呟いた。南陵の国は、高須の国と和を結び、高須の国の国主、須栗景親の娘佐代姫との縁談を進めていたのだった。佐代姫の縁談は消えてもよいと思った。

 

 国主須栗景親は、威儀を正して大綱の嫡男家輝に裁決を言い渡した。

「謀反の件の裁決を言い渡す。大綱の嫡男家輝は、大綱の家督を継ぐこと。大綱の所領の一部を召し上げる。家臣は全て安堵する。」

それだけの内容の裁決書を、国主須栗景親は大綱の嫡男家輝に示した。家輝は、寛大な処分に感極まり、前に進むことができなかった。国主須栗景親は、前に進み出て裁決書を大綱家輝に渡した。その際、肩に手を置き言った。

「大綱の城には、使いを出してある。奥方を初め、一党に間違いがないようにと伝えてある。ただ、謀反人を祀ることはしてはならぬ。」

それだけ言うと、国主須栗景親は席に戻り、大綱家輝に、城に戻るように言った。

「大殿、誠に有り難く、大綱の一党、命を賭けてお仕え申します。」

大綱家輝は、深くお辞儀をすると、国主須栗景親の前から立ち去った。国主須栗景親は、垣添の言った通りにして良かったと思った。高須の国の中に、少しの間隙を作る程の時間などないと思ったからだ。

 

 一か月程経って、東牧の国と南陵の国が、高須の国を攻めるために兵を起こした。高須の国主須栗景親は、敵を迎え撃つために、武将達を集めた。東牧の国に対しては、垣添秀長を総大将とした。南陵の国に対しては、嫡男須栗宗晴を総大将とした。垣添の軍勢に三千の兵を加え、六千の軍勢とした。嫡男須栗宗晴の軍勢は、七千の兵で敵と相対することとした。嫡男須栗宗晴の軍勢には、大綱家輝の兵千五百が含まれていた。

 

 出陣を控え、国主須栗景親と嫡男宗晴、垣添秀長が話をした。白柏行家の動きについてだった。国主須栗景親は言った。

「白柏城主行家殿は、途中で兵を合流させるとのことであるが、我々の味方となるのだろうな。」

国主須栗景親の嫡男宗晴は、黙っていた。秀長は、雲霧小十郎の報告を受けていた。秀長は言った。

「白柏行家殿は、ほとほと困っている様子である。本家の柏木城主白柏実氏殿が、東牧の国の武将であり、東牧の国の軍勢に入るように迫っていたとのことである。どちらに味方をしたとしても、良い結果が生まれない。行家殿は、布陣はするが、戦いはせずに見過ごす意向のようである。」

秀長が言うと、国主須栗景親は、不機嫌となり言った。

「高家と浪の命が惜しくないのか。」

秀長は、国主須栗景親の顔を窺いながら言った。

「敵に回ると言うことではない。結構なことではないかと思います。白柏行家殿は、本家の白柏実氏殿も兵を動かさないことを承知させたとのこと。国境に近い、両家の城であれば、東牧の国の深くまで攻め入ることができましょう。」

秀長の言葉を聞くと、国主須栗景親も幾らか不機嫌が収まった。秀長は、更に

「白柏行家殿の嫡男高家に、白柏の「三つ柏」の旗を掲げさせ、戦いに臨むこととしている。それを見る白柏行家殿は、見過ごすことができましようや。」

と言うと、国主須栗景親は大きく頷き、微笑みさえ浮かべた。

 

 垣添秀長は、早めに高須の城を出て、兵を東牧の国に向けて進めた。戦場を東牧の国、奥に入った白柏行家の本家、白柏実氏の柏木城付近としたかったからである。秀長の軍勢は、白柏行家の領地に入った。白柏行家は、小高い丘の上に布陣していた。東牧の国の軍勢の動きは速く、既に白柏行家の領内まできていた。まさに戦いが始まろうとしていた。高須の国の軍勢は、先頭に垣添秀長が走り、武将に率いられた兵が横に展開しながら、東牧の国の軍勢と対峙した。白柏行家は、黄色い旗印を翻し、高須の軍勢の左翼に展開して、目の前を進む、軍団を見つめた。兵を率いる武将は、その動きから若々しく見えた。

「殿、あの黄色い旗は「三つ柏」の紋が入っております。あの軍団を率いているのは、若殿、高家殿と見うけられます。」

白柏行家は、目の前で、戦いの場に向かっている嫡男高家が心配となった。呆然と見つめる訳には行かなかった。本家とのしがらみを断ち切った。白柏城主の白柏行家は、馬に乗ると

「敵は、東牧の国、あれに見える白柏の旗に従え。出陣じゃ。繰り出せー。」

大声で叫ぶと、自ら先頭になって進んだ。

 

