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「蒼門」

 

                          佐 藤 悟 郎

 

 

 彼は、まだ緑が浅い林の小道を歩いていた。日差しが足元に落ち、道端の雑草が若い芽を見せていた。白のカーディガンに紺色のズボンをはき、ゆっくりと彼は歩いた。雪が消えるのが遅かった今年の雪国の春、久し振りに彼は故郷を訪れたのである。就職難の折、中流の会社に勤めるのが精一杯だった。大学時代の友とも別れ、東京近郊のアパート暮らしだった。

 

 会社での本格的な仕事は、まだ覚えていない。営業係の仕事は、確かに辛いと感じていた。得意先を回り、売り込みの話をしても、不景気ということで、中々思うように話は進まない。手ぶらで会社に戻ると、骨の髄まで痛むような言葉を、上司から浴びせられる。会社の帰りに、なけなしの金を叩いて安酒場で酒を飲み、終電車に乗って安アパートへ帰る。電車の中で軽く眠り、アパートで泥のように眠り、朝は早い。

 会社を休む暇などなかった。会社に入って二か月が、瞬くの間に過ぎ去った。昨日、連休で帰郷する列車の中では、眠ることしか考えていなかった。夜、家に着くと、母の手料理もそこそこに済ませ、ぐっすりと眠りに陥った。翌日の昼近くまで眠った。起きると、庭に出て青空を見上げ、やっと安らぎを覚えた。

 

 彼の歩いている林の小道は、幼い頃の彼の遊び場だった。最近は、子供たちの遊ぶ姿が見えなくなった。彼の時代は、子供たちの声が一杯に響いていたこの林も、今は静かだった。林の道を歩いていくと、テニスコートができているのに気付いた。以前にはなかった林の中に、二面のテニスコートがあった。コートの周囲はネットになっており、男女のカップル四組でプレーをしていた。彼はネットに手を掛け、プレーを見つめていた。若い男女が声を掛け合い、楽しそうにプレーをしていた。

 

 彼は、会社にも多くの若い女性がいるのを、頭に思い浮かべた。どのような顔立ちをし、どのような性格をしているのか分からなかった。仕事で忙しい彼は、会社の女性の一人ひとりを思うほどの余裕もなかったのだった。ただ、総務課に際立って美しい女性がいるのを思い浮かべた。痩せ気味で、眦が少し上がっている健康そうな女性で、同僚の間でも評判だった。

「あんなに澄ましていて、あれでも、とてもやり手でな。」

総務課の美しいその女性を卑下する言葉もあった。彼は、その言葉は真実だろうと思ったが、それでもなお見つめるだけの価値はあると思った。

 

 そんな思いを描きながら、テニスコートに目を投げていた。その時、打ち損じたボールが、彼の立っているネットの近くまで転がってきた。プレーをしている一人の女性が、ラケットを振り回しながら走ってきて、ボールを拾うとすぐに振り返って走り出した。数歩走ったと思う頃、立ち止まって振り返った。

「石橋君じゃない。久し振りね。中に入ってらっしゃいよ。クラスメートもいるわ。」

彼女は、微笑みながら彼の方に歩み寄り、指を指して言った。

「阿部さん、本山さん、それに安藤さんもいるわよ。」

彼は、指差す方向を見た。確かに高校時代のクラスメートだった。阿部と本山は男性で、安藤は女性だった。声をかけてきたのは、嶋田だった。嶋田は、幼い頃からの親しい友で、よく知っていた。その他の高校時代のクラスメートは、現在の彼にとって意味のない存在だった。高校時代の思い出と言えば、ガツガツと音を立てながら勉強をしていたということだけだった。

 

 彼は、嶋田に言われるがままにテニスコートに入った。簡単に挨拶を交わしたが、それ以上に話しかける者もなく、彼は疎外感を感じながら隅のベンチに座っていた。東京の大学を出てから、忙しく働き回る彼だった。そんな彼から見ると、テニスをしている、かってのクラスメート達は、悠々とした暮らしをしていると思った。彼は、ベンチを立って、入口近くのネットの柱に背を当て、足を交差させ、躍動する彼らの姿を眩しい眼差しで見つめた。暫くすると、彼は詰まらないと思った。テニスをしている嶋田に向かって手を振り、テニスコートを出た。嶋田は、彼に向かってラケットを振って応えていた。テニスコートを出ると、彼は急に寂しい思いが湧き、塞ぎ込んでしまった。歩いてきた林の小道を引き返し、家に戻った。