 戦いは、高須の国が優勢で、東牧の国の軍勢は乱れた。東牧の国の軍勢は、敗走するように退却した。白柏の本家、柏木の領地を越えて、東牧の国奥深く退いた。大きな川を渡って、そこで東牧の国の軍勢は、体制を立て直し、高須の国の軍勢と対峙した。柏木城主白柏実氏は、多くの「三つ柏」の旗を見て、高須の国の軍勢に加わることとした。

 

 その時、高須の国の総大将、垣添秀長のところに急使が届いた。高須の国の領地が南陵の国によって攻められ、敗走している旨の急報だった。彼は東牧の国の居城のある、東牧城と町を焼き払い、城主を捉え、兵三千を置いた。侍大将井出庄道を残した。

 

  彼は、手勢三千を率いて、南陵の国との戦場へと急いだ。その早さは、野武士の頃の「狼」だった。山の頂に登ると、敗走する高須の国の軍勢が見えた。彼は、一気に敵陣に突っ込んだ。後方を突かれた敵勢は乱れた。川向こうまで敵を押し戻したが、それ以上敵勢は崩れなかった。敗走した高須の国の軍勢の立て直しを待っていた。

「南陵の国を追討し、全滅にせよ。」

彼に、国主須栗景親の命が下った。彼は六千の兵を率いて、敵地に侵入を始めた。

 

 彼は南陵の国の軍勢を打ち破り、敵が城に戻らないうちに、別働隊を駆使して壊滅的な打撃を与えた。更に、城を攻め落とし、町に火を放ち南陵の国は滅亡した。その地に、高須の国の兵三千を残し、彼は国主須栗景親の元に戻った。高須の国の領地は一挙に三倍にもなった。

「この度の働きは、誠に大きい。一国をそちに取らせよう。どこがよいか。」

国主須栗景親は秀長に言った。秀長は、寂しそうに主君に言った。

「私は戦いには慣れておりますが、国を治める方法は悲しいながらありません。それ以上に、殿の近くに居りたいと思っております。暫くしたら、私の領地に帰りたいと思います。」

その言葉を聞いて主君は、彼が何者であるのか分からなくなった。野武士とばかり小馬鹿にしていたが、誰もが望む一国を要らないという。

「では、そちには、隣の私の小郡をやろう。小さいが、豊かなところだ。」

「殿の大切なご領地を、有り難く思います。小郡に、殿に少しでも近くなりますように城を築きましょう。」

彼は、深々と主君に礼を尽くした。

 

 高須の国は、拡大して安定した。国主須栗景親の嫡男宗晴は、白柏氏の波姫を妻として迎えた。婚礼の席に、秀長も出向いて祝った。佐代姫は、秀長に言った。

「私は、小姑として、この城にいる訳にはいきません。垣添様、私を迎えてくれませぬか。」

彼は、佐代姫の真剣な顔を見て、俯いた。野武士の頃、多くの女を犯し、殺したことを思い返した。その残虐な所行を思うと、妻を娶ることなどできなかった。

「私は、野武士で荒らし回った男です。悪行を重ね、とても妻を迎えることなど、適わぬ者です。」

秀長は、顔を上げて佐代姫に寂しく言った。

「佐代は、承知しております。佐代にとって、過ぎたことはどうでも良いのです。私が知っている垣添様、お慕いしております。」

佐代姫の言葉を、秀長は嬉しく思った。秀長は、野武士の頃の所行を許すことができなかった。

「私は、明日、旅に出たいと思っております。そして多くの人々、特に、故なく葬り去った人々を弔いたいと思っております。時が経てば、心落ち着けば、垣添の地に戻ってきます。」

佐代は、秀長の決心が固いことを感じていた。

「佐代は、垣添様が旅に出られても構いません。佐代は、垣添の地に参ります。幾年でも、垣添様が帰ってくるのをお待ちしております。」

佐代姫は、秀長にそう言った。

 

 翌朝、国主須栗景親の酔いも覚めた頃を見計らって、秀長は国主須栗景親の元を訪れた。そこには、佐代姫がいた。

「殿、お話は佐代姫様から、お聞きのことと思います。暫くの間旅をしたいと思います。どの位になるか分かりませぬが、心落ち着くまで暇を請いたい。」

国主須栗景親は、心から自分に尽くした垣添秀長を押し留めることはできなかった。

「分かった。旅に出ることを許そう。佐代をどうする。それを伺いたい。」

秀長は、懐から書状を取り出した。

「これは、私の母宛の書状です。佐代姫様がこれをお持ちになれば、垣添の地で迎え入れられましよう。」

秀長は、書状を佐代姫の前に差し出した。

「もし、垣添の地に出向かれましたら、母によしなにお伝えください。供の者には、佐代姫様の意向に従って動くように申し付けてあります。」

そう言って、秀長は佐代姫を伴って、供の者ところに連れて行った。

「私は、暫く旅をする。僧に身を変え、今までの悪行の数々、清めてくる所存である。ただ、垣添の地だけは忘れぬ。そう母に申してくれ。佐代姫殿は、垣添の地に参る所存である。恙なく、お連れ申すように。呉々も母上には、よしなに申し上げてくれ。」

秀長は、供の者に申し付けると、旅支度姿になった。館の玄関先で、佐代姫に深く礼をすると、編み笠を被り旅に出て行った。高須の国境近くで、雲影小十郎が待っていた。

 

 都近くの比叡山を訪れ、また高野山を訪れた。四国に渡り、九州に赴き、中国、東海、奥羽、出羽と巡り歩いた。世情は、刻々と変わっていくのを雲影の知らせで分かっていた。高須の国は、大きな変化はなかったが、いずれは東海の有力な国と争いになると思った。それは、高須の国主が、天下を目指すことが原因だった。天下など要らないと思った。何処の国とも対等に争える力を蓄え、野望など持つことなく、侵されることがない高須の国を目指すべきだと思った。

 

 秀長が旅に出て三年が過ぎた。秀長は垣添の地に戻り、館に向かう通りを歩いていた。商家の前で、人だかりがあった。

「佐代姫様が、何か、お諫めのご様子だ。」

「あの油屋は、いつも悪い商売をしている。」

そんな声を聞いて、秀長は人だかりをかき分け、前に出た。そこには、懐かしい小姓姿をしている佐代姫の姿があった。

「油を売るのに、人を見て売るではない。」

「お姫様、油の値段など、売っている私共が決めるのでございます。余計なことを言わないでください。商売を知らない癖に。」

油屋は、佐代姫を見下したように言った。

「私を愚弄しているのか。そこに直れ。」

佐代姫は、刀の柄に手をかけ抜こうとした。その手を押さえる者があった。

「佐代、早まってはならぬ。」

佐代姫は、手を押さえる者の姿を見ると、急に力が抜けていくのを感じた。編み笠の奥の顔立ちから、秀長だと分かったのだった。秀長は、佐代姫の前に立ち、油屋と相対した。

「油や、今の言葉、姫に対して無礼ではないのか。己の身より、商売が大事か。」

秀長は、油屋に言った。

「商売は、命を賭けてしているのだ。手前に、とやかく言われることはない。」

油屋がそう答えると同時に、秀長は間髪を入れずに刀を抜く素振りをした。油屋は、前屈みとなって、身構えた。

「油や、手前は商人ではないな。後から、沙汰を致す。良いな、逃げられぬぞ。」

秀長が言うと、油屋は舌打ちをして、俯き唇を噛みしめた。どこからともなく、群衆の中から声が上がった。

「秀長様の声だ。秀長様だ、秀長様がお帰りになった。」

秀長は、その歓声を沈めるように、編み笠を外した。一層精悍となった、秀長の姿が現れた。秀長は、群衆に向かって一礼をすると、佐代姫に言った。

「佐代、後は手の者に任せよう。さあ、館に帰ろう。」

佐代姫は、頷きを見せ、館に向かって歩く秀長の直ぐ後を歩いて行った。油屋の前が騒がしくなった。

「手の者に、油屋を捕らえさせた。おそらく、東海の回し者なのだろう。」

秀長は、佐代姫に言った。油屋は、雲影小十郎等の手の者によって捕らえられた。更に、油屋にいる者、全ての者を縄にかけた。

 

 油屋に対して、厳しく詮議をしていたが、油屋は何も答えなかった。その報告を受けて、秀長は自ら調に向かった。

「油屋、結構な化け方をしているな。小田殿の側近、確か信輔と言ったな。」

油屋は、一瞬眉を動かした。秀長に対し、底知れない恐ろしさを感じた。

「垣添殿、さすがでござる。我が殿が垣添様と、あの林でお目にかかったとき、恐ろしき者と言われた。側にいた私まで、覚えていようとは。」

油屋がそう言うと、秀長に一礼をした。

「小田殿が、高須の一領主の垣添に、何を探るのか、言えないだろうか。」

秀長は、油屋に素直に問うた。

「我が殿、小田様は、世の乱れを治めたいと思っている。意に適わぬ国が多く、戦いをしなければならない。高須の国は、垣添様の意思次第と、我が殿は仰せられた。それで、垣添様の地を探索した次第だ。」

秀長は、油屋の話を聞くと、微笑みを浮かべた。油屋の奉公人も、面前に連れ出させた。

「そうと分かれば、小田殿に伝えて貰いたい。私は、高須の国の国主ではない。が、故なく侵されれば戦う、自らが戦いを挑むものではない。況してや、天下を目指す意思はない。これは、垣添秀長の変わらぬ思いだ。戦は、民が困るだけだ。」

秀長は、更に言った。

「油屋、商売は許そう。ただ、領民とのいざこざを起こさないこと。更に、小田殿のお話など、承れば嬉しいことよ。」

そう言って、油屋と奉公人などを解き放った。油屋は、そのまま垣添の地に止まり、商売をしていた。時々、油屋は、秀長の館に訪れた。それからというもの、垣添と小田の交流が長く続いた。それは、高須の国が戦いに巻き込まれることがないことを意味していた。