 

 彼は、昼食を済ますと、縁に出て本を読み始めた。その内に、嶋田から電話がかかってきた。

「皆が、私の家に集まっているの。来てみない。」

彼は、嶋田の誘いの電話を聞きながら、テニスコートにいた連中の顔を思い浮かべると、とても行く気になれなかった。

「俺、明日帰るから、忙しくて駄目だ。また、今度来たときに呼んでくれ。」

彼は、そんな短い返答をすると電話を切ってしまった。

 

電話を聞いていた彼の母は、驚いた様子だった。

「お前、本気で明日帰るのかい。まだ来たばかりじゃないか。」

母は、彼を見つめた。彼は首を横に振って、笑って見せた。

「嶋田様のお嬢様からなのでしょう。あんな嘘をついちゃ悪いよ。親切なんだから。」

「いいんだよ。煩い連中が五万と集まってるんだから。行きたくないんだ。」

彼は、母にそう答えると、また縁に出て本を読み始めた。本を読みながら、会社の総務課の美しい女性を思い浮かべた。会社の総務部長と懇意な仲だということだった。

 人間なんて、時が経てば人が変わるし、それは当たり前のことだと思った。テニスコートで会った嶋田にしても、変わったと思った。以前は、従順で気が合っていた。今は、乾燥した言葉を、誰にでもかける普通の女性になったと感じた。そして、そうなっても仕方のないことだと思った。嶋田は、近郷に名を知られた富豪の娘であり、父親は社交界でも相当な立場にあることから、自然と身についた姿であり、それも運命なのだと思った。

 

 かれは、夜になって、父と兄と母の四人で、夕食がてら晩酌をとっていた。彼の兄は、近く結婚をする予定で、その夜も軽く彼の相手を済ますと外出をした。彼は、兄を見送りながら、兄に嫁がくれば易々と家に帰ってくることもできなくなると思った。父はプロ野球を見ている。昔から外出することのない人だった。ただ、野球気違いの傾向があり、一人で手を叩いたり笑ったりしていた。

 そんな父を傍目に見ながら、母は彼に言った。

「お前、仕事が大変なんだろう。体を壊さないでくれよ。」

「何でもないさ。慣れてきたよ。」

「よかったら、帰って来てもいいんだよ。こっちにだって、よい働き口があるんだから、無理することはないよ。」

彼は、母の小言を半分聞き流していた。彼の母は、彼には人並み以上の能力があって、相当な社会的立場を得る子だと認めていた。家に金をねだることもなく、生活もそれなりにちゃんとやっていることを知っていた。母にしてみれば、彼の兄よりも信頼している子供だった。

 

 誰か訪れる人があったのだろう、玄関の呼び鈴が鳴った。彼の母は、部屋を出て行き、間もなく嶋田を連れて戻ってきた。彼が振り向くと、嶋田は明るい微笑を見せた。地味な和服を着ており、白い首筋と赤らんだ顔を見せていた。部屋に入るなり、母は父に向かって言った。

「お父様、嶋田様のお嬢様ですよ。」

その声を聞くと、彼の父は振り向き様、慌てて座り直し深いお辞儀をした。嶋田も綺麗に座り、丁寧な挨拶をした。その後、彼に顔を向けた。

「今晩は。」

彼も嶋田の顔を見て、軽く返事を返した。

 

嶋田は、当然のように彼の右脇に座ると、持ってきた魚の刺身の入った器を取り出した。

「近くの寿司鷹さんの刺身よ。食べてください。」

嶋田は、そう言いながら袂をたくし上げ、彼の前に滑るように置いた。

「悪いな。丁度、抓みが切れそうになっていたんだ。ありがとう。」

彼は、嶋田が手渡す箸を受け取り、すぐ刺身の皿に箸を入れた。

「寿司屋の刺身は、本当においしい。」

彼は、口の中に広がる刺身の感触に頷きながら、嶋田の顔を見つめた。嶋田は笑窪を作って目を輝かせ、嬉しそうに彼を見つめた。

「叔父様、叔母様、私も少しいただくわ。それに、酒の燗もつけます。」

嶋田は、そう言って部屋を出て台所へ行った。彼は、嶋田が以前と変わりなく、馴れ馴れしいと思った。母は、小声で彼に言った。

「嶋田様のお嬢様はね、大学を卒業して家に帰って来られてから、時々私の家に来られていたんだよ。よく昼時など、私の話し相手になってくれてね。家の勝手のことも良く知っているんだよ。」

彼は、母の言葉を聞いて別段不思議に思わなかった。嶋田は、幼い頃から、よく彼の家に出入りしていたからだった。

 

嶋田は、銚子に燗をつけ、お猪口を一緒に盆に載せて持ってきた。熱めの燗酒を彼のお猪口に注ぎ、自分のお猪口にも入れた。嶋田は、一口酒を口にすると、俯いて彼に言った。

「明日帰るって、嘘なんでしょう。」

彼は何もなかったように、軽く答えた。

「そうだ、嘘だよ。」

嶋田は、何気なく言う彼の返事を聞いて、花のように明るく、目を細めて微笑んだ。

「良かった。電話をかけた後、ずっと心配していたの。」

嶋田は、そう言うと酒を注いでくれと言わんばかりに、彼の前にお猪口を出した。彼は、笑いながらそのお猪口に酒を注いだ。

 

 彼は、嶋田の顔を見て、ふと思った。富豪の嶋田家の一人娘が、どうして変哲もない彼の家に出入りするのだろうかと。大方、嶋田が自分に気があるからだと感じていた。幼稚園、小学校、中学校、そして高校と一緒に時を過ごした。兄妹のように親しく、二人だけの思い出は多かった。周囲のことなどに拘泥することなく、二人は過ごしてきたのだった。

 彼は、女らしくなった嶋田の姿を見て、嶋田が家を継ぐために、婿を迎える年頃になったと思った。近郷に名の高い嶋田家である。彼は、有名大学を出たからと言って、家柄を比較すると比べるべき何物もないと思った。そんなことは、嶋田自身が一番良く知っているはずだと思った。

「明日の夜、お山の花見に連れて行ってくださる。」

「ああ、いいさ。お前さえ恥ずかしくなければ、背負ってでも連れて行くさ。」

「じやぁ、今夜、お酒をいっぱい飲んでもいい。」

「好きなほど飲めばいいさ。酒に酔ったら、家まで送ってやるさ。」

二人は、幼い頃の思い出や大学で過ごしたお互いが知らない時の話をしていた。お互いに曇りのない、信じ合える心を明るく交わしていた。

 

 嶋田は、言葉どおり酔っ払ってしまった。彼の膝に頭を乗せて眠り込んでいるのを見て、母はタクシーを呼んだのである。彼は、嶋田を小脇に抱え、母と一緒に嶋田を家まで送った。彼は、嶋田の家の前でタクシーを降り、嶋田を抱えながら門の前に立った。嶋田の家の蒼門は荘厳としていた。蒼門をくぐり、広い美しい庭を通り、堂々とした家の玄関に着いた。彼は、見慣れていた家が、その時急に近寄り難いものに感じたのだった。彼女の姿を見た。家柄を考えると、いずれは別れなければならない。そう思うと彼は寂しさを感じた。

 

 声をかけると、玄関に嶋田の母が姿を見せた。嶋田の母は、丁寧な挨拶をした。彼の母は、深々と頭を下げ挨拶を返した。嶋田は、眠りから覚める様子もなかった。

「済みませんね。石橋君、手を貸していただけませんか。」

嶋田の母は、困惑したように彼に声をかけた。彼は、嶋田を背負うと嶋田の母の後を歩いた。広い家の廊下を歩きながら、嶋田の動悸を感じていた。甘い香水の香りが流れ、柔らかい頬が彼の頬に触れている。歩きながら、別れる運命のあることを考え、涙が溢れてくるのを感じた。できるなら一生共に暮らしたい、愛し続けたいと彼は思った。

 

 嶋田の部屋まで運び、嶋田をベッドの上に静かに降ろした。嶋田の安らかな吐息が伝わってきた。嶋田の母と共に彼は、暫く嶋田の寝顔を見つめていた。

「馬鹿な子だね。酒なんか飲めもしないのに。嬉しかったんですよ。石橋君に会えて。本当に嬉しかったんですよ。」

嶋田の母は、語りかけるように彼に言った。彼がベッドの枕元に目をやると、どこから手に入れたのか、彼の大学時代の写真が額に入れて飾ってあった。彼は、嶋田の顔を見つめると、一層熱いものが心に湧いてきた。嶋田の顔は、どこまでも嬉しく幸福そうだった。

 

 彼は、帰る前に座敷に通された。そこには嶋田の祖母の厳しい姿があった。彼の母は、額を畳に擦るほど深い挨拶をしていた。彼の母の娘時代には、嶋田家の祖母は天上人のような存在であり、権威も持っていたからだった。その祖母の子達、兄弟姉妹達は、近郷の各階で勢力を揮う者が多かった。嶋田の家は、総本家である。輝かしい歴史と伝統、伝説に包まれる嶋田の家を思ったとき、彼の存在は消え入りそうな小さなものでしかないと、彼は思った。

 

 嶋田の祖母は、彼と彼の母を前にして、重々しい口調で話を始めた。

「時の流れがあって、時代も変わっていくものです。孫娘は、一途なところが、私の若い頃によく似ています。でも、人生は中々思うようにはゆきませんでな。結婚ということになれば、尚更のこと、思い通りにはゆかんのです。」

嶋田の祖母は、少し間を入れた。そして、話を続けた。

「でも、その時苦しんでも、結構後はよく納まるものでな。人間は、忘れることもできれば、忍び耐えることもできるんですよ。そして過ぎ去ったことは、何でもなくなり、ただ、思い出だけになってしまうんですよ。」

彼は、嶋田の祖母の顔を見つめていた。

 

嶋田の祖母の言葉は、明らかに彼に向けられている言葉だと分かった。回りくどいが、かなり厳しい言葉だと思った。

「明日の夜、一緒に山へ桜見物に行ってもよいですか。」

彼は、弱々しい言葉で嶋田の祖母に尋ねた。

「孫娘も喜ぶでしょう。若い頃の楽しいことは、間違いがなければ、多いほどよいのです。私は、孫娘のことは、可愛がっておりましてね。」

彼は、祖母の話を聞きながら、結論的には、彼を受け入れないと感じた。祖母が思う、嶋田の将来を託す者は誰であるかは知らないが、彼でないことは明らかだった。嶋田の家を考えると、彼の力ではどうにもできないと思った。

「私は、明日、東京に帰ることにします。謝っておいてください。」

彼は、少し考えた後、寂しい思いを抱きながら言った。どうにもならないのであれば、自分から身を引くのが相応しいと思った。

「そうですか。そんなことまでしてくださらなくとも、いいんですよ。」

そう答える嶋田の祖母は、微笑んでいた。

 

 彼と彼の母は、座敷から出た。玄関まで送る嶋田の母は、綺麗に座って彼に言った。

「今日の昼過ぎ、あれはね、貴方に電話をした後、友達を追い払うように帰しましてね、部屋に入って泣いていたんですよ。」

嶋田の母の声は、落ち着いていた。意外な話を聞いて、彼は俯いた。

「あれは、貴方以外の男の人と遊んだこと、テニスコートで貴方を冷たくあしらったこと、あれはそういう風に思っていたのです。そして、電話での誘いを貴方に断られたこと、貴方に愛想をつかされたと思ったんです。」

暫く話は途切れた。彼は、顔を上げ嶋田の母を見つめた。

「あれは、決して不品行な女ではありません。貴方しか見つめていない娘です。他の人なんか、目に入らない娘になっているんです。私は、娘に不憫な思いをさせたくないと思っています。娘の思い通りの人生を歩かせたいと思っております。そのためなら、私も力を尽くしますし、それだけの力も持っております。」

彼は、嶋田の母の優しく真剣な眼差しを見て、胸が熱くなるのを感じた。

「あれは、明日の夜のことは、一生の大事と思うほど楽しみにしております。娘の意に適うようにしてください。私は、いくらでも力になりましょう。先ほどの祖母に負けない力も持っております。私は、娘を貴方にお任せしいと思っております。どうか、末永く宜しくお願いします。」

そう言い終わると、嶋田の母は、彼に向かって深々と頭を下げた。

 

 彼と彼の母は、玄関から外に出た。蒼門まで嶋田の母に送られた。彼の母は、オロオロしていた。彼は、空を仰いだ。そこには美しい星の瞬きがあった。彼は自分の未来を見つめ、目を輝かせた。星空の中に、嶋田の輝く瞳が、そして美しい姿が見えるのだった。